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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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希望はどこへ消えた? - 雑種路線でいこう

僕らナナロク世代って学生運動とか遠い昔だし、まだ親も教師も学歴社会とか信じていて、僕が物書きになりたいといったら進路相談を受けた教師は「東大の新聞研か、マスコミに強い早稲田に行きなさい」なんてアナクロ的なことしかいわないし。当時は日本の中等教育が世界最先端で、けど学歴社会であることが問題だなんて通説が囁かれていたから「君はアメリカに産まれたら中卒で活字拾いから始めて立派な記者になれたろうに、ここは日本だから受験していい大学に行くしかないのだよ」なんて、したり顔で説教されたものだ。

良くも悪くも、学校の先生が「考えない人」であってもそれなりに回ってた時代というのがあって、で、「考えない人」ってのは学校の先生だけじゃなくて、いい学校に入っていい会社に就職すればいい人生が約束されると無批判に信じていた人たちもそれなりに「考えない人」であって、つまり、考えない人がこの世の大半であっても全然問題が表面化しない時代であったと、そういうことではないかと思うんですね。
ところがこんにちのような経済的な混乱の時期になると、爆弾を落として無理矢理に需要をつくるか、考える人の割合を増やすかのどちらかしかほとんど選択肢はないわけで、いまから何十年か前の似たような時期には爆弾を落として解決したんだけど、いまそれをするとやばいから、考える人の割合をなんとか増やさざるを得ない、今まで考えてこなかった人も考える人に変身して頂くしかない、というところに来てると思うんですよね。だから哲学系の入門書が売れるとか、そういうことがあるわけです。


部活や色恋にのめり込みすぎ二度目の留年が決まって高校を中退し、大検こそ取ったものの受験勉強そっちのけでジャナ専のゼミに潜り込んだり遊び歩いてフロムやらライヒを乱読していた。サブカル界隈の些細な優越感ゲームとか等身大の悲喜こもごもは楽しかったけど、この先どこまでいっても革命を信じる人々がいたのは遠い昔で、内輪揉めや内輪受けの連鎖で世界と繋がっていない感じが物足りなかった。

この筆者の言う「世界と繋がっていない感じ」というのはどこに由来していると考えたらいいんだろう? 「革命なんて無理だよ」という感じというか。「革命なんて無理だよ。だって無理だったじゃないか。」ということなのだろうか。


1990年代初頭の高校時代はブルセラ・ポケベル全盛期、大人たちは相変わらず「近頃の若者は」というし、バブルが弾けて以来いずれ財政も年金も破綻するだろうし、安泰といわれた阪神で高速道路が横倒しになって、東海沖地震とかいつ来てもおかしくないし、世紀末に恐怖の大王が降ってくることになっていたし。遠距離の元カノが都の西北に受かって一人暮らしを始めるので駆り出されて新宿で新居の買い物を手伝っているとき、たまたま店のテレビで多くの人々が担架に乗せられて救急車に運ばれていくのをヘリコプターから空撮していたのが地下鉄サリン事件の第一報だっけ。
そんな夢も希望もなく刹那的に漂流していた浪人時代たまたま顔を出したぷらっとホームで、いつものエレベーターではなく階段を降りてみつけたインターネットのショールームに入り浸るようになって、本多のおやじさんと出会い、出入りする様々な人々と接する過程でライターへの道が拓け、ずぶずぶとIT業界にのめり込むことになろうとは。
僕が討論番組でディベーターをやっていた15年前から今と変わらないくらい政治も年金制度もぶっ壊れてて、希望も長期的展望もなかったけれど、糞真面目な奴は糞真面目に、俺のように不器用な奴は不器用なりに、刹那的な奴は楽しく生きてきた訳で、そこは大して変わらないんじゃないか。人生も相場と似て凪いでいると手の打ちようがなく、乱高下している分には期待を裏切られることはあっても、機会やら番狂わせだってある。

うむ。


今回の番組構成であざといと感じたのは、若者が若者らしい言説を語るようにNHKがオーディションで集めた滑舌の良い学生やら夢追い人であったのに対し、中年組が時間の関門を潜り抜けて功成し名を遂げた人々ばかりだったこと。中年も若者と同じようにオーディションで普通の人々を集めたら、或いは似たようなフィルタがかかるよう過去の討論番組のOB・OGを集めて中年組をつくったら、反対にそういう平凡な中年組と若くして功成し名を遂げた連中とを組み合わせたら、どんな議論になっていたのか意地悪い興味がある。意外と争点は世代よりは凡人と成功者との世界観や人生観の違いにあったのではないか。

