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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/090410/sty0904101859002-n2.htm
サイト管理人でフリーライター、恩田ひさとしさん(44)は読書嫌いになった子供のころの教育に対する反発から4年前にサイトを立ち上げた。「書き方も分からない子供に、教員が指導もせずに『書け』と言うのは無責任だから」と開設した理由を説明する。
 それに対し、大人からは辛辣(しんらつ)な批判が続々と届く。「日本の子供たちを抜け殻にしてしまう」「自分で本も読めないガキを作るな!」。
 そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。

> 子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる

この発想自体がいかにもお役所的というか上から目線というか、現場のこと全然分かっちゃいねえというか、そういうにおいを感じるよね。
実際には、「本に接するきっかけ」をつくっているのが読書感想文、ということなんではないかな。

小学生で、放っておいても本を読みまくる奴というのは非常に少ない。
でも、それじゃあ教育にならない。そこで、無理矢理に本を読ませるために、読書感想文というものが存在するのである。
そこでは、うまく書けているかどうかよりも、ちゃんと原稿用紙の升目が埋まっているかが重要である。
「ある程度ちゃんと原稿用紙の升目を埋めるためには、ある程度ちゃんと読まなくては書くことなどできないだろう」という予断がそこには存在する。

読書感想文コンクールなどで、たまたま「理想的な子ども像」に近かった生徒が表彰されるというのは、「理想的な子ども像」とはどういうものであるかを子どもに印象づけるという点においては意味があるけれども、それ自体は、子どもの読書を推進するということにはあまり貢献しない。

学校は、子どもたちに無理矢理に読書させるために、読書感想文というゲームをつくった。
そしてこのゲームを教育の一環ということにして、子どもたち全員が参加しなければいけないということにした。

そこには、「本を読むことそのものが面白いから本を読む」のではなく、「本というのは誰かから強制されて嫌々読むものである」という信憑が暗に根づいている。


子どもたちの多くはゲーム好き、つまり何らかの競争好きであるが、読書感想文という競争が好きという子どもはあまりいない。
いるのは、「読書感想文なんて大嫌いだった」という子と、「え? 読書感想文? そんなのとは関係なく本は昔からよく読んでましたよ」という読書好きな子だけである。



読書感想文というのは、はじめから採点者側の都合によって存在している。

もし、教師に千里眼的な能力が備わっており、夏休みに子どもたちがちゃんと読書しているかどうかを、子どもたちからの提出物によらなくてもチェックできるのだとしたら、読書感想文はまったく必要のないものになる。

しかし現実には、そういうことはできない。

教師は、自らがチェックするために、しかたなく読書感想文を課すのである。

その意味では、読書感想文というのは、性悪説に立脚している。

そして、子どもに「確かに私は読書をしました」という証拠を提出させることを、実際に本来の意義に基づいた読書をしているかどうかよりも優先させる姿勢が、そこにはある。

そしてこれが、国語教師のなかにも、読書感想文に反対の人が多い一つの理由なのである。


指導者側の原理的な能力不足に帰せらるるべき負担であるかもしれないのに、その負担を子どもの側に渡すから、おかしなことになるのである。

子どもには次の2つの負担が宿題として課せられる。

1つは、課題図書を読むこと、もう1つは、「私は確かに読んだ」ということを、読書感想文を通じて証明することである。


この2つの課題をなんなくやってのける子もいる。

でも、実際には、証明の負担が読むことの負担を圧迫するというケースも多いのではないだろうか。

漢字ドリル、計算ドリルの宿題の場合にはこのような本末転倒な事態には遭遇しない。

「宿題をやった跡」がそのまま証明書になるからである。

ところが読書の場合には、「宿題をやった跡」は空中に霧散してしまうので、残らない。

そこで子どもたちは、「宿題をやった跡」を残すために、宿題とは別の作業をする必要に駆られるのである。


もちろんこういうことを学校の先生は言わない。学校の先生は、「証明書づくり」も含めて宿題だ、勉強だ、と言うに決まっている。





> 「書き方も分からない子供に、教員が指導もせずに『書け』と言うのは無責任だから」

しかし、指導して、その指導の結果書けるようになるような文章というのは、読書感想文的にはあまりいい評価は受けないのではないだろうか。

読書感想文的にイイ!と評価されるような文章というのは、子どもに期待される理想的な感性がみずみずしく表れている様子が分かるような文章なのであって、そういうのは、小手先のテクでどうこうなるようなものではないのだ。

学校教育の意義を度外視して、とにかく単位を取るためだけに、とにかく学校の担任を黙らせておくためだけに、読書感想文を書くというのなら、そういう小手先の「とりあえず字数を埋めるテク」を仕込むのもいいだろう。でも、そういうのは「世渡り」ではあっても「教育」ではもはやない。

