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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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生徒は「生徒力」をつけよ - 考えるのが好きだった

で、このようなことを言うと、必ずや「大人が叱り上手になる方が先だ」とおっしゃる方がおられよう。イマドキの考え方として実にもっともで正しい。しかし、上手な叱り手からでないとうまく叱られることができない子供や生徒と、いかなる叱り手からであろうとうまく叱られる能力を持ち合わせた生徒と比べると、どちらがより成長できるか。

なんだか、内田先生のにおいを感じさせる論法ですな(笑)。
それはさておき、言ってることはもっともなことだと思います。はい。


親の場合、自分のことを棚に上げて叱ると非難されることが多い。既に子供を産み育てている、という「再生産」が出来ているからには、それ以上を望む必要がさほどないと考えられるからだ。←ちょっとややこしいから詳しく言うと、「教育」が必要なのは、人間が生き物として、つまりは、親の方が先に死んでも子孫が生き残るという「再生産」のためだから、「既に子供がいる」と言う時点で、親は既に生物として最も重要な仕事を果たし終えているのである。(生物の意義は、存在すること、存在し続けること、そのために子孫を残すことである。だから、サナダムシだっけ?の身体は、ほとんど生殖器官だけらしい。回りに消化する必要がない栄養があるから、生きるためのエネルギーを取り込む消化器官ですら必要がない。要るのは再生産のための生殖器だけだと言うことだ。)既に子がいる親の場合、「子を持つ」という生物としての最大の任務を果たした能力の持ち主として、自分の子供に自分が持つ能力以上の能力を望む必要がないのである。これは、実に自然の摂理に適った論理である。

人間以外の動物のように、卵を産んだら後は放ったらかしでも育つ動物と、生まれた直後は何もできないから、少なくとも生後数年は大人が面倒見てあげなくちゃいけない動物は区別しないといけないと思うんだ。
だから、自然の摂理にかなった論理というのは厳密にはおかしい。
というようなことを言うと、「また本筋でないところを突っ込みやがって…」とかおっしゃるのだろうけれど、それはお互い様なのでまったく問題がないのである。


先生は自分のことを棚に上げて生徒を叱る、と言うことはあり得るのだ。

先生に求められる力量とは、いかに棚に上げてることを上手に隠すか、というところではないかと思う。
もっとも、よくおできになる生徒さんの場合は、棚の上にあるものを見ても、見て見ぬふりをするだろうけれど。
だからそこは、どっちかが負担しないといけないことであって、たとえば小学生レベルの子が相手なら、棚の上にあるものは隠しておいたほうがいいだろう。でも、相手が高校生レベルなら、棚の上にあるものが少々バレても、問題なく指導ができるんじゃないか。
先生のレベルが低いと生徒のレベルが高くならざるを得ない、というような側面もある。
もちろん、だからといって、先生のレベルが低いイコール生徒のレベルがあがる、ということでもないので注意が必要だが。
このあたりのさじ加減は今も昔も、現場の教師が手を焼いているところのものである。いっこうに解決されないところを見ると、これからも手を焼き続けることになるのだろう。で、学問的にはたとえば、そのことに対する「一歩引いた見方」が、新しく確立する、というようなことは今後あるかもしれないが、それゆえに、先生が手を焼かないといけないことが免除される、というようなことは起こらない気がする。つまり、教育社会学は制度の見直しには役立つかもしれないが、現場を直接的に助けることには全然役立たないということかな。もっとも、臨床教育学なら貢献できる、というわけでもないと思うんだけどね。だって、たいていは月並みな回答が出てくるだけなわけだし。「朝ご飯ちゃんと食べること」的な。そういう意味では、臨床教育学の存在意義は、「社会や経済の豊饒化に伴う教育の不可避的な退廃」に対する一つの臨床的なケアを与えることなのかもしれない。ことほどさように、社会が豊かにならなければ、臨床心理士も臨床教育学も必要ないというわけだ。臨床心理士の役割は昔は神社やお寺や教会が担っていたわけだし。「社会や経済が豊かになると、教育が逆に豊かでなくなる」というのは、教育の逆説と言ってもいいかもしれない。教育的機能を復活させる最も分かりやすい方法は、経済的な豊かさを排除して昔に戻るということなわけだが、みんなそれだけはイヤなので、なんとか経済的に豊かなまま教育も同時に豊かにする方法を模索しているというところか。あちらが立てばこちらが立たない、それを、全部立つようにするための方法を考えているといったところか。


