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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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08年6月に起きた秋葉原無差別殺傷事件をja.wikipediaで見ると、その犯行動機に「たくさん人を殺せば死刑になれるから」ということが書いてある。犯行の動機が「死刑になりたくて仕方がないから」というのは非常に筋が通っている。犯罪を犯さなくても死刑になれるんなら、わざわざ面倒くさい犯罪など起こさないだろう。でも、刑務所に行って、「ぼくを死刑にしてください。」って言って、「はいそうですか」と聞き入れてくれる刑務官の人はいない。交番に行って、「ぼくを逮捕してください。」って言われて、「はいそうですか」と逮捕してくれるお巡りさんはなかなかいない。
だから、彼らは、しかたなく犯行に及ぶのである。逮捕してもらうために。逮捕されたいがために。

これは、年末になると正月に出る食事目当てでホームレスによる小さな犯罪が増えることとも非常に関連が深い。まあこのケースの場合、「小さな犯罪」なのでそれほど大事にはならないが、「死刑になりたくて人を殺した」のようなケースが頻発すると、これはなかなかたまったものではないだろう。

「犯罪を犯すと刑罰を受ける」というのは、「ふつう人は刑罰を受けたくないだろう、だからそれを避けようとするだろう」という認識で、刑法とやらは構成されているからだと思われる。
ところが実際には、刑罰を与え、何年か服役させるためには、屋根のあるところに彼らを住まわせねばならず、服役できるほどには食事なども与えねばならない。そこで住まいや食事目当てで犯罪に手を染める者が出てくる。
これとまったく同じ理屈で、殺人に手を染める者が出現する。
現行刑法は、「死刑になりたくて仕方がない人」というのを想定していない。想定していないし、今までだって、こういうことは想定していなくても良かった。いわゆる磔刑など、見せしめの刑は、民衆の「刑罰を回避したい」という欲求を強化することにその目的が据え置かれていたようなところがある。刑罰は「回避したい」ものであり、望んで刑罰を受けたいと思う者はいるはずがないというのがこれまでの常識であった。

ところがその常識がこんにち崩れている。
「ぼくを死刑にしてください。そのためならなんでもします。」というような人が出てくる。
「なんでもします」と言われても、お巡りさんもこまってしまう。
「人を何人か殺せばたぶん確実に死刑になりますよ」というのは、刑法及び反例に基づく「まっとうな回答」であるが、倫理的にも職務的にもたいへん問題があるので、ふつうそういうアドバイスをお巡りさんはしてくれない。
しかし、お巡りさんがしてくれなくとも、死刑を希望する人たちはその「まっとうな回答」、すなわち、「自分の希望する目的を達成するためにはどういうアプローチを取るのがよいか」という問いに対応する回答を知っていて、何人かの人はそれを実際に実行に移してしまう。

その実行は甚だ社会的には迷惑な話であるが、死刑を切望する本人にとっては極めて合理的な判断でありまた選択なのだ。
死刑を希望した本人はきっとこういうだろう、「人を何人か殺さないと死刑にしてもらえないからいけないんだ。俺だって好きで殺してるんじゃない。死刑になるために仕方なくやってるんだ。人を殺さなくても死刑にしてもらえるのならもちろん俺だってそうするよ。一番良いのは、犯罪を犯さなくても、希望するだけで死刑になれるというものだ。なんで本人の希望だけでは死刑にしてもらえないのか、その理由が分からない。そういうふうに刑法が整備されていないことのほうが問題ではないのか?」と。

他方、法の番人の側からすると、希望する者をほいほい死刑にすることにはいろいろ問題がある。まず第一にそれは国益の損失につながるからである。国家の労働力たる国民が、自らの希望で次々と消滅してしまうと、国家が存続できなくなる。もちろん、国家の消滅が国民の意思であるなら、国家はそれを呑まねばならないが、それが国民の意思である確率は低い。人口の過半数が「死刑になりたいんです。」と交番に申し出てきているのならともかく、実際には、申し出てきているのは人口比で見ても、ほんのごく僅かな割合の人たちなわけで、彼らの意思をもって国民の意思とみなすことは当たらない。
次に、「凶悪犯罪者は存在自体が国益の損失につながるのだから、死刑を希望するならさっさと死刑に処してあげるべきだ」という意見についてだが、死刑を希望した段階で当人を凶悪犯罪者に認定することは、現行法の範囲内ではできない。凶悪犯罪者というレッテルは、あくまで、実際に何人か人を殺した者に対して貼られるレッテルなのであって、「死刑にしてもらえないんなら、私は人を殺してでもその夢を叶えるつもりです」と表明している人に対して貼られるレッテルではないのである。