こういう「世渡り」は、何も今に始まったわけではなく、これまでにも、例えば、親が宿題を肩代わりするなどの手法によって存在してはいたわけであるが、公然とではなかった。
いま、これが問題化しているのは、それが公然化してしまったから、「世渡り」をしていることが学校にバレたからである。





ちなみに私は、読書感想文は、あってもなくてもよいと思っている。

ただ、今後もこうやって、読書感想文擁護派と反対派の対立が継続し、その対立のために貴重な教育的リソースが分配されつづけなければならないのだとしたら、そのことのほうが問題ではないだろうか。

ほんとうに子どもたちに読書するきっかけを与えたいのなら、読書感想文を云々言うよりも、毎朝10分でも15分でも全員が教室で静かに読書する時間を設ける、とかしたほうが、よほどマシだろう。
コメント
この記事へのコメント
忠告されたのが久しぶりなのでかなり嬉しいです。

>そういうときに重要なのは「完全に自由にしていいって言われたらあなたは勉強するのか」というところです。
まずはこれを想像してみるところから始められるのがいいのではないでしょうか。

傲慢ですね。さすがにそんなことを一度も想像したことがないかのように書かれるとちょっと傷ついちゃいました。

ほりさんに「高校生」っていうのを思いきりぶつけてみたかったのですが、やっぱりまずかったかな。。。
2009/04/15(水) 18:46 | URL | yuusaki #wjF23NZ2[ 編集]
> >そういうときに重要なのは「完全に自由にしていいって言われたらあなたは勉強するのか」というところです。
> まずはこれを想像してみるところから始められるのがいいのではないでしょうか。
>
> 傲慢ですね。さすがにそんなことを一度も想像したことがないかのように書かれるとちょっと傷ついちゃいました。

一度も想像したことがないとは言っていませんよ。

むしろ、そういうふうに感じてしまう、あなたの「それくらい、ちゃんとやってらあ」という態度にこそ、私はいささかの傲慢さを見てしまうのですが、いかがでしょうか。


> ほりさんに「高校生」っていうのを思いきりぶつけてみたかったのですが、やっぱりまずかったかな。。。

ほり先生の「こんなブログを読んでいる暇があるんだったら古典を読め」というアドバイスは、或る意味とても的を射たものです。

最近の学生の多数派は違うのかもしれませんが、
伝統的には、高校生や大学生、つまり「学徒」なるものは、
テレビも見ず、ゲームもせず、世間の喧騒に関わることなく、世俗的なものの一切を絶ち、終日図書館に引きこもって勉強しており、たまに10年にいっぺんくらい世俗に顔を出して浦島太郎気分を味わう、
というような感じのほうが似つかわしいのです。

少なくとも、今から半世紀くらい前までの学生というのはそういう感じだったのだと思います。

ところが、昨今のように情報が氾濫するようになると、どういうものが勉強に供する題材であるのかの合意が必ずしも取れない、ということが出てきました。

私がさきほど「或る意味」と言ったのはそういう意味です。


いまの前途有望な学生が、果たして、半世紀前の学生と同じような仕方で勉強するのがいいのかどうか、私にはまだ分かりません。が、少なくとも、そういうやり方をまったく捨ててしまうのは、非常にもったいないことだろうと私は思っています。

伝統的な学びのスタイルと、これから発展していくであろう学びのスタイル。

いまはその過渡期にあり、どう折り合いをつけていくかは、基本的には学習者自身にゆだねられています。


というわけなので、まあ、yuusakiさんには、時々はここに書き込んでもらっても構わないですが、あんまり白熱しすぎると、ほり先生が悲しむかもしれません(^^;。

もちろん、「もう古典ばりばり読みまくりで、それでもエネルギーが有り余っているので、その余剰エネルギーでこういうところに書き込んでいるんだ」というのなら話は別ですが。

ほり先生は二番手進学校の状況しかお知りにならないから、ああいうことをおっしゃっていますが、一番手進学校の生徒と何人も接してきた経験から言いますと、「それくらいエネルギーが有り余っている人間のほうがふつうに東大とかに入っちゃう確率が高い」気はしています。(「こういうところに書き込めるくらいの余裕すら持てない高校生が果たして東大に入れるのか」というか。)

そういう意味では、折り合いのつけ方というか、各人の有限のエネルギーをどういうふうに割り振るのが良いかは、ほとんど属人的に決定されているのかもしれません。

小学校の先生は、口々に、「全員」に対して、「遊んでばかりいないで勉強しろ」とふつう言いますが、このアドバイスは必ずしも「全員」にとって有効なものではない。

ただ、
「個」ではなくあくまで「集団」に対峙せざるをえない学校教師の立場からは、そういう、「平均的な児童」に向けたアドバイスしか、なかなかできない、
ということは、ありますね。

