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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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<対談>東浩紀×下條信輔 潜在認知さえもコントロール可能になる(第3回)
顕在認知過程と潜在認知過程の相互作用を理解しよう

ふむ


そもそも、人間は工学的にコントロール可能な一種の動物にすぎない。その制御可能性は、人間の生物学的な条件そのものに根ざしているので、本人がそれを自覚可能かどうかはまったく関係ないと思うんです。

ふむ


たとえば、マクドナルドではハンバーガーを買う人はコントロールされていた。それはわかった。でも、意識のレベルでは、コントロールされているからなんだとか、コントロールされているからあえてコントロールされてみようとか、コントロールされていることに抵抗しようとしているほうが実はコントロールされているんじゃないのかとか、その現実に対していくらでも解釈は可能なわけです。そして、そんな解釈を並べているあいだにも、着々とひとはマクドナルドにコントロールされていく。それが人間というものの本当なのではないかと思います。

なるほどね


いずれにせよ、そういう点で人間が「自由」な存在でないことはすでに明らかです。しかし、選挙の話はそれに加えてもうひとつの次元を備えている。というのも、繰り返しになりますが、それは、私たちの社会の「建前」の根幹に関わるからです。

うん


たとえば、未来においては選挙が公示された瞬間に、神経生理学者がわらわらと現れて今回の選挙行動の結果はこうなるだろう、ああなるだろうと分析するとします。しかもそのときに、候補者の髪型がこう変わったら選挙結果はこう変わるだろう、投票日が雨だったらこう変わるだろう、ポスターの並べ方が変わったらこう変わるだろう……と無数のパターンを想定して予測し、あるていどはその通りになるような時代が来たとします。そうなってしまうと、私たちはもはや、自分たちがなにかを決定したという「幻想」すらもてない。これは、社会のありかた、というか、私たちの社会についての自己イメージに致命的な打撃を与えると思うんです。

なるほどね。「自分たちが何かを決定したという幻想すら持てない」というところ、ポイント。


<対談>東浩紀×下條信輔 潜在認知さえもコントロール可能になる(最終回)
■コントロールされても、されなくても、結果はそんなに変わらない

それはだから或る意味当たり前のことでね、社会システム上の来し方行く末はたしかに個人が代替されたところで影響ないけれども、生身の人間としてあの人が大切この人が大切と思って生きている人たちにとっては、それは非常にダメージを与えると。

つか、もうそういう幻想は捨てる方向に舵を切ったほうがよろしいんでよくね?

倫理と論理の分離みたいなことはカントの時代から言われてることらしいですし、それがいままで人口に膾炙してこなかったこと自体が不思議というか、ここ数百年がひとつの変節期に過ぎなかったというべきか。だから、倫理と論理の分離というテーゼが棄却されない限り、ぼくたちは、自己決定を通じて社会制度を変容させうるという幻想もまた同時にいずれは棄却せざるをえなくなると思うんですよね。

だからそうなった時代の新しい倫理ってのは、「別に制度が変わらなくたっていいじゃないか。ぼくたちはいまのままで十分幸せなんだから」「制度がどう変わろうがそれは僕たちの幸せとは関係ないよ。制度は制度で動いていくよ」というような価値観に、だんだん変節していくんじゃないかなーとは、思いますね。


そもそも、情報技術の普及で社会のシステムはかなり変わっています。脳神経科学はさらにそこに決定的な一撃を加えられることになる。人間の発言や行動の神経生理的基盤が明らかになり、しかもその分析のツールはネットでも公開されていて、だれがどんな発言をするとどれくらい好感度がアップして、どれくらい商品の売り上げが伸びるのか、10代の少年でもフリーソフトで楽々分析できてしまうような世界。そんな世界では、もはや「政治」なんてショーでしかなくなるのかもしれませんね。

wwww

まあそうなった場合、じゃあ法はどうするのかとか、何と言いますか、政治はまあショーでもいいかなと思うんですが(←極論ですが)、法はそれじゃダメだろと思うんですね。じゃあいったい誰が法をつくってるの?って話になって(※)、そこには一種の集合知的な、どの誰でもない誰かを仮想しなければ、「誰かが法をつくっている」というテーゼを認めることができないところまでいってしまう。

