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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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宮台真司/東浩紀@シカゴ - 日記&ノート(転叫院)

――いまアメリカなりヨーロッパなりでは、文化集団について語ろうとした場合には、エスニシティなり階級なりのファクターが、「Otaku」や「Highschool girls」や「NEETRondan」のような区切りよりもよっぽど強固であるが、宮台さんなり東さんなりが、「Otaku」や「Highschoolgirls」や「NEET Rondan」のようなカテゴリーを研究対象とするのは何故なのか? 「Otaku」や「Highschoolgirls」や「NEETRondan」にはなんらかの特殊な地位があるのか? また(移民労働者や非正規雇用が増加しつつある)日本においてエスニシティや階級は文化集団としての地位を得つつあるのか?――

これに対する東さん宮台さんの答えは同様であって、「Otaku」や「Highschoolgirls」や「NEETRondan」はケーススタディにすぎないが、そこで見られるコミュニケーションの形態は広くほかの文化的集団の分析にも用いられるものだ、というもの。

さらに東さんが付け加えて、「Otaku」「NEETRondan」に関して、階級やエスニシティによらない、セクシュアリティにもよらないものとして存在していることを強調された。「Otaku」は男性異性愛者に限られる分類ではないし、また収入についても年収100万のオタクもいれば、年収1億のオタクだっている。「NEETRondan」についても、「NEETRondan」に共感する心理を持った人々という意味で捉えると、年収が1千万あっても「自分はNEETだ」と自己規定する人がいたりもすると答えていた。これは些か、日本以外の国の人々には理解しづらいものだろうと思う。

さて、エスニシティや階級やセクシュアリティに依存せずに文化を選びうるという日本の状況が、どれくらい世界的に見て特殊な例なのか、ちょっと興味があったので、ディスカッション終了後に宮台さんに聞いてみた。
自分の見る限りでは、自由の国と言われるアメリカですらも、個々人の属する文化の選択については驚くほど選択の自由が少ないように感じる。それはWASPなアメリカ人にしろ、外国系の移民やその子孫にしろ同じで、階級とエスニシティ、それに生まれつきのセクシュアリティによって、かなりの部分までその人がどのような文化に属するかが決定されているように思えるからだ。多様性はあるけれど、選択の自由、あるいは英独系のリスク社会論が言うような「自己選択の義務に晒される」状態は少ないように思えた。

そこで宮台さんに質問した。「これほど、階級にもエスニシティにも拠らずに、文化を選択できる状況が生まれたのは、日本以外にどこの国や地域があるでしょうか?」。宮台さんの答えとしては、この状況は日本に特に顕著であって、日本はいわば「実験場」になっているとのことだった。現在の「非正規雇用の増加」といった状況に晒されても、オタクなり何なりの《文化的》コミュニティが分裂せずに持続できるのだとしたら、それは世界的に見ても先駆的な実例となりえる、と。そして、このような「誰でもオタクになれる」状況自体は、承認の包摂の幅が広がったのだから素晴らしいことで、一つ問題があるとすれば、包摂が広ければ広いほど、そこから零れ落ちた人のルサンチマンは強力なものになるということだ、と加藤智大の事件を引き合いに出しながら語られた。

アメリカで過ごしていて、アメリカ人や他のナショナリティに属する人の話を聞くたびに、僕は現代日本の人々ほど、いわばサルトルが言ったような「自由の刑に処せられて」いる人たち、選択の自由と自己決定の義務に晒されている人たちはいないんじゃないかという感覚に捉われる。何も根拠はないけれど文化様式を選択しなくてはならないのだ。理論的に先走りすぎていたようにも思えるアンソニー・ギデンズの「生活様式(ルーティーン)の自己決定」の話が、日本ほどよく当てはまる場所はないのではないかとも思える。日本は(それほどの)多様性はないが、選択の自由と自己決定の義務だけは溢れている、ように僕は思う。 

現代の日本には、オタク「になる」マニュアルも、オタクを脱する(カギカッコつきの「リア充」「になる」)マニュアルもともにある。

これが、世界各地におけるエスニシティや階級と結びついた文化集団の場合だったら、ちょっと考えづらいことだ。例えばブラックカルチャーだったらそうはいかない。「あなたもブラックカルチャーの消費者になれる!」とか「完全脱ブラックカルチャーマニュアル」なんてことを言ったら諸方面から張り倒される。

