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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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シナリオ通りの「医療崩壊」
堤晴彦さん(埼玉医科大総合医療センター高度救命救急センター長・教授)
救急救命士と医師の対立か。養老氏の「大学にいくとバカになるよ」を思い出した。医者は大学的知識&構えで救護に当たろうとするのに対し救命士は違う角度から事に当たる。そこに対立が発生するように思う。


>「医療は30兆円産業」といわれます。32兆-33兆円の市場が目の前にある。今は、その利益を医師が独占している。財界が食指を伸ばさないわけがないと思いませんか?

>病院の経営を悪化させ、赤字にするのです。赤字にして、多くの病院を銀行や株式会社の管理下に置き、これに大手商社や生命保険会社などが参入するというシナリオです。つまり、「病院の再編」です。

>彼らのターゲットになるのは、公立病院や公的病院でしょう。銀行や商社が設立した各種ファンドが買収したいと思うのは、医療機器が整備された立地条件の良い、比較的大きくて新しい病院です。

>一方、小さい個人病院や老朽化した病院は見捨てられる可能性が高いでしょう。

>財界は、“雇われ院長“を置き、経営の実権を握るのです。介護保険は、今後さらに大きな市場が見込まれており、費用対効果が病院よりはるかに良いからです。何と言っても、介護施設は、医療機器の整備などの設備投資が必要ありませんから。来年度は、介護関連の報酬が引き上げられるようです。

>病院の買収が終わり、医療機関の再編が行われた時には、流通業界が参入してくるでしょう。物資を安価で大量に仕入れて流通させ、コストを削減するのです。現在、個人病院は病院ごとに購入していますが、コンビニなど流通業界では、段ボールの処理など“銭”単位の商売をしています。そのような流通業界の実績からすれば、十分なうまみがあると考えていると思います。

>また、次には生保が参入するでしょう。混合診療に賛成している医師は少なくありませんから。つまり、民間の健康保険の導入です。通常の健康保険で受けられる医療はここまで、それ以上の良い医療を受けたかったら民間の健康保険を使うように、という流れです。確かに、憲法で保障しているのは「健康で文化的な最低限度の生活」ですから、誤りではないでしょう。ちなみに、自動車事故などを扱う損害保険会社は、既に相当の利益を上げているようです。

>病院の経営はどんどん悪化し、銀行などの支配下に入るというわけです。

>日医が反対しようが、「政・官・財」はびくともしない。大手マスコミを通じて日医をたたけばいいのです。マスコミの大きな収入源は広告収入ですから、財界の言いなりです。

>さらに、文部科学省にも圧力が掛かっていると考えます。少子化で「大学全入時代」といわれ、倒産する大学も出ていますが、看護系・医療系の大学や短大、学部の新設だけは、どんどん認可されています。これは、どう考えても、非常に不自然です。結局、病院経営に必要な労働者を確保するためのシナリオが進行しているのです。

>そして、再編が行われた後に病院経営の実権を握るのは、医療従事者ではなく病院の事務職員です。われわれ医師は単に、彼らに雇用された労働者であり、使い捨ての労働者のままでしょう。

>営利企業ですから、当然のことながら、利潤追求型の経営になります。利益率の悪い分野は切り捨てられます。つまり、“お金にならない患者”は、確実に見捨てられるでしょう。
>埼玉県の調査によると、特に重症とされる三次救急で“たらい回し”にされた病態のうち、最も頻度が高かったのは精神科的な問題がある救急患者でした。2位は高齢者の吐血や下血などの消化器疾患、3位は意識障害の患者でした。これらの患者さんは、手間がかかる割に収益が少なく、時にトラブルや訴訟に発展するリスクがあるからです。「診れない」のではなく、「診たくない」から断っているのです。
> 経営効率ばかりを重視した利益追求型の医療になると、このような精神疾患の患者、脳卒中の患者、高齢者、重度の障害を持つ患者、血液疾患の患者などが切り捨てられます。

>現状を見る限り、医療側に勝ち目はありません。負けることは確実です。「医師や患者を見捨てるようなことはしないだろう」と考える人もいると思いますが、「政・官・財」は、そんなに甘くありません。太平洋戦争を思い出してください。若者が何万人死のうが、国民がどれだけ貧困に苦しもうが、そんなことにお構いなく、戦争に突入した国ではないですか。最近の農業政策を見ても同じです。幻想は捨てて、現実に戻りましょう。

>これからは医療訴訟もますます増えるでしょう。司法試験制度改革でロースクールができて、弁護士が増加しています。医療訴訟は大きな収入になります。民事訴訟は、訴えられた側は多大な負担を強いられた上、勝っても何のメリットもありませんが、弁護士にとっては、負けてもそれなりの収入が確保されます。わたしは、医療事故の原因を調査する公的な機関ができたら、刑事告訴の増加よりも民事訴訟が増加することを危惧(きぐ)します。弁護士は、調査委員会の報告書を訴訟に利用しようと待ち構えているのです。このような調査委員会の創設は、法曹界(法学部)のシナリオ通りでしょう。


まあ、早い話が、病院が銀行のもんになると、そういう話でしょ? これまで病院は医師のもん、医師と患者のもんやったのが、医師でもなく患者でもない、そこの現場にはいない、とおいとおい経営者のもんになっちゃうって話でしょ?
あ、このシナリオ聞いていま2つのものを思い出した。
1つは、外資で働くとこういう気分になっちゃうって話。俺らは誰のために働いてるのか、とおいとおいところにいる顔も見えない資産家のために働いてるのか、的無力感におそわれる、的な。
もう1つは、15少年犠牲記こと「ぼくらの」。
この2つは結局、資本主義と株式会社のコンビネーションがもたらす現場における悲劇の結末を暗示しているんだと思うよ。資産家はシステムを見てるからね。「現場の人」を見てないからね。「現場の人」の気持ちに感情移入してないからね。感情移入しなければいけない理由も存在しないからね(少なくとも資産運用ということを考えるうえにおいては)。