そのときに、僕たちはどうやってその「どの誰でもない誰か」と対話するのか、対話できるのか、会話できるのか、と言ったことが問題になってくる。

今みたいに、「特定の誰かの表情を思い浮かべることによってその表情に集合知を表徴させる」という技法が通用しないわけですからね。

議会の意志を表徴する顔は誰かって問われたときに、これまでは多くの人は、それは議長だとかうそぶいてきたけど、そろそろそういう言い訳が通用しなくなってきた、そういう時代に、これから何十年か掛けてだんだんなっていく気はいたしますね。

※ 法をつくってるのは政治の場でだから、やっぱり政治もショーじゃダメという議論は有り得る。


たとえば、自分たちが行っている教会の牧師が幼女に暴行したとします。そうなると、寄付金の額は減ると予想したくなるでしょうが、そうではなくてむしろ上がります。これは現実にあった話です。それは、認知的不協和理論という社会心理学の考え方で説明できる。自分がいままで神の使いと信じて相当の金額を投資していた聖職者が幼女にいたずらする単なる助平な中年男だったと認めることは、寄付した人々にとって、それが多額なほど非常に心理的痛手になる。おカネをドブに捨てていたのか、自分の目は節穴だったのかということになる。それを認めるくらいなら、あんなに正直に涙を流して悔恨しているんだから、これからの彼の成功を信じて応援してあげようと思うわけです。だからコントロールされても、されなくても、結果はそんなに変わらない思いますよ。そういう意味では、ニューラル・マーケティングは実は使えるようで使えないかもしれない。

#認知的不協和出たーーー!!!(笑)

過去の自分の意志決定の履歴の妥当性が棄却されるような事実に対する認定を拒否するというこころを動きを誰もがやってしまうというアレですね。
誰も「自分の目は節穴だった」と認めたくないというか。ほら、先日紹介した、なぜ振り込め詐欺に騙されるのかって記事でも書いたけど、
あれと同じかも。


東:自由がなくなってしまう未来、といっても、監視社会とか管理国家とかいうかたちで自由がなくなるのではなくて、ぼくたちみなが、自分たちはもともと自由ではまったくなかったということに気がついてしまう未来、ということですね。

なるほどね


下條:ぼくは最終的に、認知神経科学的に自由意志なるものの正体が、概念なのか知覚なのか意志決定なのか、どういう認知過程であって、それが人間の本性にどれくらい根ざしていて、どれくらいが近代社会の教育に依存してるのか、どれくらいが言説に依存しているのか、それを知りたくて研究しているんです。

 自由があるのかないのか、それは人間一般にとってどれくらい重要なものなのか、その結論は、そういう無数の制約条件のヒエラルキーの中で、自由の観念がいったいどれぐらいの普遍性を持っているかということで決まると思っています。そして、その過程では、「自由」という近代以降に成立した概念がなくなってしまうことがありうるし、またそれならばなくなってしまってもいいとさえ思ってるんです。もちろんそれは、われわれの考える自由が客観的現実とはかけ離れていることがわかり、その上社会の制度を維持する幻想としてさえ役立たなくなったなら、という前提ですが。

人間ってのは結局、主観を越えて物事を理解することはできないわけで、仮にそれをしていると思っていても、それはたいていの場合は、「幻想的に仮説された虚構上の人格に対する感情移入」でしかないわけで、これを越えて、ぼくたちは俯瞰的に物事を想像することができない。
だからそういう意味では、ぼくたちの知の性質っていうのは、いかに摩訶不思議・奇妙奇天烈な人格を妄想的に仮構することができるかというところに、ほとんど大部分は、掛かってるわけです。それを思い浮かべることができれば、あとは「感情移入するだけ」ですから。

幻想的に仮説された虚構上の人格をより固定的にするためのシロモノというか、虚構のうえに虚構を塗りたくるための糊(のり)が他の動物よりは多少粘着力が強い程度というか、そういう仕組みによって私たちの悟性的判断ってのは担保されてるわけで、それを越えたものでは断じてないと、少なくともぼくは思うんですね。

