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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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道徳感情の複合性 - Apes! Not Monkeys! はてな別館

とにかく殺すのは悪い

これは、或る自分が信奉している道徳律のなかに「殺しはいけない」という文言が登録されていて、でも「なんで登録されているのか」ってところまでは考えない人がくだしがちな判断かな。
「あかんもんはあかんもん。だって母ちゃんが言ったから」的な。


先に殺した方が悪い

これは、二番手以降は罪が減免されるという思想に基づいた判断ですな。なんで二番手以降は罪が減免されるのかというと、二番手以降の人ってのは、自分よりも先にそれをやった奴をマネただけっていう言い訳が通用するから。
「なんでやったん? だって何々ちゃんがやってたから」的な。でも一番最初にそれをやった奴はこの手の言い訳ができない。自分がなぜそれをするのかの責任を、被模倣対象に転送することができない。それゆえに、つまり、減免効果を発揮させることのできる言い訳を用意できる度合いにおいて差異があるがゆえに、「先に殺したほうが悪い」となる。


殺すのをやめない方が悪い

これは、殺しが日常的に行われていることを前提とする判断だな。殺していないのが日常的である場合、殺しているという事態が発生することは着眼すべき事として捉えられるけれど、殺しているというのが日常的である場合、それは取り立てて着眼すべき事であるとは認定されない。ここに「赤信号みんなで渡ればこわくない」の原理の理由が潜んでいる。裁く奴のリソースが尽きた時点で、赤信号を渡ることは怖くなくなってしまう。前にも書いたけど、国民の80%が犯罪をするような社会においては、法とか刑務所というのはまともに機能することができない。つまり、法とか刑務所とかが機能するためには、そこに恒常的にリソースが供給されていることが必要で、かつそのリソースの量は、実際に行使される量をつねに上回っている必要があるということ。だから犯罪が増えると、警察を増やすとかしなくちゃいけないんだけど、そもそも警察のなり手がいなければ警察を増やすことはできないわけで、つまり、犯罪が取り締まられるかどうかというところを最も源泉的な場所で調整しているのは、警察官になろうとする人数、警察の採用試験を受けようとする人数に依存しているわけだ。あと、あと、現役の警察官がいきなりやめる人数にもね。
さて、殺しが日常的に行われていて、またそれがゆえに、一件一件の殺しに一つ一つちゃんと法を持って着眼しうるだけの裁く側のリソースが不足している場合、「殺しはいけない」という道徳律はそもそも的に通用しない。したがって次善策的に、「殺すのをやめないのが悪い」という道徳律がより正当なものとして受容されることになる。


たくさん殺した方が悪い

これも同じですね。ほんとは五十歩百歩なのに、なぜか、100人殺した奴がいてくれるおかげで、50人殺した奴の罪が実質的に減免されたりする。もちろんこういうことは、現行法的にはあってはならないこととして禁止されているわけだけれど、素朴な善悪に対する感情としては、そういう減免機構が働いている可能性は、あるよね。錯視の道徳心バージョンというか。


正当な理由なく殺した方が悪い

これは、「正当な」というところに問題の一番難しいところを投げてしまってるね。だから、その正当な理由がなぜ正当と言えるのかを自分で説明できるかどうかというところに、「だって母ちゃんが言ったから。」レベルにとどまるか否かが決まってくるわけで。


無抵抗な(ないし圧倒的に弱い)相手を殺すのは悪い

これはなんていうか、武士ですよね。つまり、フェアでない戦い(ゲーム)はすべきではないという。機会の平等が担保されてないゲームはすべきではないという。でも、じゃあどうだったら機会の平等が担保されていると言えるのか、というのは実は一筋縄ではいかない。

本人が「機会の平等が担保されている」と思っているかどうか。また、そのことを、その本人と対戦する相手が受け入れるかどうか。この2つがクリアされて初めて、「機会の平等は担保された」と言えるのだと思う。

それから、この話には重要な前提があって、それは、「できることならゲームに参加したい」と全員が思っていること。この前提がないと、機会の平等の話はそもそもできない気がする。
つまり、参加したくもないゲームに無理矢理参加させられるということは、それ自体からして、機会の平等という成立条件を欠くに十分であるということ。

以上が機会の平等について論じる際の基本だと思うんだけど、一方で、教育に関する機会の平等ということを考えたときに、これは、2重の意味で、問題点が存在する。
一つは、特に義務教育は、「参加したくない奴も無理矢理に(親の強権を行使してでも)参加させておかなければいけない」という、別の条件が絡むから。
もう一つは、子どもがなす自由意思の行使を、大人と同じ基準で裁くことにはやや問題があるということ。この2つ。

