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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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http://anond.hatelabo.jp/20090401235551

いじめにあっていたのも、そういうことの一環だったのかもしれない。母からも、「あなたが周りから浮いてるからよ」「ちゃんと、他の子達と同じにやれないからよ」とさんざん言われていた。

-- 中略 --

…以上、ほか同様な体験のいくつかを、後に学生時代にサークルの面々の前で打ち明けたところ、
「うーん、でも、よくある悪ふざけ、って感じじゃない? みんな子供だったしね」
「それって、実際、いじめなの? ちょっと被害妄想もあるんじゃない?」
「ていうか、お前の方にも問題有ったんじゃないかなあ」
「きみ、ちょっと周り見えてないとこあるし、年の割に中身ガキっぽいからねえ」
「自分のことしか考えられてないというか、客観性がないというか…」
「社会に出たらもっと厳しいんだから。そんな調子じゃ、いつまでも巧くやっていけないし、周りからも相手にされないよ」
等々の意見を賜った。

いじめというのは非常にセンシティブな問題である。それは、子ども同士の会話で、「だってお母さんがいるでしょう?」と聞いて「お母さんは死んだんだ。」と言われたときの気まずさとかに似た側面がある。「触れてはいけない側面」というやつである。

しかし、絶対に誰も触れてはいけないかというと、そうでもない。一定の作法を修得している人間なら、触れてもよいのである。ただ、その「一定の作法」を身につけている人間は少ないので、一般には、「そこは触れちゃいけない」という便法が多用されるというだけのことである。

タブーというのはこのように、「分かる人間」と「分からない人間」がおり、「分からない人間はそのことに口出ししてはいけない。(なぜなら、口出しすることは、分かる人間の心に開いた傷口に刃を突き刺すことを意味するから)」というルールが構成員全員の間に十分に膾炙しているときに初めて、醸成されうる。少なくとも私はそれがタブーの形成過程の一類型だろうと思っている。


担任教師からは、「少しからかわれたり、ちょっと悪口を言われたぐらいでビービー泣くんじゃありません」と注意された。それに従って、私はとにかく絶えることにした。ある日、いつものように教室に入り、「増田菌が移るぞ! 近寄るな!」「何で学校来るんだよ」「いい気になるなよ」「お前なんかクラスの恥だ」「死ねよ」等々、色々とお決まりの暴言を吐かれても黙って耐えていた。「あれー? こいつ今日は泣かないなあー!」男子の一人が叫んだ。机の周りを取り囲まれて、「さらば~増田よ~帰~って来るな~」というどこかで聞いたようなテーマソングの替え歌を2番まで合唱されたところで、私は教室を飛び出した。「逃げるなよ」「授業始まるぞ」彼らは即行で追いついて私の周りを取り囲むと、中の一人は「食らえ! 北斗○○拳!!」とか叫びながら私の鳩尾に思いっきり拳を入れた。私は廊下の床に倒れ込んで、藻掻きながら泣いた。「ははー! 泣いた泣いた! 面白れー!」彼らは満足したように笑いながら引き揚げた。クラスの女子達は、腹を抱えて呻き、涙を流す私を見下ろしながら、「あー、増田さん、また泣いてるー」「ほんと、弱虫だよね、駄目だよね」「しょうがないよ、いくら勉強できても、あれじゃあねー」などなど、愉快そうに囁きあっていた。「増田さん、また何かあったのね…」現れた担任はうんざりした表情でつぶやいた。

わたしはかつて、いじめというものを、「本人に許されている選択肢のうちの、どれを選択しても、『それは間違いである』と言われてしまう状態」として定義するのが良いのではないかと考えていたが、最近は少し考えが変わった。
このいじめの定義は、「「本人にどういう選択肢が開かれているのか」に関する集団的合意は必ずしも存在しない」という事実によって、その不備が指摘される。

いじめとは、暗黙的なカースト制という宗教を信奉する者と信奉しない者との間に起こる一種の宗教戦争なのである。ここでカースト制とは、「低い身分の者には低い身分の者なりの振る舞い方というのがあり、高い身分の者には高い身分の者なりの振る舞い方がある。その両者の振るまい方には違いがあり、それが自然なのである。」となんとなく考えている状態を指す。