「ある考究の対象を一つのものとして認定している」という事実認定自体が、その対象に対する感情移入を抜きには語れないわけですよね。もちろん僕たちはすべての対象に対して感情移入できるわけではないんだけれども、人類史をさらうと、例えば、木や石にも命がやどっているだとか、そういう考え方が結構見受けられる側面もあって、だから、「非人格的な対象物のすべては感情移入するに当たらない」という知見は、近代的常識という縛りの上にのみ成立するものに過ぎず、少なくともそういう「化けの皮」はですね、今後十数年、数十年を通して、脳科学とか心理学とかの力によって、或いはまた、計算機科学の躍進的な発展によって、はがされていくと、思うんですよね。


で、自由意志の正体だけれど、それは、いまのところぼくは、「アイデンティティという幻想を担保するために必要なもの」くらいに考えていて、ほら、幼児が哲学的になりすぎて自殺とか、あんまし聞かないでしょ? あれはなんで? 一つの説明は、こうです。アイデンティティが確立してないから。自分にはアイデンティティというものが存在するんだ、という自覚がないから。そういうものが存在していなければいけない必然性自体を知覚することがないから。
じゃあなんで、思春期以降の子たちの多くは、そういうものが存在していなければいけない必然性を自覚するのかって言うと、それはその、自分が過去に取った行動・行為・経験の履歴を記憶していてね、その行動基準になにがしかの一貫性を付与しないといけないような気になるから、なんだよね。「自分というものはこういう行動をするものなんだ」といった意味での自己像が、ある程度意識的に明示的に明文化された形で理解されないと、納得がいかないような気が、する。
もちろんそれは、その試みは、ぼくたちが潜在意識下の神性・霊性に突き動かされて動く存在で在り続ける限り、完全に成功することはないし、したがってその営みの成果はつねに、中途半端さを内包するか、あるいは「ごまかし」を内包する

まあそれはいいとしてもね、じゃあなんで、現代人は、「俺は俺のことを分かっている」という自己像、決して成就・完遂されえない所詮は虚構に過ぎない自己像を確立しなければいけないのでしょうかって問うと、これは、社会システム側からの要請、である気がするんですよね(責任という概念が存在することに同意署名しなければ僕たちの社会はアナーキーになる)。
いま、所詮は虚構に過ぎない自己像って言ったけれども、そんなこと言い出したら、あらゆる科学的言明もまた虚構に過ぎないわけでね、いままでお日さんが東から昇ってきていたからと言って明日は西からは絶対に昇らないということの保証にはならないという話と同等でね、だからこれは結局、反証可能性を担保しているかどうかって言うところに、仮構された自己像の不動性というものは依存するわけですね、依存するというところに落ちるわけですね。


責任という幻想が、どこから発露しているか、ということを考えると、「俺は俺のことを分かっている」という自己像、「俺は俺がどういう行動基準で行動するかを知り尽くしている」という自己像よりいずっているんですよね、これは。

でね、原始的な社会においては、この「俺」が「私たち」と一致していて、「俺が考えるようにみんなは考え、みんなが考えるように俺も考える」ということが潜在意識的に前提されてますから、そういう意味でね、一つの村ないしそういう共同体それ自体としては、私がいまここで言っているところのアイデンティティが担保された状態であるということは、言うことができると思うんです。
だから、人類史開闢と自己像の成立ってのはほぼ同時並行的・相互補完的に発生したと考えるにしくはないわけです。


それから、幼児の話に戻りますけれども、幼児は顕在意識がないもしくは少ないんですよね。大人になるにつれて、だんだん、顕在意識の占める割合が増えていく、増加していくんだけれども、じゃあこの顕在意識の出現ないしはその増加という道程をうながす実体はなんなんだということになると、周りの環境、周りの非野性的な環境ということになって、じゃあ、野性的な環境から非野性的な環境への移行はいかにあったのかというところが解決されないままになってウーン・・となっちゃうわけです。

