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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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■幸福の分類


○(幸運/不運):自分の意思とは関係なく偶然的に(厚遇/冷遇)されること。

○(自尊/後悔):自分の意思に基づく決定に誤りはないと確信できること。(「あのとき、ああすれば良かったのに…」とか思うのは、あのときのあの決定が誤りであったのではないかという疑義により生ずる。自己決定に誤りがないと確信できる人間のうちがわには、そういう疑義は到来しない。


結局、「子どもに自信をつけさせてあげる」って言葉の意味は、「子どもが、自分の決定に誤りがないと思えるようになることを支援してあげること」ということなのだろうな。

でも、自尊心の高い人間イコール謝らない人間、ではない。



■2つある「謝る」の意味

「謝る」というのは、客観的には、他人の被毀損感情に対する手当てを行なうということである。

もうちょっとちゃんと言うと、

他人 -- 或いは、その他人を含む社会(社会の範囲は、家族から国レベルまでいろいろ) -- が概念的に大切にしているものを、それとは知らずに踏みにじってしまったときに、その誤解を訂正する行為である。

電車のなかで、となりの人の靴を踏んじゃって、「あ、ごめんなさい」というときのあれである。


ところで、こういうのは、あんまり問題にならない。

問題になるのは、「あやまれ!」「いやだ!」というような問答が陰に陽に大声でかわされるときにこそ起こる。

「あやまれ!」とか「あやまんなさい!」と、大声で言うときの「謝る」という言葉の意味はなんだろうか。

こういうときの、「謝る」という言葉には、私もしくは私をふくむ社会に対する被毀損感情の手当てを要求するということにとどまらず、「私たちが概念的に大切にしているものを、お前も大切にしなさい」という要求をも含んでいるのだ。

そして、そう言われた側は、その要求を、「社会的な正義や倫理であるとは認識せず、自分勝手なわがままにすぎないと確信的に判断できる」ときにこそ、「私はあやまらない!」と、これまた大声で応酬すること相成るわけだ。

つまり、「あやまれ!」「いやだ!」という応酬は、より根源的には倫理観の不一致に由来しているのである。

であるならば、これを解決するために取るべき合理的な手法としては、お互いの倫理観が一致するように調整する、ということなのだが、ここで、それぞれに与えられている権利に差があると、それぞれがそういう倫理観を持つようになった理由が掘り起こされることなく、一方的に、劣勢の側が敗北して、優勢の側が勝利するという構図になる。

ながらく人類は、たぶん、こういう仕方で、つまり、大人/子どもであるとか、A民族/B民族であるとか、なにかと理由をつけて、「それぞれに与えられている(倫理観を主張するための)権利には違いがあるのだ」という倫理観を正当化してきたが --- そして、結果的に劣勢を決め込まれた側も、このメタ倫理観はなぜか受容してきたが---、人類もながいことやってるとさすがに気づく奴が出てくる、このメタ倫理観の正当性の根拠を疑う奴が出てくるわけや。

だからこんにちでは、こんにちのような近代社会では基本的に、「あやまれ!」「いやだ!」というような問答がみられた場合には、ただちに、お互いの倫理観の調整に入るのが至当なわけであるのだが、実際にはなかなかその調整に入らないことがよく見受けられる。

伝統的なメタ倫理観を擁護する人間と擁護しない人間のあいだの対立というかたちで、ふたたび係争がはじまるからだ。


伝統的なメタ倫理観を擁護する人間は、差別主義者である。

コメント
この記事へのコメント
倫理観の不一致で対立が起こるなら話し合いで解決できますが
自分の感情の優先で起こっているならば解決は難しい。
そして後者は前者に比べ多いように思います。
2009/04/27(月) 00:56 | URL | Psyche #QnynE5qE[ 編集]
感情も一つの倫理観であると捉えることができます。

ある感情が間髪を入れずにわき起こるということ自体が、その感情を支える支持基盤が自分の内部に潜在的に存在しているということの何よりの証拠です。

これは道徳教育で非常に重要になってくる観点ですので、この際に言及しておこうと思いますが、或る人、特に子どもの倫理観を知りたければ、「だって」のあとを聞くことが重要です。

子どもはよく「だって」と言います。

多くの大人はそれを単なる言い訳だと理解してそれ以上聞く耳を持たないことが多いのですが、「だって」のあとに思わず続く言葉には、子どもの本音があらわれます。

その内容に本質的な変化があらわれることが、その人が道徳的になにかを学ぶということなのだと思います。

2009/04/29(水) 18:50 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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