おたく第一世代が(おそらくは)「(一部の文化的貴族階級の)人はオタクとして生まれるのだ」と自己規定していたのに対し、第三世代以降を特徴付けるのは「人はオタクとして生まれるのではないオタクになるのだ」とでも言うべき、選択の自由への諦念(不自由への諦念ではなく、自由への――根拠のなさへの――諦念)だと思う。「~~さんみたいな立派なオタクになりたいです」と言われて面食らったという話を知り合いから聞いたことがあるし、同様のエピソードはこんにちではありふれているらしい。

ただ、それはサルトル的なアンガージュマンというよりは、リスク社会論・後期近代論的な「選択せざるを得ない」感に近いように思う。 

あのー、僕以前から思っていたことの一つとしてね、オタクは安全であるという話を前からしたかったんですよ。
どういう話かと言うとね、その、村八分にされる可能性におびえる心配がまったくない空間がそこには広がっているというか、やめたかったらいつでもやめていいし、またやりたくなったらいつでも戻ってきたらいいし、というような、勝手極まりない自由を集団のみんなが認めている状態がそこにはあるというか、その手の自由度に対する承認の予期がかなりの確度でもって提供されているところにですね、オタク文化の非常に高い安全性を見るわけですね。

つまり、多様性がそこでは承認されているというか、もともと変な奴の集まりなので、変な奴に対する寛容性が非常に高いというか、「自分が良くない意味での変な奴扱いをされたネガティブな経験を抱え込んでいるがゆえにそのことに対して寛容になれる」というような人たちばかりが選択的に集合しているからそういうことが起こるというか、そういうことがあると思うんですよ。
オタクの定義の一つとして「自信がないこと」というのがあると思うんですけれども、これも非常に、私の主張とも符合するわけですね。つまり、人生の初期過程においてね、「なんらかの集団からの拒絶反応を受けたというネガティブな経験」をその身に秘めているかどうか、「集団から拒絶されてでも守らなければいけない自分の大切なものが確かに存在していたということは絶対に言える」ということには確たる自信が持てる奴というか、また、であるがゆえに、「自分が大切にしているものを受け入れない人たちがこの世の中にはたくさんいて、しかもそういう人たちのほうが非常に多いんだ、そういう人たちがこの世の中のマジョリティを構成しているんだ、そういう人たちがこの世の中の実権を握ってるんだ」ということにも、体験を通じて或る程度の確信を持っている人たち、またであるからこそ、「自分たちは、その自分たちにしか分からない大切なものを守りきるために、やつらの勢力ができるだけおよばない「世の中の片隅」にその身を置いて活動するのが最も適応的なんだ」というふうに信じている人たちというか、そういう人たちが、オタクの本質の非常に近いところにいると思うんです。
で、だからこそ彼らは、非常に自分たちに対して良心的な人たちに対して、とても寛容になれるし、ちょっと友だちと意見とか趣味とかが合わないからと言って相手を村八分にしたりなんかはふつうはまず絶対にしないわけですね。なぜなら自分自身がそうされることの痛みをよく分かってるから。

だからオタクというのは一種のアジール(逃れの街)にいる人たちなんですね。それも出自によってそこに追い込まれたのではなくって、どちらかというと、自らの選好性ですね、選好の特殊性によってそこに追い込まれざるを得なくなった人たちという側面が非常に強いわけです。


1992年以降の日本サブカルチャー史における意味論(semantics)の変遷 -MIYADAI.com Blog
ナンパ系はシブヤ系とも呼ばれ、オタク系はアキバ系とも呼ばれました。森川嘉一郎は、シブヤの街を、大きな窓を持つ建物(内側にオシャレに着飾った若者がいる)によって特徴づけ、アキバ(秋葉原)の街を窓がない建物(内側にはキャラ満載の異世界が展開する)によって特徴づけました。