あ、それ、俺も思った。その種の議論を「意地悪い」とこの筆者が書いているのはたぶん、「成功した若者と成功できなかった中年」という構図が、一種の儒教精神に反するものであり、精神的にそういう構図の存在に耐えることのできる中年はさして多くないだろうということに配慮したものではないかと思われる。NHKがそういう番組を組むことができないことにはそういう分かりやすい理由がある

しかし、この「分かりやすい理由」はいったい何を意味しているのだろうか。儒教の通用する範囲の限界を示唆しているのだろうか。どうも、そういうことではない気がするんだけど。
なんというか、「長く生きている者はそれだけで尊厳に値する」というテーゼが存在しているほうが、存在していないよりも僕たち全員を幸せにすると思うんだ。これだけ衛生的にも栄養的にも豊かになった日本という場所に住んでいるとなかなか気づかないが、そもそも「生きる」ということはとても大変なことなんだよな。ほら、「生き延びる」って言葉があるじゃない。いまの時代に、家庭とか職場に行って、「社長、私、今日も生き延びることができました。」なんて言ったら驚かれるだろうけれど、いちにち生きるってのはほんとはそう言っても全然過言じゃないくらいにとてもすごいことなんだよね。だからこそ、そういう試練をより何回もくぐり抜けていることには価値があり、そういう修羅場を踏んでいる回数が多い人、つまり、年長者は、それゆえに価値があるんだ。そんな気がする。

なのに、そういうことを忘れて、どれくらい成功しているかだけが唯一の評価基準だと思いこんじゃったりなんかすると、「成功した若者と成功できなかった中年」という構図に中年の側が耐えられなくなってきたりなんかしちゃったりする。これはちゃんちゃらおかしいことで、若くして成功しても死んじゃったらそれでオシマイだし、成功していなくても、少なくとも中年と呼ばれる年齢までは生きたってことだけでとてもすごいことだと俺は思うけどね。
宮崎アニメの「もののけ姫」の最後らへんに、「もうおしめえだ!」っていう夫と、「生きてりゃなんとかなるよ」って言う妻の遣り取りが象徴的なんだけど、この「生きてりゃなんとかなる」という言葉の持つ価値が、どうも、忘れ去られてきているような気がするんだよね。「生きてりゃなんとかなる」って言うと、「なんともならないよ!」って反論が来るというか。「いや、つーか、お前、いま生きてるじゃん。そういうせりふは、ほんとに死んじまいそうな奴が吐いていいセリフだぜ」というか。もちろん、会社にリストラされてアパートで餓死してしまうような方もいないわけではないようだから、一概には言えないんだけれども、「生き延びる」という点で言えば、例えば、犯罪に手を染めてでも生き延びるための方法はある。現にいまから半世紀ほどまえの日本では、飢えゆえの犯罪というのが横行していたわけだし、いまから数百年前のイギリスでも、犯罪の80%は飢えによるものというデータも出ているそうだから、犯罪に手を染めるというのは、時代によっては、十分に合理的な生きるための手段になりうる。

なんというか、或る程度以上に豊かな社会においては、労働者において、記号レベルでの死を生き物レベルでの死に同一視する機構が働いちゃうがゆえに、会社にリストラにされそうだという予期が働いた段階で自殺という選択をしてしまうというか。
なんでそうなるかというと、或る程度以上に豊かな社会では、生き物レベルでのゲームをする必要がないがゆえに、生命の安全は少なくとも担保されているところで、記号レベルでのゲームに従事しなくちゃいけないんだけれど、人間(の身体)は、あるゲームが生き物レベルであるか記号レベルであるかを区別することができるほど賢くないので、そういうことになっちゃうんだと思う。
生き物レベルのゲームと記号レベルのゲームを区別できるようになるためには、日常的に生き物レベルのゲームに従事することが有効で、だからこそ、普段はパソコンをいじるなどの情報処理が仕事のビジネスマンが、登山とかロッククライミングとかサーフィンとかの、要するにアウトドア系の趣味を持つことがとても重要になってくるんだと思う。
こういうことを通じて、身体に、「こういうのが生き物レベルのゲームだ。ね、ほら、普段やってるアレは、全然これとは違うでしょ?」ということを分からせることができるというか。
鬱になったら海に行けばいいというのは論理的にも説明がつく話なのである。


