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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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独り言 - Archives
 昔は、教育の場には、「教師と生徒・学生の関係」というのがあった。教師が聖職者とされていたり、一定の権威を持っていたりといった一時期のことを指したかったので「」付きにしてみた。その頃、先生は一応は尊敬されることになっていた。まあ、教師の陰口を言うのは生徒の特権(?)だったけど、一応形式的には敬うことになっていた。この約束事が何を守っていたかというと、生徒や学生がある程度失敗をしても外に出さず、教師と生徒のウェットな関係のもとで許すとか教育するという仕組みを守っていたんじゃないかなぁ。

そうだね。


だから、生徒・学生の側が法治主義的な手段でもって教師と対等な位置に立つ意思を示したら、一応教師側には職業倫理があるとして、残るは対等な(契約に基づく)人対人の関係になってしまう。これは生徒・学生にとってむしろ過酷な面があるんだけど、法治主義的な手段で最大限権利を認めさせる成功例が出てきてしまったら、多分もう昔の関係に後戻りはできない。なにがしかの職業倫理を前提にするとしても、倫理の枠組みでは法治主義的なルールを逸脱することはできないから、何かコトが起きたときになあなあで何とかするという解はとれなくなる。むしろ、なあなあで納めることが違法な行為になってしまったりする。

後戻りはできない、というのがちょっと分からない。法治主義的に裁くと、なあなあで納めることが違法行為になるというのは分かる。
たしかに、法的には、前例が一つでもできたら、今後出てくる類似の事例に対しては同じように処理しなくちゃいけない、というような圧力というか縛りがあるのかもしれないけれども、それは、「個別に判断」ということで了解してもらえないのだろうか。
なんというか、たとえば家族間の不和が原因で兄弟間、親子間でのもめ事を裁判所で決着をつけなくちゃいけなくなった事例があったとして、その事例以後に出てくるすべての「家庭内の不和」は、裁判所で決着を付けなくちゃいけない、ということにはならない。むしろ、裁判所は、仕事なんてないほうが公益的にはハッピーなわけで、家庭内の不和の大半が裁判所に持ち込まれる(持ち込まれまくる)ような社会を、裁判所も日常的な私たちもどちらもそんな社会を望んではいないだろう。
家庭でも学校でも、基本は「愛の共同体」なのであって、そこに法がでしゃばってくることは想定されていない。これは幻想的に想定されていない。だから、「愛の共同体」のなかにいる人が、法がでしゃばってくることを許すのをぎりぎりまで引き延ばす、後回しにすると言ったことは、少なくとも愛の共同体という幻想を最高の価値と定める人々にとってはごく自然なことである。
また、裁判所のほうも、いまは裁判所にもめ事が持ち込まれるまでに事態がこじれてしまった家族たちも、その多くは、愛の共同体という幻想をもう一度再建したいという思いに陰に陽に駆られているであろうことは確かなのだ。というか、そういう幻想に駆られていない人が増えまくることは、社会全体を幸福にしないと私は思う。あらゆるちょっとしたもめ事がいちいち裁判所に持ち込まれていては、裁判所のキャパが持たない。仮に裁判所のキャパが無限だったとしても、それは、自分たちで解決する、といったリテラシーを自分たちの内側に芽生えさせようとする試みをはなから拒否することに他ならなく、そういうことは家庭内においても学校内においても教育的に認めがたいことである
いいですか、まとめますよ。裁判所なんかなくても解決できるのが一番ハッピーなの。そして、結果的に裁判所の介入が必要になったとしても、裁判所の介入が必要になるぎりぎりのところまで、裁判所に頼らないという態度で行動と意思を貫き通すことには、とってもとっても教育的意義のあることなの。子どもの兄弟げんかにお母さんがしゃしゃり出てはいけない。お母さんがしゃしゃり出ていいのは、ホンマに危ないときだけ(いじめがあるとかね)。いいですか、お母さんはいずれ死ぬんです。お母さんがいなくなっても、自分たちで物事を解決できるようにならなくちゃいけないんです。


まあ、その、子ども社会のなかでね、「精神的苦痛を不可避的に受けている」と一人の子どもが感じているときに、そのことを親に言って強権的に精神的苦痛の原因を排除してもらうか、親に言わずに自力で解決する道を選ぶか、の選択に迫られてね、で、後者を選び続けた結果、とんでもないことになって、親にバレて、「なんで言わなかったの!」みたいなことは、よくありがちなんですけれども、子どもの側にしてみたらね、親に言っちゃうことはそこで一種の敗北宣言というか、ある種の自尊心の向上を能動的に制限する、ということを意味するがゆえに、なかなか、その方向(親に言う方向)への舵が切れない、と言ったことがあるんですね。
子どもの自尊心の健全なる成長の自由を担保しつつ、なおかつホントにやばいときには強権者(親とか裁判所とか)が、すばやく迅速に助けることのできるシステムというか、そういう仕組みをつくるにはどうしたらいいんだろうか、というようなことは、よく考えるんですけれどもなかなか答えが見つからない。まあたぶんないんでしょうな。その、人間ってのはある種のリスクをおかさないと成長できない仕組みになってるんだろうなとは思いますね。かわいい子には旅をさせよというか、親にどつかれた回数だけ子どもは成長するというか、そういう側面がどうしてもあるわけですねー。
だからいじめの話でいくと、いじめはなくならないよ。なくならないし、なくす必要もない。だってそれは、人間が成長するための糧(かて)なんだから。ただ、ホンマにやばいいじめと、成長につながるいじめ、この2つをどう選別するか、という問題は残りますけどね。
で、最終的にはこの問題も本人が或る程度は自力で解決できるようにならなくちゃいけなくて、そのためには、やばいところにはいかないというか、なにが本気でやばいか、なにが本当に自分の成長につながるのか、ということを、その物事にあたる前から直観する力自体をやしなうみがくことを、ふだんから気に掛けてずっとずっとやっておく、そういうことがやっぱり一番の近道、遠回りのように見えても結局はそれが一番の近道、なんではないかなあという気は致しますね。


