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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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進学校の先生の憧れたる「○大合格者」と二番手校の悲しみ - 考えるのが好きだった
トップ校で長年教えた経験のある先生(英語じゃない)が、東大京大受験者の添削指導が大変だった、と言っていた。へぇ~、と思ってしまう。模範解答があったら、添削なんて、自分ですれば良いではないか、いちいち細かい添削を先生に見て貰わなければ東大や京大に行けないのだったら、行かなくて良いと思うと言ったら、サービスですよ、おっしゃっていた。(まあ、レベルは違っても、添削指導は私も今年はなぜかやることになってしまったからなぁ。。)
 そんなにサービスが必要なのだろうか?

サービスをする余裕が社会の側に出てきたから、サービスをするようになっているんだと思う。
これは見方によっては、「先生を食わせるためにサービスが存在している」というふうに取られてしまうこともあるだろう。
それは間違いではないが、事の本質はそこにはない。
事の本質は、「基本的に、社会はトータルとしてはどんどん豊かになっていく」ということだ。
これは言い換えれば、「生産性を向上させるために誰かしらかが頑張る、ということが絶対に起こる」ということでもある。
ラクしたいと思う人間が居て、それを実際に行動に移してしまう人間がいくらか存在していてくれることによって、このような、社会の豊饒化は起こる。

でだ。
まあそれは大局的な話だ。
ここで着眼したいのはむしろ、それによって子どもの教育環境は豊かになっているのかどうか、というところだろう。
『先生はえらい』的発想でいけば、これは、社会の豊かさに対してほぼ不変であると言うことができる(ほぼ、と言ったのは、最低限度の豊かさがないと教育もなにもなくなってしまうから。最低限度の豊かさがない社会においては、子どもは労働にかり出されるが故に教育を受ける機会をを失するから)。

たとえば、リンカーンが生きた時代というのは、それこそ、一冊の本をぼろぼろになるまで読みまくるような社会であっただろう(本が希少価値だから)。では、翻って、本があふれかえっており、それなりに廉価で買えるようになっている現代社会は、リンカーンの時代に比べて、学ぶための環境が向上していると言えるのかというと、少なくともそれをいきなり言うことはできない。ある条件が必要なのだ。
その条件とは、「学ぶ側の選択基準が確立している」ということである。
一冊しか本がなければ、とりあえずそれを読めばいいわけだが、こんにちのように、本があふれかえっていると(実は、たとえば、親があまり本好きでないとか、子どもが日常的に接することのできる範囲に置かれている本の種類には絶対バイアスが存在するだとかということがあるので、必ずしもあふれかえっていると認めることができない側面もあるのだが、いまのところそれは措く)、本を読み始める前に、まずどの本を読んだらいいのかという問題に対峙せざるを得ない状況が出てくる。
個々人の内面の深化ないしはそれへの自問ということが、ひときわこの時代において求められるようになっているのは、なにも偶然ではなく、それは時代の要請なのだ。
このように、過剰に生産された富が私たちの心理的状態の変遷にどのような影響を与えるか ---それはつまりは、過剰な富を変数とするときの、安定的に継続可能な心理的状態の函数はどのように記述されるかという問いと同じである ---と言うことは、決して避けて通ることのできない重大な問題である。


 この至れりつくせりの指導は、二番手校で、極めて深刻?である。なんと言っても、ある程度は「合格者数」で、本校の入学者のレベルが変わるからだ。言わば「浮遊層」に多少なりとも頼っている側面がある学校は、いろいろと考えるべきことが多く、面倒なのです。受験にしても「好きに受けて良いよ」とは言いきれないものがある。この点、トップ校と大いに異なる。教員に「東大に行かせたい」のような変な願望がなければ「自己責任」でいいのだろうが、ウチのようなところは「自己責任」でありのままにあっちフラフラ、こっちフラフラすると、結局、卒業生が可哀想、在校生の「母校」の末路が危ぶまれるのだ。それこそ、「生き残り」の矢面に立たされているのが、こういう類の学校だったりする。トップ校は生き残る。次はどうかわからない。

そこに、「母校」という人間的な感傷が加わるから、ややこしく悩ましいのである。
 トップ校にどっぷりと浸っている人にはわからないだろうし、また逆に、そんなことは良いじゃないか、学校がなくなっても良い友人と思い出があればそれで十分構わないじゃないか、と思っている人にはわからない悩ましさなのである。
 って、現勤務校は、私の母校でもない。一勤務校に過ぎない。でも、(大変申し訳ないのですが、)私の母校は「絶対になくならない学校」で、おそらく「昔のままあり続ける学校」なのです。トシをとるとその有り難みがわかります。良い意味でも悪い意味でも、「母校」は、ある種の拠り所になるものなのです。だから、今、私が教えている生徒たちにも拠り所を残してやりたいと私は強く思うのです。そのために、(東大はどうでも良いけど)「それなりの合格者数」が気になるのですよね。「彼らの母校」を残すために。

母校というのは、いわゆる「愛郷心」みたいなものと、非常に深い重なりがあるように思う。
「母校が廃校になる」というのは、「祖国が滅亡した」というのと同じくらい衝撃のあることなのではないだろうか。

祖国が滅亡してしまわないために、生徒の自由意思が行使されるに当たって、事前に大人が(システムに対して或いは隣人として)なにがしかの細工をほどこさないといけないということ。

・・・ 一部の教員にとっては、それはつらいことであるように感じる。

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