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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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階層化=大衆社会の到来 - 内田樹の研究室

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)
つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)

苅谷さんは97年の統計に表われたこのような「ねじれ」は1979年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)

一つ分からないと思うのは、なぜ1979年段階ではそういう違いが見られないのか、というところである。
79年段階では、勉強のできない子が「学校を通じた成功物語」から降りることを妨害する要因がぬぐいがたく貼り付いていたが、それから20年の年月を経るにつれて、だんだんとその要因がなくなっていったために、降り出す子どもたちが雪崩的に増えだした、ということなのではないだろうか。
つまり、「別様なる物語への乗り換え」である。

人は、いかなる物語にも乗車せずに日々を過ごすということがふつうはできない。したがって、ある物語を降りるためには、乗り換え先となる別の物語が到着している必要がある。しかし、1979年の子どもたちの目には、幸か不幸か、そのような「別の物語」の存在は映じなかった。物語というのは泡のようなもので、自分以外の誰も信じていない物語を信じ続けることには超人的なパワーが要る。しかし、これも、協力者、賛同者がいてくれる場合には、そのために必要なパワーは飛躍的に低減される。

「学校物語への引き付け」という魔術から勉強のできない子どもたちの注意を解放することに貢献したのは、90年代初頭におけるバブルの崩壊ということでよろしいのだろうか。だとすると、バブルの崩壊が今日の子どもたちのインセンティブ・ディバイドを導いたという結論になるが、それでよろしいのだろうか。


親の一方が英語話者で、家では英語と日本語をバイリンガルにしゃべっているという子どもが「英語で読み書きする」教科でハイスコアを取るのを見て、たいていの人は「それはあまりフェアな競争ではない」というふうに考える。
しかし、親が「すぐれた日本語話者」である子どもが「日本語で読み書きする」教科でハイスコアを取ることを「フェアな競争ではない」と考える人はほとんどいない。
それは「日本人は誰でもみんな同じように日本語が使える」とみんなが信じているからである(少し考えれば、そんなはずないことにすぐ気づくはずなのに)。

なぜ人は、こうも簡単に、「日本人は誰でもみんな同じように日本語が使える」というウソを信じてしまい得るのだろうか。おもうにそれは、不自由感の有無、もしくはその程度に由来しているのではないかと考える。
英語の初学者が、英語を流暢に使いこなしている人を見ると、「自分はそのようには使いこなせない。自分はそこまで英語に達者ではない。」という不自由感を覚える。一方、日本語の場合はそれほどでもない。なぜだろうか。おそらくそれは、「アイツほど達者ではなくても自分なりに俺は日本語を使えるよ」という、「自らはそのフィールドでそれなりに満足に泳ぎうる」ということへの確信が持てるということなのではないだろうか。それが、高度な日本語話者からしてどんなにつたないものであったとしても!

もちろん、いかなる高級知識人からの冷ややかな眼差しももろともせず、自分なりのやり方で自分の母語を育てていくことは非常に重要なことだ。これは、英語学習に関してもしばしば言われることである。「ヘタで良いからまずはしゃべって見ろ、書いてみろ」と。
英語学習で良しとされることを日本語学習において実践しただけで、なんでこんなにヤジられなくちゃいけないのか?

思うに、第一母国語を「ヘタで良いからまずはしゃべってみる」ことのできない子どもというのは、ふつう存在しないということが非常に重要なポイントではないかと思う。

幼児が、「まずはしゃべってみる」を実践する場合、そこには、「なにがしかの抽象的な意味で構成されたフィールドを果たして我は泳ぎうるのか?」という問いに真剣に対峙している姿がある。象徴に対する可制御性への確信を確保するに至るまでの道のりというか。そこには、他人と比較してどうだとか、俺はアイツよりもうまくしゃべれないからダメな奴だとか、そういう評価基準はまったく存在しない。幼児は、基本的な言葉を獲得していく過程において、間違いなく「我を生きて」「我が道を貫いて」いるのである。
「我が道を貫いている」という感覚が陰に陽に担保されている限り、その感覚を前提としてなされるすべての選択権の行使はすべてフェアなものであると見なしうる。幼児の高級知識人に対する挑戦状が、たとえどんなに高級知識人の感覚からして野暮なものであったとしても、幼児の内的世界においてはその挑戦状は寸分の紛れもなくフェアなものなのである。
逆に言うと、そういう、一方的な挑戦状の突きつけ、相手に実際にそれが承諾されていなくても、承諾されたものとして受け取って一人で内的世界におけるバトルを開始するという姿勢を経由してしか、「ヒト」ではあるがまだ「人間」ではない者が「人間」になってゆく過程をトレースすることはできないのだ、というふうに言うこともできるだろう。

