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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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システムと個人
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/61051563a475a86c068cdf8b67ee8ab0

要するに、「反論あるけど、それは想定内だ」というかたちで合理化しているだけの話。

なんども言うけど、教育システムなんてのできたのは近代になってから。近代の偉い人が国民をフヌケにする政策としてランカスター方式を採用したのが大きい。寺子屋方式に戻せばシステムはなくなる。それを内田先生も望んでおられる(と思う)。

右向けと言われたらまっすぐ右向ける「だけ」の能力「しか」もたない教員「ばかりの」職員室になってしまったら、とおからず職員室も学校もほろぶ。学校は奴隷を育てるところじゃない。自尊心を備えた人間を育てる場所だ。そこを取り違えてもらっては困る。

かいかぶりを承知でいうが、ほりさんほど優れた思考のできる方がなぜ「そこんところ」を了解なさないのかが分からない。きっと、公僕であることに誇りを持ってらっしゃるからなのだろう。ぼくはそれを否定するつもりはない。これ(=公僕の誇り)について話し出すと長くなりそう。

公僕の誇りってのは雇用者の誇りってのと同じで、要は隷属的環境においていかに「先生はえらい」的に先生を見るかってことなんだけど。

でもさ、公僕の誇りとかってさ、結局、「俺は一生箱庭のなかで生きていくよ」って宣言にほかならなくない? ぼくはそこがヤなんだ。世の中は箱庭じゃないんだ。箱庭みたいにキレイにできてないんだ。

箱庭のなかの誇りと、世界全体・宇宙全体に対峙するときの誇りと、どっちがより誇りっぽいか? 子どもをいたずらに、箱庭的誇りのほうに誘導するのはやめてもらいたい。
コメント
この記事へのコメント
子供のためであると同時に社会のためでもありますからね。
反社会的な子供は、結局は子供のためにはなりません。

そういえば以前もほりさんは、集団と個を
対立するものとしてとらえてらっしゃいますね。
彼女の視点が低いのは、そこに理由があるのでしょう。
教育者こそ高い視点が必要な職業なのですが。
2009/02/25(水) 04:09 | URL | Psyche #QnynE5qE[ 編集]
お久しぶりです。


■ 集団と個の対立の話は、おそらく「ほり哲学」の核心だと思うのですが、長らく僕はこれが理解できないでいました。しかし、最近は、「社会システム理論の分野でルーマンとかが言ってることと同じではないのかな」と思っています。

■ 「ほり哲学」によれば、高校の教師は「個を殺して、指導要領に隷従していさえすればいいだけの存在」に過ぎず、それ以上の出来過ぎたマネはしてはいけない、したいんなら公務員を辞めるべき、ということなのですが、これではまるで「公務員に人権はない」と言わんばかりの言いぐさです。

■ 私たちは、別に公務員でなくとも、多かれ少なかれ、社会に隷従せざるをえない存在です。しかし、そのなかで、その牢獄のなかで、なんとか、自分にできることは何だろうかと一生懸命考えて、それを実践していきます。

■ もちろん、その実践が間違うこともあるでしょう。例えば、ほりさんは、「自分が担当ではない授業の生徒が質問に来たときにそれを教えてあげるような教師は教師全体としてのチームワークを乱すからはっきり言って迷惑だ、そういう生徒に媚びを売るようなマネはやめてもらいたい」とおっしゃっています。

私はそのほりさんの指摘自体を間違いだとは思いません。ただ、それゆえに、ふがいない一教師が、間違うことを怖れるがあまり、自分にできることは何だろうかと一生懸命考えて、それを実践することを自体をやめてしまう。そういうことがあってはいけないと考えています。

