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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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のコメント欄より

> 小学校の話 (taketyann)
> 新出漢字を使って短文をつくる、といったのがポピュラーな課題ですが、ちゃんと辞書を引いて用例を調べて短文を書く子とそうでない子の差は大きいですね。こういったことを面倒がらずにできるか否かが、その後の学力に大きく影響してくるんでしょう。

「面倒がらずに」というのが、教師の視点である。


面倒がらずにやる人の分類。

(1)そもそも面倒だと思ったことがない人

(2)面倒だと思ったことがあるが、「それはいけないことだ」と思って、面倒がらずにやる人


さらに(2)は次の2つに分かれる。

(2-1)「それはいけないことだ」という考えに美徳性を認める人。であるがゆえに、おのずから禁欲的に動き、それが結果的に先生の目からは「おお、君、面倒くさいこともちゃんとやってるね。えらいえらい」というふうに映る人

(2-2)「それはいけないことだ」という考えに美徳性を認めない人。であるがゆえに、おのずから禁欲的に動くことなどまったくなく、つねに「なんでこんなことやらんとあかんねやろ? ほんま嫌や。ほんま嫌や。」というようなことを「本音として」抱え込んでいるんだけれども、先生や親の圧倒的な権力の前になんとなく屈従してしまってる人



(2-2)は、本音と行動の間に乖離があるので、小学校のころからそういうストレスフルな生活を続けていると、どこかでガタがきて、いろいろな問題に発展するということは、まあよくある話だろう。

ところで、だ。

嫌やと思っていたんだけれども、なんとなく屈従しているうちに、嫌さの程度が漸減していき、いつのまにかそれが当たり前だと思うようになっていき、いつしか大人になり、いつのまにか、自分が子どものころ嫌だったと心底思っていたようなことをふつうに自分の子どもに対して要求していたりする、というようなケースは、もう腐るほどある気がする。


こう考えると、美徳性の有無という基準で(2)を2つに割るのは、ちょっと違うのかもしれない。
「美徳」などという明示性の高い概念で把捉されているというよりかは、「当然」という明示性の低い概念で捉えられていると考えたほうがよいのかもしれない。

つまり、「それはいけないことだ」ということに、当然性を認めるか認めないかというところに、問題は落ちる。



子どもにとっては、様々な事柄が「当然ではない」わけだが、大人はこれを教える。
それこそ、「腐るほど居る大人たち」が、教えてくださるのである。


平均的に見れば、幼稚園から小学校1~2年生くらいの子が、一番、大人が要求してくる当然性への疑義に対して理解がある気がする。
周りの人たちと会話をするのに、或いは、自分たちで小さな物語を自ら構成しうるほどに言葉を覚えた頃の子どもというのが、一番、「なんで?」という言葉を連発する頻度が高い気がする。

ところが、大人たちは、この繰り出される連発のすべてに、「子どもの内的世界の、その子どもにとっての価値」を、最大限に尊重して、敬意を払ったうえで、こたえてくれるわけではない。
たいていは、「度外視」される。


この「度外視」の経験を何度も何度も積んだ子どもは、次のふたパターンに分かれる。


<1> 当初自分が抱いていた内的世界の価値をみずからおとしめ、大人たちが要求してくる世界観の価値をみずからのうちにおいて高める。
(このゆえに彼らは、かつて自分が嫌悪感を示していた「大人たちによる要求」を、今度は自分が周りの人々に対して何の疑いもなく要求しだすことができるようになる。)

<2> 当初自分が抱いていた内的世界の価値をまもるために、大人たちが要求してくる世界観の価値と符合する仮の自分を擬制的にしつらえる。



内的世界の価値と外的世界の価値が一致しないところをみなもととして疑問というのはわきあがってくるのであるからして、<1>の人はどうやって疑問をわかし得ているのか、やや疑問である。

要するに、疑問が制限されている、ということなのかもしれない。

いや、どっちみち、制限はされているんだけれども、疑問には3つあって、(I)公益に資することが一般人から見て明らかな疑問と、(II)公益に反することが一般人から見て明らかな疑問と、(III)公益に資しも反しもしないこととが一般人から見て明らかな疑問。

一般人は、(I)と(III)の疑問は歓迎するが、(II)の疑問は全力で排斥する。

そして、言葉を覚えたたての幼稚園~小学校低学年の子どもは、公益にいかほど資するかという大人たちの価値基準とはまったく無関連にさまざまな疑問文を発する。
つまり、平均的なその年代の子どもは、(I)~(III)の疑問を、等しい頻度で発する。


さて、大人たちは、(II)の疑問の発生を全力で阻止するわけだが、このときに、(II)の疑問の発生だけうまく抑止することに成功する子どもと、(II)の疑問の発生の抑止にひきずられて(I)や(III)の疑問も発することができなくなってしまう子どもとに分かれる。

そして、自然な疑問を持つことができない子どもが「量産」されるわけである。

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