で、そういう「平均的な児童」でない児童は、個別に塾に行ったり、図書館などで自分で勉強したりして補っていくしかない、という。


あと、ほり先生は「指導においてはチームワークが大切」と考えておられるようですが、私に言わせればそんなのは小学生向けの、個々の高校生の許容可能な自己責任に対する冒涜以外の何者でもないだろうと思うのですが、残念ながら、ほり先生のお話を伺う限り、ほり先生が勤務されている学校の生徒には、そういうやり方がちょうどいいらしいのですね。

なにが言いたいかというと、yuusakiさんはたぶん、そういう「小学生向けの指導」は無視して動いたほうが、いきいきと生きられるのではないか、ということです(これは私の推測ですが)。

ほり先生は、生徒に認める自己責任の程度において高校生を小学生扱いしたいらしいのですが、私は、高校生は高校生扱いすべきだと思っています。
(というか、そもそも私のブログやほり先生のブログを見にくるような高校生は、高校生扱いされるにふさわしい高校生だろうと思いますが)。

私が、ほり先生と同じく「高校生は人のブログを読むことよりも古典を読むことのほうを優先すべきだ」という意見には同意しつつも、「ブログを読んでいいか、ブログにコメントをしていいか」という点においてほり先生と意見を異にするのは、そういう理由からです。


> 忠告されたのが久しぶりなのでかなり嬉しいです。

それは良かったです。
もっと忠告してほしければいつでもどうぞ(笑

2009/04/16(木) 00:29 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
>もう古典ばりばり読みまくりで、それでもエネルギーが有り余っているので、その余剰エネルギーでこういうところに書き込んでいるんだ

まさにそれです。ばりばりがどれぐらいかはわかりませんが。(常に古典が手元にあるぐらいじゃだめ?

上の傲慢ってのは、いったいどんな切り返しがあるのかと(不謹慎?ながら)わくわくしていましたが、あっさりめでしたね。ちょっと残念。(対高校生用なのか!?


古典を読んでいると俺様解釈になってしまっても、それを直してくれる人がいないので怖いですね。もちろん、誤読は創造的でもあると思うんですが、自分の思想にマッチするように誤読するようになるのが怖い。

後、批判して、これどう?って言えないのもつらい。

学校関連については、同じようなことを担任の方にいわれました(笑
2009/04/19(日) 16:23 | URL | yuusaki #wjF23NZ2[ 編集]
> 古典を読んでいると俺様解釈になってしまっても、それを直してくれる人がいないので怖いですね。もちろん、誤読は創造的でもあると思うんですが、自分の思想にマッチするように誤読するようになるのが怖い。

有名な古典の場合、解説本・関連本がたくさん出ていますから、それを参照して、ほかの人の解釈はどうなっているかを知るのも手ですね。

また、自主的にゼミを開くとか。

ブログに書くというのも手ですね。
読者のリテラシーが十分に高ければ、アホなことを書いてると突っ込みが入りますから(必ず入るわけじゃないけど)。


あと、日本に飛び級がないことを嘆くのなら、飛び級のある海外に行ってしまうのもいいかもしれません。

2009/04/19(日) 18:45 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
海外の大学は
入学試験で自分はどういう人間か書かないといけないじゃないですか?

あれがちょっと苦手なんですよね・・・

僕にとって自分って、「自分は~だ」の~よりもむしろそう自分に対して言及するときに感じる、
あれ?ちょっと違うぞ?っていう違和感なんですよね。
どう言葉を尽くしても言い表せないその直感領域とでもいうようなところにある「何か」が自分だと考えているのに、自分について書けといわれると、何か違うなと思って書けなかったし、またそう思う自分は海外の大学とは合わないのかな・・と思って去年は留学しませんでした。
その前は、本を読むことに夢中だったせいなのか、「留学」という考えがすっぽり抜けていました。

>有名な古典の場合、解説本・関連本がたくさん出ていますから、それを参照して、ほかの人の解釈はどうなっているかを知るのも手ですね。

その方法については自分の中で反対が大きかったので、上のコメントを書くときにも書かなかったのですが・・・何だったかな・・・

そういえば、本題から全く外れたコメントばかりで、申し訳ないです。
2009/04/22(水) 21:52 | URL | yuusaki #wjF23NZ2[ 編集]
> 僕にとって自分って、「自分は~だ」の~よりもむしろそう自分に対して言及するときに感じる、あれ?ちょっと違うぞ?っていう違和感なんですよね。
> どう言葉を尽くしても言い表せないその直感領域とでもいうようなところにある「何か」が自分だと考えているのに、自分について書けといわれると、何か違うなと思って書けなかった

自分が何者であるかを知るには、自分が何者であるかをあれこれと考えるよりも、まず、自分はなにをごく自然にやってしまう人間であるかを振り返るほうが手っ取り早いと思います。

2009/04/23(木) 01:15 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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2014/04/03(木) | garcinia cambogia extract
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