ところで、次のような疑問がわき起こる。なぜ、死刑希望者は、自殺希望者ではないのだろうかと。自殺なら犯罪を犯さなくてもできる。死刑よりもずっと実行コストが低いはずだ。なのになぜ、一部の死亡希望者は、自殺ではなく、死刑を受刑することのほうを、たとえそのためのコストがどんなに高かったとしても、そちらを選ぶのだろうか。
私はこれについて、「自分で自分を殺す」のと、「誰かに自分を殺してもらう」こととの間には、大きな落差があるからだと考える。

「誰かに自分を殺してもらう」といった場合、「自分が死亡するという行為が発動することについて、少なくとも一人の他者による承認が得られる」ということを前提とするが、「自分で自分を殺す」といった場合は、この承認が存在しない。
自分がなした行為が他者によって承認を受けるというのは、社会的生活を営む主体の心理的慰撫にとって極めて重要な価値を持つものであるから、これは外すことができない。このゆえに、多くの死亡希望者は、自殺よりも他殺、自殺よりも死刑の受刑を切願するのである。

私は、実際の自殺既遂者の多くは、本音のところでは自殺ではなく他殺を望んでいたと考えるべきなのではないかと考えている。つまり、第一希望は他殺なのだが、他殺はいろいろと面倒なのでしかたなく自殺を選んだ、というような人が、自殺を既遂してしまった人のなかには、結構いるのではないだろうか、という予想である。
自殺希望者にとって、自殺というのは、紛れもなく、自分が自らの自由意思のもとになした最後の自己決定である。その最後の自己決定が、自分以外のどの他者からも承認を得られないということは、社会的生活を恒常的に営んできた主体として、非常に不幸なことなのではないかと、思うのである。
問題は、「自殺か他殺か」という選択肢を突きつけられたときに、後者を実際に遂行する手続きが非常に面倒なことにある。なんでこんなに面倒なのかというと、「死を希望する人がいる」、もうちょっとちゃんというと、「他殺になることを希望する人がいる」ということを、或いは、そういう希望や意思をどう尊厳をもって処遇するかということを、刑法の側の人間が、軽視してきたことに、問題の根幹はある。

他殺を希望したときに、誰か友人や道行く人に、自分を殺す主体者になってくれと頼むことはできるが、いろいろ問題がある。他殺希望者を死亡へと導くのを幇助した罪(自殺幇助罪、刑法202条)に、彼の夢を叶えた人が問われてしまうという問題である。隣人の夢を叶えるのを手伝ってあげたというだけなのに、そこに別様の意味が賦与されうるがゆえに、罪に問われてしまうのである。
ここで、他殺希望者とその幇助者らはどういうふうに行動するのが合理的あるいは倫理的であると考え得るであろうか。ここで、幇助者自身が、自殺幇助罪に対応する刑罰を受刑することを希望しているか或いはそのことに異存はないと考えているならば、少なくともその2主体においては、かかる行動を取ることは、なんら問題がない行為として理解される。問題は、異存がない場合はあまりないというところである。

この問題を解決する方法は2つある。
一つは、集団自殺である。集団自殺においては、「幇助者自身もまた一人の他殺希望者である」という事実ゆえに、「自殺行為それ自体の他者による承認の問題」と、「幇助者の希望状態に厳しい制約がつくという問題」という、この2つの困難な問題を同時に解決する。
もう一つは、死刑である。死刑においては、幇助者の行為の正当性が国家権力により供給されるので、幇助者自身の希望状態に関する制約について思いわずらう必要がない。しかし、死刑になるためには死刑に処されるにふさわしいだけの犯罪履歴を重ねねばならず、これは、根っからの凶悪犯罪者であるならまだしも、死刑をただ希望する者にとっては、なかなかに高いハードルである。

つまり、集団自殺のほうが費用対効果が高い。だから通常はこちらが選択されるが、集団自殺にもまったくデメリットがないわけではない。そのデメリットとは、「一緒に自殺してくれる仲間を見つけないといけない」というところにある。そして、「一緒に自殺してくれる仲間を見つけること」よりも、「凶悪犯罪者の称号を得るべく他人を殺しまくること」のほうがラクだと判断する人間が、少ないけれどもやっぱり少しはいて、そのうちの何人かは実際にそれを行動に移してしまう。
先般の秋葉原における痛ましい一件が発生したことの背景には、たぶんこういう心理的遍歴があったのではないかと私は思うのである。


