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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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ルーチンワークはなぜ低賃金なのか、という話。

答えは簡単で、希望がないから。

もうちょっとちゃんと言うと、落ちる心配がほとんどないけど、もう発展性も見込めない、そういう仕事である、ということ。

発展性が見込めない、というところが、希望がない、という言葉の本質。


そして、すべての投資家は希望に投資するということ。

例えば、IT産業とか。例えば、子どもとか。


だから、投資家がトイレ掃除という事業にじゃんじゃん投資したくなるようになれば、トイレ掃除の人の給料ははねあがることになる。

あなたがもし資産家(投資家)だったとして、これ以上発展性のない、同じことをえんえんと繰り返すだけの会社に、投資したくなるような気持ちがわき起こるだろうか。

まあわき起こらないと思う。

でも、そのわき起こらないという気持ちが、すべての経済格差の根源であるように、私には思えたのだ。



クリエイティブな職場だからと言って、高賃金になるとは限らない。

いわゆる、ヒットしなければ低賃金、というやつ。

結果、希望のある職業でかつヒットしたやつのところだけに集中的に資本が流入することになる。


希望があるというのは、これから私たちを驚かせてくれるような価値を産出する可能性があるということ。

投資家は、その可能性がない奴からすばやくお金を引き上げ、その可能性がよりある奴のところにお金をまわす。

それが、一投資家にとっての、希望値の最大化につながるからだ。


だから、経済格差を是正したければ、選択肢は2つしかない。

すべての人に期待される発展可能性がひとしくなるか、
より見込みのある奴にリソースを集中的に投下したくなる気持ちを悪と認定して、そういう規範を広めて定着させるか、
このどちらかである。

どちらもとてもむずかしい。


いつの時代でも、「人々に希望を与え続けることのできる存在」に対して人々はより多くの資産を優先的に配分してきた。

それは、「子ども」であったり、「祈祷師」であったりした。

原始社会において宗教家がたいせつなのはその故である。

宗教家は人々に希望を継続的に与えることのできる存在で有り得た。

それは、宗教家が、「人々に希望を与え続けることのできる存在」=「聖なるもの」に近いところにおり、それを制御することができるにもっとも長けた人であると信じられていたからである。

私たちはその「聖なるもの」を中心として、私たちの社会全体のリソースがあざやかに勾配をなして位置していることに、あるいはおどろくかもしれない。

しかし、そのような勾配は、「聖なるもの」の誕生とともに生じ、「聖なるもの」から遠いところに役割上置かれた人間たちを、原始社会以前の人間たち以上に苦しまなければいけない状況に追い込む。

この非人間性を是正するには、勾配の有り様に変更を加える必要があるが、そもそもこの勾配の有り様を決定している変数がなにであるのか、いかほどであるのか、についての情報は、私たちにはあまり与えられていないのである。

「聖なるもの」への精神的呪縛 -- それは、「希望」に私たち一人一人が呪縛されているということを意味する。発展性がない事業よりも、発展性の高い事業に投資したくなる気持ちを意味する。老いぼれた病人よりも元気にはしゃぎ回る子どもにより投資したくなる気持ちを意味する--- から私たちは自由になることができるのだろうか。
或いは、少しでも自由になるためにはまずなにをしなければいけないか。

そういうことを、考えるべき時期に入っている気がする。

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