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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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前に書いたこの記事(曲解してるワケじゃないのに「曲解だ」と宣うのは、卑屈以外の何者でもない、或いはそれ自体が曲解)なんだけれども、これを書いた後で、引用元のほうに追記?がなされているようだ。

前回僕は、

「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え(長くなった)
「学校は勉強をするところだ」と言うと、「でも、部活だってするじゃん。」とか。何も「勉強『だけ』をするところ」と言っているわけではないのに、「勉強をする」を「勉強だけをする」と曲解する。

という記述に対して突っ込みを入れたのだけれども、この記述に先立って、次のような前置きが書かれている。

例えばこうだ。(念のため。これは、「例」です。隠喩です。メタファーですから、そのものを言いたいわけではありません。)

隠喩ってなんだろう。広辞苑によると、隠喩法というのは、「たとえを用いながら、表現面にはその形式(「如し」「ようだ」等)を出さない方法。白髪が生じたことを「頭に霜を置く」という類。」というような説明がなされている。

なるほど。

隠喩に対して直喩というのがある。直喩というのは、たとえていることが「あたかも」とか「~の如し」といった接頭辞ないし接尾辞によって示されているもののことを言い、これに対して、隠喩というのは、そのような接頭辞や接尾辞を失ってもなお比喩としての性質を維持しているもののことを言うようだ。

「目から火が出る」という言葉がある。実際に目から火が出るわけではない。「目から火が出るが如くである」と言いたいのだが、こういうとまどろっこしいので、「が如く」という、比喩であることを示す部分を省略して、「目から火が出る」という表現が定着するのである。

隠喩というのはおもしろい。それ自体がネタになる。落語ではよくある。「目から火が出る思いでしたよ。」「へー、目から火から出るんですか。すごいですなあ。」というような、聞き手が隠喩を理解しないことを笑いに転化する手法が、落語などではよく取られる気がする。

さて、話を戻そう。

そういえば、「小泉チルドレン」という語が出てきたとき、ニュースキャスターが「大人に対してチルドレンと呼ぶのは変ですね」と言うコメントをしていた。

ふむ。確かに、「小泉チルドレン」の「チルドレン」は隠喩であるなあ。実際に小泉の子どもというわけではないからね。

隠喩が通じないのは思考力がないからだろう。

果たしてそうなのだろうか。隠喩が通じないのは思考力がないからなのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、かつては似たような人たちばかりだったので、隠喩という省略の形式を用いても意味が通じていたが、こんにちのように文化間の流動性が高まってくると、「どういうものは隠喩として扱って良く、どういうものは隠喩として扱わないのか」ということは文化によって違うので、隠喩が通じないということが出てくる。その結果が、上のニュースキャスターの変なコメントを帰結せしめているのだと思うのである。
これを解決するには、隠喩を使うのをやめるか、いちいち相手と落語的遣り取りをすることを厭わない姿勢を貫くか、このどちらかしか、とりあえずは無いような気がする。

個人的には、フォーマルの場でなければ、落語的遣り取りをしたほうがいいような気がする。おもしろいし、相手の文化を知ることにもなるので。


さて。でである。隠喩で表現されたものというのは、その接頭ないし接尾に、「あたかも」とか「の如し」という語を入れることによって、直喩にすることができる。
ほり氏によれば、「学校は勉強をするところだ」というのは隠喩表現だそうだ(違っていたらご指摘ください)。
隠喩表現であるからには、直喩にすることができるはずである。
というわけで、やってみた。

(1)「たとえば学校は勉強するところだ。」
(2)「あたかも学校は勉強するところだ。」
(3)「学校は勉強するがごときところだ。」
(4)「学校は勉強するようなところだ。」

(1)(4)は例示であって比喩ではない。(2)(3)は、もし比喩であるとするならば、「学校は勉強するところではない」という命題が真でなければならないことになるので、これはおかしい。
したがって、私は、「学校は勉強するところだ」という表現は、一般には、比喩ではないと思う。また、特定の文脈を選択することによって「学校は勉強するところだ」なる表現を比喩ないし隠喩たらしめることができるのだという主張にも、にわかには賛成できない。