いいですか、フェアなゲームってのは、そのプレイヤー全員が、そのゲームで優勝をねらってるということが前提なわけ。そうじゃないと、おもしろくない。ゲームとして成立しない。「俺は別に一位じゃなくてもいいかな、二番でもいいかな。」なんてこざかしいことを考えている奴が一人でもいると、フェアなゲームの成立条件ってのがそもそも的に怪しくなってくる。だって全員が目的を共有してないんだもん。
フェアなゲームってのは、全員が「優勝旗を取る」という目的において完全に一致していて、でも、実際に取れるのは一人で、残りの人たちは多かれ少なかれ中途半端にしか目的を叶えることができない、というところに、はじめて成立するものであって、そうじゃないものをふつうゲームとは呼ばない。
で、フェアなゲームってのが継続的に維持され続けるためには、そのゲームの全行程において、全員が「おれは優勝できる」と思っていなければいけない。ここ重要ですよ。「あ、俺もう負けるかな」とか、「俺別に3番でもいいよ」みたいな奴がいる状況下では、そもそもそれはフェアなゲームではないと思う。だって、「俺別に3番でもいいよ」って奴がいるような状況下で1位になれた奴は、その1位になれたことを心からうれしがれると思うか? 俺は思わない。「お前、手を抜いてやがったんだな? なぜ本気を出さない? これじゃ勝負にならないじゃないか!」という問答になることは、これは必至である。

実質的にすでにゲームとしての機能・条件は失われて居るんだけれども、見かけ上ゲームであるかのようにまだ思われ続けているようなコミュニケーションのありようというものが、存在すると思っていて、つまり、フェアじゃないゲームがフェアだと第三者的には思われているということ。こういうことって、たぶんたくさんあるんだろうねぇ。
なんでこういうことが起こるのかというと、「フェアなゲームが成立しているという前提が崩れないほうが、社会的に存在する諸々の黙示的・明示的な制度の安寧にとって良いから」というようなことなんではないだろうか。それはフェアなゲームではないということを公然的に認めちゃうと、ほかの様々な制度的な前提が論理的に将棋倒し的に破壊されることになっちゃうことに対する確信があって、でもそれはイヤだから、公然的にはなかなか認められない、っちゅーことがあるんだと思う。

ゲームじゃないのにゲームと見なくちゃいけない、っていうのは、よく考えたらヘンな気はする。「ゲームじゃないんだったらゲームと見なければいいだけのはーなしー」じゃないの?って素朴には思う。つまり、ゲームというものが成立していることによって、そのほかのありがたいことが実はあって、それがなくなるのが怖いから、ゲームじゃないものをゲームと思いこみ続けなければいけないようなことが起こるんではないだろうか。

というわけで、(フェアな)ゲームが成立していることによる副次的な効果について考えてみると、「観衆の注意をそのゲームの勝敗というところに引き付けておける」ということではないかと、まず第一には思う。つまり、いかなる時代も、為政者は、観衆の行動をコントロールしたいと願っているが、ゲームが存在してくれるっていうことは、このコントロールにとって非常にありがたい土俵を提供する。ゲームが存在してくれれば、「大半の国民は、このゲームの勝敗の行く末が気になってしかたがなくなるに違いない」ということが、確度の高い予想として認められ得る。これは非常に、為政者にとってはありがたいことだね。アナーキーな状態で、どこをどうすれば国がよくなるのか分からないような状態よりは、ありがたい状態だよね。
つまり、アレですよ、スイッチがある状態とない状態、と言うことができるかもしれない。ゲームが成立している状態イコールスイッチがある状態で、成立していない状態イコールスイッチがない状態というか。もちろん実際にはこの2状態がバシッと切り替わるわけじゃないと思うけど、スイッチを制御できると確信できる(為政者の心理)状態と、確信できない状態の境目というのは必ず存在していて、そこが、ゲームの成立という一種の社会秩序を創出せしめている動機の一つにはなっていると思うね。あともう一つの動機はアレですよ、観衆同士の一体感の演出。ゲームがあると、それを応援することによって、仲間たちと一体感を共有的に実感できる確率が高くなる。
つまり、ゲームが成立してくれることは、為政者にとってもうれしいし、観衆(の大部分)にとってもうれしい。だから、ゲームが成立しそうな状態になると、それを成立させないように働きかける動機と権力の総量よりも、それを成立させるように働きかける動機と権力の総量のほうが上回るがゆえに、ゲームが成立することが帰結される場合が非常に多い、ということなのではないだろうか。
その際に、それがフェアなゲームであるかどうか、というところは、あまり厳密にチェックされない。それがフェアなゲームであるかどうかよりも、まったくゲームがないことのほうが、社会の構成員の大多数にとっては不利益であると判断されているので、多少フェアじゃないようなゲームがあったとしても、祭りの騒ぎに乗じて成立させられてしまうことが多い、ということなのではないだろうか。
んで、一部の、フェアであることに人一倍こだわる人たちは、その形式と実質の乖離をこっそりあばき始めるわけだ。「・・・。なんかゲームやってるみたいだけど、それってフェアじゃないよね?」「シーッ。いま面白いとこなんだから。」的な。