一般社会において「非の打ち所のない人」はいない。他人の能力と自分の能力はレベルも内容も異なる。だから、人間は社会を作って生きている。これは、「オトナ」は、「コドモ」に、「たとえ自分にできないことであっても、子供には要求しなければならないことがある」に繋がる。
 これがわかる大人と子供の社会集団と、わからない社会集団とで、将来に大きな違いが出てこようというものだ。

たとえば、アウトドア的なサバイバルで、大きさ的に子どもしか入れない穴に入って何かを取ってくる、というようなことは、子どもしかできない。「自然の中で生きる知恵」みたいなものを家族や集団全員で学ぼうというときに、大人のリーダーから穴に入って何かを取ってくるように指示されたときに、「へへっ、リーダーのやつ、自分が入れないもんだから…」というような心理を子どもの側に生じさせるようなことがあってはよくない、ということですかな。


言いたいのは、「大人(教師)はどうすべきか」ばかり論じられている今の状況は片手落ちだということだ。「教師がどうすべきか」は、もう十二分の言があるのだから、次に必要なのは、「生徒はどうあるべきか」しかないだろう。

「教師がどうすべきか」ばかりが論じられるのは、いくつか理由がある。

一つには、「教師が頑張らねばならない」という結論に持っていきたい連中が社会的発言権を有しているから、ということがある。彼らは、教師を唯一の悪役に見立てることでいろいろなことがスッキリ片づいてしまう。だから教師に悪役になってもらいたい、と考えている。もちろんその手のシナリオはフィクションでであるから、教師の側もやすやすと引き受けるべきではない。

もう一つは、「子どもは教師の背中を見て学ぶのであるから、教師自身が自ら学ぶ姿勢を体現していなければ、学校における学びが正常に起動する確率は下がってしまう」「だから教師が頑張らなければいけない」というものである。
これは、一理ある。ただ、全教師が学ぶ姿勢を体現している必要はない、とも同時に思う。生徒が学校で一週間のうちに触れることができる先生たちのなかに、最低一人でも、そういう先生がいれば、ぎりぎりのラインは確保されるのではないか。学ばない教師が一人や二人いても、他の教師でカバーできる、その教師には他の面で力量を発揮してもらえればよい。


と、言っても、それでもやはり、「子供の方が弱い立場にいるなだから、それはやはり大人の問題であって、子供の問題ではない。」とおっしゃるだろう。この考えは、一部正しいものの、それでもやはり、「悪い環境で育ったのだから、悪く育ってもしかたがない。(子供の僕は悪くない。)」「授業がわからないのは、先生の授業が悪いからだ。(生徒の僕は悪くない。)」を許すことになり、子供がより良い方向に、より大きな方向に成長するのを阻むのである。
 言い換えると、子供も前で「それを言っちゃぁお終めぇよ。」ということである。

これは、つまり、どこまでが子ども自身の責任で、どこからが子ども自身の責任でないのか、ということでもある。子ども自身の責任ではない場合、それは自動的に大人の責任ということになる。
これをちゃんと言い得るためには、そのときどきにおいて子どもにどういう自由が与えられていたかということを参照しなければならないが、子どもがなす自由意思の行使は大人がなすそれとは若干感じが違っているために(つまり、子どもは大人ほどの判断力はないと考えられているから、ほんとうにその子の判断と言っていいかどうかは、大人と同じ基準で判断することはできないということ)、特別の配慮を要する。この「特別の配慮」は、いまのところ、これを一般的に論じるための方法論は確立されておらず(たぶん。少年法の成立過程とかをさらえばいろいろ出てきそうな気はするが)、したがって、個別的に対応するしかないというのが現状である。大人の問題だ、いや、子どもの問題だ、というのがしばしば水掛け論になりがちなのは、子どもの責任ということをどう考えるかということの、十分に合意された一般論が不在であることに直接由来している。
したがって現状では、2つの選択肢しかない。具体的なケースとともに論じるか、十分に合意されそうな一般論を導くべく頑張るか、このどちらかである。