思うに、ほり氏は、例示表現と隠喩表現を混同しておられるのではないか。例示と隠喩は違う。例示というのは、抽象的な命題に対する具体例を示すことである(ウソだと思うんなら国語辞典を引いてごらんなさい)。

たしかに、「たとえば」という表現は、文脈によって、例示に対する接頭辞にもなりうるし、隠喩に対する接頭辞にもなりうる(使用頻度的には前者が多い気がするが)。だから混同しやすいというのは分からなくはない。でも、混同しやすいというのと、混同してよいというのとは違う。


さて、いい機会であるので比喩についておさらいしておこう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/メタファー
初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで、「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。
しかし、伝統的な言語学や論理学では、メタファーは周辺的な現象とされ、扱われることは少ない。近代の哲学者は、メタファーによって説得しようとする議論を非理性的なものとして否定することが多く、ホッブズやロックは、メタファーに頼った議論はばかげており、感情をあおるものに過ぎないとして批判している。文芸においてはメタファーは一貫して称揚されてきており、ロマン主義以来、理性を越えた想像力の発露であると見なされることが多い。

どうやら、伝統的には「論理的な話をするときには隠喩はあまり使わないほうがよい。でも、文学的な話をするときには隠喩はとても重要である。」というようなことのようである。


http://ja.wikipedia.org/wiki/メタファー
「~のようだ」「~みたいだ」のように比喩であることを明示したものは直喩と呼ばれる。また擬人法は、人間でないものを人間にたとえる比喩の一種であり、活喩とも呼ばれる。擬態法はそれを音で表現するものであり(「ワンワン」「ガシャン」など)声喩と呼ばれる。誇張表現はメタファーと重なる部分が大きい(例えば、「夕べは残業で死にそうだった」)。物語全体で他の何かを暗示するように構成されたものは寓喩と呼ばれる。
概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現はメトニミーまたは換喩という。「漱石を読んだ」、「やかんが沸いた」のような表現がこれにあたる。また概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現はシネクドキまたは提喩という。例えば「花見」という語における「花」は普通、桜の花を指している。

比喩といってもいろいろあるようだ。いま説明した「直喩」「隠喩」(暗喩)以外にも、擬人法のことを「活喩」、擬態法のことを「声喩」、現実の出来事を物語において象徴的に暗示する技法のことを寓喩(allegory)、概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現を「換喩」、概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現を「提喩」というそうである。

比喩、直喩、隠喩、暗喩、活喩、声喩、寓喩、換喩、提喩。たくさんあるなあ。



ところで、こういうことは、学校、たとえば義務教育などでは習わないのだろうか。

現行小学校学習指導要領(平成15年12月)・国語→ それっぽい箇所なし

現行中学校学習指導要領(平成15年12月)・国語・第三学年
〔言語事項〕
   (1)     「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」の指導を通して,次の事項について指導する。
ア      音声の働きや仕組みについて関心をもち,理解を深めること。
イ       慣用句,類義語と対義語,同音異義語や多義的な意味を表す語句の意味や用法に注意すること。
ウ      抽象的な概念などを表す多様な語句についての理解を深め,語感を磨き語彙を豊かにすること。
エ      相手や目的に応じて話や文章の形態や展開に違いがあることに気付くこと。
オ      文の中の文の成分の順序や照応,文の組立てなどについて考えること。
カ      単語の活用について理解し,助詞や助動詞などの働きに注意すること。
キ      共通語と方言の果たす役割などについて理解するとともに,敬語についての理解を深め生活の中で適切に使えるようにすること。

