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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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長文注意。



「平日、子供に学校を休ませてTDL」で、何が悪いの?  賛否両論の嵐

今と昔の休みのとり方に関する感覚の激突を象徴するような内容です。賛否両論があるのは関心がある証拠でもあります。タブーを議論することは、わだかまりを解消するのに最も適した方法だと思います。細部の記事をご紹介します。

教室にやってくる小学生が、「東京ディズニーランド(または沖縄旅行、など)に行くの」と言い、レッスン休むことがこの地方都市でもしばしばあります。それもたいてい2泊3日くらいのスケジュールで、飛行機利用のツアーらしいのですが、それが土日をはさんでの金曜日または月曜日を休む、というのではなく、火、水、木といった週の真ん中、またはあと少しで夏休みなどというときなのです。つまり、夏休みや週末はツアーが高いため、平日の安い時に学校はまるまる休んで旅行するのです。

「学校にはなんていうの」と聞くと、「旅行に行くって言ったよ、先生はそう、と言ったよ」というので、時代は変わったなあと思いながら、こういうのは最近は普通のことなのだろうか、と思うのです。

これはどう考えても先生に問題があるだろ。
「そう」ってなによ「そう」って。
「そんな理由で学校を休んでいいと思っているのですか」って切り返すのが、ふつうの、常識的な教師の対応だと思うけれどもね。

とは言うもののですね、この手の親御さんは、昔から何人かはいたんですね。
「べつに、学校の勉強できなくても、要は、食っていけたらいいんでしょ?」みたいなことを、堂々と教師に向かって宣告する親。
はい。昔からおりました。

でね、たぶん問題は、「そういう奴が増えてきてる」ってことなんじゃないかな。
「赤信号、みんなで渡れば、こわくない」的にね。

むかしは隠れてコソコソやってたことを、堂々とやる人間が増えると。
こういうことが起こっていると、どこかで、構造の転換、みたいなのが起きますよね。
「常識のほうが変わってくる」というか。

常識っつーのはつまり、「どういうことはコソコソやるべきことであり、どういうことは堂々とやるべきことなのか」に関する認識でありますから、その認識についての社会的合意が、多数派のそれにひきずられがちになることは、これは、防ぎようのない事実なのでございます(防ぎようのない、って表現は不適切かもしれないことを付記しておく)。


お子様に学校を休ませて旅行をさせますか、させませんか?お子様をお持ちのおかあさんたちに、その気持ちをおたずねしたいです。学校の先生の対応はどうなんでしょうか?

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0303/228095.htm?g=01
わたしが子どものころは、学校を休むとそこの勉強がわからなくなるから夏休みなどに旅行はしていたのですが、学校を休んで家族旅行をする、というのがいまひとつわかりません。こどもの話にどうリアクションしたらいいかいつもちょっと困るのです。

そのー、アレですよね、つまり、「休んでも、あとで先生が教えてくれるから大丈夫」的な。或いは、「塾の先生が教えてくれるから」とかね。「いま、その場にいて、聴かないと、学べないことがある」っちゅー認識が決定的に欠けとるから、そういうことになるわけ。

例えばね、小学校でフナの解剖をやったとしましょうよ、工場見学にいったとしましょうよ。誰が、一人の欠席者のために、もう一度工場見学をやりましょうって言い出してくれるとお思いですかい?(笑)

そこなんですね。いや、これは例示があまり適切でないかもしれない、座学であってもこれは同じことですよ。・・・と言っても説得力ないかもね(苦笑)。
だから、これはどちらかというと、「学校を休むと勉強が分からなくなるから」じゃないんだよね。
もちろん、中学とか高校くらいになってくると、たしかにそれもあるかもしんないんだけど(それでも、友達のノートのコピーをなぞり読むだけでそれなりに分かっちゃうという確信がある人間におかれては、この論理はほとんど無効なんだけれども(笑))、小学校というのは繰り返してくれるんですよね。
基本的に、漢ド、計ド、の世界ですから(漢字ドリル、計算ドリル)。

授業中はなにやってるかというとそれの答え合わせをやってたりするわけね。一方でじゃあ、公文式とか、そろばんとかを自前でやらせてる親御さんのお子さんとなってくると、ほとんどその計ドをやる意味というのがね、少なくともその子自身の計算力の向上という点においては、ない、と、言う例が、実際に、出現してくるわけです。
だから、そういう子が学校にいて、計ドの答え合わせを、そのほかの子どもたちに混じってやることの意味ってのは、もっとほかのところにあるわけ。ひとことで言っちゃうと、「集団生活そのものを学ぶ」ということですよね、たとえば、となりのともだちに教えてあげるだとか、そういうことも、その子自身の学びの一つになってくるわけ。
だから、学習指導要領に規定されているような事柄だけを習得すればいいというものではないわけね。指導要領ってのは、やっぱりあれは、形式ですよね。建前というか。建前は、一応、建前として、必要だから、一応、つくってあるという感じでですね、それをそのまま杓子定規に受け取ってしまうことは、やはりあまりよろしくないわけです。
あるいはまた、指導要領の製作者がたが見逃している学習のポイントというものがまったくないとは言えない、といったことも、一つの、こころに留めておかなければいけない点ではないかと、存じます。


反対派
・「学校はルールを学ぶ場所。ルールを破ってまで個人の楽しみを優先させるのはおかしい」
・「病気と冠婚葬祭以外では休むべきでは無い」
・「多分に親のエゴ」
・「子供には長期の休みがある十分。昔は休んで遊びに行く人なんていなかった」
・「学校を休まなければ親子のコミュニケーションはできないものでしょうか。まるで工夫というものがない」

まあ、自然な、よくある意見じゃないかなあと思います(悪く言えば「ふるくさい」「あたまがかたい」ということになろうが。もちろん私は、そのような言いぐさを自らの口から吐く気はいまのところない(もう吐いてるとか言う突っ込みはなしで(笑))。)。


 賛成派
・「世の中には平日にしか休みが取れない親もいる。休みの取れるときに家族一緒で過ごす時間を大切にしたい。」
・「土曜、日曜日休める人ばかりでは無い。」

これは、社会構造の変化、とくに労働環境の変化、ということがたぶんに反映していることが見て取れるご意見ですね。
それこそいまから一世代二世代ほどまえ、とかになりますと、コンビニとかファーストフードとかも全然なくてね、正月三が日はみな商店街、デパート、スーパーは閉まってる、というようなことが当たり前じゃったわけです。

ところがいまはどうですか?