その、教育、でよくあるのは、潜在記憶を顕在記憶に置き換えるということなんですよね。例えば、高校の社会の時間にイスラームの授業をする。先生はまず最初に、イスラームと聞いてどんなイメージか、そもそもこの言葉を知っているか、聞いたことがあるか、どういう意味なのか知っているか、というようなことを生徒に訊ねる。そのときに生徒のあたまの中で起こってることはまさにこれなんですね。「これまでなんとなく捉えていたものを、なんとなくじゃない仕方で捉えてみよう」ということなんです。この過程は、潜在記憶を顕在記憶に置き換える過程ですよね。
高校くらいになってくるとこういう、潜在記憶を顕在記憶に書き換えるというかたちでの学習が多くなっていくんだけれども、幼児とか小学校低学年においては必ずしもそうではなくて、「なにを潜在記憶として定着させるかを教師が選択している」という側面のほうが強いわけです。

顕在記憶の立ち上がりと、アイデンティティの立ち上がり、自我の立ち上がりってのは、ぼくはほとんど同時に起こるものだと思っていて、これを促進するためには、記憶の履歴が、潜在記憶の履歴が十分に蓄積されることが必要で、だからこそ、幼児のときから、誰の教唆もなく自ら能動的に自殺、自殺の意味を分かって自殺、とかはないわけでして(まあ世の中には、三歳のときの記憶俺覚えているよとか言うツワモノもいたりするわけですが、多くの人はそうじゃない)。

で、というふうに考えるとね、さっき言った、「野性的な環境から非野性的な環境への移行」という非連続性の原因に関する謎について、一つの納得のいく説明を与えることができるんじゃないかと思うんです。
世代交代が早い種族では、潜在記憶の履歴が十分に蓄積される前に「子どもを産んじゃってコテッ」って逝っちゃうので、顕在記憶のご利益について伝える人がそもそもめっちゃ少ないし、よしんば居たとしても多数決原理によってノイズとして排除されちゃう可能性が非常に高い。

でも、服を着るとか、そういう、身体を防衛する、身体を大切なものとして防護することが普及してくると(←道具使用の重要性)、或いはまた、ハンディキャップを背負った人たちやおばあちゃんおじいちゃんと言った「直接的には全然社会に貢献してくれない人たち」を役立たずとして即刻排除しない機制と言いますか(←愛情の重要性)、そういうものが確立されてくるに連れてね、しだいにジェネレーションタイムが増大して、30歳なっても40歳なっても生きとる奴が無視できない規模で出てくると、こういった人たちが、自分の、集団における役割を発明するということをし出すようになったんとちゃうかと思うんや。
つまり何かって言うと、潜在記憶を顕在記憶に置き換えることのおもしろさを伝えて回るという仕事、がもしかしたら仕事として成立するかもしれないというビジネス・チャンスを、当時の、どちらかというと非生産的な立場にあった高齢者たち、障碍者たちは、思いつくに至って、広めていくに至ったんじゃないかと思うんだ。

こう考えると、
道具使用・愛情の誕生 → 世代時間の増大 → 自意識に自覚的な人たちの割合の増大 → 自意識に自覚的な人たちによる啓蒙活動によって、自意識の普及にポジティブ・フィードバックがかかる状態の成立 → 非野性的な環境の成立・自覚的な教育的営為の成立
というふうに、一連の事項を関連づけて説明することができるんじゃないかな。


でね、また話は少し戻るんだけれども、その、幼児および小学校低学年くらいにおける教育活動のポイントは、教師や親やその他子どもに関わる人たちがいかにして、幼児が食うべき良質の潜在記憶を選択できるかというところに掛かるわけですけれども、分かりますかね、そりゃそうですよね、10歳になるまでずっと押し入れのなかに閉じこめられて育った少年が、その後健全なる発育を示してくれるだろうという期待は、とてもじゃないが起こらないわけでして。

なんというか、ぼくは10歳くらいまでの教育のポイントは、「この世は生きるに値する」という強烈な潜在記憶的な体験を刷り込んでおくことのうちに存していると思っていて、それなしには、なにも始まらないと思うんですよね。
これはいろんなレトリックで語ることができまして、例えば、井戸の外には大海が広がっているということを知っていることが重要だとか、言われるんですけれども、その前提には、井戸の中では井戸のなかの世界が成立しているんだということを俺もあなたも知っているということがあるわけでして、でこの前提は自明なのかというと必ずしもそうではないと。井戸の外の大海性を知るためにはまず、井戸の中の世界を自分なりに熟知している必要があると。井戸の中の世界に拘泥しすぎるがあまり井戸の崩壊の危機に立ち会ってもそれを危機として感知できないというのでは困るけれども、そもそもそれ以前に、井戸の中の世界に対する自分なりの意味付けすら成立していない人もまたいるというのが、近年のよくある教育に関する問題の、複数の問題をいっしょくたにして扱ってしまうことの悲しさなわけでして。ってそれは今回の本題じゃないんだけれども。

