@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
積極性と出来不出来

> 出来る生徒集団は、積極的である。何でも面白がってとにかくやってみる、ということをする。かたや、出来ない集団(←私が知る限りにおける相対だけど。)は、極めて消極的である。「はずかしい」「ひたすら躊躇」ときには「そんなばからしいこと、やってられるか」みたいな空気すらある。

> こういう反応の相違を「教師に素直かそうでないか」の観点で判断されることがある。

> 「面白がってやる」「素直に従う」という両者の判断基準には、もの凄い違いがある。

> 出来る子が素直に見えるのは、彼らは極めて積極的だから、やれと言われたことを否定しなだけの話である。

> だから、イヤイヤながら行うというより、積極的に面白がるのである。

> この点、中途半端な出来の生徒や出来ない生徒、まだ伸び代があるのに伸びないような生徒は、自分自身に凝り固まって、教師を受け入れない。すぐに、疑いの目で見る。「効果があるとわからないとしない」という、ヘンな目先の効率主義に陥っていることも多い。とにかく、自らがやってみて判断をする、という姿勢がない。だから、できない。


もちろん、人間は、すべてのことを、あらかじめやってみることによって、できるかできないかを判断するわけではない。
5階から飛び降りればどうなるかとか、いちいち「やってみて判断」していては命が持たない。

君子危うきに近寄らずという言葉がある。
と同時に、虎穴に入らずんば虎児を得ず、という言葉もある。

ある挑戦が、明らかに無謀である場合は、前者が適用され、無謀でなく見込みがある場合は、後者が適用される。
ある挑戦が、無謀か無謀でないかを決めるのは、何だろうか。
これは単なる費用対効果の問題だろうか。
達成可能性を、自分の能力や周りの状況との兼ね合いにおいて勘定して、その算出値に基づいてやるかやらないかを決める、という問題に過ぎないのだろうか。

5階から飛び降りることが無謀であって(「やってみなくても分かる」「だからわざわざやる必要はない」類のものであって)、教師の言うことを「まずはやってみる」ことが無謀でない理由について、達成可能性の勘定以外の側面から説明することができるだろうか。

私は、先生の言うことをまずはやってみる好奇心旺盛な子は、5階から飛び降りるとどうなるかという問題に対してもまた同じくらい好奇心旺盛であると判断するにしくはないと考える。
先生の言うことを特に疑わず、まずはやってみるタイプの子は、帰り際に道ばたで怪しいおじさんに唆されて付いていってしまう確率もまた高いのである。
彼らは、幼年期において、周囲の親族らの深い愛情に包まれて育っているために、疑心暗鬼になる必要性に迫られることなく学齢期を迎えることができた。
そしてそのために、「自分の旺盛な好奇心を抑制すべき状況がある」ということに関して無知である。

気になるのは、こういう「好奇心旺盛な子」「そうでない子」の比率は、昔と今でどれくらい変わっているのか、或いは変わっていないのか、というところである。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/12-97e507bc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。