で、現場のもんが銀行のもんになるというシナリオはなにもいまに始まった話ではなくって、株式会社と資本主義のコンボが作動しはじめてからすこし経ったころにはどこでもかしこでもポンポンと、同時多発的に起こったことだと思うんですよね。
日本はそのコンボから現場の人を守る防波堤が文化的に存在していたから、その帰結にいたるまでの過程をゆるやかにすることはできたんだけれど、それでも、方向性は変えられないよね、って話。化学で言うところの、熱力学と反応速度論や。日本的防波堤は速度論的歯止めにはなったけど熱力学的歯止めにはならんかったというか。熱力学的歯止めないし方向転換をもたらすためには結局、コンボの作動自体を変更しないといけない。気がする。


医療訴訟の増加の話でいくと、結局、病院が疲弊することによって余剰弁護士を食わすシステムになっていることが分かる。仕事のない弁護士が、やせ細った病院に、食らいつくことを、法がゆるしてる。それがいまの、医療訴訟の増加の意味するところではないの?


それから、お金にならない患者が見捨てられる、ってことなんだけれども。健康ってのは特殊な価値なので、そのほら、命に直結する価値じゃん。生活保障価値とでも言うか。
結局、国が法で規制してきたシステムが崩壊することの弊害ってのはまさにここらへんにあるわけでして。郵政民営化で田舎の郵便局が廃止になるかも、みたいな話もみんなそう。
生活保障価値が取引される場に、利益一辺倒の法人が乗り込んでくると、多大なる不幸がもたらされちゃう。たとえば戦争とかね。
だからそこは、「国」みたいな強権者が、乗り込んでこられないように規制すべきなんだけれども、利益一辺倒の法人のほうもアホではない。どうやったら国みたいな強権者を弱らせることができるかということを考える。医療崩壊ってのは結局はそういうことでしょ? 規制を成立させている強権者がつぶれれば、俺たちはもっと自由に取引できるのに、ってことでしょ。

まだあるよ、お金にならない患者が見捨てられる、ってことについて。これって、たとえば患者の部分を子どもに置き換えてみるとよく分かる。
「お金にならない子どもは見捨てられる」
どうよ? ともすれば親はこういった価値観で子どもにあたってない? 「条件付きの愛」というやつやね。

お金になる病気とお金にならない病気があるんやったら、国は、お金になる病気は国民にはどんどんかかってもらったほうがよくって、お金にならない病気はできるだけかかってもらわないように、健康増進法などで規制していくべきって方向に、国策的にはなるよね。つまり、上の例でいくと、精神病、消化器疾患、意識障害、なんかを優先的に減らすことが国策的に優先されるべきことがら、となる。

ぼくが最初に思ったのはね、お金になる病気があること自体がおかしい、ってこと。病院がもうかるとか、ヘンでしょ? あでも、これ言い出すと、専門的技能を持った外国人の優先的受け入れとか、市が財政難回避のために、金持ちを市内に呼び込む政策を考えるとか、そういったことすべてが否定されてしまうから、これはちょっと違うのかなとも思ってしまう。
少なくともさ、病院とか、葬式屋とか、お坊さんとかってのは、自分の仕事が増えることを悲しまなくちゃいけないはずなわけ。あと、警察官とかもかな。そういう意味では、悲しめば悲しむほど金がたまるシステムなわけ。
いや、というか、ただたんに掃除するだけでもそう。俺が掃除しなくちゃいけないのは、ごみがそこにあるということそれ自体からくる悲劇ゆえなわけでして。そういう意味では、あらゆる仕事は悲しみから出発する。泣いて泣いて、この世はこんなにも俺が仕事をしなくちゃ片づかないことがこんなにも転がっているなんて…というため息と同時進行で、僕たちは日々、自分たちの手を動かしている(その仕事の遂行のために)。
そういう意味では、だれかのためになるからこの世は生きるに値するというのは一つの見解だけれども、俺が生きなくちゃいけないほどこの世はひどいというのもまた出発点になる気がするんだ。そういう悲劇性、この世は腐りすぎていることの実感なくしては、私たちは自らが仕事をしなくちゃいけない理由をみつけることはできない。
結局、より客観的に言えば、誰かの悲しみをうれしさに変える力を自分が持っていると実感せられるとき、私はこの世に生きている意味がある、ということになるんだけれども。で、そのときに、変えることのできたあなたの笑顔、のほうに着眼するか、変える前までは悲しみのどん底に沈んでいた君の悲しげな顔、のほうに着眼してそこに悲劇を見るかで、ポジティブっぽい思考とネガティブっぽい思考の分かれ目が分岐するわけ。


で話をもとに戻すとね、市場原理の作動は、たしかに効率化(=金を効率的に回す、使う)を促進するんだけれども、生活保障価値の平等性が担保されなくちゃいけない、ってところを無視して爆走しちゃうところがあるんだよね。

市場原理の作動。
株式会社と資本主義のコンボ(の作動)。
生活保障価値の平等性の担保。

この3つがぼくはキーな気がしているね。生活保障価値の平等性を担保するシステムというのは、たしかにどこかしらにはあるはずなんだよね。だって、どこかしらにはあったからこそ、ぼくたちはいま、ここにこうやって、生活保障価値の平等性は大事なんだということを確認することができるんだ。
ではこの2つは対立するのかと。生活保障価値の平等性を担保するシステムと、株式会社と資本主義のコンボというシステムは、対立するのかと。これを考えなくちゃいけない気がするね。

とりあえず、そんなところで。

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