死刑希望者にとって、凶悪犯罪者のレッテルは、汚名ではなく称号である。なぜなら、汚名というのは、自らの希望を叶える妨げとなるレッテルのことを言うのであり、一方、称号というのは、自らの希望を叶えることに貢献してくれるレッテルに対して与えられる名称だからである。


ところで思うのだが、もし、このja.wikipediaに書いてある犯行の動機が正しいものだとするならば、「犯罪を犯していなくても、希望するだけで死刑にはなれる」ということを刑法が認めてくれていさえすれば、今回秋葉原で失われた尊い7人の命は失われずに済んだかもしれないということである。この解釈を採用する限り、この事件の原因は、容疑者本人の個人的属性や性格にあるのでなければ、社会的な構造にあるのでもなく、ただ、刑法の不備に帰されるということになる。

ではなぜ、現行刑法は、希望する人間をすべて死刑に処することを認めていないのかというと、先ほども述べたとおり、「自ら死刑に処されることを希望する人間がいる」ことを刑法自体が想定していないということが最も大きい。しかし、繰り返すように、例の犯行動機が正しいならば、「刑法がそれを想定していないならば、想定していなかったことそれ自体に原因があるのであり、その想定を踏まえた上で現行刑法を見直す」というのが、ごく自然な処方であるはずである。なのになぜ、そういう世論がわき起こっていないのだろうか。専門家もこれを指摘しないのだろうか。

おそらくそのわけの一つは、「死刑を心から希望するような人間が毎年一定数現れ続けていること自体が社会的な病なのであり、そちらを解決することのほうが先決である」というふうに考えているからだろう。
しかし、私は思う ---もしその理路が正しいのならば、「犯罪に手を染める人間が毎年一定数現れ続けていること自体が社会的な病なのであり、刑法を厳しくして裁くよりも、刑法など必要のないくらい、善良な人間ばかりになるような社会をつくる(道徳心の涵養のほうに力を入れる)ことのほうが先決である」というふうに、同じように言わねばならない。しかし、実際には、刑法による制裁と道徳教育は社会の機能の両輪であり、どちらかがあればもう片方は要らない、というふうにはならない。
まったく同じことが、「死刑を希望するような人間が出現してしまうこと」それ自体に対しても言えるのではないか。死刑を希望しないように教育するのが大切なのは分かるが、一方で、死刑を希望してしまうような人間が、悲しいかな毎年一定数発生してしまう。これが犯罪者であれば、刑法があるので裁けるが、死刑希望者は、その段階では犯罪者ではないので、(少なくとも現行の)刑法でもって対応することができない。したがって、これに代わる、刑法に代わる社会的処遇の装置が必要となる、ということは、論理的な帰結であるはずである、と私は思うのだが。


刑法に代わる社会的処遇の装置とは何だろうか。あなたが交番勤務の警察官で、ある日青年が、「僕を死刑にしてください。死刑に処されたいんです。」って申し出てきたら、どう対応するだろうか。おそらくはこうであろう、「考え直しなさい」と。

このアドバイスは残酷である。なぜか。

この警察官のアドバイスが残酷であるのは、青年の自己決定を頭ごなしに否定しているところにある。このように警察官に言われた青年は、おそらく、「この人に自分の考えは理解されなかった、この人には受け入れてもらえなかった」というふうに、解釈するだろう。そして、ある日、「死刑になるにはもう人を殺しまくるしかない」と決心して、実際にそれを決行するのである。

