@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
http://d.hatena.ne.jp/Hash/20090424/1240586420
> 可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義

選択行為の遂行後においてさえ、選択以前に抱いていた選択可能性への希望がまったく消失しないならば、その人は真に幸せである。

選択後も選択以前に持っていた希望がまったく消失しないなら、その人は真に幸せである。

それは「可能世界」(~ parallel world)という宗教をどこまで抱え込み続けられるかということでもある。

人生において一つ選択をすると、まるでそれ以外の選択肢を選んだならば成立していたであろう世界が消滅してしまうかのような錯覚に吹かれるときがある。

というか、多くの人はその手の錯覚に吹かれているのだろう。


しかし、私は違うと思う。と言うより、最近違うと思うようになった。

思うに、それは進化系統樹のようなものだ。

shinka_keitouju090426.jpg
http://wwwsoc.nii.ac.jp/psj/jpsj/06610/066100337.pdf より)

枝分かれしているところが、個々人が自由意思に基づいて選択できたところに対応する。
「絶滅した枝」と書いてある枝に対応するものは、その枝に進んでいたなら死んでいた、ということを意味する。

私たちがなにか一つ意思に基づいて選択をするということは、この無数に分かれる枝のうちのどれか一つのところへ進むということを意味する。


時間は逆流しないので、別の枝に進むことはできないけれども、別の枝に近づこうとすることは、或いはできるかもしれない。

言うなればこれは、マリオRPGのワイン川くだりにおいて滝の流れに逆らって上昇することができないが、横に移動する自由は与えられている、ということに等しいのかもしれない。


重要だと思うことは、私がいかなる選択をしようとも、この大樹自体ははじめから永遠不滅であり、消えも逃げもしないということである。

そう考えると、「人生とは可能性をつぶしていくことだ。可能性が消えていく、希望がなくなっていくということが、生きるということだ」というような、悲観的な見方をせずに済む気がするのである。



多くの人は、選択は基本的に取り消せない、なぜなら時間は逆流しないから、ということを素朴に信じているが、それを信じるがゆえに、後悔したり、後悔に攻撃されて自分で自分をいじめたりしているとすると、それはそれで結構アホなことなのではないか。

別の選択をした私がいて、その「別の選択をした私」と「この私」は、交流することは禁じられているけれども、確かに存在するのだ、
私は可能な枝のうちの一つを生かされているに過ぎないのだ、というふうに考えると、少なくとも私は非常に腑に落ちる。
腑に落ちるし、余計な心配事をしなくて済むように思う。

きわめて非科学的な話であることは承知している。
けれども、そう考えることで、余計な心配事をしなくて済むのであれば、それで明日からの日常生活においてやる気(というのはつまりは何かの希望ということだと思うんだけれども)を取り戻せるのなら、いいことじゃないか。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/147-f46cfe0a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。