で面白いのはね、その、「この世は生きるに値する」という経験はいかにして成立するか、というところにもあるんだな。例えばね、その、大海を知ってる爺婆が、10年間押し入れに閉じこめられたとしても、それはそれでそれなりに、爺婆は楽しさを見いだして生きていくと思うんだ。でも、そういうかたちでの楽しさの見いだし方は、決して幼児にはできなんだ。だから、幼児を押し入れに閉じこめてると、押入を閉じこめたり虐待したりしてるとやばくなるってのはそこにあるんだ。

ぼくはその、愛情と道具使用のこの2つのポイントは、「可制御性」の程度によって統一的に説明することができると思っていて(だんだんと変な話をしている気もするけど)、要は愛情も道具使用も、「環境世界に対する手ごたえの一種」なんだよね。もちろんこれを結びつけるには間にまだいくつものファクターがある。
道具使用というイノベーションが成立するためには、可制御的でないものを可制御的にするということが能動的に可能である場合があるということに対する気づきがあったということが、少なくとも前提されていなければいけないわけで(あ、これ、面白くないものを面白くする、とか、「おもしろき こともなき世を おもしろく」とかに通ずる発想でもあると思うんだけれど)、この前提の構成には、一種のメタ認知的な機構が絡んでるような気はするよね。
愛情の場合は少し最初の切り口が違っていて、というのはその、愛情ってのは複素身体的な構成を観念するところに端を発しているというか、良い意味での公私混同ができるということに端を発しているというか、「俺の腹の痛みとお前の腹の痛みを区別することができないくらいに俺はアホである」というテーゼを身体が取得してしまったがゆえであるというか、そういう、共感機構の成立なしには、たぶん論じることができないわけ。
共感機構を前提としてそのうえで、可制御性というものを、人間の潜在意識の動力源として捉えようと。でなんでそういうものが進化論的に価値あるものになるのかっていうと、たぶんそれは、
「一つの個体が、周囲の環境と有機的に連関していくうえで必要不可欠なものとして計上されたから」というのがおそらくその答えで、結局、ぼくたちが、自然環境の一部であるところの何某かの対象Aを一つの対象Aとして捉えることができるということ自体が、その対象Aを構成する複数の要素a1, a2, ...がその要素間において何某かの有機的な連関を示すはずであるということを認識論的に担保する一つの橋梁になっていることが、あちらにおいてもこちらにおいてもあると思うわけですね。というか、そうでなければ、「ぼくたちが住むこの世界のどこにも閉鎖系などというものは存在しない」ということがいよいよリアリティを持って私たちの前に現前してくるなどということが、あろうはずがないではないか!

閉鎖系、との関連で少し話します。エントロピー、の定義の議論をするときにさ、ほら、宇宙全体、というものを考えないといけないじゃない。閉鎖系(孤立系)、というものを現実世界に見いだすことは困難だからさ。でも、ぼくたちは物事を考えるときまず閉鎖系から出発するわけだ。積み木を思い出してください。積み木はたしかに、重力と人の手と物理空間的な制約によって支配されているけれども、その支配の有り様を予測することは幼児にとってさえ至極簡単なことで、その有り様を的確に予測することができる限り、はじめて積み木を触る幼児は、その「予測できるんだ」ということのうえに、自らの物語をその積み木の組み合わせのうえに構築していきますよね、表現していきますよね。
それはそれで良いんだけれども、その、幼児の健全なる発達というときには少なくとも全然問題ないんだけれども、ひとたびちょっと引いて、その、クラシカルな可制御性(幼児が積み木を体験するときに感じる可制御性)を体感する感覚、の適用範囲を、どこまで私たちは広げていくにしくはないと考えてよいのか、クラシカルな可制御性であらゆる可制御性は説明可能であるという高慢に浸っている幼児と同じ気分で、僕たち大人もまたそのワインに酔うということをしていては、これではちょっと、見えてこないものがあるというか、なにかを見逃してる気がするわけですね。