ね。

そこなんですよ。
土日に休みが取れないお父さんお母さんが、愛するわが子とともに遊覧する時間を持ちたい、そしてそのためには、学校生活の一部を犠牲にするしか選択肢がない。そういう親御さんがもしおられたときにね、あなたはその思考を否定することができるか。

わたしは、やっぱりすぐにはできないですね。

ただ、やっぱり、そういう手段を行使する場合でも、それを堂々とやることは、学校を取り巻くコミュニケーション圏の社会規範をみだすことになりかねないですから、やっぱり、そういうことへの配慮というのは、一つ、欲しいところでございますね。

その、ウソも方便という言葉があるじゃないですか(以下略


・「これは子育てが一段落した親の意見です。子どもの頃もっと家族で行きたかった。」

これは笑止ですね。親が親としての役割を担い切れていない一例かと。


・「学校ってそこまで重要なものなの?」

学校の重要性を否定したいならば、まず、学校よりも優先されるような事項を提示する必要があるように思います。
それを提示することなしに、学校の重要性を否定することは、これは論理的に不可能です。


・「この真面目さが『休暇が取れない日本人』を継続的に世に送り出している」

そうおっしゃるからには、諸外国では、「周遊目的で学校を休むことが広く受け入れられている」という例が少なくとも一つはあるということなんでしょうなあ。どこでしょうかその国は? 是非教えて頂きたいです。「そういう文化があるところで、学校という制度が果たしてどの程度までまともに機能しうるものなのか」というところに興味があります。


・「極端ですが、1年学校を休んで両親と世界を地に足をつけてじっくり見て回った小学生がいたとしましょう。私ならこの小学生は良い体験をし、人生でかけがえのないものを得たと感じます」

そういう体験が、かけがえのない体験になる子もいれば、ならない子もいるでしょう。

実際には、そういう体験は、貧困や家庭環境の崩壊等が原因で学校に行くことがままならない子どもたち(の一部)が、自らの意思とは無関係に体験させられていて、そういう体験を通じて、かけがえのない体験をしたと語る子が出てくる一方、ふつうに学校に行ってたほうが良かったと語る子もまた出てきます。
要は、かけがえのないものを得るかどうかは結果論でしかないところが多分にあるということです。

そして、仮に、裕福かつ円満な家庭環境に置かれながらも、両親の裁量で、その両親の子どもを1年間学校に行かせないという判断をしたときに、或いはそういう判断をしたいときにどうするべきか、ですけれどもね、もちろんこれはハイリスクハイリターンな側面がたぶんにあるということを十二分にご承知頂いているという前提ですが、学校の教師というのは、基本的に、杓子定規に物事を判断しますから(笑)、具体的に言うと、「悪いことは悪い」というやつですね、悪く言えば「あたまがかたい」と、言うことです、これにどう対処するか、ということにおいては結局、方便としてのウソの行使、以外に、双方が円満的に暮らしてゆく術はないわけです。
もちろん、学校の教師は、そのウソがウソであるとわかり次第、子どもを親の手から取り戻さないといけない義務が生じます。だから親の側も、あるていどそのことは踏まえるべきですね、もし自分に確固たる教育理念というものがあって、それを貫徹することが社会正義であると確信しているのであればね。

へんなところに話が飛びましたけれども、一言で答えると、「すべての子どもにそれを認めることはできない」ということです。で、学校というのは、特に公教育の場というのは、子どもを等しく扱わなければいけませんから、そういう意味でもですね、学校側としては、かかる主張は認めがたいということに、なるでしょうね。


・「学校が絶対というのは、むしろおそろしい考えかたのような気がします。

それは、たしかにそういう側面もあるんですが(←一般論として)、だからといって、それは、親の個人的欲求を満足させるための手段として用いられるというのは、なんかおかしい気がしますね。

万引き犯が、「法は絶対ではない。法が絶対というのはむしろおそろしい考え方だ。」と言えば、放免されるのかどうか。たぶんされないですよね。そこらへんですよ。


様々な意見がでています。教育現場からの意見を見ていると学校側も「平日に休ませて旅行」は認める傾向にあるようです。

それはなんかかなりヤバい気がしますね。


 結局、議論は白熱しながらも平行線を辿っています。賛成派と反対派の一番の違いは、“学校”というものに対する捉え方のように思われます。確かにかつて主流だったはずの「学校を休んで旅行なんてとんでもない」という価値観は失われつつあり、塾などの学習代行サービスなどの台頭により学校に期待することも薄れてきています。

良い悪いは別にして、女性の社会進出をきっかけに親の在り方もい変わってきています。私達1970年代生まれあたりから鍵っ子といわれる子供達が増加し始め、親と子供とのコミュニケーションが取りづらくなっていっている現状は否めません。一日も子供と顔を合わせることができないような家族が量産された反動がいま来ているのかもしれません。

仕事も土日が休日という概念が失われ24時間サービスによるシフト勤務者も沢山出てきて親の方の働き方が替わってきている現状もあると思います。

にも関わらず、教育側はいままで通り土日の休みで行っていること自体がこのような歪みを生じさせてきているような気がしないでもありません。働き方が米国のように替わるなら教育側も米国のように単位制に切り替えていく方がいいと思います。

単位制といっても、特に小学校は、勉強しに行ってるというよりも集団生活のイロハを勉強しに行ってると言ったほうが当たっているわけで、そういうところに単位制云々という話を持ち込むのはなんか場違いな気がするんですよね。
アメリカの小学校って単位制なんでしょうか? あと、もしそうだとしたら、アメリカの平均的な小学生は集団生活というものをどこで学ぶんでしょうか? 思うに、アメリカの人ってのは、日本よりも家庭を大事にしてると思うのよね。友達を呼んで広い自宅でパーティをしたりとか。学校以外にも集団生活のイロハを学べる場が用意されてる気がするの。それに引き換え日本では、日本の平均的な小学生におかれては、学校くらいしか集団生活のイロハを学べる場所がない状況に置かれている、という現状があるように思うのよ。そこらへんの違いを無視して、アメリカのマネをしても、結局どこかで破綻をきたしちゃう気がぼくはするなあ。


