@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


意識の謎を解いてみました - 分裂勘違い君劇場

したがって、意識の謎は、科学によっては解明不可能なのです。


そして、もし、「感覚も意識のない人間」がいたとしても、我々はそれに気づくことは出来ません。

たとえば、次の図で、赤い色を見たときに、人間AもBも、同じようにニューロンは発火するのですが、人間Bでは、意識の中で「赤い」という感覚が生じるのに対し、人間Aでは単にニューロンが発火するだけで、「赤い」という感覚は生じません。そもそも、人間Aには、それを感じ取る「意識」がありません。


「感覚せず意識も持たない人間」というのを、仮定することはできるけれども、そのような存在体を構成可能か、あるいはそのような存在体は自然界の法則的に存在可能か、ということは、吟味されんとちゃうとあかんかな、と思う。
宙に浮かぶ人間、というのを、仮定はできても、自然法則的に無理がある、ってのと同じように。

その、脳内神経活動と意識との対応関係ないし因果関係が、存在するということをぶっちぎる力は、いかようによってもそこに与えられることはない、というような原理がありそうな気がするというか。
もちろん、そういう原理(原理A)は、ない可能性もあるんだけれども(原理B)、ぼくたちはこういうことを考えるときはつねに、その、互いに排他的な二つの原理のどちらか一方だけが実質的には機能しているはずなのだ、ということを、頭の片隅においておく必要があるとは思いますね。


そのような二人の人間がいたとき、「感覚も意識のある人間」である人間Bの脳内のニューロンの活動は、「感覚や意識のない人間」人間Aの脳内のニューロンの活動と、まったく同じです。

これはだから、原理Bが作用しているという前提に基づいているね。


脳は一種のコンピュータであり、外部からの刺激という入力データを受け取って、計算処理し、次の行動を起こすという出力をする装置です。

まあ、いまのところ人間はそういうふうにしか捉えることができない、と言ったほうが当たっているでしょうね。人間というものに対する構成論的な視点とその把握のありようは、ロボット工学や人工知能の進歩と多分に相関しているところがあって、そういう意味では、ぼくたちはその、おのおのの時代における、人間になぞらえられた製品の製作者としての視点から自由になることはほとんど不可能なわけでして、そのことには注意を払っておく必要がありますね。

もう少し言うと、ぼくたちはその、なにがしかの一つの存在に対峙したときに、その存在の設計者としての立場を先取りするわけです。そして、その存在の実際の設計者が、自分ではない場合、「自分以外の誰か」がその存在を設計したはずだ、というふうに、推論するわけですね。そして、その「自分以外の誰か」に該当する人間が、自分たちの周りの誰でもなかった場合に、その設計責任は、「自然界におわず大いなるもの」に転送されるわけです。その大いなるものを一つの主体に仕立てたものが、一神教の神であり、八百万の主体に仕立てたものが、多神教のそれになるわけですね。

ここでポイントとなるのがね、すでに強調表示しておりますが、「自分以外の誰か」というときのこの「誰か」という部分にあるわけです。ここに大いなる恣意性が宿っていることをご理解いただけますかね。「自分以外の」という部分までは、完全に論理的に正しいんです。 と こ ろ が、そのさきのかかる言葉が、「存在」であればまだいいんですけれども、「誰か」という、人間に擬した表現になっているところに、人間の愚かしさの一つが宿っているといいますか、人間は決して存在している対象を擬人化することなしにその対象それ自体を理解することはできないのだというテーゼが導出されるといいますか、そういうことがあるわけですね。
これは考えようによっては非常に不思議なことですね。なぜこういうテーゼ(原理)が存在するのかということを客観的に説明してみせることができないわけですからね。
人間の定義の一つは「野生でないこと」でありますが、この「野生でないこと」と、このテーゼが存在することは非常に関連が深いように思いますね。
つまり、私たちは生後すぐの頃からつねに誰かしらの「他者」に支えられて、というより、他者の顔を見て、四六時中過ごすということをやってるわけです。