つまり、こういうことです、孤立系なる概念を、僕たちが認識することができるのは、僕たちが幼児期に積み木で遊んで、そのなかで、積み木たちを構成する要素の一つ一つは独立に扱うことにしくはない、彼らの内側に生命的な時間は存在していない、生命的ないぶきは存在してないということを身を以て学んでいたという潜在記憶的な履歴があるがゆえだと思うんですよ。人間が、自らが編み上げる物語を制御できるということに気づいた瞬間と、人間が、「孤立系なるものをオレはイメージすることができるんだ」と気づいた瞬間ってのはたぶん同時的で、ってことね。
だからその、潜在意識のなかの顕在意識と言いますか、教師たちによって掘り起こされたレベルの顕在意識とは違う種類の顕在意識が、そこには存在していて、そのなかで僕たちは、「孤立系という概念から出発する」という技法を学ぶ、学んでいる、というところがあると思うんですよね。

でも、僕たちは、その「孤立系という考え方から出発する」という技法にはなじまない対象というものが存在するということを熟知していて、それは何かっていうと生命なんですよね。生命っぽいシステムに対しては孤立系という考え方はなじまないんです。だから僕たちは、そういう対象に対しては、これまでのように、積み木の破片に接するのと同じ仕方ではない別の仕方で、接することを覚えるんですね。
だから、生命と非生命の境はどこにひそんでいるかというと、人間が、孤立系という思想・メガネでもって物事を見ることを良しとするかしないかってところにひそんでるんですね。
だからその意味においては、実際的な生命に限らず、市場経済も、社会システムも、みーんな、「生命っぽいもの」として人間には認識されてると思うんですよ。え? ウソやと思う? そう思うんやったらな、いまから向こう10年20年の科学研究・経済研究がはじき出す成果が何を言うかというところをつぶさに観察してごらんなさい。ぼくは、すべてはこの「生命っぽいもの」への収斂として片付けられていく、ようにだんだんなっていく、と、直観していますよ。


あの、日本人がね、「集団への付和雷同性が高い」なんて話がよくあるじゃないですか、あれもその、いま考えてきたようなことを踏まえるとね、集団の顔というか、「集団さん」という一個の確固たる人格が存在するという虚構に酔う能力がきわめて優れているからだ、とも言うことができるわけですよね。欧米的発想ではこれないですよ。「集団さん? ハァ?」で終わりです。集団さんという虚構的人格は醸成されないわけ。醸成されないから、そういう人格を信奉しようという信仰も当然発生しない。
だからその、「木に顔を見る能力」と「集団に顔を見る能力」というのが同根であるとした場合に、欧米的発想ではそういう顔をよしんば見たとしてもそれを崇めない、大切なものとして抱え込むという方向に舵が切られない、といった側面があるわけ。なんでかっつーと、欧米的秩序の形成の方向性ってのは、基本的に、カオスをコスモスにするという意志・方向性に担保されている側面があるから。教会がコスモスの中心で、教会から離れれば離れるほど、訳の分からないカオス的な世界が広がっているという発想、思想。いま、その、ミヒャエル・エンデという人は、かつて教会があった場所にそびえ立っているのは銀行だと、現在の欧米的秩序を担保しているのは教会を中心とした神性ではなく、銀行を中心とした拝金主義なのではないかという一種の危惧を開陳されているわけでありますが、
その、金の裏側に人格は存在するかと(→No!)。一方、神の裏側に人格は存在するかと(→Yes!)。こういう問いかけをするとね、その、人間中心主義の瀰漫がこんにちのこの、教会から銀行への方向転換を動機づけているんだというふうな、よくある系の解釈が可能になるんですけれども、それはちょっと置いといて、もとの話に戻るけれども、
いま言いたいのはまあ、流動性・可変性の高い集団、そういう集団への信仰というか、集団神性への信仰を持つ人たちと、流動性・可変性のない集団、そういう集団への絶対神性への信仰を持つ人たちの違いというふうなしかたで、日欧の違いというものは説明することができるんじゃないかなと思った次第であります。ポイントは、「何に顔を見るか」ってところなんですね。あるいは、どういう顔を見るのがカッコいいか、どういう顔が見えてしまうのがカッコいいとされているかと言った、文化的に規定される恥性によってもまた、規定されている側面はあるでしょうね(まあカッコよさと恥ずかしさを同列に扱っていいのかどうかという問題はありますけれども)。