単位さえ取れれば小学校も学級が上がっていくようにすれば、やり方しだいでは自由に休みが取れるようになりますし、いわゆる「授業に遅れる」ことがなくなります。いわゆる優秀な子供とそうでない子供も個人にあった形で学習できますのでペースを気にすることはありません。

それはいわゆるアレですわ、小学校も単位制にすればよろしいんでねえの?っちゅー話だよね。10歳の子どもが、年齢的には小4だけれども、進んでる算数は小6レベルのことをやってるけど遅れてる国語はまだ小2レベル、みたいなことがあってもいいんじゃないの?っていう、昔からある議論だよね。
これに対するぼくの回答は、すでにひとつ上のところで書いてることとダブるからハショるけど、学校以外に代替可能な包摂性を有するコミュニティというのが、いまの日本にはほとんど存在しないということがあって、だからこそ、単位制に切り換えるのが難しいということが、どうしてもあるんだよね。

明治時代の小学生の教科書とか読むと、いまの小学校の感覚からするとものすごく難しいことをやってたりするのね。6歳の子に、いまの常用漢字表に含まれていない漢字を平気で教えてたりとかね。で、そんな感じだからバカバカ留年者が出る(※1)。ある意味明治期のほうが、現在の親御さんの一部が希望している教育が実施されていたと見て間違いではないのではないかと思う。

※1ところで、これのソースを失念してしまったので、とりあえずwikipediaの「小学校」の項目を見てみたら、次のようなことが書いてあった。

小学校 - ja.wikipedia
主に開発途上国などにおいては、学校はあくまで学習活動をする場であり、生活指導や安全指導が行うことは少ないといわれている。事件や事故で学校の責任が問われないともいわれている。日本の小学校を象徴しているような文化も、多くは存在しないといわれている。

明治時代の初期、義務教育制度が始まったころには、日本の小学校も学習活動を中心としていた。しかし、学校の機能が増加するにつれ在籍者の生活や安全についても考慮されるようになったと考えられている。

世界各国を見渡しても、日本ほど、小学校をはじめとする初等教育が児童文化に強い影響を与えている地域はめずらしいといわれている。

いわゆるその、「機能の移行」という現象が生じているらしいことが、これから見てとれますね。
なにもないところにいきなり学校を建てるとすると、いきなりその学校にあれもこれも要求することはできない。だから、学校も、出来立てのころは、ごくごく僅かな機能しか持っていなかった。それはなにかっちゅーと、「勉強するところ」っちゅー機能のことやね。

だから、発展途上国における学校とか、明治初期における小学校とかでは、当然に、学校が担っていた機能というのは、「勉強するところ」そのただ一点であったと考えられるわけだ。

ところが、そういうハコというのはいちどできてしまうと、いわゆる便利屋としてね、あれもこれもと頼まれてしまうことがあるわけですよ。人間社会のなかにもそういう人って居るでしょう、あれもこれもついつい頼まれてしまう人っていうのが。それはなにも人においてのみ生じる現象ではなくて、ハコに対しても同様に生じるの。

でね、そういうふうに考えていくと、こんにちの学校がね、あれもこれも押しつけられていて、しかも、「その本義は集団生活の涵養である」というようなことをマジ顔で語る人間が居た日にゃ、これは大変なことになりますよね(笑)。

もうちょっと正確に言うとね、ぼくが、「小学校の主目的は集団生活の涵養である」などというようなことを言っているのは、それは、「現状実際としてそうである」という意味で言っているのであって、「そうあるべきだ」という意味で言いたくて言っているのではないということですね。

その、いわゆる卒業証書というやつをですね、誰にも彼にも、猫にも杓子にも発行しまくってしまったがために、卒業証書の意味というのが変わってきてしまった、ということが、あるわけです。

本来ならば(←学制が敷かれた頃に念頭されていた意義に準拠するならば)、卒業証書というのは、いわゆるその「資格」ですかね、ある特定の課程を修了したことに対する証明書なわけですが、実質的には、小学校というのは、一日も行かなくても発行されるわけでして、或いはさらに言えば、不幸があって在学中に命を落とす、というようなことがあった場合でも、場合によっては卒業証書というのは発行されるわけでしてね、そういう既成事実を踏まえるにですね、現行の卒業証書というのは、もはや、なにがしかの課程を卒えたことの証明ではなくて、「あなたはこの学校という集団に受け入れられていますよ」ということの証明書なんですよね。お分かりになります? 「その卒業証書の発行者は、被発行者の、この発行機関に対する尊厳を認めてますよ」ということの証明書なんです。だからこそ、在学中に不幸があった場合でも、発行されたりするわけ。「彼/彼女は、遠くにいったわけじゃない。いつでも僕たちのそばにいるんだ。」という幻想を私たちは受け入れますよということの証明ですから。だから或る意味これは宗教的なんです。宗教的と言っちゃうと、「公的であるべき学校が宗教に加担していいのか」というような批判がきそうですが、そもそも、公立学校における宗教的行為の禁止という言明は、どちらかというと、特定のイデオロギーに浸食されてしまうことに対する懸念が背景にあるわけでして、この場合はどちらかというと、あらゆる宗教について、あらゆる宗教的なことについて言えること、についての言及でありますので、ま、目的の錯誤と言いますか、目的が違うからそのような批判は当たらないと考えて問題ないようには思いますね。

で、なにが言いたかったかというと、要するに、学制が敷かれてから長い年月が経つと、どうしても、学校が担うべき機能群というのは社会全体の変化に呼応して変化していかざるをえないところがあるよ、そしてそれは、必ず機能主導で生じるよ、機能主導で生じたところのものに、時間差を経て、既成事実を是認するかたちで法などの制度がついてくるというのが一般的だよ、ということですね。
その、ある機能の受け皿がまったくないという状況を社会全体は是認しないですから(是認する場合は社会構造が変化するということ)、そして、ある機能の受け皿が消滅したとき、そのある機能は必ず「代わりの受け皿」がないかどうかをサーチするわけです。そして、サーチしまくっても見つからず、どうしようもなくなったときにはじめて、その機能は「死亡」して、社会構造の変化が帰結する、と、こういうシナリオになっとるわけです。いいですか、社会に於けるある機能というのは、そういう意味では生物的に振る舞うわけですね。「ぎりぎりまであがく」というか。だから、機能の集積が、社会構造を特徴づける、特徴づけるというかほとんど定義づけると言ってもいいほどに、社会構造の在り方自体を決定づけてしまうということは、これは実際にあるでしょう。そして、そういう理解の形式が、われわれにとって非常に有益なものでありうる理由というのは、おそらく2つあって、一つは、「人間一人一人は機能的に稼働しているから」ってのが一つね、でもう一つは、そういうしかたで捉えるのが最も人間の理解の形式にそぐう、ということなんでしょうな。あくまでぼくの妄想ですけれどもね。


