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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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コミックエッセイ劇場|「日本人の知らない日本語」蛇蔵(構成・漫画)&海野凪子(原案)


『日本人の知らない日本語』(蛇蔵&海野凪子著)という本が売れているようだ。

上のリンクからweb上でも少し読める。


確かにおもしろい。


まださわりくらいしか見てないのであれだが、気づいたことを書いておく。



そこでは、つねに「先生と一人の生徒」との遣り取りの情景のみが描写されている。

そこには、一人の生徒が質問したときに、その質問に対して周りの生徒がどういう反応を示したか、というようなことはひとつも描写されていない。

まるで個人レッスンであるかのようである。

実際には教室には何人も、ともすれば何十人も生徒がいると思うのに。


なんだこのずうずうしさは。

いや、こういう「ずうずうしい態度」こそが求められるのではないか。

というより、これを「ずうずうしい」とか感じている時点でもうアウトかもしれぬ。

分からないことを質問するのは生徒の権利である。

その権利は、こういう質問をしたら先生は意外に思うだろうなとか、こういう質問をしたら周りの人たちに対して迷惑だろうなとか、
そういうことに配慮することによって妨げられてはならない。



同じ「笑いを喚起する」質問でも、日本人ばかりのところでやると、「嘲笑」「冷笑」になってしまう。(いわゆる「顰蹙を買う」というやつ)

そこには生徒一人一人の素朴な疑問が解決されることよりも、穏便に授業が終了すること、予定調和的であること、そういう一定の形式性、一定の儀式が、とどこおりなく当初の予定通り終了することこそが、「平和な日常のあるべき姿」であり、それをしがない一個人がくずすことなどあってはならないという規範に、教師も生徒も暗黙的に同意している--- ということがあるように思える。

一人一人の学力の向上よりも儀式の遂行のほうが優先されているような学校において、一人一人が、「授業という場で」疑問をしっかり解決するということは有り得ない。

なぜ「授業が終わったあとで、個別に先生に質問にいく」というような、二度手間なことをしている生徒が、意外と多いのか。

この著者の方が相手にしている外国人の生徒さんたちは、きっとそういうことはしていないだろう。



こういう当たり前のことが、しっかりと実現されている、「日本人学校」という場所は、モデルケースとして非常に重要な場所ではないだろうか。

(願わくば是非見学してみたいものである。)


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