最初に、法治主義的発想で教師や学校に対して要求を通すことを思いついた人、実行した人は、確かに斬新な発想を持っていたと思う。だけど、それを実現したら最後、全てを法治主義的発想で処理する仕組みを作らない限り全体の整合性がとれないし、制度としても機能しない。最初に思いついた人が、来るべき未来をどこまで想像していたかは知らないが、これまでウェットな関係で調整していた教育の場を法治主義的ルールでもって調整する世界を望んだということなんだろう。仮にそいつがそんなことは想像もしていなくて、気持ちの上では望んでいなかったとしても、行動でもって示してしまったわけで。というのは、オモテにコトを出さず、人の善意(一般用語の意味で)とか甘えを許しつつ問題解決をする制度に、一部分だけ(コトによっては都合の良い時だけ)権利義務関係を持ち込むというのは、制度の崩壊を引き起こすし、モンスタークレーマーにエサを与えるだけになってしまうだろう。どうやっても両立しないんだよね。

そう、だから、「一部だけ権利義務関係を認める」ということはしてはいけない。認めるなら全部認める、認めないなら全部認めない、法を持ち出して裁く者はそのへんのけじめはつけないといけない。

昨今、モンスターペアレントを取り巻く問題でですね、なぜこんなに問題になるのか、ということの原因の一つに、親が、「子どもの顔と大人の顔を上手に使い分けよる」ということが、一因としてあるんですね。これはたぶん法的に見れば、「権利義務関係の一方の当事者の責任範囲が一定しない」ということを、たぶん意味していると思うんですね。で、これはたぶんおかしくて、というのは、「権利義務関係の当事者の責任範囲は一定している」という前提ではじめて法的決着、裁判所が下す判断は有効性を帯びるのであって、当事者の責任範囲が不安定な状態においては、いかなる法的決着も無効であると、思うんですね。
まあ裁判所っていうのは、たとえば精神鑑定であるとか、そういうことをもってですね、無理矢理にでもその前提が成立するかのように振る舞わなくちゃいけない、建前でもそういうふうに振る舞わなくちゃいけない、ということはあるかもしれませんが、まあ応急処置というか緊急手段というか裏ワザというか、そんな手段ばっかり行使していたら、裁判所も、その権威が土台から失墜しかねない、ことになるんではないかなと、私は思いますね。


社会の側は司法制度改革をやって法化社会に舵を切ったし、その社会の側の基準で教育現場にも要求が突きつけられるのだから、教育をする側も一貫した法化社会的対応をする以外に方法は無い。まだ、その気持ちの切り替えができない人達が居るから横やりが入るのだろうけど、もう昔の考え方ではやっていけないということは早晩わかるのではないかなぁ。多分、今は過渡期で、暫くは混乱するし、双方で奇妙だと思うこともいろいろ出てくるのだろうけれど。

ん~、諸外国の事例はどうなってるのかなってのがちょっと気になった。愛の共同体と法的決着との境界線を取り巻く問題をどう処理しているのか、ってのは、 いろんな解決のしかたがあると思うので。


【追記】
 過渡期の混乱としては、どこかで会社法がらみの裁判で混乱するものが多発中というのを読んだ覚えが……。自営業をやってて、親が亡くなって子供が事業を継ぐことになったが、兄貴に商才が無くて弟に商才がある場合の話。昔だったら、街のご隠居さんが出てきて、兄貴の生活が困らないように弟が面倒を見るかわりに、商売は弟が継ぐ、といったなあなあ解決で済んでいたのが、最近は会社法の枠組みでもって地方裁判所に揉め事が持ち込まれる。でも背後にあるのは、むしろ家庭裁判所でケリを付けた方がよい種類の身内のごたごただから、結果として裁判所もわけがわからん、と……。

昔はご隠居さんに頼んで解決してもらってたことを、いまでは金払って公的リソースを消費することをもってでないと解決できなくなった、ということですか。なんというか、なんというかなんというかですね。
裁判所を増設するよりも、ご隠居さんを増やすことのほうが大事な気が。そのほうが公的リソースも節約できるし。
で、もう一つ思ったのが、ご隠居さんが解決しちゃうとGDPにはのぼらないけど、裁判所が解決するとGDPにはのぼるんじゃないの?ってこと。

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