> 明治時代の初期、義務教育制度が始まったころには、日本の小学校も学習活動を中心としていた。しかし、学校の機能が増加するにつれ在籍者の生活や安全についても考慮されるようになったと考えられている。

その、「無理が通れば道理引っ込む」って言葉があるじゃないですか。あれと似たような感じでね、学校さまに余裕が出てきて、「生活や安全も面倒みたげるよ」って言われたら、「アラッソヨ(あら、そう?じゃあ頼もうかしら)」って言って、なんでもかんでも学校に投げまくる親が出てくる、そういう親の数が年々増加傾向にあることになってきてしまうのはある意味必然でね、もしそれをしたくなくば、学校さまに余裕がなければいいわけなんだけれど、幸か不幸か、余裕があった時代があるので、こんにちのような事況になってしまっているということは、あるんでしょうね。
親がなんでもかんでも学校に投げまくると、ほら、能力ってのはやっぱり繰り返し、継続によって維持されるっていう側面がありますから、投げちゃった親は次第に今までできてたことができなくなってくる、ということが、どうしても出てくるわけです。

で、その、いま、学校に余裕がなくて家庭にも余裕がない、不況の煽りを受けて仕事場にすら余裕がない、ってな状況だと思うんですけれども、一方で、翻ってここ百年くらいを総覧してみるに、「豊かにはなってるはず」なんですよね。
じゃあ、その、「豊かにはなってるはず」なのに、なんでみんなこんなに余裕がない感じなのか、ってーところに、関心は収斂するんだけど、その原因の一つは、その、dankogai氏が聴きに行ったある著名人の講演会?でその方がおっしゃってたらしいことにも関連するんだけど、「政府というのはなんでもつくることができるが、こわせない」と。こわせないから、古くなってすでにいかなる機能も乗っかっていないハコが存在していたとしても、旧来と同じようにそこに金と人員を送り込み回し続けないとけないという愚が生じる、んだと思うんですよね。使わない道具を、誰もお客さんが入らない遊園地を延々と稼働し続けるというか、誰も乗ってない、乗り込む気配さえない観覧車を延々と回し続けるというか、そういう愚をですね、お役所関係、公的機関関係のところはやりがちですよね。
もちろんそれがね、そういう体質がね、ある種の学的貢献を果たしたという側面があることを私たちは否定することはできないでしょう。役立たずの、一見むだとしか思えない観覧者を回し続けていたら、棚ぼた的にすごい学的発見があった、なんてことは、往々にして起こるわけです。だから、役所体質を一律に批判することは当たらない。

でもね、じゃあね、ここで訊くんだけど、ぼくたちが、平均的な僕たちがね、学校でも家庭でも職場でも、余裕のない状態でヒイヒイ言わなければいけないその理由というのがね、ひとえに、そのような学的な棚ぼた的貢献がなされる可能性のためだけにあるのだとしたら、これもまたおかしな話でね、その、「なんで、いまの生活を犠牲にしてまでそれをせにゃならんのか」と。そういう突っ込みがあって然るべきなわけです。


もしかしたら、来年、再来年、いや、十年後二十年後に出てくる誰かがほしがるかもしれないからという理由のために、今誰も使っていない遊園地の観覧車を回し続けるということが、どの程度必要なのか。これが問題の一つ。(もちろん、この問題設定は、ある種の「富の分配」にまつわるトリックが滑り込んでいるだろうということは予測済みです。予測済みなんですが、まだうまく言葉で表現できない…orz)

それからもう一つは、これは多分に人間の側の問題ですけれども、「どの程度私たちは補助輪が必要なのか」という問題ですね。「補助輪リテラシー」とでも言いますか、「誰かが肩代わりしてくれる環境にあっても、自分がそれをする能力が失われることにためらいを感じている俺ガイル」という感覚とでも言いますか、なんでそんな感覚が生じるのかというと、「だって、その人が肩代わりしてくれなくなったら俺困るもん」ってのがきっとあって、で次に、それでも肩代わりしてくれる他者にある種の仕事を任せるのは、「その他者をつながっていたいから」っていうのが、あるんじゃないかな。
「いまのところ行使しなくてもよい能力」というものを、僕たちが持っていなければいけない理由というのはたぶんそこにある。「だって、そいつにもし万一のことがあったら、俺ら困るもん」っていう。
でも、同時にこれは、その「肩代わりしてくれる他者」を自分たちのコミュニティからはじき飛ばす理由と同一では有り得ないんだよね。(小学生とかだと、よくこのへんを勘違いしたりするんだけど。)
「つながるのに理由はいらない。つながらない場合にこそ理由は要るんだ」というか。このあたりの価値観が、どのように動機づけられているか、ってーのーは、結構興味深い問題です。つまり、「つながるのには理由が要る」と考えている人間と考えていない人間がいて、この両者はなにが違うのか、という問題。
この文型はその文型が語るところからしてあらゆる問題に拡張可能でして、すなわち一般化すると、「或る事柄Aをなすのには理由が要る」と考えている人間と、「或る事柄Aをなさないのには理由が要る」と考えている人間の差異はどこから去来するのかという問題。つまり、理由が不明であるとき若しくは理由が不透明であるとき、理由がまだ判明していないとき、そういうとき、僕たちは、或る事柄Aをなすべきなのかなさざるべきなのか、という問題。
まあ、「ある種の経験則である」と一蹴することもできるんですが、それじゃおもしろくない。

その、これは、ある種の倫理的な原則、についての話でもよくある話なんですが、「人を助けるのに理由が要りますか?」と。一方において「人を助けるには理由が要る」と思っている人間が居て、他方において「理由は要らない」と思っている人間がいる。

これは或る程度その、教育、ないしは周囲の人々による意識的是正作業によって、或る程度はいじることが可能であると思うんですけれども、ぼくたちは、すべての事柄Aに対して意識的是正作業をおこなうことは事実上できないわけです(事象Aは無数にある気がするから)。だからここでね、「人間よって着眼されなかった任意の事象Aに対する倫理的基準が、個々人においてどのように決定づけられているのか」という壮大な問いが浮上するわけですが、この問いに立ち向かうに当たっては僕たちにはまだ道具立てが少なすぎる気がするので今日のところはちょっとやめとくね。