さて、とはいえ、或る程度歳を食った者が、頼れる人もいないといった状況で新しい仕事を見つけるというのが困難なことであるらしいということはそれなりに承知している。そこで、「長く生きている人間を大切にしなければいけない」といった道徳律を叫ぶことが有効でないことは確かだ。
しかし一方でまた思うのだ。なぜ世間の多くの人は、そういう中年もしくは初老の人を、助けようとしないのだろうかと。その人が、血のつながりがある人間だったり、仕事か何かで縁があったりする人間だと、なぜか助けなくちゃいけない気がしてくるものである。これは不思議である。遺伝学的には、人類の祖先はみな共通であることが分かっているので、血のつながりがあることを助ける理由にするのならば、自分にすがってくるすべての人間を助けなくちゃいけないことになる。これは論理的にそうなる。
思うに、これは、ほとんどの人が、「知のつながり」教と「縁」教という2つの宗教に強く感染していることによるものではないだろうか。すなわち、これらは、「どこまでが仲間であるか」「割くことのできるリソースが限られている場合に、どの人間から優先的に配分していくべきか」という問題に、或る程度現実性をもって対処するために「発明」された宗教なのではないかと。
それはいいのだが、ではなぜ、「血のつながりがあったり、過去に縁があったりする人間を助けることのほうが、どこの馬の骨かも分からなかったり、いままで見たことも聞いたこともない人間を助けることよりも効用が高い」と判断されるのだろうか。おそらくそれは、「血のつながりがあったり、過去に縁があったりする人間のほうが、いざというときに自分を助けてくれる確率が高い」ということや、「どこの馬の骨かも分からない人間だったりすると、寝込みを襲われたり、寝首を掻かれたりする可能性が、そうでない人間よりも高く、要するに信用が低い」ということなどが、実質的には効いているのだろう。
だとすると、この種の宗教が存在することにも、合理的な理由があることになる。
でも、私は必ずしもそうじゃないと思うんだな。で、だからこそ、「歳食った人が仕事を見つけるのが困難」というような状況が生じるのだと思うんだ。この種の宗教が持つ非合理的な部分が、「歳食った人が仕事を見つけるのが困難」というような状況を発生させ継続的に維持させるのに加担しているのではないかという直観が、ぼくにはあるんだ。あるんだけれども、いまはこれ以上説明できそうにない…。


恐らく番組中の若者が口々に語る平凡な不安やら願望は決して世代的な愚かさではなく、社会に居場所を見つける前の小市民であれば誰もが抱く期待や不安であって、その日本人の心性って戦後の数十年で大して変わらなかったのではないか。どちらかというと経済環境の激変で、動機付けの仕掛けや夢を与えるシステムが陳腐化しただけではないか。衣食足りて立身出世が動機付けにならなくなってから、高度消費社会に舵を切ったがバブル崩壊もあって長続きしなかった。中高年リストラが大きく報じられて年功序列・終身雇用が疑われ、ロスジェネや高学歴ニートの増加で学歴社会が疑われた。けれども親も教師も、いい学校を出ろ、いい会社に入れ以上の何がいえよう。

うむ。


年末シューカツを始めた妹から相談があると電話を受けて初めて飲んだのだが「軽い資格よりまずは英語を勉強しろ」「B/S、P/Lが分かっているかは別に能書きだけでも面白いから受ける会社の決算書くらい読んでおけ」「夢を追うなら新卒ではなく、夢を諦めきれなかったとき30歳までに何を身につければ中途で叶うかも知れないか調べろ」「どうせ外から仕事なんてみえないんだから入りたい会社なんて考えるな。ともかく居場所をつくれそうなところに入ってしまえ」なんて月並みな助言をして激しく自己嫌悪に陥った。自分らしくやっているつもりでいながら、虚飾に惑わされて平凡な保守オヤジになっちゃいないか。

これを「月並みな助言」と一蹴するこの筆者の目標の高さにはちょっと感動する。


年金とか教育の問題を政治的に解いていく必要があることは確かだけれども、いつの時代だって希望と恐怖、楽観と悲観とが同居しているのが常で、何でもお上のせいにして国や会社の庇護を要する人々と、そういったレールを飛び越えて飛翔するひとがいる。それは世代とか政治の問題ではなく、気の持ちようとか運や縁ではないか。そういう意味で昨日のNHKの番組で、特に若者をフォローする側の勝間さんや本田さんの発言が、若者が希望を持てない状況を正当化してしまったとすれば、それはちょっと残念だ。これから9割以上の若者にとって厳しい時代ということは確かだが、中年組でアジっているレベルの人々はGDPの推移とは別の次元で勝ち上がってきたのだろうし、彼らの未来が決して最初からは約束されてはいなかったことだって一方で事実ではないか。