考え方によっては、すでに我々は教育が不要な時代にいるということかもしれないが、これを可能にした豊かなエネルギーがいつまで存在するのかわからない。

教育が不要な時代というのは有り得ない。たとえば、洗濯機ができたから洗濯板のうえでゴシゴシするようなことは教えなくて良い、ボタンをピッって押すことだけ教えればいい、というような話はありそうな話であるが、それは問いの立て方が間違っている。「目の前にある汚れた衣類を綺麗にするにはどうすればよいか」というふうに問いを立てて、「いま利用できる道具はなにか」というのが次に来る。この「利用できる道具」というのは時代によって変わる。いまのように、安価に洗濯機が利用できる環境があふれている時代なら、それを利用するのもよろしかろう。利用しないのもまたよろしかろう。大事なことは、「いま使える道具たちをどう最大限に有効活用することによって、いま目の前にある問題をいかに効率的に素早く的確に正確に解決するか」ということであって、それ以外では有り得ない。「生きる」っていうのはそういうことでしょ。要は問題発見能力と問題解決能力に還元されてしまう。

また、経済学的にみれば、教育ということは、給与に直結する、とっても重要なものである。教育を受ける機会がないために、貧しい生活から脱出できないでいる人たちはたくさんいる。

人が足りない、と騒いでいる人たちには2種類あって、一つは、人手が欲しいけど金がないから雇えない、という場合と、要求する水準に見合う人がなかなか見つからないから雇えない、という場合とがある。
需要過多の職業の多くは、高度なスキルが要求される職業である。高度なスキルを身につけるには時間と金がかかる。生まれつきの資質といったものも要求されるかもしれない。一方で、高度なスキルが要求されない職業というのがあるが、薄給だったり、激務だったり、供給過多だったりするがゆえに、なかなか「満足のいく職場」というわけにはいかないことも多い。
どうしてこういうことになってしまうのだろう、医療も教育もまったくない時代、たとえば縄文時代のように、木の実を採取し、狩猟によって食べ物をまかなっていた時代のほうが、私たちは総じて「満足のいく職場」を得られていたのではないだろうか、との疑念がよぎる。
第一のパラダイムシフトは、「余剰生産物の貯蓄の可能化」ということであって、これはとてもすごい革命的なことなんだけれども、こんにちの人々の精神的苦しみを生み出している原因の大部分は、そこにあるというわけでもない気がするんだな。つまり、第二のパラダイムシフトである。第二のパラダイムシフトは何か。それは、「機械化によって急激に仕事がなくなること」である。

余剰生産物の貯蓄が可能になるということには、さまざまな波及的な効果がある。「仕事がなくなってヒマになる」というのはその一つだ。機械化もまた同じこの効果をもたらす。