生まれたての赤ちゃんが、大人の人間の顔々を区別する能力と、生後半年を経た赤ちゃんに見られるその能力とでは、この能力がアップしているということが分かるという、ことが、科学の分野で報告されているわけですね。
まあ、生後半年でこれですからね、言葉を話すようになるまであとまだ何年かあるわけでしょう。そういうことを考えるとこの識別能力の練達に対応している神経系のダイナミクスがいかように編み上げられているのかというところは、とくに表情においてそれがどうなっているのかというところは、非常に興味のあるところですね。

まあその識別能力というとその神経系においても非常に一般的な能力、たとえばその線形分離の問題等を通して数理的にも或る程度は定式化可能なわけですが、そのなかでもとりわけその「顔」というのはね、とりわけ特殊な位置を占めていると、考えられるわけです。

「顔」に基づいて物事の理解は進行すると言いますか、この世の中に存在可能なあらゆる意味は人間の表情と一対一の対応関係があると言いますか、それほど、主観的な世界における意味の実定とその把握において、中心的かつ核心的な役割を担っているコンパートメントであると、思うんですね。

とくにその「気分」というのは、表情と一対一の対応関係があるように考えられますよね。そして、ぼくたちは、コミュニケーションにおいて、「気分」を交換する、存在なわけです。いや、交換というのはいささか不適切ですね。触発と言ったほうがよろしいでしょう。

「気分」の表現が、表情ないし手振り身振りにあって、言語というのはその一部が先鋭化したもの、と、考えられるわけです。
その、生物がその進化の源流において、アーキア、バクテリア、ユーカリアにまずは分岐するんだけど、その後、ユーカリアの世界が非常に先鋭化、精緻化、多様化していくといったヒストリーをたどるわけですね。それと同様にですね、「気分」の表現に関連する案件についてもですね、特定の部分の精緻化、というフレームワーク(語法)で語りうるのではないかと、このように思うわけです。


ま、特にですね、あのー、僕たちのコミュニケーション手段において、特に、その、人工的に特化せられた、部分として、手と口、があるわけですね。ま最近は、眉を動かしただけでリモコンの操作ができるとか、そういう研究もありますけれども、まだまだ口と手に依存している部分ってのは大きい。特に「手」ですね。知覚入力系に対する可制御性への確信が芽生えるための必要条件として「手」というのはやっぱり非常に大事なわけですね。
じゃあその、手がない人間はどうやってその確信をつくるか、ということがあるんですけれども、それは例えば足とかね、代替手段はあるわけです。じゃあ、手も足も・・だったらどうするの?ってことなんだけれども、ここでその「集団性への依拠」という、新しいパラメータを一つ追加する必要性・必然性に駆られるわけです。

あの、全員が手がない人間だったら、人間の社会構造は絶対に変わるんです。それが、一部の、ごく少数の個体にとどまっている限りにおいて、そういう個体が存在する影響は、集団全体のありようの変容にさしたる影響を与えないということがあるわけですね。
そしてこれは、「そういう障碍者的な個体が、集団全体に影響を与えることを、非障碍者たちが阻止しているから」では決してないということ。ここは非常に重要なポイントですよ。

つまりね、何が言いたいかというと、平たく言うとね、障碍者的な個体は、集団の空気を読むことによって、自分一人では獲得し得なかった可制御性への確信を得るんです。「どうやらマジョリティであるらしい非障碍者的な個体たちが有しているらしい可制御性への確信はどうやら確固たるものらしいから、自分にもそういうものがあると考えて差し支えないであろう」という、身体がなす推論なんです。
こういう推論を身体がごく自然におこなうことができるのはなぜか、という問いがただちに湧くわけですが、これもだからその一種の「気分の触発関係」の亜種として理解可能なんではないかと思いますね。
それのその、非常に人間的な言語的な表現があれですよ、「こいつが言うことなんやったら、きっとホンマなんやろうなあ」とか、その手の自然なる言葉ですよ。こういうのもだから身体が、身体さまがなしてくださる推論が、私たちの口から、かかる言葉を自然と吐き出させさせてくださっているわけですね。

だからほら、ここにも一つの、擬人化の萌芽が見て取れるでしょ? 身体に「さま」をつけると急に分かりやすくなるという摩訶不思議。この不思議がどこから去来するのか見当もつかない。とか言いながらなんとか見当をつけようと足掻いているところではありますが。
ある、言語学者だったかな国語学者だったかな、意味とは世界の把握作用だ、というようなことを言ってたかと思いますが、結局これも言い換えでしかなくてですね、言葉遊びの堂々巡り、ないしは循環定義、に終始しているきらいはありますよね。でもこれがもう、半世紀以上前の話でありまして、いま僕たちは、そういう定義を採用した人たちが使えない道具立てをいくつもいくつも持っている。だからこそ、新奇なる知見を思いついてみせたりすることができるというありがたみの恩恵にあやかるという幸福に浸ることがままなるわけですね。ありがたやありがたやでございますよほんとーに。

あ、そうそう、で、なんの話だっけ?

