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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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理想的な社会においては、つぎの4つの自由が保障されている必要がある。


(1)ルールという檻(ブタ箱)のなかでそこそこ幸せに暮らす自由

(2)ルールという檻を脱してルールの外で生きようとあがく自由

(3)ルールという檻の外側で、ルールをつくらなければいけないという義務を権利を有しながら、そこそこ幸せに暮らす自由。

(4)ルールという檻の外側という状況を脱して、檻のなかに入ろうとあがく自由



重要なことは、この4つに、幸福度にさほど違いはないということだ。

この4つのうち、個々人が、それぞれ、自分の選びたいものを選べばいい。

そうすれば、そこそこ幸せに暮らせるはず。

実際には、檻のなかに居る人は、(1)(2)のいずれか、檻の外に居る人は、(3)(4)のいずれかを選ぶことになるわけだが、それでいい。


これを勘違いされっちゃったら困る。

多くの人々は、というか日本の世論は、幸福度において、

(1) < (3)

であると無根拠に信じている。

(いや、実際には無根拠ではなく、個々人の経験の個別性に由来する恣意性が、自分のきたるべき可能な将来についての誤った予測を導く、ということなのだが)

外に出たら家の中よりもおいしいものがあるとは限らないのにね。



さて、なんで(1)~(4)の自由を保障することが重要なのか説明する。

人には、統治する能力がある人とない人とがいて、この能力がある人は、檻の外側にいるほうが、そして、この能力がない人は、檻の内側にいるほうが、社会全体にとっていいだろう。
いいというのは、人々をより幸福にするルールが自動生成され続けるという意味においていいということ。

さて問題は、その統治能力のあるなしを、だれがいつ判定するのかということだ。

個々人の幸福が、「自分の能力は自分で判定できる、ということの自覚とそれに基づくその能力の擾乱なき行使」にあるのだとすると、その判定は、つねに本人がそのつど行えばよいという結論になる。

だから、統治能力があると思うにもかかわらず、檻の内側という処遇を受けている人は、ただちに檻の外に出ようとあがけばよいし、最初から自分の認識と社会からの処遇に差がない人は、そこに居座ればよい。

ここで重要なことは、「自分の認識と社会からの処遇に差がなくて居座れるという状態」と、「社会に抵抗されて何某かのあがきを演じなければいけない状態」と、どちらがより幸福であるかということを、(普遍的に)決定することはたぶんできない --- ということである。


「人間が一番幸せなときというのは、幸せを堪能しているときではなく、幸せを手に入れようと渇望しているときなのだ」という言葉を聞いたことがある。

私はいまのところ、この言葉を真実性の高い言葉として受け入れている。



【追記】

つまり、不幸の本質は、自分がそう思えたことを実行できなかったこと、つまり後悔にあるのであって、それ以外ではない。

日常的には、ハッピー、アンハッピーという言葉を、「自分の意思とは関係なく偶然的に厚遇された、偶然的に冷遇された」というときに用いる習慣があるが、それは短期的な実感に過ぎない。たぶん。

あ、でもそうすると、「短期的な実感こそ俺のすべて」という選択をした人の幸福に関する価値観を否定してしまうことになるな。ううむ、どうしたものか…。

「価値観の多様性」つまり「多様な価値観の受容」ということは確かに大事なんだけれど、あらゆる価値観をすべて否定しないでいることは、たぶん論理的にムリな気がする。

するとどうしても、「選ばれる価値観」と「選ばれない価値観」が出てくる。そこをどうするか。

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