そういう意味では、「日本人なら誰でも同じように日本語が使える」というふうに子どもが思いこむことは、学びの初段階においては誰もが必ず通過する拠点であり、こういうフィクションを信じている子どもが多いことそれ自体は、それゆえにすぐさま非難されるべきことではない。

問題は、この手のフィクションは、それぞれの子どもが置かれている家庭環境の差異、もっと突っ込んで言えば、それぞれの子どもが置かれている家庭における言語的な豊かさの差異、それぞれの子どもが泳ぐことを許されている「大人たちが共有している言語空間」のを評価する機会を、学びの主体者であるそれぞれの子どもたちに対して与えないように構造化することを宿命的に強いられているというところにある。
この陰惨な宿命に対処するにあたって子どもたち自身ができる、現時点で最も有効な打開策の一つは、子どもたち自身にこの宿命の構造に気づいてもらうこと、すなわちそのための契機として重要なのは視野を広げてもらうこと、そしてそのためには、つまりは、いろんな本を読んでもらうことというのが、どうしても必要になってくるわけです。

でね、経済的にも文化資本的にも貧しい家の子どもでも、たとえば図書館通いをするとかなどの方法で、この手の陰惨な宿命と家庭環境の貧しさというコンボが繰り出す波状攻撃を回避することは、原理的にはいくらでも可能なわけです。わけですが、実際にはなかなかそううまくはいっていない。
理由は、子ども自身が、いま置かれている言語空間に安住してしまうということが、往々にして起こるということがあるから。さきほど、自分が置かれている環境上の言語空間の質を評価するチャンスを子どもたち自身は、少なくとも最初のうちは与えられないということを申しましたけれども、このことは、「いま住んでいるところが果たして一番いい住まいなのか?」という問いを思いつくことを導くに十分ではないわけです。もちろん、この問いを思いついてこの問いに憑かれることが、その子にとって、その子の人生にとって100%良いかどうかは分からない。でも、この問いを思いつく確率において、言語空間の質を異にする子どもたちの間でははっきりとした差異が認められることがデータで出てるということがある以上、社会における「機会の平等」が達成されていることを志向するすべての人たちは、これを看過することは許されないと個人的には思う。

「客観的に精査するする限り、低質である」と認定されている言語空間に「安住」している人を、高級知識人の意思と権力が(もしくは国家権力が)、無理矢理にそこを連れ出すことは、倫理的にあってはならない。
しかし一方でまた、「意欲格差」「意欲がどれくらい高いかということ」と、「何に安住するかということ」「自分が安住している空間の質をつねに問い続ける気持ちがどれくらい高いかということ」というのは、非常に相関が高いような気もまたするのだ。

このように見てくると、すべての元凶は、統計的な指標が存在することそれ自体にあるのではないかとも思えてくる。統計的な指標が存在しなければ、或いは、それを見ることさえしなければ、一部の人たちが、自分たちの置かれている住まいの質がいかに劣悪であるかということを認識せずに済んだわけだ。統計データを無理矢理に見せつけられたがゆえに、一部の人たちは、強制的に、不幸な人たちであるというようなレッテルを貼られ、そういう視線を浴びざるを得ないようになってしまった。
かかる一部の人たちが有している幸福の基準を、高級知識人たちの幸福の基準として回収することそのものが、一種の暴力なのではないかというような批判は、或る意味ではもっともである。
ここで、「幸福の基準の質」というような尺度を持ち込むことによって、かかる押しつけが擁する暴力性を棄却することは可能であるのだろうか? 「幸福の基準の質」というような尺度を持ち込むことそれ自体が暴力であるという反論に対してどう反論するか?

個人レベルの幸福にまつわる話を持ち出すとこのようにほとんど切りがなくなるわけであるが、いまむしろ重要なのは、それを云々することよりも、「統計的にディバイドが存在することが示されているけどどうすんのん?」というところであって、この問いに対処するときに、個人レベルの幸福という照準を持ち出すことは、基本的には筋違いではないかと感じる。
結局は、学者たちのたゆまざる活躍によって示されてしまった(見なくなかったけど)見せつけられた格差という刃がなした、「個々人の内的な、正義や倫理に対する幻想における傷口」をどう慰撫するかというところに、少なくとも国家的には話は落着するのであって、それ以外ではないだろう。かかる傷口を慰撫しうる落としどころを見つけなくてはいけないことは、これは、学者たちが活躍することを許した社会全体の義務だと思う。思うが、まだその「落としどころ」とやらは、見つかっていないようだ。個人的にはこれは、さきほどの「ほとんど切りのない話」に切り込んでいくことなしには解決のつかない問題であるように思うのだが、私自身からしてすでに「ほとんど切りのない話」と称していることからも推測されるように、ここに誰もが頭を垂れる名答を提示することは少なくともいまのところは叶わないようだ orz

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