うん。


僕は勝間さんが若者世代の代弁者として経済論争・政策提言に携わることを強く支持する一方で、勝間さんの言動に注目している人々が彼女の本から元気をもらおうとしているのではないか、そういった人々が他責とも取れる若者擁護論を展開する勝間さんからどういった影響を受けるのかを少しだけ心配している。自分は自分で這い上がるとして世の中が少しでも筋を通すよう働きかけようという姿勢ならいいが、悪いのはお上で世の中の筋が通らないから自分が希望を持てず不遇なのだという考えは本人を不幸にしてしまう。世代会計や税制の損得勘定に対する政治的センスは時に有用でも、産まれる時期や境遇を選べやしないのだし。

希望は計算の末に生まれるのではなく、退蔵していた情熱が偶然の出会いに触発されて発露することもある。どんな希望や情熱も打算の先にある訳ではないし、僕らは誰も的確な夢を見るほどに物識りじゃない。与えられた訳じゃない希望を自分から追っかけることのできるロマンチストはいつの時代だって多くはなく、彼らの目論見の多くは期待外れに終わる。世の中が若者に対してシステマチックに画一的な希望を与えられなくなっているとしても、そういった枠組みの外側で時代は動き、どこかで希望を持って世の中を変えるかも知れない異才は登場し続けるだろう。日本の未来へ向けて教育投資を上積みし、若年層の雇用機会を増やすことの重要性は論を俟たないけれども、そうでない日本の現状は若者が希望を持たない言い訳にはならない。

最近『本人』でひろゆきがロングインタビューで「でもまれに、ポジショントークじゃない「素」のすごい人もいるんですよ。キチガイと紙一重みたいな。世の中を動かしているのは、そういう素の人じゃないかと思います」と話しているのだが、本当に重要な変化は社会による動機付けの外側から産まれる場合が多いのではないか。お仕着せの希望は社会の安寧や生産力への動員のためで、雇用を通じた希望が失われつつあることを裏返せば産業側が今以上の動員を望まなくなっている訳で、この100年近くで地域社会が崩壊して経済への生活の依存度が高くなっているから、失業や経済の先行きに対する不安が貯蓄率や出生率、或いは生存に対する危機に直結してしまうが、会社や政府が若者に希望を与えられない現代の先にある世界が、どういうものとなるか見通せていない。

ひろゆき自身がその「素のすごい人」の一例ではないかと思うのは私だけだろうか。


時代を動かすような希望って政府や会社から計算ずくで与えられるモノではなく、たまたま何かに触れて気付き夢中になるような何かではないか。

まさしく。人間そのものは人の陳腐な知性では計りきれないものをもの凄くたくさん宿している。
小手先のテクは人はなかなか動かない。結局人は、動いている人に触発されるかたちで動き出す。楽しく働いている人のもとで働くと自然と楽しく働けるようになる。もちろんこれは一般論で、いつも妥当するわけではないが、計算ずくのそれよりかはまだ幾分かはマシだろう。


僕は本多のおやじさんや彼を慕って出入りしていた人々から、様々なかたちで希望の欠片を受け取ったのだろう。彼らは僕に何か与えようということではなく、自分自身が夢中となって希望を追っていた。希望を誰かと共有することは、まだ希望を捨てていないひとの特権だ。本当の希望とは他人を操るためのポジショントークではなく、自分にとって素で追っかける価値のある何かではないか。自分は今も希望を持って生きているだろうか。その希望を誰かと共有できているだろうか。目先の些細な政治や虚飾に翻弄されていないだろうか。結局おやじさんが枕元に現れたのは仕事しろってことか。反省。

メタレベルで希望が共有されている組織はいい組織だと思う。そしてその共有は多くの場合、顕在的なものではなく潜在的なものではないだろうか。同じ「希望」を持つなら、自分で価値があると信じられる希望を持ちたい。そう願う。

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日本では地上デジタル放送に「ダビング10」というコピー制御信号が埋め込まれ、視聴者の無制限なコピーを防いでいるが、米国では現在もデジタル放送に DRMをかけていない。
2009/04/24(金) | ecostock
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