 私は『サブカルチャー神話解体』で、ナンパ系を「現実の虚構化」ないし「演出化」によって特徴づけ、オタク系を「虚構の現実化」ないし「異世界化」によって特徴づけました。森川の記述は、この私の記述を応用したものです。私も森川も共に、ナンパ系を「現実」を付加価値化して享受する存在として特徴づけ、オタク系を「虚構」を付加価値化して享受する存在として、特徴づけています。 
これは、1980~1996年(←宮台氏の分類では、「〈自己〉の時代・前期」と呼ばれる)までに存在したオタクの、一種の分類になってるんですけれども、
任意の第三者に受け入れると信じている人たち、或いは、任意の第三者に受け入れてもらうことを潜在的に志向している人たち、彼らは、シブヤ系と呼ばれたわけですね。自分たちがごにょごにょしてる部屋の窓が透明なんですよ。その窓が透明であることには、「ねえねえみんな見て」って言うメッセージ性があるわけです。一方、シブヤ系に対するオタク系の人たちがごにょごにょしてる部屋ってのは、そもそも窓がないか、あってもカーテンが閉まってる。「こんなもん、公衆に向けて見せるモンじゃねえ」って意識が、少なくとも内部の人間の間では共有されているわけですね。
自分たちの行為に公然性が賦与されるとまずいっていう自覚はあるわけです、彼ら(オタク系)には。でそのことが、さきほど申し上げました、「オタクというのはその本義からして自信がないことを宿命づけられている」といったことにはそういった含意があるわけですね。

岡田斗司夫によれば、人に言える趣味かどうか、というのがオタクの定義であって、斎藤環によれば、二次元を性的対象として見ることができるかどうかというのがオタクであるかオタクでないかの境目であると言うわけであるから、こういった、種々の定義を含めて、すべてのオタクの定義を矛盾なく俯瞰することは一応できるわけです。
つまり、なんでその趣味は人に言えないのかというと、言うと引かれるからってのがあって、なんで引かれるって分かるのかって言うと、現に引かれたことがあるからっていうネガティブな体験に裏打ちされているわけですね。二次元を性的対象として見ることができるかどうかってのも同じ。そう見ることができない人にとっては、そう見ることができる人の気持ちや感覚が分からないから、「引く」っていう、排他的な対応をとりがちになっちゃう(「感覚的に分からなくても受容する」というリテラシーを身につけている人は少ない)。
つまり、オタクの本質ってのは、自分のやってることのいけなさ --- これは必ずしも罪悪感ではない---、自分の意見や感覚や趣味や嗜好が、社会の多数派に受け入れられることなんて絶対にあり得ないし、有り得たら俺たちの存在意義がなくなっちゃうような気がする、というふうに考えている人たちってのはみんなオタクだと思うんですよ。
社会に文化的或いは嗜好上の多様性をもたらしめているのは間違いなくこういったオタク的な人たちの絶えざる活動の結果であり、こういう人たちがいなくなってしまうと、つまり、イエスマン的に、付和雷同的に、多数派に迎合的に賛同するような人たちばかりになってしまうと、どうなるか。
たぶんね、戦前の日本みたいになるんじゃないかなと思うんですけど(笑)、どうでしょうね。


で話を戻しますけれども、

> おたく第一世代が(おそらくは)「(一部の文化的貴族階級の)人はオタクとして生まれるのだ」と自己規定していたのに対し、第三世代以降を特徴付けるのは「人はオタクとして生まれるのではないオタクになるのだ」とでも言うべき、選択の自由への諦念(不自由への諦念ではなく、自由への――根拠のなさへの――諦念)だと思う。

つまり、自らの選好の特殊性の由来を出自に求めるか個人に求めるか、その違いだと思うんですね。「属地位主義」対「属人主義」というか。
「生まれがブラックだからお前はオタクなんだ」とか、「生まれが金持ちだからお前はオタクなんだ」という説明で納得してしまうか、「お前の遺伝子が変だからお前はオタクなんだ」 ---お前の親に責任があるのではない。強いて言えば、お前の両親の卵子と精子が合一するその絶妙で奇跡的なタイミングをもたらしめた何か(神様?)にその責任はあると言うことになるだろう。---という説明で納得するか、この違いだと思うんだ。
「何かにつけて、階級史観や民族性といったものに個人の選好の特殊性の由来を求める習慣」が、とりわけアメリカでは(その歴史的な事情ゆえに)強いけれども、日本ではそれほどでもないので、結果として日本ではその責任性は「属人主義」というかたちを取ることが選択されてきており、その帰結が、こんにちの、日本における、民族性や階級史観といったものの影響を一切受けない、オタク文化の成立の有り様になってるんだと思うんですね。