・・・とか言いながら考えてることを言うけど(笑)、一つは、「わたし」という言葉を発したときに脳裏に想起されるイメージが、どのようなものであるか、というところに、かかる壮大な問いの答えは、強く依存していると思うのですね。

そんなことを言うと、一人称の指示する言葉を発声することのできない個体におかれてはどうなっているのかということが説明できないではないかという質問が飛んできそうですが(どこから飛んでくんねん(笑))、ぼくはそれは問題ないと思ってるんです。

というのはね、「一人称に対応するイメージが頭の中に存在する」ということと、「実際にその一人称に対応するイメージを或る程度意識的に統御できる」ということとは別でね、前者に関しては、或る程度人間に類似する霊長類等におかれましても、成立する命題なんではないかなと言う気がするんですね。分かります?

ぼくたちは言葉を操作するという活動を通じて、頭ン中にあるある種のイメージを操作するということを、してると思うんですよ。一部の人たちからは「そんなん当たり前やん」って言われそうですけれど。

でね、なんでこのことに言及することが重要なのかというと、
その、スイッチがどこにあるか、どこにハンドルがあるか、ということを、見つけてしまった存在としての脳みそ様というか、そういう存在としての、言葉を発する人間というのがあると思ってるから、ということになりましょうかね。
イメージで行くとね、その、脳に顔があって、その脳には両手があって、自分はどうしたら気分良くなれるのかということを、その脳はその両手をつかってその脳の裏側(背中)を掻くことによって知る、と言いましょうか。もうちょっとまとめ的に約言すると、「可制御性の発見」ということなんですけどね。

潜在的な可制御性ってのは、それこそほとんど無数にあってね、だからこそ、人に対してそこに神性であるとか霊性であるとか、そういったものが宿っていると考えることができるということが、あると、思うわけです。

人間の幸福感のある部分は、その「てごたえがある」ということによって担保されている側面がとても大きくて、そのサブカテゴリーとして、「新しいハンドルの発見」というのがあるわけ。「ああ、こんなところにもハンドルがあったのか」という驚き。「あれ、これ、はじめ机と思ってたけど、ハンドルとしても使えるんだなあ」という発見。そういうものが喜びとして機能するからこそ、人間はこれだけたくさんの言葉をしゃべるようになっている、ということがあると思うんですね。

で、その、複数個のハンドルには階層性があって、あるハンドル群を習得していないと、このハンドルは発見できない、というようなことがある。
五、六歳の子どもがね、「畢竟するに、」とか言ってたらおかしいでしょ?(笑) やっぱり最初は、りんごとか食べるとか手とか、走るとか、そういうものが、非常に低次の階層に存在するわけですね。

だからー、そうですね、言葉の発見というのは一つのてごたえなんです。「あ、これをこうすると電気がつく、これをこうすると電気が消える」ということの一つの学習なんです。
で、この手の学習作用というのは、生まれたての赤ちゃんをしてすでに持ってるわけですね。

このように考えるときにですね、さきほどの話に戻りますけれども、「わたし」という一人称に対応する頭の中のイメージが、「初期状態においてどうなのか」と、これは非常に、関心がありますね。
いかなる教育的作用も受けなかった個体が居たとして、その個体は、とりあえず生きるためになんか動くと思うんですけれども、そのときの動きというのが、どういう一人称の存続に対して照準せられているのか、分かりますかね、生まれたての赤ちゃん、まだ言葉も発することすらできない赤ちゃんにおいてさえ、ゆくゆくは一人称を発声することを学習したならばその脳裏に生ずるであろうイメージというのがあるはずですがそのイメージに対応するそれの原型となるものはいかようにおわすのか、という、問題ですね。

その、とりあえず生きるためになんか動く、って言うときにですね、「生きるために」って言うこの目的論的な措定は、観察者としての人間が勝手に命名しているに過ぎず、すなわち事後的な判定に過ぎず、実際には、「なんか動いてたら、それはどうやら『生きるための行動』であったと解釈するのが最も理にかなう」ってだけの話でして、
でね、じゃあ、目的論的なフレームワークを排除したところに、改めて、「生き物」ということにおいて特徴的な筋肉の指令系統を樹立する、ということを考えたときにね、果たしてそれは可能なのかどうか。
やはりその、多分に環境依存的な、環境と一体化しているところの一個体、として捉える必要は、出てくると思うんですね。
「ところ変われば品変わる」というか。
ある環境Eに適応的な個体Iというフレームワークというかモデルをどう捉えるか、ですよね。
或いは、そのある環境Eというのが固定的であるか流動的であるかは、どのようにして、どのようなしかたで、その個体Iにおかれて了解せられているのか、とかね。
ぼくたちが掛かるフレームワークを採用するときに陥りがちな罠は、「環境Eというものをどう捉えるか、ということが必ずしも自明ではない(というか、ふつうにしてると大いに恣意性が入り込みがち)」と言ったことに非自覚的であることに由来することが多いような気がするんですね。
そう考えると、「環境に適応していくことが、学習の本態である」というフレームワーク自体が瓦解してくる。
適応度という概念が発明されたことはたしかに一種の学的貢献ではあったのだと思うんだけれども、一方でそれは、ぼくたちに、「環境とはこういうものである」というような予断を与えてしまったというか、そういう罪性も、あるんじゃないかな、というか。