でじゃあ「自由意志って何なんだ」って最初の話に戻りますけれども、
ぼくが死んでも、ぼくが生まれてこなくても、「それでも社会は回っている」という残酷さをいかに棄却するか、この事実認識がもたらす心理的な不協和をなだめる屁理屈をどれだけソレっぽく言い立てることができるか、というところにおいて感情的安全への解決への道はまさに開かれているわけでして(そういう意味ではこれは「屁理屈の手柄」なわけです)、
個人は代替可能であるという残酷な事実認知を排斥する威力を持った物語を思いつけるかどうかというところに、まさにこの問題は存しているわけです。


だから僕たちの選択肢ってのはいくつかあって、
一つは、前原始的社会への回帰、ジェネレーションタイムをものすごく縮めれば文化もなにもなくなっちゃうよアイデンティティなどという心理学的・社会学的な概念に呪縛されるがゆえの苦しみからも永遠に解放されるよ、ってのがあるんだけれども、それを望んで選択したいという人はまずいない(少なくとも多数決原理でそういうのがはじきだされる光景を、可能世界に広がるフィクションを越えたところに想像することを、ぼくはできない)。
もう一つは、さらなる科学や文学の進展によって、生命に対する認識の書き換えが集団レベルで起こるよ、もはや社会も地球も宇宙も、およそこの世の中にあるほとんどのものはカオティックで、孤立系的に理解可能なものなんてごくごく一部に過ぎないということがバレてしまったんだから、「それでいいじゃないか」という境地に至れることが重要だよ、という方向に、社会全体が舵を切っていく可能性。これは有り得るでしょうね。
問題は、その「それでいいじゃないか」が、個人の代替不可能性という幻想を棄却してしまわないかどうかというところに最大の関心があるわけで、これをどうするか、これはどうなるか、なんやけれども、ぼくは棄却してしまわないと思う。だって、「それでいいじゃないか」ってのは、ある意味、昔の人の知恵への回帰ではあるわけだし、要するにそれっていうのは、近代社会の常識が棄却してきたものどもの一部を復権させるという試みなわけだし。その復権に、ポスト近代社会的なるものの知恵が加担していたとしても、別段不思議はないよ。っていうか、そういうもんでしょ文化文明の発展ってのはお三方?ってな感じ。
あらゆる現実的な対象はシステムを構成するが、そのなかでも、私たちが私たちの同胞と認めうる限りのものに対してだけは、特別扱いをしてあげないといけないというのが、こんにちの、人権をその最も根本的な礎(いしずえ)とする社会の基本的な在り方なわけでして、つまり、
社会を喜劇として観察する観察者にとっては、特別扱いしようが特別扱いしなかろうが、そんなことはどーでもいいことに成り下がるんだけれども、
有限の時間を、生身の身体ある人間として、つまり、の喜怒哀楽のなかに生きる体験者にとっては、自分自身の概念的な意味での存在に関わる一部のものを、特別扱いするかしないかってのが、ものすごくデカく響いてくるわけ。
(そういう意味ではあれやね、もし死なない人間というのがこの世に居たならば、・・・という話は今回はやめとこう。生きる時間が有限であるか無限であるかということと、自分が世界の観察者であるのか体験者であるのかということの違いは必ずしも同一ではないのではないか、ということに、書き出した矢先に気づいたから)


ぼく、この話の一等最初に、責任という概念に同意署名しなければこの世はアナーキーになってしまうというようなことを言ったけれども、これはなにも「新しい種類の責任」「新しいかたちでの責任」が、今後登場して来るであろうことを予測することをなんら妨げないものでありまして、分かるかな?、責任というもののかたちがなくなってしまうことは怖いけれども、責任というもののかたちが変容していくこと自体に対しては私は特段の不安は覚えないというか。