> 脳は一種のコンピュータであり、外部からの刺激という入力データを受け取って、計算処理し、次の行動を起こすという出力をする装置です。

あ、この話でしたね。
だから結論から言うと、ぼくたちが脳を理解すると言うとき、その理解するという言葉の語義からして、脳の設計者という不可思議な主体を措定することを強いられるわけですね。
進化的な産物、があたかも「幾つかの特定の目的に応じるかの如く機能を果たす」と人間において認められる場合、思わず私たちはその進化的な産物をして、「これは何者かが設計したのではないか」というような妄想をしてしまいがちなわけですけれども、一歩離れて冷静になってみると翻って考えてみると、そもそもぼくたちは、かかる妄想を経由せずに物事を理解するということが、あり得るのだろうかと、こういう疑念に、吹かれるわけです。

そして、その答えはおそらくNoで、そういう意味では、幼児的な、あらゆる「環境に存在する対象」を擬人化する、という技法は、非常に健全、かつ人間的な所作、所業であると言えましょうな。

もちろん、大人である人間が、目の前のコップが生きていると本気で思っている、ということはないんだけれども、少なくともそういうことを思っていた時期があること、これが非常に大事ですね。
だから、僕たちが、その、生きとし生けるものに対する尊厳を是認する、という作業を本心から行なうに当たっては、未知なるところのものを渇望するという構えよりは、幼き日々に見ていた世界観への回帰という構えを経由したほうが、おそらく、多くの人々にとっては、ベターなのではないかと、思いますね。

生物的なるものを無生物的なるものに変換してしまう、理解の変容を通じて変換してしまう、という作業を日常的に遂行することは、人間の成長・発達において、非常に自然に、行われていることでありまして、であるからこそ、目的論的な世界観からスタートして因果論的な世界観をその上に立脚させていくというワザが可能になっているんじゃないかなと思いますね。
そういう意味では、まだまだ、ぼくたちの命であるとかね、脳もその一つなわけですけれども、ぼくたちは、この、命なるものを、無生物的なるものに変換しようとすることに必死なわけです。時計を見たら時計の裏側を見たくなるでしょ? あれと一緒や。命を見たら命の後ろ側が知りたくなるわけ。

そういう意味では、後ろ側を見る視点と前から見る視点ってのは対照的で、前者は、機械論、後者は生気論の仮定をおのずと採用していると言えましょうかな。
そういう意味ではね、機械論と生気論というのは対立するものであるというよりかは、「人間はいかなる対象に対してもこの相異なる2つの見方でその対象に対峙することができる」ということが脳神経活動上の差異が認められることによって保証されるというか、たぶんそういうことがあるんだと思うんですね。

で、この2つの見方、というのは、あらゆる対象に対して適用可能なわけで、だからこそ、「人間を人間と見ない」とかね、逆に、「草も葉っぱも、自分たちの仲間として見る、そこに表情があるものとして見る」といった芸当が可能になったりするわけですね。
で、原理的にはこの両方、ができるわけなんだけれども、人間は、自然状態においては、どちらか一方が選択的に露呈されがちなところがあるわけです。そういうときに、その選択性が社会的に有害である場合というのがあって(「人間を人間として見ない」とかは、有害な場合がありそうですよね)、だからこそ、これを矯正・更正するにはどうしたら?ってのが、心理マネジメントないし個別対応的には重要になってくるわけですね。
たぶんね、ぼくは、これに対する、現状で最も有効な処方箋というのは、「意識して、それを制御可能なものとして扱ってみること」に尽きると思いますね。
ぼくたちは、他者によってどういう誘導を受けるか、ということを考えてみると、一つは、「自分一人では着目できなかったものに着目する」ということですね。日常的な言葉で言えば、「その発想はなかった」とかね。「新しい着眼点の獲得」と言いましょうか。あのー、部屋の中を見渡して時計がないと。いくら見渡してもないのに、友達のAさんを呼んできて見てもらうとたちどころに見つかる。「ここにあるやないの」と。「ほう、たしかに言われてみればここにあるなあ」と。「でも、言われるまでは気づかなかった俺ガイル」と。こういうことなんですね。
ある数学の先生が、「自分で全部思いつけるんやったら数学の本を読む必要はない」っておっしゃってますが、これは或る意味というか原理的には正しくてね、でも実際には、他者の力がないと、新奇なる着眼点の獲得への誘導ないし促進という現象は、自分のなかに生じにくい、ということがあって、だからこそ、野生でないということが非常に大事なわけですね。

