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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「部分」と「全体」、「階層性」、「結果と目的」との取り違え - 考えるのが好きだった
誤読や誤解の多くは、部分と全体や、階層性の取り違え、結果と目的の誤解に起因していることが多い。
 例えばこうだ。
「学校は勉強をするところだ」と言うと、「でも、部活だってするじゃん。」とか。何も「勉強『だけ』をするところ」と言っているわけではないのに、「勉強をする」を「勉強だけをする」と曲解する。

それは曲解ではない。それを曲解だと言ってのけることはとても傲慢だ。
「学校は勉強をするところ」ということを言う人が意図しているところは何かというところに、焦点化して考えないと、この問題には適切に答えたことにならない。この表現は、さまざまな含意が省略されているために、字面だけから本義を判定することはほとんど不可能なのである。
「学校は勉強するところ」ということを言う人が意図しているところのものとは、学校は、勉強以外にも、クラブ活動とか、掃除とか、運動会とか、朝礼とか、そのようなさまざまなイベントをやるところであり、これらのすべてのイベントに参加しなければいけない義務は、勉強と同じくらい課せられていると言ってよいわけだが(だから、勉強だけしていれば他のことはしなくてもよい、というふうにはならない)、改めてこれらのイベントの間に、強いて優先順位を設けるとするならばどうなるだろうかという問いに対する回答の一つが、「学校は勉強するところだ」なのである。

「勉強をするところ」という表現の含意は、勉強だけをするところ、というところにあるのではなくて、ほかのことよりも勉強が大切なところだ、というところにあるのである。

したがって、この手の「学校とは○○をするところだ。」的な遣り取りは、優先順位に関する価値観のぶつかり合いを必然的に引き起こす。
一方の先生が「学校は勉強するところだ」と言い、もう一方の先生が「学校はクラブ活動をするところだ」と言って口論するとする。この両者の口論が一見不毛っぽいのは、両者がお互いに誤解し合っているからなのではなくて、この口論の本質が、「どちらが優先順位が高いか」という価値観のぶつかり合いにあるからなのである。この意味において、両者は決して誤解などしていない。いわんや曲解をや。


もっと数学と国語の勉強をした方が良い。

自戒ですね。分かります。


つーかさ、ちょっと社会とか経済とか物理とかっぽい話になると、「わたしはそっち方面は苦手です」と言って逃げて、ちょっと表現上の不備を指摘すると、「私の表現の不備をうまくくみ取ってくれる(賢い)人を私は好む」とか言う、「噛みやすいように砕かれたものしか食う気はない」という、まるで生徒たちに教えなくちゃいけないことと逆のことを言い、そのことを指摘すると今度は、「時間がないからすべての人を相手にしている暇はない。話したいような人とだけ話すのは当然のことだ」とくる。

もうね、なんつーかさ、私こういう人はじめて見ましたよ… orz 或る意味すごいです。うん。すごい。最強の論法だぜ。

ここまで甘える人、なかなかいないです。


・・・もっとも、私の視界外には、たくさんいるのでしょうが。


上記とはちょっと異なるが、「試験のために勉強をする」のも取り違えである。「勉強した結果を試験で測る」のが本来のあり方だ。それを取り違えてしまっている。

これは、取り違えというよりも立場の違いというべきかな。「勉強した結果を試験で測る」という立場は、先生も生徒も取りうる。一方、「試験のために勉強する」という立場は、生徒しか取り得ない。

でも、一方でこういうことがある。「試験がなかったらみんな勉強しないでしょ?」という。小学校だと、(中学で以降でやるような)試験はなくても「宿題」がある。小学校では、中学校以降の「試験」が持つ機能を、「宿題」が担っているというわけだ。だってそうでしょ。小学校で考えてみると、小学校、「宿題がなかったらみんな勉強しない」んじゃないかな。すくなくともマジョリティとしては。
小学校では宿題によって無理矢理に勉強させられ、中学校と高校では試験によって無理矢理に勉強させられる。そりゃ、みずから望んで勉強するような生徒ばっかりだったら先生は苦労しないさ。でも実際はそうじゃない。「無理矢理にさせられてきました」って人が大半なわけだ。そして、この現状を追認する限り、「試験のために勉強する」ってのはホントはいけないことなんだよっていう言明は、倫理や理想としては機能しても、それを実際に達成できる人ってのがそれによって増えるわけでもないよな、と。増えるわけでなくてもいいんだ、ただ、「そういうのはホントはいけないことなんだよ」ということを頭の片隅に置いてくれているだけで、とりあえずは良いんだ、というのなら、話は分かる。まだ実現可能性がある。
けれども、それを全員が実際に実践できるところまでいかなくちゃいけない、ということになると、少なくとも現状の学制ではほとんど無理だ。道場形式に、寺子屋形式にしないと。もっとも、いまの方式のままがいいか、寺子屋方式に変えるのがいいかって議論はまた別の議論として存在しますけどね(←これ、何回も書いてる話)。

あ、いま思ったんだけど、この内容って、「勉強を遊びの一つだと思えない人が教える側に回るとどうなるか」っていう、前に書いた記事の内容と背馳すると思う人がいるかも、と。まあ、実は背馳しないんだけどもね。「こういうことがあるとやばいよね。だからこうあるべきだよね。」って議論と、「でも現実にはリソース的な制限があるから、そういうやばいことの一部が起こってしまうことを追認せざるを得ないところがあるよね」って議論とはまた別の話なわけで。この理想と現実の乖離を接続する一つの方法は、「リソース的な制限という縛りをどうやったら解除できるか」ってところに、一つはあって、その方法は、大きく分けて2つ、一つは、「リソースそれ自体が増えること」、もう一つは、「リソースの効率利用」。まおおざっぱに言ってこの2つくらいしかないわけです。で、たいていの場合は、リソースを増やすことは難しいから、なんとかしてもっと効率をあげたいよね、って話にたいていはなる。
でここに、ITとか、既存の法体系の歴史的変遷であるとか、経済とか、要するに効率化ということを目指すことができるすべてのシステムに対して、見直す機会が、或いは見直さなければいけない責務が提供ないし供給されるわけですね(←最後わかりにくい話ですまん。でもこれ話しだすと長くなるので…)。


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