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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい - 内田樹の研究室
「愛神愛隣」というのが神戸女学院の学院標語である。
「神を愛し、隣人を愛す」
簡単な言葉のようだが、これは実に解釈の困難な聖句なのである。
この聖句自体はイエスのオリジナルではなく、ユダヤ教のラビたちによって古代から連綿と伝えられた口承である(と飯謙先生に以前教えていただいたことがある)。
へぇ。ラビすげぇな。

というか、どういうのが口承になるかってのは、どの程度文化依存的なんだろう? ラビたちがすごいのは、どちらかというと、そのひとりひとりが凄かったというよりかは、集合知の成果ではないかと思うんだけど。

で、仮にそうだとすると、いつもいつも「こんなかんじの集合知の成果」になるわけじゃないのではないかという気がするということ。集合知の特性を活かして若しくは十分に理解してその恩沢をできるだけ引き出すためには、私たちはどうすればいいのだろうか?


「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という聖句をふつう私たちは「自分を愛することは容易であるが、隣人を愛することは困難である」と解する。
私たちは「自分を愛する仕方」は熟知しているが、「隣人を愛する仕方」はよく知らないと考えている。
だが、それはほんとうだろうか。
私たちは自分を愛する仕方を熟知していると言えるであろうか。
例えば、私たちの国では年間3万人を越える人々が自殺をしている。
彼らは「自分を愛している」と言えるだろうか。
家族の愛や友人から信頼を失って、「こんな私に生きている価値はない」と判断して自殺する人がいたとする。
その人の場合、「こんな私に生きる価値はない」と判断した「私」とその「私」によって死刑を宣告された「私」の二つの「私」のどちらが「ほんとうの私」なのであろう。

「ほんとうの私」とかいうものを、なした行為の集積として定義するならば、まず、「こんな私に生きる価値はない」と判断した私は少なくとも「ほんとうの私」の一部である。
で次に、その私によって死刑宣告された私が「ほんとうの私」の一部であるかどうかだが、これにはいささか注意を要する。
というのは、生きる価値はないという判断と、死刑宣告するという行為とは別だからである。
内田氏はたぶんこの文脈においてこの2つを一緒のものとして取り扱っているんじゃないかと思う。
それはそれでいいのだが、少なくとも、「(自分が受ける)刑罰の宣告者としての資格が自分にはある」という予断がそこにはある。
刑罰というのは多分に〈集団〉をプールする概念であるので、集団生活というのを体験したことのない個体が、「刑罰の宣告者としての資格がうんぬん・・・」というような話をすることは、これは論理的に有り得ないことである。

「判断した私」というのは、たしかに上述の定義にそのまま沿うかたちで是認可能である。
が、「死刑宣告された私」というのはどうであろうか。
動詞の主語が〈私〉を構成する要素の一部であるという主張には私は首肯することができるけれども、動詞の目的語が〈私〉を構成する要素の一部であるという主張には、どうも首肯することができない。
この意味において、「死刑宣告された私」は〈私〉の一部を構成しない。

だって、「死刑宣告された私」という言明は、すでにして、「死刑宣告された私をながめている私」の存在を前提してるでしょ。
ながめている側とながめられている側が同一であるような状況というのを、ある瞬間の時刻における描像としてイメージすることができるかどうか。
そのような状況が成立する例をわたしはいまのところ一つしか思いつかない。
それは、「鏡」である。
「鏡」を前にしたとき、私たちは、「見ている側と見られている側が同一である」という状況を奇跡的にこの地上に生じさせることができる。

ある自殺予定者は、鏡を前にした状況というのをこころのなかでイメージしている、というふうに捉えればよろしいのか。
そして、鏡に向かって、「お前は死刑だ!」と、言う。
「死刑宣告をしたことの正当性と、その死刑宣告自体の正当性のこの2つを担保することができるくらいには、〈私〉の価値はあるけれども、それ以外の点においてはううむ…と言った状態なので、私は自殺することにしたのだ」というふうに説明する人間がいたとしたら、いまの私の目には少なくとも、そこに論理的な瑕疵は存在しないかのように映じてしまうだろう。

 
そもそも向上心というもの自体が「今の私では満足できない」、「私自身をうまく愛せない」という事実から推力を得ているとは言えまいか。

それはいくらなんでも卑屈すぎるでしょ内田センセイ。

というか、この記述は、「無条件の愛」と「条件付きの愛」を混同しているところから来る疑問であるような気がするよ。

聖句が言ってるのは「無条件の愛」。いるだけで価値があるっていうやつやね。
これに対し、内田先生がお書きになったこのような疑問文が前提しているところの愛は、「条件付きの愛」。「テストで80点以上とらないような子はうちの子じゃありません。」とかいうのは、これは「条件付きの愛」だよね。


人から「愛している」と言われて、「このままではいけない」と生き方を改める人間はあまりいない。

これもその、うえで書いたことと重なるんだけれど、「愛してる」という言葉の意味が、無条件の愛としての意味であるか、条件付きの愛としての意味であるかによって、受け取る側のこころに生ずるべきレスポンスが異なってくるよね。
「きみはすごい。今回も100点だ。」と言われた子がいたとして、かつ、その子が、評価されることによって動機づけられたとすると、その子はそれ以上の向上心を失してしまうだろう。
でも、例えば、男女間の愛であるとか、親が自分の子どもに注ぐ愛であるとか、地域社会のおじちゃんおばちゃんがその地域の子どもに対して注ぐ愛であるとか、子どもが親に対して注ぐ愛であるとかいうのは、そういった愛じゃない愛だと思うのよね。
「なんにもできなくても、ただ生きているだけで、おまえは愛される資格があるんだ。」という命題がそこにはある。

