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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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伝統はなんでも無根拠に肯定すべきだ、という意見があるが、ぼくは違うと思う。

もしそれが肯定されるのであれば、差別主義は、肯定されなくてはならない。


人類はながらく人を差別して生きてきた。

これは、結果的に伝統を構成していると言える。




ところで、ふつう、「差別」のような、マイナスイメージのあるものを、伝統とは呼ばない。

伝統とは、なぜか、プラスイメージのあるものに限定されていることが多いのだ。


そこで思う。ぼくたちは、プラスイメージのある伝統を伝統と呼び続けることで、「マイナスイメージのある、ふつう伝統とは呼ばれないけど実は伝統であるようなもの」を、不可避的に引きずりつづけているのではないだろうかと。

これは、自覚的になることで回避できるマイナスだと思う。


伝統だから無根拠に肯定すべきなのではない。

伝統のなかには、いい伝統とわるい伝統がある。

ここで、いい/わるいとは、個々人の人権が侵害されることをゆるすようなものはわるく、そうでないものはよいということ。




ところでまた思ったのだが、ぼくが上で言ってきた伝統とは、要するに、「長い間ずっとある集団が維持し続けている概念や習慣や価値観」なのだが、日常用語で言うところの伝統という言葉に対応する社会的機能について考えてみると、それは、「社会帰属性確認」であるような気がしてきた。
「社会帰属性確認行為」(儀式)をなすことは、伝統なのである。



ところでまた思った。このような、社会帰属性確認行為をなすことそれ自体が、近代的な視点でみたときに、人権侵害に抵触すると思われる場合に、私たちはどう対応するのが望ましいのか、という問題である。

これはかなりむずい気がするぞ。

むずいというか、「人権宣言よりも尊重しなければいけない命題の存在」を暗示している。

だからびみょうにちょっとこわい。


社会帰属性確認行為にはいろいろあるが、そのなかでも特に重大とされるものが、たまたま、「人権宣言の趣旨に反する行為」であった場合だ。

こういうことは、実際に、しばしばある気がする。


純粋な処方箋としては、元の帰属先の社会を破壊して、別の帰属先をあてがうことだが、それは、文化の破壊ではないのか、とも思う。

しかし文化の破壊を容認しているのが人権宣言であったとするならばどうか。


ふむ。


つまり、こういうことか。

人権宣言はもともと、ある種の文化を破壊することを容認するものである。

でも、なんでもかんでも破壊してよいわけではなく、あくまで、人権宣言の趣旨に背馳する部分だけが注意深く除去されるべきであり、それ以上の除去は、逆にまた人権宣言に抵触することになってしまう。



でね、ここであれや。

破壊破壊というけれども、破壊というのは手段であって、実際には、目的は、「人権宣言の趣旨に背馳する部分だけを注意深く除去すること」なわけで、なにも、それを達成するための手段は、破壊行為だけではない。
「はなしあう」という手段も残されているはずだ。
すなわち、当該文化の当該部分を「破壊」するのではなく、「目的へと導くような変容を促進」すればよいわけである。

「現在の状態」から「目的の状態」への移行を、安定的におこなうことが、その状態を有する個人ないし集団にとってのアイデンティティを最大限に尊重するにつながるということだ。

ふむ。

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