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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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 非正社員、
 刑期を終えて出てきた人、
 非新卒、
 精神病院からの社会復帰、

要するに、なんらかの点での負け組、という称号を付与される人たち

信頼回復のためのあれがなされない

それは誰がやるべきか、だれが信頼回復のためにつとめるべきか

倫理的には社会だが、歴史的には被差別者。

日本ではなぜ、そういう暴動やデモが、政治を変えてしまうくらいまでに大きくならないのか?

泣き寝入りか、或いはそれに類似する納得を与える仕組みになってるから。

自己責任論が正当なるものとして社会に大きく受け入れられてるから。

自己責任論を受け入れている → 俺はダメだ、俺が悪いんだ。→ 諦めよう。(結論)

日本人の自尊心が低いのも或る意味当然。

自尊心があがるということは、自己責任論を排除するということだ。

自尊心が強いというのは、つまるところ、「俺は悪くない」と最後まで言い続ける信念を持つ、ということだ。


ここにくると、日本は、物心付いた頃から、「あやまりなさい」ということを徹底して教えている。

「あやまりなさい」というのは、要は、自己責任論を受け入れなさい、ということなのだ。


中島義道氏のような(公衆騒音の公害性について一人で立ち向かうことができる)人が、「わたしはあやまらない」と言うのも納得できる話だ。



ここで、ほんとに自己責任なのかどうかは、どうでもよい。

もうちょっとちゃんと言うと、一切の恣意性をはさまずに、このことに回答をくだすことはできないということ。


だから、自己責任論に対する受容性が高い、つまり、原因やその発生機序が不透明な問題を安易に個人の問題として処理しがちな(そうすることによって、社会のシステムを変えるのを防ぐことができるというか、社会の共同体としての安全性が保持される)社会とそうじゃない社会があるということ。

目的は「社会の共同体としての内的な安全性の保持」(内因性の危険因子の排除)で、この達成にあたっては、社会の仕組みに原因があるとしてそれを変えるか、個人に原因があるとしてそれを変えるかのいずれかの手段があるわけだが、日本では後者が取られがち。


ところで、そんなに「現行の社会の仕組み」って、まもらなければいけないものなのだろうか?

守らなければいけないのは、「個々人の生活世界」であって、「社会の仕組み」ではない。

よく「〈みんな〉みんなのために少数の個人が犠牲にならなければいけない」ということは美談もしくは倫理として語られるが、そういうときの〈みんな〉というのは、あくまで、「個々人の生活世界」であって、現行の「社会の仕組み」ではない。

「個々人の生活世界」を守ろうとして、「社会の仕組み」を守ってしまうこと。

或いは、「社会の仕組み」が「個々人の生活世界」をいつも守ってくれると信じているということ(必ずしもそうではないにもかかわらず)。

これこそが、我が国に古来より伝わる伝統的な病理なのである。

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