たとえばね、環境Eというのは、個体Iの主観的な世界全体を言うのだとしたときにね、果たしてそれで良いのかと。落ち度はないのかと。
いや、たぶんそこには落ち度はなくて、問題は次なんだな。
「生物はほっとくと環境にだんだん適応してくる(ものだ)」という予断(予断A)がもたらす先入見というか。
もしこの予断が正しいのだとすれば、個体Iは、環境Eの変化に伴ってその目指すべき最終目標に変化が生じるはずですよね。でも、果たして個体Iは、環境Eが変化したことに気づくことができるのかどうか、という問題があるわけです。
環境E1が或る時刻t0において環境E2に変化したと(ただしE1≠E2)。そしたらば、その環境におかれている個体Iの学習傾向というか方向性は、この時刻t0を起点としてただちに変化しないといけないことになりますけれども、実際には情報取得には時間差がつきものなので、すぐに学習の方向性が変わるということは有り得ない。
でね、じゃあね、この時刻t0からしばらく時間が経った時刻t2という時点においてね(ただしt2-t1>0)、個体Iの学習の方向性が、かかる先述の予断が予言する方向に切り替わるかというと、これもまた必ずしも自明ではないよね。つまり、いま言ったような条件を満たすt2が実数体のなかに存在するかどうかは必ずしも自明ではないということ。もしかしたら、いつまで経っても、その個体Iの学習の方向性は切り替わらないかもしれない。
ここで、「いや、そういうアホな個体は数十億年の自然淘汰を経て居なくなっているはずだ」という理屈(理屈B)が登場しうるんだけれども、ぼくは、この理屈は、上記の問題点を完全に解決するに十分ではないと思うんだ。
だって、もしそうなんだったら、「数十億年前はどうだったの?」っつー話になるわけでして。数十億年前の生物の行動を規定しているメカニズムと、いまの生物の行動を規定しているそれとが、全然違うものであるという仮定と、「いや、同じもんやろ。少なくとも、共通している部分がでかいやろ。」という仮定と、どちらを採用するのが、いまぼくたちに与えられている全知識を踏まえるに妥当であるかという問いに対してぼくは、「後者ではないか」という回答を与えたくなるんだ。
これはそれにオッカムの剃刀的にも後者だと思うんだよね。それに、もし前者だとしたら、かかるメカニズムの時間的な連続性がどこで途切れたのか、という問題に対して、歯切れの良い回答をくだすことができなくなる、といった問題もある。まあ、カンブリア爆発ですか、そういうことも、生物史上はあるらしいですから、一概に連続性の仮定が正しそうだとは言えないんだけれどもね。

あるいはこういうふうに説明することもできるかもしれない。「個体がアホかどうかはどうやって決まんの?」という。こういうのは多分に相対的な問題でしてね、アホばっかのところにアホが一人おったところで目立たんわけですから。

だから、その、上記の理屈Bはね、「少なくとも1つの個体I_iに対して、かかる条件を満たす実数t2を対応づけることができる場合」にはおそらく正しいんだ。問題は、「個体群に含まれるどの個体I_iも、それに対応づけられる実数値t2を持たない」場合というのは絶対にないとは言い切れないことにこそあるわけでして。もうちょっと平たく言うと、「全員が底なしのアホだったら誰が生き残るの?」って言うふうに言うことができるかな。

よろしいですか、これでちょっと見えてきたね。予断Aというフレームワークのうえに成立するあらゆる予言は、「全員が底なしのアホである、というようなことは絶対にない」という命題が正しい限りにおいて、的中率の高い予言として成立する、ということが。
でも、ぼくは、「全員が底なしのアホであるというような状況もまた存在するのではないか」となんとなく思っていて、であるからこそ、予断Aを条件付きでないしかたで認めることにためらいがあるんだ。

そこで、そういう要請にこたえるために、予断Aの代わりができるフレームワークを用意しなければいけないような気持ちに駆られるわけなんだけれども、それはなにかっちゅーと、「そもそも生物は、環境依存的に目標を措定するわけではない」ということ。「環境が変わろうが変わらなかろうが、そんなことはどうでもよい」というか。「そもそも僕たちは、環境のポイントが変わったということを認識できないのだ」というか。「ぼくたちは、ただただ目の前に呈された世界に対して働きかけるだけだぜ!」というか。「その働きかけに対して、てごたえがあればうれしいし、ないとかなしい。だって、てごたえがないと、働きかけた意味がねーじゃねーかYo!」というか。

でね、じゃあその「てごたえってなんなんだ?」ってところに、問題は転送されるわけです。
すでに予断を与えてますけれども、それは、「働きかけたことの意味が事後的に認定を受けること」だと思うんですね。
ぼくたちはそういう作業を通じて、「意味のある行為」と「意味のない行為」を選別していくわけです。で、意味のある行為の実施頻度があがり、意味のない行為の実施頻度がさがるということがあるわけですね。


一方でまた僕たちは、「期待する反響」と「期待しない反響」というのがあって、それはてごたえがあるかどうかとは無関係に決まってるような気がするわけですね。


たとえばね、チンパンジーが目の前のバナナを食べるかどうか、ということは、食べ物を食することで空腹が解消されるという目標志向的な行動であると捉えることができる一方で、「バナナを食べるという行為にてごたえが随伴しているから」というふうにも、回答することができるわけです。
で、そんなこと言うと、「満腹の時にバナナに手を伸ばさないのはなぜか」という問いに満足のいく回答を与えることができない気がしてくるんですけれども、ここでその、「期待する反響」と「期待しない反響」というフレームが実効性をもって響いてくるわけですね。
これはその、多分に差分的判定であるような気はするんですよね。つまりぼくたちは、知覚そのものの体験者ではなく知覚の差分の体験者であって、その差分の変化率から、つぎにその行動を反復したときに来訪するであろう幸福度を算出している、という側面が、あるような気がするわけですよ。
空腹度、つまり、メシ食いたい度というのは、食事にありつく直前が一番高くて、食事を摂り終わる瞬間が一番低いと。そして、僕たちはたしかに、ある瞬間をもって食い始めたり食い終えたりするわけだけれども、食ってる間という時間のどの時点においても、そのメシを摂ることからくるおなじ幸福度を享受しているわけではないということに、しばしば僕たちは盲目的になりがちなわけです。
これはだからたぶんその、幸福度に閾値があってね(もちろんその閾値が固定的であるという保証はないんだけれども)、その閾値をしたまわった瞬間に食うのをやめる、というようなことはありそうですわな。

一方ででもこれは人間の場合についてのみであって、餌があったらあるだけ食べてしまうがゆえに、餌が豊富すぎる環境におくと死期がはやまってしまうような動物もまたいるわけですね。一番分かりやすいのはたぶん金魚の例だと思いますが、金魚に餌やりすぎると死ぬと。なんでか。食い過ぎるから。食い過ぎるほどに餌がたくさんあるというような状況は、自然界においてはふつう無いので、金魚はそういう状況に対して非適応的であるから、というふうに、一般的には説明がつけられるわけですけれども、どうなんでしょうかね。