で面白いのはね、ふつうは、フェアであることにこだわる人たちの意見や考えは、それがマイノリティであるがゆえに、新しくゲームが生起する確率やすでに成立しているゲームが今後も継続的に維持される確率に対して影響を及ぼさないことがほとんどなんだけれど、これがマイノリティでなくなってくると話は変わってくる。
祭りでどんちゃん騒ぎしたいという欲求と、フェアであることが重要だと思う欲求とがあって、後者の欲求のほうが強い人たちの割合が増えてくると、つまり、どんちゃん騒ぎできなくなることを不利益だとはそれほど思わない人たちが増えてくると、つまり、祭りに飽きてきた奴らが増えてくると、或いはそれと同時に、フェアであることの重要性に関心を持つ人間の割合が増えてくると、どっかで社会制度系の大転換が起こってくると思うんだよね。

つまり、ゲームを成立させ続けることに貢献していた動機群や権力群の総量が、(ゲームが成立していることの価値を低く見積もる人たちが増えてくることによって)減じられてくると、だんだんと、ゲームの成立を恒常的に維持することができなくなってくる。
ゲームの恒常的な成立というのは一種の秩序維持ですから、なんらかのかたちでエネルギーが供給され続けないことには存在することができないわけですね。

ゲームというのは一種の虚構ですが、いかなる虚構も、それが存在してくれることからメリットを引き出している人間がいなくなってしまうと、自動的に消滅してしまいます。
逆に、いかなるまだ存在していない虚構も、「それが存在していればいいかも」と思う人間が増えてくると、自動的に、いままでなかったあるものが、あたかも以前からある実在であるかのように、感ぜられてくる、ということがあったりします。

なにが言いたかったかというと、フェアでないゲームが、それでも存在し続けることがあるのは、ゲームがないという状態よりかは、まだ、フェアじゃなくてもいいからゲームがあってくれる状態のほうが、人々の満足度の総和が高いということがあるがゆえです、ということになるのかな。
そのフェアじゃないゲームに参加させられている被害者さんたちにはとても気の毒なんだけれど、彼らを助けると、どんちゃん騒ぎで一体感を味わっている大勢の人たちの喜びを奪うことになってしまう。つまりここにはトレードオフが成立していて、国民総幸福量的には或る程度の次善解は達成できていると見てそれほど間違いではないんじゃないかと思う。それが間違い何ではないかというふうに思ってしまうのは、「フェアじゃないゲームに参加させられている少数の被害者たち」に選択的に照準を合わせるからだと思う。「彼らに照準が向けられることによって、同情を買えなかったまた別の被害者たちが救われない」、というようなことは絶対にないとは言えないからだ。ぼくたちはいつも、「自分が着眼しなかった潜在的な被害者たち」の存在を、頭の中では考えることができても、それに実際に着眼したわけではないために、その潜在的な彼らに対して共感を持って対峙することができない。だから、「一部の、我々の視界にたまたま入った被害者たち」を不可避的に優遇してしまうことから、なかなか自由にはなれないところがある。
これを回避するためには、潜在的なすべての被害者たちを顕在化させるための方法論が必要となる気がするけれども、果たしてそんなものはあるのだろうか?


違法な殺害は悪い

同じ殺人でも、合法的な殺人は良くて違法な殺人はダメとする立場。つまり説明責任を法に丸投げしている。「だって、法律文にそう書いてあるから」という。この意味で、「だって母ちゃんがそういうから。」というのとほとんど変わらない。ほとんど、言ったのは、違法性を思考実験の段階で判断できるかどうかの差異が出てくる可能性があるなと思ったから。


残虐な、あるいは汚い手段で殺すのは悪い

「フェアな殺人というものが存在する」という立場。殺人のすべてがダメというわけではない。アンフェアな殺人がダメなのであり、フェアな殺人は正当なものとして認められて然るべきだ、という。これはさきほどの、「フェアなゲーム」の話と同じ話がだいたい通用する。通用しないのは、このゲームの敗北者は生命を奪われるということと、そのことにプレイヤーは同意しているのかどうかということと、仮にプレイヤーが同意していたとしても、そのようなゲームのルールは正当なものとして認められないという立場は論理的或いは倫理的にはあり得るということ。この3点は、チェックしないといけないかな。


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