私たちは、「分からないもの」については、原理的に生気論の立場を先取りする傾向があります。逆に、分かるもの、分かると確信できるものについては、機械論の立場を先取りすることが非常に多いですね。
人間の感情、特に相手の感情、というものが、100%分かるものであったならば、たぶん、相手の、尊厳性というものは、消失してしまうんではないかなあと、思うんですね。
基本的には学校というところは機械論を学ぶところですよ。「コップには神がやどっているのだ」とは、習わない。一方で、生き物、に、なんらかのかたちで接する限りですね、生気論的な視点が無用化するということは、これもまた有り得ない。

設計者という措定は明らかに虚構なんだけれども、その虚構を通じてしかぼくたちの理解は達成されることがないという、一種の逆説性に貫かれているところが、どうしてもあって、もちろん、最終的には、進化論的な理解によって機械論の立場で理解することが可能になるんだろうけれども、それまでは少なくとも、或る意味生気論的に攻めていくしかないという、切なさが、どうしてもありますね。

例えばその、お祈りするときなんかにね、いない人、いままで存在したためしのない人に対して、もの申し上げることができるという能力を人間は持っておりますが、逆に言えばその能力の延長線上にですね、それこそ身体さまとか脳さまとか言った架空の人格を措定して、その架空の人格に対して対峙してみせて、その架空の人格に対して対峙してみせることによってしか紡ぎ出されることのない言葉というものを私たち人間は紡ぎ出すことができるわけです。これは、尋常でない異常さを呈していると私は思いますよ。
人間の活動は、「まだ見ぬ架空の人格への渇望・欲求に誘導されている」というふうに言うこともまたできるわけです。
友達が増えると楽しいでしょ。あれと同じように、新しい身体さま、新しい脳さまにお会いすることもまた楽しいのです。たぶんそういうことなのではないかというふうに、感じますね。

であるからしてこそ、「脳は一種のコンピュータであり、外部からの刺激という入力データを受け取って、計算処理し、次の行動を起こすという出力をする装置」であるという言明が、歴史的および人類学的事情を踏まえた必然的な帰結、必然的な問い、「いまここにあってふさわしくない問いではない問い」であることを心から得心することが可能になるわけです。


この、タンパク質コンピュータとしての脳の働きは、意識のあるなしとは関係なく動きます。もちろん、アフォーダンス理論っぽく、脳だけでなく、とりまく環境全体がコンピュータだと考えても同じ話で、意識の存在の有無とは関係なく、環境を含めた全体が計算装置として動作します。

アフォーダンス理論って要するに、「着眼対象の範囲を拡張してみた」ってことでいいのかな?
(この文脈だとそうなるよね)

あとまあ、計算というのが、我々が知っているような公理系から演繹される計算、であると捉えてほんとうによろしいのか、というような問題はどうしてもあって、それはどうしても据え置かざるを得ないところがあるのかな、歯がゆさを抱えながら生きて行かざるを得ないところはあるのかな、って気はしますね。
「結局は人間が思いつける公理系依存的な理解しかないのかYo!」的な。そういう虚しさというか、そういう依存性ゆえの制約というものをどう捉えるか、というところですね。
おそらく、多くの人は、そういう制約が存在するとかいうことは取りあえず忘れて、「俺はその公理系を心から自然なものとして受け入れることができている。ゆえに、その公理系に依存することになんら気持ち悪さは持たない」というふうに割り切ってやってるんだろうね。