ヒマになることは一見とてもいいことのように思える。しかし、実際にはなかなかそううまくはいっていない。ヒマになると言っても、完全にヒマになるわけではないからだ。たとえばさきほどの洗濯機の例で言えば、たしかに僕たちは洗濯機によって、洗濯板のうえでゴシゴシする手間からは解放されたが、だからと言って、洗濯機のボタンを押す手間、洗濯機から洗濯物を出して庭に干す手間、干したものを引き上げてたたむ手間、干している間に雨が降ってきたら急いで引き上げる手間、干している間に雨が降ってきそうになったら心配しなければいけないという心理的な手間、洗濯機を定期的に掃除しないといけないという手間、洗濯機が壊れたら修理しないといけないという手間、そして、洗濯機をつくるか、誰かがつくってくれたものを買わないといけないという手間、これらの手間から解放されたわけではない。そしてこれらの手間のなかには、洗濯板を使っていた頃には存在しなかった手間が含まれている。
水が水道の栓をひねれば出ることは、たしかに、井戸まで汲みに行っていたことを思えば、ラクになっているだろう、ヒマになっているだろう。しかし、定期的に水道管を点検しなければいけないという手間、水道管を町中に張り巡らさなければいけないという手間、水道管を通る水をあらかじめ安全なものにならしめるために要する手間、といったものは、こんにちでは、水道局が人為的に担っているのであって、井戸を掘れば出てきていた時代と比べれば遙かに大きなシステム維持のためのコストがかかっている。
プログラムでも或いは似たようなことがあるかもしれない。魚を毎日釣る仕事をしている人がいたとする。その人は極度のさぼり屋だったので、自動的に魚を釣ってくれる機械を発明することに専念した。そして実際につくった。しかし、その人は、魚を釣る仕事からは解放されたが、魚の釣り方をその機械に教える仕事からまで解放されたわけではなかった。
こういうふうに、ラクをしようとして機械をつくれば、その機械を操作する仕事というのが必然的に生じ、ここで、「機械がする仕事」と「その機械を操作・保守・点検する仕事」とを比較して、後者のほうがラクでなければ機械が存在する意味はないのであって、しばしばここは忘れ去られがちになるところである。
もし、この手の無限後退を回避できる機械があるとすれば、それは、「人間はつぎに何を欲望するか」ということを100%知り尽くしている機械なのであって、でも、そんなことは人間であってもほとんど不可能なわけでして、現実的には、まだまだ遠い先の話であろう。


あらゆる仕事人は自分の仕事人としての存在意義を抹消するために全力を尽くす。それは紛れのない真実であり、それゆえに人においてはしばしば、「仕事がなくなってヒマになっちゃう」ということが生ずる。
学校の掃除で考えると、仕事がなくなってヒマになっちゃった人が次にすべきことというのは、まだヒマになっちゃっていない人を手伝うことである。こんにち、仕事がないと言われていることにはいろいろな意味があるが、一つにはこれは、「自分が突然ヒマになったときに、まだヒマになっちゃっていない人を手伝う能力」「もしくはそう言ってきてくれる人を手伝わせてあげる能力」が選択的に欠如している人が存外多いことの証左なのかもしれない。(「解雇される」というのは「突然ヒマになる」ということである)
ところで、まだヒマになっちゃっていない人のところに行って、「手伝うよ」と言っても、「いいからお前は黙ってろ」と言われるのがオチであるような情景というのは容易に想像がつく。
「黙ってろ」と言われることにはいろいろな意味があるだろう。手伝ってもらうと、自分に振り分けられるはずの給与の一部を彼にあげなくてはらない。俺はいまかつかつで生活しているので、そういうことはできるだけ避けたい。そもそも、コイツはなぜ「手伝うよ」などと突然言い出しているのか。要は、この仕事を肩代わりしたならばもらえるであろう報酬の一部がほしいがゆえではないか、と。
では、金銭による媒介が存在しなければどうであろうか。手伝ってくれることはありがたいことのはずである。しかも、彼を手伝わせることは、彼を自分の同胞として引き入れる理由を手に入れることにもなる。これは、基本的には願ってもないチャンスであるはずである。
「おお、よく手伝ってくれたな。助かるよ。・・・どうだ、昼飯でも一緒に食ってくか」なーんて流れになることも想像に難くはない。金銭が媒介していると、相手をけ落として排除しなければいけない動機が存在し、金銭が媒介していないと、相手を自分の仲間として引き入れてともすれば互いに談笑したくなる動機が存在することになるのだとすれば、諸悪の根源は金銭による媒介だということになってしまう


全員が私たちの範疇であれば、「交換」などというイベントは起こらないはずである。
そもそも、「交換」というイベント自体が、「お前」と「私」という物語の成立を前提している。そして、交換というイベントが成立しそうになっているときに、「おいおい、ちょっと待ってくれよ。俺は、ここに「お前」と「私」という物語が存在することにまだ同意しちゃいねーぜ。」というような意味のことをぬけぬけと言ってのけることのできる人は少ない。