だから、理想を言うならばね、少なくともこんにちの平等主義の立場からはね、「階級史観や民族性と言ったものに個人の選好の特殊性の由来を求めるという愚からの卒業」こそが求められるわけでして、その意味では日本は最先端を言っているとも言えるわけです。

責任を神様に転送してしまうことによって僕たちは自由になれる、幸福になれる、ってことなのかな。


> 現在の「非正規雇用の増加」といった状況に晒されても、オタクなり何なりの《文化的》コミュニティが分裂せずに持続できるのだとしたら、それは世界的に見ても先駆的な実例となりえる

だからオタクの側からしてみたらそれはね、「なんで、正規雇用とか非正規雇用とか、そういう現実世界のうざったいことを持ち込んでこなあかんの?」ってことになるわけで。オタクの側からしてみたら、完全に自分たちの現実からの逃避であると同時に、現実における多数派からの逃避でもあるわけ。だから、彼らが構成する世界観或いはその世界観の要素となるものとしては、現実を象徴するようなものや現実における多数派を象徴するようなものというのは、半意識的に徹底的に排除される傾向にあるし、内部の人たちはみんなそれに暗に同意してるわけだ。
むしろ、もし海外においてこのような、任意のオタクのコミュニティの内的な世界観における「二重の逃避」なる現象がかいま見れないのだとすればそのほうがオタクとして問題があると言わざるを得ないというのが、少なくともさきほどのオタクの定義にしたがうところの判定だと思うんですがね。そこらへんどうなんでしょう?

オタクの内的な世界観においては、ファンタジー性というものが、まず第一に追求されなければならない。

少なくとも日本のオタクはそう。もし、海外のオタクにおいてそういう現象がかいま見られないのだとすれば、海外のオタクは日本のオタクとはまた別種の存在だということに、そういうふうに理解したほうがいいということになる。

つまり、日本のオタク文化は、単に海外に輸出されているのではなくて、海外においては、日本とは別の仕方で消費されているというふうに、考えなければいけないことになってくる。でたぶん実際的にもそうなんだと思うよ。うん。


そして、このような「誰でもオタクになれる」状況自体は、承認の包摂の幅が広がったのだから素晴らしいことで、一つ問題があるとすれば、包摂が広ければ広いほど、そこから零れ落ちた人のルサンチマンは強力なものになるということだ、と加藤智大の事件を引き合いに出しながら語られた

オタクは、自分たちと関心を共にする人たちに対して門戸を開くことに対して大変ハードルが低いので、その手のルサンチマンというのは、ふつうはなかなか起こらないと思う。
どういうときに、どういう人のもとにこういうルサンチマンは訪れるのかというと、それは、「門を叩かなかった人」のもとに訪れるんだと思う。或いは、「自分が叩くべき門を見つけられなかった人」かな。
門を叩くことになるきっかけってのにはいろいろあって、一番多いのは、「友だちに誘われて」というのだと思うんだけど、そもそも友だちがいない奴は誘われないから、自力で門を叩きにいかなくてはいけない。
だから、「友だちを誘ったり友だちに誘われたりという行為を日常的に繰り返している人たち」や、「自分でなんでも決めて、おもしろそうなところには自分で門を叩きに行く人たち」は、なにも心配がないんだけれども、問題は(なんらかの理由で)このどっちもできない人たち、なんだな。

こういう人たちは、「誰かに誘われるのを待っている」んだけれども、誰も誘ってくれない。でその理由にはいろいろあってね、まあここで解説することはしませんけれども、一番大きいのはぼくこれだと思う。すなわち、そいつはどれくらい、人を誘う奴なのか

思うに、人を誘いまくる奴というのは、人から誘われまくる奴だと思うんだな。べつにみんながみんなこうなれとは言わない。人から誘われたり誘ったりする頻度が少ない人たちの多くは、「そういうのはうざい」という考えに同意している人たちであることが多いから、そういう人たちはそういう人たちで自然に集まって、お互いにストレスのたまらないコミュニケーションをしている可能性が非常に高いわけなので、あまり問題がない。