「計算」というものと、「ぼくたちの思考」というものが、どのように関係しているか、この2つの地図をつなぐ別の大きな地図はなにかということを、追尾してみる必要がありそうですね。でないと、この手の一抹の気持ち悪さの原因は一生解決されそうな気がしない。


なので、意識のある人間も、ない人間も、外部からの刺激に応じて行動するだけで、外部から見ただけでは、その人間に意識があるか無いかは、原理的に判別不可能なのです。

いいよ。原理Bの仮定をおいているということが念頭されている限りにおいて、あなたと言うことは至極当然なことだ。


このことから、たとえば、この、「現に世界が見えている感じ」があるのは、あなただけで、あなた以外の全ての人間が、感覚も意識もないタンパク質ロボットのような存在だったとしても、あなたはそれに気がつくことはできません。

はい。


女性が本当に子供を産む機械であるかどうかは、判別不可能なのです。

これは、レトリックとして用いるにはいささか誤謬がでかすぎる気がしますなあ。あ、そうか、「意識がなくて人間っぽくふるまう存在体」イコール「機械」って捉えれば、こういうレトリックも有りか。ふむ。


また、逆に、冷蔵庫やパソコンに感覚や意識があったとしても、あなたはそれに気がつくことはできません。

じつは、これらの感覚や意識の問題は、クオリア哲学的ゾンビなどのキーワードで、哲学者たちのあいだで、長年にわたってさんざん議論されてきたにも関わらず、いまだに結論の出ていない難問です。

はい。
ま、難問というか、長年に亘って解けない問題というのは、たいてい問いの立て方がおかしい場合が多いわけですから、この例もそれに漏れず、問い自体に問題があるという可能性もありますよね。そこを突いてみた先人というのはおられないのかな?


これで、意識の謎は解き終わりました。

なぜなら、世界の構造は、原理的に①か②のどちらかであり、①であっても②であっても、どちらも辻褄の合う説明が可能で、本質的な矛盾も謎も、もはや存在しないからです。


いいんじゃないでしょうか。


よーするに、「ある特定のニューロン塊が分子的・電気的にある活動をする」ということと、
「その特定のニューロン塊が世界を見る」ということは、完全に同一のことなのです。
つまり、ニューロン塊の分子的・電気的活動状態が、世界を「見て」いるのです。
「物理現象」が世界を「見て」いるのです。
「現に世界を見る」ことのできる物理現象と、そうでない物理現象の区別はあるのでしょうか?
ニューロン塊の動的状態が、「現に世界を見る」ことのできる物理現象なのは、
外界の情報を、対応する電気信号や分子活動に翻訳することができるからなのでしょうか?
もし、そうだとすれば、他の動物や虫どころか、コンピュータも「現に世界を見ている」ことになります。
もし、そういう制約がなく、単に、外界の変化に応じて、自分の物理状態を変化させれば、それで「現に世界を見ている感じ」が生じるのであれば、海や川や大気ですらも、「現に世界を見ている」ということになります。
もっというと、あらゆる物理現象は、存在することそれ自体で、「現に何かを見ている感じ」を持っているのかもしれません。
だとすると、この世界のあらゆる物理現象には、意識があることになります。
この宇宙に、真の真空はありません。
量子のレベルで見れば、真空は揺らいでいるのです。
ということは、真空も含めた、宇宙のあらゆる物理状態は、すべて意識があるのかも知れません。

その、「なぜ、つくりものにすぎない、完全に機械論的に説明がつく対象が、意識なるものを持つことができるのか」ということを、人間は直感的になかなか納得できない、ということがあって、これゆえに生じる問題、(というか悩み)なんですね多分。

ジジェク的に言うとね、記憶を持って内省して語ることのできる存在はすべて人間である、ということらしいですから、その理解を踏襲すると、ここでの人間の定義はそのまま「意識を持つかどうか」の定義に流用可能なわけです。
つまり、その場合には、世界を見ることのできる物理現象とそうでない物理現象の区別はある、と、言うことができることになります。