現行高等学校学習指導要領(平成15年2月)・国語
〔言語事項〕
       話すこと・聞くこと,書くこと及び読むことの指導を通して,次の事項について指導する。
ア      目的や場に応じた話し方や言葉遣いなどを身に付けること。
イ      文や文章の組立て,語句の意味,用法及び表記の仕方などを理解し,語彙を豊かにすること。
ウ      常用漢字の読みに慣れ,主な常用漢字が書けるようになること。
エ      文語のきまり,訓読のきまりなどを理解すること。
オ      国語の成り立ちや特質,言語の役割などを理解すること。

う~ん…、中三で「慣用句」ってのが一個あるだけか…。
一方、「新しい学習指導要領」によると、小学校5,6年~中学校において、明確に「比喩」ということが書いてある。

小学校・新しい学習指導要領・国語〔第5学年及び第6学年〕
イ 言葉の特徴やきまりに関する事項
(ア) 話し言葉と書き言葉との違いに気付くこと。
(イ) 時間の経過による言葉の変化や世代による言葉の違いに気付くこと。
(ウ) 送り仮名や仮名遣いに注意して正しく書くこと。
(エ) 語句の構成,変化などについての理解を深め,また,語句の由来などに関心をもつこと。
(オ) 文章の中での語句と語句との関係を理解すること。
(カ) 語感,言葉の使い方に対する感覚などについて関心をもつこと。
(キ) 文や文章にはいろいろな構成があることについて理解すること。
(ク) 日常よく使われる敬語の使い方に慣れること。
(ケ) 比喩(ゆ)や反復などの表現の工夫に気付くこと。

中学校・新しい学習指導要領・国語〔第一学年〕
イ 言葉の特徴やきまりに関する事項
(ア) 音声の働きや仕組みについて関心をもち,理解を深めること。
(イ) 語句の辞書的な意味と文脈上の意味との関係に注意し,語感を磨くこと。
(ウ) 事象や行為などを表す多様な語句について理解を深めるとともに,話や文章の中の語彙(い)について関心をもつこと。
(エ) 単語の類別について理解し,指示語や接続詞及びこれらと同じような働きをもつ語句などに注意すること。
(オ) 比喩(ゆ)や反復などの表現の技法について理解すること。

中学校・新しい学習指導要領・国語〔第三学年〕
    イ 言葉の特徴やきまりに関する事項
(ア) 時間の経過による言葉の変化や世代による言葉の違いを理解するとともに,敬語を社会生活の中で適切に使うこと。
(イ) 慣用句・四字熟語などに関する知識を広げ,和語・漢語・外来語などの使い分けに注意し,語感を磨き語彙を豊かにすること。
高等学校・新しい学習指導要領・国語 → 発見できず(まだ作成中、みたいな感じだった。違うのかもしれないけれど)


どうやら、あんまりちゃんと教えられてはいないようだ。少なくとも、そういうことにこだわって教えなくても許されるように法規はできているようだ。
あと、平成10年度以前の、古いやつもいくつか当たってみたけど、明確に「比喩」とか書いてあるのはないようだ。

慣用句は隠喩の一種として捉えることができると思うので、「比喩」だけでなく「慣用句」もマーキングしてみたわけだが、それにしても、中三になって初めて慣用句を学ぶというのも変だよな。
ま、現場ではそれなりに、こういう指導要領の「弾力的運用」がなされているのでしょうけれども。



さて、話をもとに戻します。というか、おまけ的な話をするだけですけれど。

「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え(長くなった)
ある教育産業の会社がやっているものに、事前調査項目に「受験勉強をし始めるのはいつか」というアンケートの項目があるが、その後で配布される冊子には「受験生になるにはどうしたらいいのか」などといった解説には「授業をしっかりと受けることである」というようなことが書いてある。