その、バナナに対する性質とモルヒネなどの麻薬に対する性質というのを、区別しないといけないと思うんですね。なんでしたっけ、A10神経でしたっけ、麻薬はそこに直接作用すると。一方、そこに直接作用しないバナナがあると。ここに、A10神経を高ぶらせるという効果を併せ持つ摂取対象と併せ持たない摂取対象との違いが現出する、と言っていいのかどうか。いや、とりあえずはたぶん良いと思うんだけれどもね(ぼくの昔の知識に偽りがなければ)。

つまり、アレですよ、これで小便もメシも睡眠?も、少なくともその行動という側面においては或る程度統一的に説明がつくと。いや、というか、つけるためには、そのあれですよ、「小便したい度」とかね、そういうさまざまな「したい度」をどう同じ土俵の上で扱うか、だから一つにはその「幸福度」というような(曖昧模糊とした)指標が用いられがちだと思うんだけれども、そもそもここで「したいって何?」って疑問が、どうしても湧いてくる。

ある人は言いました、食欲と睡眠欲と性欲のうち複数が同時に出現することはないと。めっちゃ眠たくても、めっちゃ腹減ってたら、眠気はどこかに飛んでしまうとか、そういう経験は、誰しも持っているんではないかなと思います。

この3つの生理的欲求は非常に分かりやすいわけですけれども、一方で、排泄欲だとか、「背中に虫がとまってごにょごにょしやがるから追い払いたくなっちゃう度(欲求)」とか、そういうこまごまとした欲求(とそれに対応する行動)を計上していくとキリがないわけです。

たとえば、ですよ、異性の個体にまったく曝露されずに成長した有性生殖の動物が、死ぬまで異性の個体に曝露されることがなかったならば、もしかしたら、その個体の性欲は出現しないかもしれない(注:ホモ・サピエンスの場合は性的倒錯があるのでこの限りではない)。欲求の出現というのは多分に環境依存的なわけです。もうちょっと別の言い方をすると、環境補完的であると言ってもいいかもしれない。環境からの要請がなければある種の欲求は出現しないというか。「環境からの要請が個体の側に欲求なるものを現出せしめる」というか。この意味でいくと、排泄欲に対応する環境のサブセットというのは、「大腸の蠕(ぜん)動運動の関連に対応する主観的な何か」ということになっちゃいます。さらにさらに、「個体の身体性の脳における表象およびそれに対応づけられている可制御的な身体の部分(これは、身体の延長として捉えることのできる部分をも含む。剣を持ったら剣の先まで自分の身体の一部であると錯覚しちゃうアレ。)」ではない身体の一切は環境のサブセットであるということになっちゃいます。
これは、環境と個体というのを区分するフレームワークというのがどこまで妥当的であるのか、ということの検討を内含していますね。いわゆる、「どこまでが、〈オレ〉なのか」っちゅーやつ。

「世界とは、自分と他人の区別がついたときからはじまる。その瞬間から世界は自分を主人公とする物語の舞台となる」というような一節がどこかしらのフィクションにあったかと記憶しておりますが、翻って、生まれたての赤ん坊は自分と他人の区別がついているのかと。このへんの話はたぶん、乳幼児期における発達心理学あたりをさらえばいろいろ出てくるんでしょうけれども、その、自他の区別がついているかついていないかの判定はだれがおこなうのか、或いはその判定がまともなものであるということをどうやって保証するのか、というような問題も、どうしても付きまといますよね。
いわゆるその、小我と大我の一致であるとか、そういうフレームワークで語ることもままあるわけですけれども、翻ってその、「小我とか大我とか言うときのその「我」ってのは、ちゃんと定義されてるんだろうなあオメー?」って聞き返してみると、タジタジになっちゃわれる、というような例がやはり多いわけです。
「我」が定義されていないのに自他の区別がどうとかいう話ができるのかと。笑わせるのもいい加減にしろと。こう言いたくなるーわけです。
しかしその手の突っ込みはね、「右足から踏み出すべきか左足から踏み出すべきかを決定するよい方法が存在しないがために、ぼくはどこにもいくことができない」とホザいている人間と同じくらい滑稽なことでね、定義というのはその、不完全、なものなんですよ。不完全な定義のうえに論理を立脚させて物語を組み立てると。もちろん定義が変われば全部変わるんだけれども、定義をより完全なものに近づけていこうとする営為そのものが僕たちの探究行為の一端なのでありまして、定義が不完全であること自体は、これは、避けようのない事実なわけでございます。むしろ定義が不完全であるからこそ僕たちはそれを修正していけるわけだし、「修正し、その修正がなにがしかの主観的な世界の変化を帰結せしむる」ところに、その修正した主体の側の存在意義・存在価値というものが、事後的かつ遡及的に浮上・形成されていくわけでして。

こういうふうに考えるとですね、その、「行為の価値」と「その行為をなしえた主体の価値」というものは、おそらく、分離して捉えられるべきではないかなと、こう思うわけです。
そうするとね、そうするとね、その、「ある行為が存在する」ということは、必然的に、「その行為をなした主体が存在する」ということを論理的に提出するわけでして、ここに〈我〉があると考えていいんとちゃうか、というふうにも、思えてきます。やはり論理は強いですね。逆らえないですから(笑)。
そうするとね、そうするとね、〈我〉なるものを成立させているその源泉は、「ある行為は存在する」と認定せられたところにあると言えそうですね。
モノの存在と行為の存在を区別する、ということは基本的に非常に重要なことだと思うんですけれども、「行為の存在」というのは、「モノの存在」ほど自明じゃないと思うんですね。「モノの存在」というのは、その、知覚せられた全状態に対するサブセット(全状態の定義のなかに時間が概念が含まれていても良い。サブセットを定義を与えているものが何かということはとりあえずここでは保留。)であり得るわけですが、「行為の存在」というのは、これだけでは全然ダメなわけです。

「行為の存在」ってのは、「機能の存在」「能力の存在」っていうのと、ほとんど同じ意味なんですね。「行為」「機能」「能力」。これらは本質的には非常に共通しています。なにかっていうと、この3つの言葉の意味を定義するに当たっては、「てごたえ」という概念に準拠することなしには、これら3つの言葉の意味を説明することはできない、ということがあるからです。