で、ジジェク的な案を採用するか、fromdusktildawn的な案を採用するかは、これはひとえに、「意識」という言葉の概念をどうイメージしているかの違いに転送することで説明ができて、分かりますかね、「意識って何?」って言われて、「こんなもんでしょ?」って頭のなかに思い浮かべるやつがどんなもんであるかの微細な違いが、ジジェク的な案を結論づけるか、fromdusktildawn的な案を結論づけるかの違いを導いているわけです。

で、どっちのほうがより「それっぽい」のかっていうと、まず一つ注意していただきたいのは、これが微細な問題であるということ。Aという集合とBという集合が重なってたとして、その重なってる部分が非常にでかくて、そうでない部分がほとんどないというような感じ。
ぼくたちが、「意識って何?」って言われたときに、とっさに思い浮かべるイメージ、もちろんこれは百人百様だと思いますけれども、瞬間的に想起したところのイメージにおいては、あまり差異がない。でも、突き詰めていくと微細な差異がでてくる。それこそ、草や葉っぱにも魂を感じることができるかどうかとかね。花の真ん中に顔書いて喜んでいたとしても、それは生物学的な対応付けで言えば、生殖器に顔書いて喜んでるのと何が違うの?って話になるわけで、そう、こういうのが微細な違いなわけ。風に魂を感じるかどうかとかね。風に魂を感じるって言うのがトンデモ扱いされるのであれば、園児がお花の真ん中に顔書いて喜んでいるのもすべてトンデモであるとして指弾しなければいけないことになるわけですね。
でそこで僕たちはどうするかというと、2つあるんやったらそこでラベルを貼れと。ジジェク的な意識とfromdusktildawn的な意識があるんやったら、前者を意識A、後者を意識Bと取りあえず呼んで、それから議論を進めればいい話じゃないかと、こうなるわけです。

ぼくの実感としてはね、意識Aのほうが、ぼくの実感に近いかな、っていう気はしますけどね。でもじゃあ、記憶をすべて忘れてしまっていて回復の見込みがなく、内省することができず、語ることもできない人間は人間扱いされないのかというと、それもまた違う。そもそも、ある人間が、記憶をすべて忘れているかどうかを確かめる術はないし、「回復の見込みがない」と言っても、それは、そのときそのときの医学の判断に過ぎず、医学はつねに進歩しており改善の余地が残されているので、今日は見込みがなかったものが明日は見込みが出てくる可能性がつねにあるわけですね。であるからして、かかる人間の尊厳が、ただちに失われる、かもしれない、というような心配は、ぼくたちはとりあえずはしなくても良い、ということなります。

で次です。じゃあ赤ん坊は?って話。赤ん坊の尊厳がなぜ認められるのか。赤ん坊は、記憶を持っていると考えてよいのか。これはね、たぶん記憶を持っていると考えていいんだと僕は思います。おなかのなかに居たときの記憶というものがあるからね。

で次です。じゃあお腹のなかの赤ん坊のどの時点で尊厳が発生するのか。受精卵が誕生した時点で発生するのか。受精卵がだんだんと発生を遂げてヒトっぽいかたちになってくる過程のどこの時点で、ジジェク的な人間が成立したと認めて良いのか、という問題が、出てきますね。
一言で言ってしまうと、これもまた、「いのちのことは分からない」「だからどの時点かを決めることはできない」ということが、現状における結論ではないかと思うんですね。
もちろん、今後、生物学・医学における巨大なパラダイムシフトが参上したならば、またこの事情も変わってくるでしょうけれども、絶対変わらないことというのがそれでもあって、それはなにかっていうと、僕たちは分からないものに対して、分からないからこそそれを大切にする、というメカニズムで動いているところがあるので(分かりますかね。分からないものは、我々にとって有益であるか害悪であるかが分からないので、とりあえず大切にしておくというのが最も合理的な選択になるということです)、分からないことが完全に消失してしまうという事態は、人間の可制御性への確信に対する冒涜を遡及的に帰結してしまうので、もしそういう事態が何百万年後かに訪れたならばね、きっと人間は、妄想的に分からないことを捻出して、その分からないことにすがりつくという病態を演じることによって、なんとか命からがら正気を保つ、といった戦略に出るのではないかな、というふうには思いますね。
よろしいでしょうか。

あ、ごめん、タイトルの問いにはちゃんと答えてないかもですね(^^;)。それは次回ということで。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/119-a45e6de8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。