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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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プライドの高そうな表現 - 蟹亭奇譚

彼の行方は杳として知れない。

 「はっきりわからない」ではだめなのか。


ダメな場合がある、ということだと思う。
要件が通じればいい事務的な連絡事項であれば、「はっきり分からない」でもいいと思うが、これが文学作品だったらどうか。「杳として」という言葉を使わなければ表現できないもの、この言葉をつかったほうがより作家自身が伝えたいことを伝えられると判断された場合は、「杳として」という表現を使うことを、許してあげてもいいんじゃないか。



寡聞にして知らない。

 辞書には「見聞の狭いこと。主に謙遜の意で用いる。」とあるが、ちっとも謙遜になっていない例である。


謙遜と感じるかどうかはひとえに、その言葉を発する側と受け取る側の関係性の問題である。だから、過剰敬語だと逆に失礼な意味になったりするし、貴様とかお前とか、もともとは尊敬語だったのにいつのまにかぞんざいな言葉になっていたりすることが起こる。
「寡聞にして」も、いまから百年後くらいに、謙遜の意味として使用できなくなってしまっている可能性も、ないとはいえない。



蓋し名言である。

 本来の語義を失い、もはや「名言」にかかる枕詞と化しているようである。

 これらの月並みな表現は須く濫用を慎むべきだと思う。


言葉は道具なので、それ自体にいい悪いはない。使う人間によって良くも悪くもなる。大事なのは、使う側がどういう気持ちで、どういう意図でこういう言葉を使っているかだ。

使う人間が、顕示目的で、すなわち、「俺はこんなに知ってるんだぞ!どうだ!お前らとは違うんだぜ」という意味を込めて使いまくれば、自然と、その言葉にはそういう「怨念」がこもってきてしまう。

また、聞き取る側の誤解という可能性もある。
「ふつうそんな言葉は使わない。そんな言葉を使うやつは、顕示目的に決まっている」と思い込んでいるがゆえに、その言葉を使う人間の微細な文脈に対する感受性が鈍くなっている人間は、たとえ使う側の人間に野卑な気持ちがなくとも、そのように伝わってしまう。



さて、ところで、この「文学的」という言葉の意味についてだが、どこらへんまで皆さんに理解いただけているであろうか。
「杳として」とか「寡聞にして」という言葉を使うことで、どういう効果があるのか。その効果というものが、顕示や誇示というところにないのだとすれば、どこにあるというのだろうか。
「味わい」とか「深み」と言ってしまえば一言で済むわけだが、それ以上に言葉を尽くして説明することができるだろうか。

私はこれは、「時代性をプールする」ということが、「文学的」という言葉の意味ではないかと考えている。
時代性。物語性、文脈、と言ってもいいかもしれない。
ある言葉が選択されるということは、つねに、「その言葉が使われなかったならば使われたかもしれないものすべてを事前選択的にプールする」という性質があるが、それ以上に、或いはそれとは別に、それとは別の次元で、その言葉が使われざるを得なかった文脈、すなわち、その言葉がそれまで歴代どいういう文脈で選択されてきたかというヒストリーそれ自体をプールするという性質がある。そのヒストリーが描出する世界観それ自体をプールするという性質がある。

寓話作者が、自分の頭のなかにある「この世界観」というものを表現したいとき、どういう手段を講じるか。
論理的にはそれは、「その世界観をこれまで描き出してきた実績のある言葉」を流用するというのが、もっとも簡便にしてお手軽な手段である。

日本のいまの、中学生までの義務教育で習う言葉だけを駆使して、なんらかの架空の世界観を描き出そうとしても、それはおのずと限界がある。
あらゆる学習者は、「いま」「ここ」にあるものを表現することから言葉の学習を始めるが、それだけでは、どうしても学びに限界が生じてくる。
その学びの限界を突破するには、どうしても、「いま」「ここ」にはないもの「いま」「ここ」ではないものを表現するための方法を身につけることが重要だ。そしてそれこそが僕たちが、「杳として」とか「寡聞にして」とかいう言葉を学ばなくちゃいけない理由なのである。

「寡聞にして」とか、「杳として」とか言った言葉を自然と使うためには、そういう言葉が自然に使われていたであろう時代や空間や物語の登場人物と自然にコミュニケーションができるという錯覚に酔うことができていなければいけない。それはもしかしたら、昭和初期の頃かもしれないし、明治時代なのかもしれないし、もっと前かもしれない。もしかしたら、というよりも究極的には、そのような言葉が使われていた時代というのは史実上にはどこにも存在しないのかもしれない。でも、そういうことはあまり重要ではないのだ。重要なことは、「こういう言葉が日常の自然の言葉として使われていた時代や空間がきっとあったはずだ」とどれだけ本気で信じることができるか、というところにある。

「寡聞にして」とか「杳として」という言葉を使うことは、「いま」「ここ」という時代に生きながら、「いま」「ここ」に生きなければいけないことの苦しみ、自分が「いま」「ここ」というとき・場所に釘付けにされていることからくるどうしようもない呪縛感・拘束感をつかの間緩和してくれる、忘れさせてくれると言った風邪薬にも似た効用があるのです。

事実、こういう言葉を要所要所で使うことのできる人たちは、そういう言葉を使っている間にも、粛々と「瞬間的な現実逃避」を遂行することができるがゆえに、精神的にもストレスをためない傾向があるように私は思います。(もちろん、ストレスをためない方法はほかにもあります。ここで言いたいことは、こういう言葉を使うことにはそういう効能もある、ということです。)

前に内田樹氏はこういうことに際して「ワープする想像力」という言葉を使いましたが、
日常生活において、ふつうに仕事をし、ふつうに家族と接するという、はためには「いま」「ここ」に釘づけられているに違いない生活を送りながらでも、「いま」「ここ」ではない空間に精神的には住むことができている人たち
というのがたしかにいて、そういう人たちは、家にいながらにして、或いは職場に居ながらにして、世界中を一人で旅行しているのと同じような気分に浸ることができているんだと私は思います。


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