顕在意識や潜在意識の側から見たときの、潜在記憶と顕在記憶のこのどちらをもひっくるめた記憶に対して整理を命じるのが、幼児期・小学校低学年期以降の人間においてするべきこと、ティーネージャ(を少し体験したころ)になったらまずはするべきことであって、そしてね、その整理営為が成立しているということ自体が、整理者がいるということをはじき出してくれるので、「整理行為を通じてもまた僕たちは自らのアイデンティティを堅持できる」という側面もあって、これをネタっぽく言い換えればそれこそ「問うことは生きること」みたいになっちゃうんだけれども、でもそこがことの本質や。ぼくはさきほど上のほうで、人類史においては社会の役に立たない爺婆や障碍者が、自らの仕事を発見していく過程があったんじゃないかって言いましたけれども、この行為自体は、「問うこと」でしょ? 問う奴がいて初めて、文化というやつは一歩前に前進しうるというか、そういう側面があるわけ。

だからなんだろうな、科学や文学の進展に伴って事実認識が書き換えられていく、事実認識が書き換えられていくと、当然にそれに伴って、僕たちがこれまでなんの疑問も持たずに酔いしれていた責任のかたちというものを問わざるを得なくなってくる、問うてそれを現在の事実認識と符合するように書き換えざるを得なくなってくる、飲むべきワインの種類を変えなくちゃいけなくなってくる、ということが、あるんですよね。

そういう意味では、現在僕たちが法システムなどを通じて感じている、「責任」というものに対する感覚は、これは、近代社会的な幻想、近代社会的な事実認識のうえではたしかに有効性を持ちうるけれども、ひとたび事実認識が書き換えられてしまうと、人間の側の心的機制と「世界や社会や人間はこういうもんなんだ」とメディアや現実が言うこととの間に、鍵と鍵穴の関係的な整合性が取れなくなってくる、そういう意味では、この東先生と下條先生の対談それ自体はね、そういう、現在の責任感覚を書き換えなくちゃいけないことへの不安、現在の幻想を捨てなくちゃいけないかもしれないことへの不安を任意の第三者の多勢は感じうるだろうという予期に基づいて立案されたものではないかと推察いたすところではありますね。

うん。なるほどね。やっとまとまってきた。結論を言うと、「何も怖がる必要はない。新たな事実認識に見合う新たな責任感覚を、これから見いだしていけば、これからつくっていけばいいだけのことだ」というだけのことに過ぎないわけでして。



> 認知神経科学的に自由意志なるものの正体が、概念なのか知覚なのか意志決定なのか、どういう認知過程であって、それが人間の本性にどれくらい根ざしていて、どれくらいが近代社会の教育に依存してるのか、どれくらいが言説に依存しているのか、

だから、自由意志なるものの正体は、個人の代替可能性という事実認識がもたらす不協和を心理的に解消するための手段だよね。
概念かと言われるとまあ概念でしょう。
知覚なのかと言われると、それは知覚されるものというよりかは知覚されるべく内在的に発明されるものなんだよね。もちろんこの発明自体の機構はつまびらかではないんだけれども、心理的に安定するための機序が、人間の場合、潜在意識下の何かが知覚それ自体を操作するということによってもたらされている気は、いたしますね。で、その潜在意識下の何かっていうのは、生物学的にはホメオスタシスの一端を担っている何かであり、その例えば、現在の外界からの入力によってもたらされている知覚により、脳内に或る特定の神経伝達物質が慢性的に出過ぎてしまうということがあれば、その神経生理学的な異常を修復する遺伝学的ないし生化学的メカニズムというのが存在していて、それによって修復されることそれ自体が、人の知覚体験を内側から操作する(私はいま「発明」と表現したところの)何かに加担している可能性というのは、あるんじゃないかなと、思いますね。
それから意志決定かどうかということですが、意志決定する以前に、意志決定しなければいけない問題の生成という光景があって、じゃあその問題はどこから沸き出してきたのかっていうと、潜在意識下にある何かからとしかとりあえずは言えないわけですよね。だからぼくは、意志決定がどうのこうのということを論じるなら、そのことを論じる前に、意志決定しなければいけない対象や問題というのはどのようにして或いはまたなぜ、私たちの前に現前するのか、ある問題が私たちの喫緊の課題として浮上するのは、どういう潜在意識下にある理由ゆえなのかを問うたほうが良いように、は、思いますね。


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