■ そういう意味では、ほりさんは、そういう、生徒に媚びを売るような同僚に対してはっきりと言うべきなのです。それをせずに、ブログ上でうだうだ愚痴っている。「変えられないこと」と諦めている。そういう「希望を見失った教師」の背中を見て育つ子どもたちとはいったいどんな子どもたちなのでしょう? 或いはほり先生はそこまで想像が及んでらっしゃるのでしょうか? 私は非常に、そこに対して懐疑的にならざるを得ないものを持ちます。

■ 最近、はてなブログのG.A.W.さんが、「ガキが空気を読むなら、大人は夢と希望に溢れる空気をまき散らせ」というような意味のことをおっしゃっています。まったくその通りだと私は思っています。
2009/02/25(水) 20:38 | URL | heis101(管理人) #koodDmEU[ 編集]
■ そういえば、ほりさんは、塾の先生に対して敵対心を持っているとはっきりおっしゃっていました。この辺りが「公僕としての誇り」などというちっぽけな誇りにしがみつている人間の限界でしょう。

■ もしほりさんのところの校長か教育委員会の人あたりが、ある日突然、「ちょっと君、来年から数年間、あそこの塾で教師をしてくれないか。これからはどこも連携の時代でしょ。その流れで、教育でも学校と塾との連携が大事だという話になったんだ。そこで、試みとしてこの学校とあそこの塾とで、連携教員として、教員を交換してみるということをすること決まったんだ。君はその連携教員に選ばれたんだよ。というわけなので、これから数年間、ぼくも寂しくなるけど、しっかり頑張ってきてくれたまえ」なーんて辞令がくだったときには、どうするんでしょうかね? あるいはこういうのでもいい。ある日起きたらなぜか自分は塾の講師になっていた、というのでもいい。

■ あれだけ敵対心を抱いていた塾の教師を、自分がやらなくちゃいけない日がくるかもしれない。そういうことを想像することができる人間は、決して、塾の教師に敵対心を抱いたりしない。私はそう思います。
2009/02/25(水) 21:02 | URL | heis101(管理人) #koodDmEU[ 編集]
>「自分が担当ではない授業の生徒が質問に来たときにそれを教えてあげるような教師は教師全体としてのチームワークを乱すからはっきり言って迷惑だ、そういう生徒に媚びを売るようなマネはやめてもらいたい」

私も普段指導してもらっている教師に質問させるべきと思います。
しかし、それは生徒に媚を売っているなどというくだらない理由ではありません。
普段の授業を担当しているのは別の講師なのですから
結局はその講師の指導が入りにくくなり生徒のためにはならないのです。

生徒に嫌われるから生活指導をしないことを持ち出し
以前「個と集団の対立図式」を持ち出されておられましたが
これは視点が生徒ではなく自分でしかないことの証明と思います。
それでは長い目で見た子供のための教育はできませんね。

ちなみに私は塾や学校の看板は気にしませんね。
実際、ネット社会でも仲良くさせていただいている教員の方はいますし。
2009/02/26(木) 05:37 | URL | Psyche #QnynE5qE[ 編集]
ただ、教員の方は子供っぽい方が多いなという印象はあります。
良くない意味ですが。環境が問題なのでしょう。
2009/02/26(木) 05:42 | URL | Psyche #QnynE5qE[ 編集]
> 以前「個と集団の対立図式」を持ち出されておられましたが
> これは視点が生徒ではなく自分でしかないことの証明と思います。


■ 集団に適応するためには個が犠牲にならなければいけない、集団の利益にかなうように行動するとなるとどうしても個としての利益を追求することは諦めざるを得ないところがでてくる、だから、個が、自らの個としての利益の追求を諦めて妥協することが大事なんだ、その大事さを教えるのが学校の、高校の役目なんだ、というのがほりさんの主張だと思うんですね。

■ 一方、Psycheさんの指摘というのは、例えば、教師が、自分がラクをしたいから授業で手を抜くとか、そういうことがあってはいけないよね、生徒のためになるような授業展開を考えて実践した結果、それがたまたま教師がラクできるような方法であった、というのならOKだが、最初から教師がラクできることがまずありきなのでは話にならない、ということだと思うんですね。