しかし一方でまた思う。「金銭の媒介がないときの、隣人を手伝うという行為」の成立もまた、「お前」と「私」という物語の成立を与件としている。
「お前」と「私」という物語のなかに悪が潜んでいる、ということではなさそうだ。


金銭は、「取引」「交換」の円滑化を媒介するが、同時に紛争の遂行の円滑化をも媒介するのではなかろうか。

おそらくそれは真実で、その理由は、紛争の遂行それ自体が仕事であるような場合というのが存在し得ることによる。

目的達成のための時間的ないしは手続き的なコストが高い社会においては、ちょっと複雑な仕事になるとたちどころにその達成が難しくなるため(道具の調達が困難化することがその理由)、そういう仕事はついつい後回しになりがちである。
金銭というのは、この「時間的ないしは手続き的なコスト」というのを劇的に低める働きがある。
それゆえに、金銭というのがあると、ちょっと複雑な仕事でも、なんなくこなすことができるようになる。この副次的な効果として、紛争の遂行が容易化する、ということがあるのだと思う。

銃を持てる社会と持てない社会の対比で考えると分かりやすいかもしれない。「銃を持っている」というのは単なる可能性でしかないわけだが、それでも、この2つの社会の間には、「銃で殺される人が出てくるか出てこないか」というはっきりとした決定的な違いが出てくる。
テレビを見るお茶の間のちゃぶ台の上に、テポドンを日本国土に向けて発射するためのボタンが設置されたとするならば、だれもいままでのように、呑気にそのちゃぶ台の前でテレビを見ることはできなくなるはずである。家族とワハハと談笑しているときに、手が滑って「あ」というタイミングで、不意にもそのボタンを押してしまったとしたら。そのボタンが、実は、テポドン発射のためのボタンではなく、親愛なる家族の一員に向けて発射されるべくその家の天井に仕掛けられた機関銃を発射するためのボタンだったとしたら。
ボタンそのものに罪はない。だが、人間は、つい感情的になったり、ついうっかりしてしまったりするものである。その「うっかりしてしまった」タイミングと連動してその危険なボタンが押されるということがないわけではないところに、システム設計上の大いなる問題点が宿っているわけだ。
そして私は、金銭においてもほとんどまったく同じようなことが言えるような気がするのだ。
金銭というものの存在が、つい人間が感情的になってしまったときに、紛争開始のためのアクセルを踏みやすくすることに加担しているのではないかと。

金銭と労働力の交換を伴うコミュニケーションにおいては、その金銭の持つ能力が、そのコミュニケーションに参画する2主体が発揮するその他のあらゆる信頼確認のためのコストを負担することを強制的に免除するがゆえに、それ以上の深い信頼的な関係へと発展することを妨害することに加担する働きを持つ、ということがあるように思うんだな。
幼い頃から金にまみれるとろくな事がない、と多くの教育関係者が叫ぶことにもこういった論理的な背景がちゃんとあるものだと思うんですね。


社会を豊かにするのは、私は、どんな状況であっても「子供力」と「生徒力」を持って子供たちが自らを成長させるつもりで、具体的には「私たちには足りないものがある。それを身に付けなければならない」と思って育つことだと思う。

ルソー的ですな。「子どもにとっての最善の教育は親が早く死んでやることだ。」でしたっけ。これをそのまま学校にも当てはめると、「子どもにとっての最善の教育は、教師がはやくいなくなってあげることだ。」になっちゃうけど、これってどうなんだろ。「教師不在の学校」というのがもしあって、それがちゃんと機能してたらそれはそれでモデルケースになりそうだが…。マンホールチルドレンが互いに助け合って生きていくための知恵を身につけることができるかどうか、それも今日明日のパンを手に入れるためだけではなくって、もっと長期的な視野で物事を見据えられる子がメンバーのなかに最低数人含まれていて、彼らの発言に耳を貸すものがちゃんといるかどうか。
こういうことを考えると、10歳でもできる子たちはできるだろうし、18歳でもできない子たちはできない気がする。この差はどこにあるんだろうねー。う~む…。


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