バカ言うな。支離滅裂である。

支離滅裂なのは分かるんだけれども、一方で、この冊子がたくさんの生徒に配られることによって、「授業をしっかり受けよう」と思う生徒が増えることもまた確かなのではないか。支離滅裂な物言いに説得されちゃうのはバカと言えばバカだが、それによって授業へのやる気が奮起されるのだとしたら、あながち彼らの行動を否定することはできない。
いわばこれは、「詐欺に引っかかってラッキーだった」というようなケースをどう見るかという問題であり、つまり、「そもそも詐欺に引っかからないようなリテラシーを身につけさせるのが先だろ」と主張するか、「いや、一時的には詐欺に引っかかったとしても、それをきっかけとして、いまそいつがやらなくちゃいけないことに精を出せるのだったらそれでいいじゃないか」という主張の間の争いというか。
ちなみにぼくは後者派だな。だって、そもそも詐欺を詐欺だと分かっている人が、その詐欺行為を働いた人一人だったとしたら、この世の中の人全員は幸せになれるんだよ。ってごめんね、論理が飛躍してるね。つまり、「騙されたと思って勉強する」ということは、ぼくはアリなんじゃないかと思うんだ。そいうこと。

つーか、アレですね、こういう冊子を見て、「バカ言うな」と憤ってしまうようなところに、物事を額面通りにしか受け止められない、それこそ、隠喩を隠喩として理解しない人々に通じる何かを、少なくとも私は感じ取ってしまうのですが、どんなもんなんでしょうかねぇ~。



「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え(長くなった)
二酸化炭素の削減を謳っておきながら「高速道路1000円」で交通量が増えて二酸化炭素の排出が増加することの矛盾を問わない思考法と同じ理屈である。

「矛盾に気づいてくれない人たちがたくさんいる」ということが事実であってくれるから、こういう矛盾を放置したまま様々な政策を断行しまくれる、と言ったことがあるのだろうなぁ。或いは、「矛盾に気づくのはしんどいから(矛盾に気づくとやらなくちゃいけないことが増えるから)、気づいても気づかない振りをしている」というような人は、多いのかもしれない。バカが多いというよりも、バカの振りをしている人が多いというか。で、理由を聞いてみると、「これ以上仕事が増えてたまるか!」とくるんだろうな。そして、それが大人になることだと思ってる。「世の中にはたくさん矛盾があるんだよ。いちいち反応してたら身が持たないぜ。」っていう。で、そういうのが主導権を握っちゃうと、矛盾を矛盾とも思わない人たちが増えまくる。養老氏風に言うと、「そういうものだと思っていました。」というやつである。ことほどさように、「世の中にはたくさん矛盾があるもんなんだよ。」というふうに思えるのが大人だ、というような言説がまかり通ることは、物事に対して疑問を持たないほうがイイのだ、というイデオロギーを浸潤させる引き金になる。
考えてみればそうだよね。疑問を持ちまくるのって、とてもエネルギーの要ることなのかもしれない。


「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え(長くなった)
二酸化炭素の削減を謳っておきながら「高速道路1000円」で交通量が増えて二酸化炭素の排出が増加することの矛盾を問わない思考法と同じ理屈である。「それはそれ、これはこれ思考法」と呼ぼう。

その命名はどうかと(笑)。だって、いま親が子どもに言うコゴトランキングの一位が、「よそはよそ、うちはうち」らしいですから(笑)。


「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え(長くなった)
「それはそれ、これはこれ思考法」と呼ぼう。この思考法では、決して勉強はできるようにならないし、たぶん、新しい発想というかクリエイティブな発想も生まれないんじゃないのかな。

一方では、「疑問を持つことが大事」って教えて、一方では、「世の中にはいろんな矛盾があるもんなんだよ。そういうものだ。そういうものだと分かるようになることが大人になるということなんだ。」というふうに教えられる。この2つは矛盾するよね。で、この2つの間にある矛盾をどう解決するかってーところに、勉強ができるようになる子とできるようにならない子の境目ってのが出現するような気がするんだよな。もちろん、その解決法ってーのは二択じゃあない。暇さえあれば特定分野の勉強をしまくってるマニア的なやつがいる一方で、試験前にちょこちょこっと勉強するだけで、定期試験も受験勉強も乗り切ってきちゃった、というような、いわゆる要領が良いと言われるような子がいる。これをどう見るかってーのは、まあまあおもしろい問題なんではないかってー気はするな。


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