■ で、Psycheさんがほりさんとかにこの話をすると、巧妙にはぐらかされるんです。具体的に言うと、まず、同意してくれない。同意する、同意しない、分からない、このいずれの対応もほりさんはとってくれない。ほりさんはどういう対応をするか? 無視するんです。自分が読めないところ若しくは読みたくないところは、とばすんです。それが、ほりさん流の読み方なんです。まず、ここを心得ていないと、ほりさんと会話することができない。
 ほりさんと会話したければ、或いは、ほりさんに、自分の言う主張を無視してもらいたくなければ、ほりさんの心にとまるような話し方というのはどういうものなのかというのを考えて、それを実践していくしかないんですね。


■ 以上の前提を踏まえて、私なりの考察をしますと、まず、教師と精神科医とカウンセラーというのは、手を抜こうと思えば手を抜ける職業なんですね。正確に言えば、手を抜いても、手を抜いていることが原因で不都合が起きるのだということが特定されない職業だと言うべきでしょうか。

■ だから、教師はたいてい二手に分かれるんです。客観的な評価が一緒なんだから、だからこそ頑張る、という教師と、それやった頑張らない、という教師に、別れるんです。これは教師のキャラに依存しています。すなわち、ほめてもらえないことはやっても意味がないと考えているか、ほめてもらえないのにやることにこそ崇高なる意味があると考えているかの違いです。これがまず1点。

■ 次に、これは非常に重要なことなんですが、教師は、その「手を抜こうとおもえば抜けるという自らの職業の特質」を、イタいものであると考えており、そのことにあまり触れてほしくないと思ってるんです。だからその指摘をされるとはぐらかす。
 これはなにも教師に限ったことではありません。誰しも、自分のなかのイタいところは突かれたくありません。よしんば突かれても、突かれていない振りをすることで自分を保つことを選択するでしょう。そういうものだと思います。

■ ですから、教師に対して、「お前は手を抜いているじゃないか。手を抜ける立場じゃないか!」と外野から糾弾することは、それがたとえ正義であったとしても、そういうことはしないほうがいいと私は思うんですね。教師のこころの中のイタい部分をえぐり返すようなことをしても、教師の教育へのモチベーションがあがるわけではない。間違いやったらなんでもかんでも指摘すればいいというわけではない。教師にしてみたらこうです、「そんなことは言われなくても分かってるよ!」

● ということなので、私は、「個と集団の対立」の図式を持ち出すことは、視点が生徒ではなく自分にしかないことの証明には、ならないんではないかと思います。この2つは全然次元の違う話ではないかという意味です。


ほかにもいろいろ、書こうと思えば、頑張れば書けそうなこと、言ってみたいことはあるのですが、とりあえずここまででいったん筆を置きます。



> ただ、教員の方は子供っぽい方が多いなという印象はあります。
> 良くない意味ですが。環境が問題なのでしょう。

「子どもをのばす」ということばかりに関心がいきすぎて、「自分もまた成長しないといけない存在である」ということを忘れている教師が多いということではないでしょうか。
教師は、こういうことを忘れることができてしまう数少ない職業のうちの一つですから。
2009/02/27(金) 18:09 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
あまり意味が分からないのですが、要するに全体ではなく自分しか見ていない、
あるいは自分を優先する、つまり視点が低いという意味ですよ。
些細なことなのでこだわりませんが(笑)
2009/02/28(土) 17:17 | URL | Psyche #QnynE5qE[ 編集]
> 要するに全体ではなく自分しか見ていない、
> あるいは自分を優先する、つまり視点が低いという意味ですよ。

子どもの立場(視点)に立って考えることができない、という意味ですね。それなら分かります。分かりますし、教師がそういうのではいけない、ということも分かります。
2009/02/28(土) 22:26 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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