いじめる側からすれば、身分の低い者が、その立場に不相応な振る舞いをしているから、それを是正しようとして、「いじめ」なる働きかけをするのであって、それは、「カースト制という宗教を信奉しており、かつ、自分はその制度のなかでも高位に位置づけられ、目の前にいるコイツは低位に位置づけられるべき存在なのだ」というふうに理解している人間にとっては、合理的な行動なのである。

しかし、いじめられる側は、ふつうそういうふうには考えてない。いじめられる側はふつう、カースト制ではなく、平等な人間観を維持している。だから、いじめられている側には、なぜいじめる側が自分をいじめるのかが分からない。相手が信奉している宗教性に関する理解が欠如しているからだ。或いは、そこへの理解が及んだとしても、それを認めるわけにはいかないと考えているからだ。


ではなぜこのような宗教観の違いが、特に子どもの間において頻出しがちなのかというと、「「っぽさ」に関する因果関係の錯誤を子どもたちはしでかしがちだから」だと思う。具体例を挙げれば、「下っ端っぽい奴は下っ端っぽく振る舞うべきだ」という倫理観のことである。
この倫理観は倒錯的である。「○○っぽい奴」というのは、確かにいる。でも、「○○っぽい奴がいる」という事実だけから、「○○っぽい奴は○○っぽく振る舞わなければならない」という倫理的な原則を論理的に導出することはできない。


久米田康治はその作品「絶望先生」において、「ハンカチ王子に対して、観衆は、「王子はハンカチで汗を拭くだろう」ということを期待する。その期待を裏切ることは、観衆の希望を殺ぐことになるから、その期待を裏切るような行為は王子においては禁止されているのだ」という意味のことを劇画化して描いていた。しかし、王子にしてみれば、観衆がどんな期待を抱こうと、それはすべて勝手な期待であり、それゆえに王子の実際的な行動が制限されなければならないというのはおかしい。王子の行動を制限しているのが法律であるというのならまだ話は分かるが、ここで王子の行動を制限しているのは法律ではない。法律ではなく、「人々の勝手な期待」である。人々は、それぞれに、王子個人にとってはまったく関係のない勝手な期待をしておきながら、その期待が破られたときには、あたかもその破られた原因が王子にあるかのごとく言い捨てる。それを言い捨てる人数が一人や二人であればまだ良いが、これが十万人百万人になると、「ウソも百回言えば真実になる」よろしく、あたかも、そういう行動を取らなかった王子にことの責任があるかのように喧伝されてしまい、そのことがさも正当であるかのように人々のうちに信憑づいてしまう。これは、地球上に存在する最も恐ろしい暴力のうちの一つであると私は思う。
つまり、ことの原因は、期待の勝手さに本人が無自覚であること、或いはそういうバチ当たりな人間が過半数を取ってしまうことに由来している。

大学生くらいになると、小学生のときほど、この種のいじめは顕在化しない。というのは、大学生くらいになると、「俺は本気でそれをやっているのではない。(演技でやっているのだ)」という、無害化の擬制が持つ効用について理解のある人間の割合が増えてくるので、「これは紙芝居である、私たちはその紙芝居を鑑賞しているに過ぎない。彼は、舞台のうえで一つの役割を演じる芸者に過ぎない」という虚構が全員に共有される確率が高まるがゆえに、「その芝居のなかでいじめられ役を演じている人間もまた、楽しむことができる」ということが起こるからである。

「芝居であれば楽しめるが、芝居じゃなかったら全然楽しめない」ということはよくあることで、「それを鑑賞する者にとっては喜劇であるが、それを体験する者にとっては悲劇である」よろしく、ことほどさように劇場化能力の高まりは人々からいじめという概念をすっぱ抜くことに大いに貢献するのである。

一つ、注意しなければならないのは、劇場化能力の高まりと、個々人が自らが知らず知らずのうちに他者に対して抱いている期待の勝手さに関する自覚の高まりとは別だということである。

確かに、劇場化能力が低くても、個々人がそれぞれの他者に対して抱く期待の勝手さに自覚的になりさえすれば、いじめという概念もその実体も、自動的に消滅へと導かれる。しかし、そういうことはあまり起こらないのである。自分が抱く期待がどれほど身勝手なものであるかを自覚することは、劇場化能力を身につけることよりも遙かに困難なことであるように私は思う。