自己決定が受容されないというのは、かなりの精神的苦痛である。もちろん、より根本的な問題は、「その青年に、心から死刑を所望するような欲求を芽生えさせたその青年を取り巻く環境」に求められるのであるが、ここではそういうことを騒いでもしかたない。良くないことが起こったからといって、「そうれみろ、そうれみろ」と騒ぐことにはあまり意味がない。重要なのは、真に死刑を希望する青年が自分の前にあらわれたとき、どう対応するのが最善であるのか、という問いである。
このような状況における対応が難しいのは、かれの自己決定を承認しつつ、その決定を現実化させないような配慮が求められる点にある。ここがポイントである。「死刑を希望する」という彼の自己決定を受け入れてあげるということと、その決定の遂行を黙って見届けてあげるということとは全然べつのことであるという認識がまずは必要である。そして、彼に、その自己決定が承認されたという既成事実とそれに伴う安心感を供給しつつ、その安心感が芽生えた時点からその自己決定が決行されるまでの間に、彼の自己決定の根拠を問いただすことを通じて、その決定をみずから覆させることを導かねばならない。
こういうことをする役割は、社会的には、聖職者や臨床心理士や精神科医が、地域社会的には、近所のおじさんおばさんなどの「頼れる相談役」な人たちが担うのであろうが、そういう存在が最初から供給されているような人のもとにはそもそも「心から死刑を所望するような欲求」は襲来しない
じゃあ、そういうことを尋ねられた警察官は、そういう人のところへ案内してあげることが正しい処方であるかのように一見思えるが、ことはそう簡単ではない。「死刑に処されること」という目標を掲げこれを切願している人間が、「はいそうですか」と素直にカウンセリングのところに行くかどうか。私は行かないと思う。繰り返し言うように、そういう人間が視界に出現した場合に、まずなによりも優先すべき事は、その彼がなしている自己決定を自ら覆させることであり、それをなさしめるためには、「頼れる相談役」として機能してくれる人材を、一刻も早く強制的に供給する必要がある。できれば、その尋ねられた人が、「頼れる相談役」としての役割を引き受けてほしいところだが、そこまでの自信やら余裕やらがないという人もいるだろう。そういう場合はどうすればいいのだろうか。
私が思うに、そういう自信やら余裕やらがない人は、そういう自信やら余裕やらを持ってそうな人をあらかじめマークしておき、いざというときは引き受けてくれるようあらかじめ依頼しておくというのがベターなんではないかと思う。
もちろん、みながみなそういうマメな人ではないから、実際には、尋ねられた人がなんとかその場で対応するというケースが多発するだろうけれども。

むしろ私の関心は、死刑希望者の自己決定の見直しを促す機能が制度的なものとしては確立していないというところにある(←確立して欲しいということを意味するのでは決してない)。確立していないから、属人的な偶然に頼らざるを得ないところが出てきている。
かつてはこの機能が、潜在的な制度によって担われていた。「潜在的な制度があった」というのは、「「頼れる相談役」がいないなどということは有り得ない」ということが確率的に保証されていたということを意味する。この保証の実質的な担い手は、大家族や親類縁者もしくはご近所との間の相互的な信頼などの地域社会、或いは、信頼できる友人や先輩、後輩、上司、同窓などということになるだろう。つまり、かつては、わざわざ国家権力が(刑法などのかたちで)この機能を保証しなくとも、共同体内の心理的依存構造がそれを保証していたのだが、いま、その共同体内の心理的依存構造が変化してきたために、この機能が保証されなくなってきているところがあり、それが、「あ、死刑っていいかも」と思い立っちゃった人を食い止めてくれる人が周りにいないという惨劇が生じる確率を高めさせてくれているわけである。

この機能が安定的に保証されない限り、先般のような痛ましい事件は今後も定期的に発生し続けるだろう。それは、「携帯サイトの掲示板への書き込みを監視し、怪しいものを取り締まる」というような対症療法では全然根本的な解決にはならない。そんなことをしても、社会の病理はどこか別のところに噴き出す結果を生むだけだ。
選択肢は2つである。つまり、この機能を、明示的な制度でもって保証するか、それとも、潜在的な制度(規範)でもって保証するかのこのどちらかである。前者を選択するならそれこそ、さきほど述べたように、倫理的に多少の問題は残るにせよ、「犯罪を起こさなくても死刑になれる」というような制度もしくはこれに準じる制度をつくる必要に迫られることになるだろう。それがイヤだというのなら、後者を選ぶしかない。すなわち、かつては十全に機能していた共同体内の心理的依存構造を何らかのかたちで復権させることである。
社会は見えているよりも遙かに広い。いったい、1億数千人のうちの何人が、自分の眼界に入っているだろうか。1億数千人のなかに数多と存在する共同体の、それぞれの内側にある心理的依存構造がいかにあるかを、自分が見えている範囲のそれだけから見積もるのはあまりに忍びないことだ。しかし、その見積もりは、完全なものにするにはほど遠いかもしれないが、それでも、それに近づけるべく、精度を上げるための努力をすることくらいはかろうじてできないこともない。

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