もんだいは、餌というのは口を開けてたら空から降ってくるもんであるとか、或いは、お母さんが口に放り込んでくれるもんであるとか、そういう考えが染みついちゃっている人たちっていうのは、「giveがなければtakeは返ってこない」という法則性を身体で理解していないことが多いので、いつまで経っても、口を開けて待ってる。
親元から離れても、口を開けて待ってる。
で、いつまで経っても物事が進展しないことについにブチギレして、一悶着起こしたりする。こういう見方も、一つには取れるわけです。



で、最後に、以上の道具立てを使って、第一回オタク文化論講座の締めとして、オタク報道が正常化することはあり得ないということについて、少し話したいと思います。
実はこのテーゼは、さきほどなしたオタクの定義からそのままふつうに演繹されます。どういうことかっていうと、オタク報道が正常化するためには、報道陣がオタクを理解して、オタクたちがごにょごにょしてる部屋の窓のカーテンを開けちゃる必要があるのだけれど、そういうことをすると、オタクの本質が損なわれてしまうわけ。
最近、竹内薫が、量子力学で出てくるシュレーディンガーの猫のことを説明しようとして、「これは人の心みたいなもんだ、ハコを開けてしまうと中身が変わってしまう」というような説明を与えてましたけれども、まさにこれに似た現象がオタクにおいて起こるわけですね。カーテンをバッって開けると「いやん」って言って隠しちゃうわけですよ。理解のない報道陣は、「は? なにが「いやん」や。」ということになるでしょ。
もしかしたら、ここには、性のタブーにも似た構造があるのかもしれませんね。だから、一種のこの手のタブーとして、オタク報道がなされるようになってくる可能性はあるね。あるけれども、そこにはどうしても、「それを理解できない人に無理矢理に分かってもらうための便法」というものを経由せずにはあり得ない側面がどうしても出てきてしまうんですね。ここが性のタブーと違うところで、性のタブーの場合は、なんでそれがタブーなのかについての感覚を、少なくとも健常者全員は共有できているという前提で報道がなされるわけですが、オタクのタブーの場合は、全員がその感覚を共有しているわけではないというところに、非常に厄介なものを抱え込んでしまってるわけですね。これがマニアであったならばこの種の問題は発生しない。マニアじゃなくてさきほどのシブヤ系でもいいんですけれど、「カーテンを開けてアピールできる奴になってしまったらそれはもはやオタクではない」ということがあるので、どうしても、マニアやシブヤ系の場合のようにすんなりとはいかないわけですね。ここに、オタク報道が正常化することがあり得ない理由があるわけです。



コメント
この記事へのコメント
オタクは自分の趣味が多くの他人に受け入れられないという自覚がある人です。ということは、その趣味に他人を誘うことも少なくなるのが、まあ普通なのではないでしょうか。自分とたまたま趣味を共有するごく一部の人を頻繁に誘うということはあるかもしれませんが。
2009/04/25(土) 20:43 | URL | ニセ宮台 #-[ 編集]
誘う、誘われるよりも、

やめたかったらいつでもやめていいし、またやりたくなったらいつでも戻ってきたらいい

とお書きになっているように「もし興味を覚えたら、どうぞ…」という作法がオタクとしては一般的だ、と言えるような気がします。
2009/04/25(土) 20:51 | URL | ニセ宮台 #-[ 編集]
> ということは、その趣味に他人を誘うことも少なくなるのが、まあ普通なのではないでしょうか。

まあ、少なくともその強引さ、押しつけがましさという点においては、一般人よりオタクのほうが謙虚であることができる可能性が高いでしょうね。

オタクは、「受け入れられなさ」という経験が豊富であるがゆえに、一般人ほど「自分が考えるように相手も考えるはずだ」という呪縛に囚われていないというか。


> 「もし興味を覚えたら、どうぞ…」という作法がオタクとしては一般的だ、と言えるような気がします。

強引さが少ないということは、相手の選択する自由を最大限に尊重するということを意味します。
これは非常に重要なことです。

しかし、このことを重要視するが故に、
「相手の選択する自由を最大限に尊重する」ということを装いながら、無知な人間に対して詐欺まがいの行為をはたらくことが正当化されるというようなことは、これまたあってはなりません。