多くの人々は、いじめが存在することの悲劇を、劇場化能力の修得によって回避するが、劇場化能力は、地球上に存在する最も恐ろしい暴力の一つを排除することができるほど偉大ではない気がするのだ。


話を元に戻すと、「下っ端っぽい奴は下っ端っぽく振る舞うべきだ」という倒錯した倫理観は、「「自分の勝手な期待」通りに人々は動くべきだ」という倫理観にそのまま通じる。ドラえもんの道具に「そっくりクレヨン」というのがあり、それは、「そのクレヨンで描いた対象それ自体が、実際に描いた絵に似るように変化してきてくれる」というまことにハチャメチャな道具なのであるが、一部の、かかる倒錯した倫理観を抱いている人々は、その手のハチャメチャさを、人間関係において相手に黙示的に強要するのかもしれない。
「そっくりクレヨン」の発想は極めて暴力的である。それは、「俺がヘタな絵を描くことはない。なぜなら、俺がどんなにヘタに絵を描こうとも、描いた対象のほうが、俺の描いた絵に似るように変化してきてくれるので、結果的に俺が描いた絵は「ヘタな絵」認定を受けないからだ」という思想に基づいている。そこには、「俺の考えは間違っていない。俺の考え通りにお前が動かないのが間違っているのだ。」という、自分の身勝手な期待を相手に強要する姿勢が見て取れる。
そっくりクレヨンは架空の世界における子どもたちの遊び道具だからまだ許せるにしても、現実のこの世界が、「そっくりクレヨン」を使うが如くに振る舞う奴ばかりで占拠されてしまうのだとしたら、私はそこに非常に、暴力的なものの働きを感知せざるを得ない。

最も幸福な人間関係とは、相手に対して一切勝手な期待をせず、かつ、劇場化能力が極限に達している状態のことを指すのではないかと思う。

「下っ端っぽい奴は下っ端っぽく振る舞うべきだ」というのは、或る意味、自分がこれまでに見聞きしたフィクションの現実世界における再現を試みる者のあがきである。「脱劇場化」と言ってもいいだろう。ある物語が、現実世界のものではなく虚構世界のものであるという認定を受けることは、その物語から受ける個々人の衝撃を無害化(弱化)する働きを持つが、これとは逆に、虚構世界のものが現実世界のものであるという認定を受けることは、その物語から受ける個々人の衝撃を強化する働きを持つ。
幼児たちは、お母さんや保育士さんたちから、さまざまな童話を読み聞かせてもらう過程において、基本的にはそれを虚構世界のものではなく現実世界のものであるとして捉えている。だから彼らの感情は非常に豊かだ。ことほどさように、子どもであれ大人であれ、自分の感情を耕すに当たっては、自分が読み込む物語を現実のものとして捉える能力を実践することがとても大切である。「脱劇場化」は、子どもの感情を豊饒化するのに貢献している。しかし、一方で、これにはマイナスの側面がある。それは、たとえば物語のなかで身分制が敷かれているときに、子どもはそのことをまずは受け入れるのであるが、その受け入れをそのまま現実世界においても適用してしまうことがあり、それがいじめの発端となる「相手に対する勝手な期待」の発動につながるである。
もとより人は、はじめから現実と虚構を混同しやすいようにつくられている生き物である。現実と虚構を混同することができることから、私たちはさまざまな恩沢を享受している。衝撃が強すぎると思われるときには「劇場化」してその衝撃を弱め、衝撃が弱すぎると思われるときには「脱劇場化」してその衝撃を強める。このようにして人は、「自分が共感的に認識した、目の前にいる人間が感じているであろう感情」を、自分が正規化している範囲で認識可能なように調整するのである。なぜなら、それをすることが、最もその人の感情の豊饒化と保護と、要するに健全な感情の発育にとって有効だからである。人間が他の動物に比べて豊かで多様な感情を持つことができるのは、受けた影響に対して即座に「劇場化」「脱劇場化」のフィルターをあてがい、どんなに害悪なものであっても即座に自分の栄養にしてしまえる能力を人間は持っているからではなかろうか。逆に、そのときどのフィルターをあてがうべきかの調整能力が育っていない人間におかれては、どんな栄養でも有害なものとして摂取してしまうがゆえに、いろいろと精神的な問題も起こってくるのだろうと思う。


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