順番に行きましょう。このうち、「行為」と「能力」は非常に分かりやすい。両方とも主体者の存在を暗黙的に仮定しているから。「行為」という概念はその行為をなす主体者の存在なしには成立することができず、「能力」という概念はその能力を保持する主体者の存在なしには成立することができない。この2つは少なくとも、その、なにがしかの生物学的な主体が念頭されているわけです。
これに対し、「機能」はちと違う。「機能」を現出する主体は無生物主体であっても全然問題ないわけです。「このケータイにはメール機能がついている」というときに、なにも、ケータイは、生物である必要は、ないわけ。ではなぜ、「このケータイにはメール機能がついている」という言い方を僕たちはするのかというと、これは別に「能力」と言ってもいいんですね。言ってみましょうか? 「このケータイにはメール能力がついている」。日本語として不自然な点があるかもしれませんけれども、間違いではないですよね。このように、「機能」という言葉を使うか「能力」という言葉を使うかは、言語習慣依存的に決定づけられているんだけれども(すなわち、無生物主体には「機能」を、生物主体には「能力」をあてがう傾向があるということ)、起源は同一なんですね。
起源が同一っていうのはどういうことかというと、僕たちが無生物主体に対してなにがしかの「機能」であるとか「能力」であるとかの存在をイメージするとき、そこには必ず、「その無生物主体に対する擬人化ないしは感情移入」という工程を経ます。さきほどのケータイの例で言いますと、「ケータイは、メールすることができると同時に、メールしないこともできる。そして、メールするかメールしないかこのどちらの決定をくだすかは、ケータイの側に存在するなにかしらの意思によって制御されているがゆえなのだ」という物語が存在する事への確信なしには、ぼくたちは、「機能」という言葉を発することがそもそもできないわけです。これはすごいことですよ。「発することができない」んですから。ぼくがいまからあなたがたに魔法を掛けます、「いかなる擬人化をもしてはいけない」という魔法を掛けたとします、すると、絶対に、「機能という言葉が自然とのどを突いて出てこない自分がいる」ことに気づくはずです、気づくはずですし、「機能」という言葉の意味を理解することすらもできなくなっているでしょう。

分かりますかね。あ、そうそう、物理量としてのエネルギーの定義に「仕事をする能力」というものがありますが、これは、さきほど申し上げた、言語習慣上の傾向にたまたま反するものが存在したということになりますね。「仕事をする」という物理学上の用語についても同じです。


分かりますかね。「行為」「能力」「機能」。この3つの用語が、いかに私たちの〈我〉という概念を強く拘束しているかということを。

さて、いいですかね、そこで「行為の存在」ですよ。行為が存在するとはいかなることであるか? それは、行為が存在すると言うことは、行為をなした主体が存在するということにほかならない。しかもその主体は、能動的な主体でなければならない。スイッチをガチャガチャいじくりまくって電気がついたり消えたりすることに対して心からの微笑みを浮かべながらそれをなすことのできるような主体でなければならない。ある主体の行為が、あるいは意思と言ってもいいかもしれない、どこに意思が存在するというふうに捉えうるのかというと、それは、その行使に対して心からの微笑みを浮かべているかどうかによって推定される。と、思うんですよ。いわゆる「笑顔」っちゅーやっちゃね。

それを証拠に、「する」という動詞のない言語は存在しない。だからこれは非常に、ホモ・サピエンスにおいて普遍的な、現象であると言うことができると思いますね。
もうちょっと言うと、「動詞」という品詞のなにがしかの一例を叫ぶことができた瞬間から、人は〈我〉という概念をイメージすることができるようになる、というか。もちろん、そういう方向に因果関係が存在するかどうかまでは分からないわけなんですけれどもね。

さて、よろしいですかね。いいですか、「行為の存在」というのは「主体の存在」「〈我〉の存在」と密接不可分なんです。だから、自分を主人公とする物語を生きていないすべての存在体にとって、「行為の存在」という措定・仮説はまったく無意味です。まったく無意味ですから、そのようなことを思い浮かべることすらできないでしょう。

でね、そう、自分を主人公とする物語を生きていない存在体について考えることはたぶんあまりメリットがなくて(いや別に考えたかったら考えてもいいんだけれどもね)、やっぱりそのぼくたちの現実的な実存、に対応づけられている種々の問題について、少なくとも僕は関心があるわけです。

「動詞」の具体例を少なくとも1つイメージすることのできる主体は、果たして、どの生物種から言えるのか、とかね。「蟻は〈我〉をイメージすることができるか」とかね。


なんでこんな話になってんやったっけ? そうそう、倫理的な原則の個々人な理由を精査するに当たり、一人称の概念の獲得ということが非常に重要であると言うことが予想されていたので、それについて考えてみた、ということでした。

とりあえず、もう疲れたよ…(パトラッシュ…)
誰や、俺にこんなことを考えさせたんは? え? ja.wikipediaの記事ですか? いや、別にいいんだけどね。 


年齢に応じて一律同じ内容を学習する等という考え方はもう捨てた方がいいような気がしないでもありません。子供にとっても背伸びさせたり、力をもてあましたりで実力相応の学習ができないことは社会にとってもマイナスだと思います。教育側もいろいろと工夫すべきだと感じているのは私だけではないはずです。

いずれにせよ、義務教育とは保護者などが子供に教育を受けさせる義務があります。学校を休ませても家族旅行を優先させるかどうかの判断、そしてそれに付随する責任は、学校ではなく親にあると思います。皆様は、どうお考えでしょうか。ご意見いただけたらうれしいです。

意見は上に書いた通りです。ひっじょーに長くて申し訳ありませんが(^^;
(しかも結論出てなさげという(悲)…、いや、良いんですよ、結論を出すために必要な道具立てを整理していたということなので。さらっと振り返ってみたけど、やっぱり僕は、この手の問題は「遊び」に本質がある気がするなあ。・・・カイヨワでも読むか(いつ読むんだよ…)。)


コメント
この記事へのコメント
>1年学校を休んで両親と世界を地に足をつけてじっくり見て回った小学生がいたとしましょう。

いやまぁ、実は義務教育にも留年の存在はあるんですよ。長期休学した生徒に適用される訳で。まぁ、親による一種のパワハラを子供が自覚できるかどうか、あるいは自覚した瞬間から反抗期が洒落にならない度合いを帯びる可能性もあるでしょうなぁ。
2009/03/23(月) 23:10 | URL | kaiou #uS2JIe22[ 編集]
> いやまぁ、実は義務教育にも留年の存在はあるんですよ。長期休学した生徒に適用される訳で。

長く休んだ生徒でも、留年させるかどうかは親の判断な気がします。

2009/03/24(火) 06:42 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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