このあたりの折り合いをどうつけるか、というところが、難しいところです。

ある人はこれをトレードオフであると言うかもしれませんが(つまり、「オタク的自由を尊重すればそれを悪用した詐欺行為が横行し、詐欺行為の発生頻度を抑えようとすればオタク的自由が失われる」というこのことは、変えられないことである、となぜか信じている人たちは、「それは所詮トレードオフだからどうしようもないよ」と言うかもしれませんが)、私はそうじゃない可能性も考えてみる価値はあるのではないかと思っています。

2009/04/26(日) 02:08 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
初めまして、加藤大輔と申します。
27歳の男性です。

>「門を叩かなかった人」

これは、そのものズバリ、僕の事ですね。
感激しましたよ。
僕のようなタイプの人間は、ネットを含む諸々の情報メディアにおいて語られる機会なんてありませんから。
なんだか新鮮な気分です。
記事中で触れてくださって、ありがとうございます。

>こういう人たちは、「誰かに誘われるのを待っている」んだけれども、誰も誘ってくれない。

確かに僕を含む「門を叩かなかった人」の中には、そういった連中も居るでしょう。
けれど僕の場合、幸か不幸か異なりますね。
待っていません。
他人が何かしてくれるのを待ってるだけの奴って、かなり嫌いなタイプなんですよ。
自分が嫌いな生き方を、あえて実践する――そこまで自虐的な道を歩んでいる自覚は無いです。
「いや、おまえだって深層心理では誘われるのを待っているに違いない!」とか決め付けられたら話が進みませんので、ここはひとまず納得して頂きたい。
じゃあ結局、僕って何なの?と言うと・・・。

「誰かに誘われるのを待っていない人」

これに尽きます。
私見では、「待っているだけの人」より「待っていない人」の方が、社会性の欠如という点で上であり、タチが悪い。
前者は仮に誰かが手を差し伸べてくれたらコミュニティに参加するかもしれませんが、後者は差し伸べられた手を切り落としかねませんもの。
待っているという事は、その分、社会を信用し、社会に価値を見出しているという事。

それから僕自身とは立場が違いますが、「門を叩いたのに開けてもらえなかった人」も存在し得ます。

1――門を叩かず、相手の方から気付いて開けてくれるのを待つ人
2――門を叩かず、開けてくれるのを待ちもしない人(←僕)
3――門を叩いたのに開けてもらえなかった人

以上三つに大別出来ます。
ルサンチマンは3が最も強そうですね。
「giveしたのにtakeが返ってこねえじゃん!」と。
「それはおまえのgiveの中身が悪いんだ」「門の叩き方が悪いんだ」等の反論は火に油。
「門を開けなかった住人の非」を棚に上げて「門を叩いた客人の非」ばかり責める愚は、ルサンチマンを増大させるのがオチ。
僕の場合、3の可能性を恐れるが故に、2を選んでいるのかもしれません。
2009/04/27(月) 07:14 | URL | 加藤大輔 #-[ 編集]
初めまして。訪問&コメントありがとうございます。


> 1――門を叩かず、相手の方から気付いて開けてくれるのを待つ人
> 2――門を叩かず、開けてくれるのを待ちもしない人
> 3――門を叩いたのに開けてもらえなかった人

(考察のベースになるという意味で)いい分類だと思います。


門には、「無条件の愛」に基づく門と、「条件付きの愛」に基づく門とがあります。

無条件の愛を期待すべき場所で条件付きの愛を期待したり、条件付きの愛を期待すべき場所で無条件の愛を期待したりするところに、齟齬が生まれます。


「人間的な生活を営む権利を確保する」ということが問題になるような場合、すなわち、社会的、或いは地域社会的な相互扶助という観点からは、「無条件の愛に基づく門」が重要です。

一方、「人間的な生活の実現に向けての具体的な実践をするにあたって必要となるさまざまな個人の選択」ということが問題になるような場合、すなわち、趣味を選ぶとか、仕事を選ぶとか言う状況においては、「条件付きの愛に基づく門」が重要になってきます。

2009/04/29(水) 19:21 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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