実利的な意味で社会に有用であるような人材が存在することと、個々人の尊厳をべつの個々人の受け入れ態勢の集積が保証するということは、やっぱり、分けて考えないといけないと僕は思うな。
でも、かりにそれが社会正義だとしても、一方で、「さまざまな事情により、分けて考えることがついついできなくなっちゃう人たち」が組織的に量産されているような現状もまたあるわけでね、これをどうするかという問題に対して、さきの指摘はなんらの恩恵をももたらしてくれないわけです。
私たちは、地域社会的な権能が大きく作用する状況下で(つまり、契約社会的な負担免除が機能しているがゆえに、地域社会に固有のものに依存しなくてもいい状況下で)、ついつい僕たちは、「双方の合意があってはじめて契約というものは成立する」という命題を当たり前のものとして受け入れてしまいがちです。
でも、人類史的にみれば、これはそれほど当たり前ではないと思うんだ。
「一方的な契約」のほうが、「双方の合意のもとに成立する契約」よりも多い時代というものが存在していたと思うんだ。「双方の合意のもとに成立する契約」は、たぶん西洋起源だと思うけれど、そういうのがひろく普及する以前は、「一方的な契約」のほうが自然な契約だったと思うんだ。

「一方的な契約」は、「無条件の愛」と非常に親和性が高い。

とりわけ、「無条件の愛」を必要としたであろう人々が数多く生きていた時代において、「一方的な契約」が契約の自然な形態として受容されていたことは、偶然ではなかろう。
そういう意味において、こんにち、この「無条件の愛」の需要が高まっていることは、非常に自然なことであると私は思う。


でも、人から「嫌い」と言われたら、よほど愚鈍な人間以外は、すこしは反省して、生き方を変える機会を求める。
だから、隣人たちの向上心を沸き立たせ、彼らが自己超克の努力に励み、ついには「自分探しの旅」に旅立るように仕向けるためには、隣人に向かって、「お前なんか嫌いだ」と言ってあげることはきわめて有効なのである。
現実に私たちは日々そうしている。
気がついていないだけで。
だから、まわりを見まわしても、「自分を愛する」仕方を自然に身につけている人は少ない。
それよりは権力や威信や財貨や知識や技芸によって、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」という迂回的なしかたでしか自分を愛することのできない人間の方がずっと多い。
だが、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」ほどのリソースを所有している人間はごく少数にすぎない。
だから、結局、この社会のほとんどの人間はうまく自分を愛することができないでいるのである。
資本主義市場経済というのは「私はビンボーだ」という自己評価の上に成立している。
「私が所有すべきであるにもかかわらず所有していないもの」への欲望に灼かれることでしか消費行動はドライブされないからである。
同じように、高度情報社会も格差社会も知識基盤社会も、どれも「私は今のままの私を愛せない」という自己評価の上に成立している。
「私は私によって愛されるに足るほどの人間ではない」という自己評価の低さによって私たちは競争に勝ち、階層をはいのぼり、リソースを貯め込むようになる。
私たちが私たちを愛せないのは、私たちのせいではなくて、社会的なしくみがそうなっているから当然なのである。

「条件付きの愛」の次元と「無条件の愛」の次元は、根本的に違うんだ、ということ。
おなじ「愛」という言葉を使っているからややこしいんだけれど、概念としては、この両者はかなり違う。

内田氏はおそらく、「こんにち、愛といえば条件付きの愛だろJK、というふうになっちゃってるのは、社会的なしくみがそうなのだからしかたないのである」というようなことを言いたいのであろうが、私は、どちらかというと、いまが転換期であるような気はするんだな。つまり、西洋発の「条件付きの愛」なる概念の有用性があまりにも認められすぎたために、私たちは、この概念を適用すべきでないところにまで過剰に適用してきてしまっているということがあり、そのことにいま人々は気づきつつあり、またそうであるがゆえに、もう一つの愛、「無条件の愛」が見直されてきている、というような事況にあるのではないかと私は思うのです。「愛といえば条件付きの愛だろJK」というのは、時間依存的(もしくは文化依存的)な命題なのです。


私たちの生きている時代は「自分を愛すること」がきわめて困難な時代である。

これも同じことだよね。
「である」と言い切ってしまうよりも、「であった」と表現したほうが、人々の転換意欲を賦活すると思うんだがどうよ?


マタイ伝の聖句には「主を愛すること」「私を愛すること」「隣人を愛すること」の三つのことが書かれている。
本学の学院標語は「愛神愛隣」のみを語り、「愛己」については言及していない。
それは「愛己」が誰にでもできるほど容易なわざであるからではなく、その語の根源的な意味において「自分自身を愛している人間」がこの世界に存在しないことを古代の賢者はすでに察知していたからではないかと私は考えるのである。

私はそうは考えない。そして、内田先生がそのように考えてしまうのは、無条件の愛と条件付きの愛を混同していることに原因があるのではないかと思う。
古代人の集合知をして、「愛己」のありえなさが無意識的に感知せられていたとはどうも考えにくいんですよねぇ…。


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