@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このウェブサイトの説明 - ポスト・ヒューマンの魔術師
ドイツの大社会学者ニクラス・ルーマンは、システム理論を体系化させる上で、機能等価主義としての理論家を自称していた[1]。それによれば、<概念>という概念も、<実証>という概念も、機能的に代償可能な等価物に他ならない。「概念は、自己自身を把握する『精神』の媒体などではなく、別のキイの方が役立つなら棄てられてしまうキイにすぎない。すぐれた理論であるかどうかを判定する基準として、『これで前より良く見えるかね?』という問いに勝るものがあるだろうか」[2]。ここで述べている代償とは、人間学者アルノルト・ゲーレンが提唱した「負担免除」[3]に連関する概念だ。つまり、我々は既存の概念的思考に限界が伴えば、実証的研究を指し示すことで、代償的に対応することができるのである。

 無論、この逆も然りだ。実証的研究が「真理」を発見することを待っていては、我々はミネルヴァの梟の如く待ち惚けを食らう。しかし機能等価主義を標榜する理論家ならば、概念的思考に着手することで、何らかの機能的等価物を用意することができる。

なんか、当たり前のことを言ってる気がするけど、何、それを言ったところで何か新しいことを言ったことになんの?
機能等価主義ってのは新しいの?

まあ、理論と実践を同じもんやと見る視点を確立した人がそう名付けたんなら、まあ、しかたないなあそう呼んでやるかと思わなくもないけど。

ていうか、機能的等価物を定義するんならば、機能的等価物ではないものは何かを指示してくれないとイメージが湧かないんだよね。まあ、他entryを読んでるうちに分かってくる仕組みになってはいるんだろうと期待するところではあるけど・・・。


一方で技術論的に観れば、その敷地にはニック・ボストロムらが先導するトランス・ヒューマニズムが位置している。遺伝子技術、生殖技術、サイボーグ、ファイボーグ、ブレイン・マシン・インターフェイス、あるいは生政治など、およそトランス・ヒューマニズムが着目するのは、身体構造や生体構造である。社会的政策や感情的な充足感などについては、後回しなのだ。吹けば飛ぶような人間的な自我意識よりも、むしろ無意識的に作動する生命システムや脳神経システムこそが、注目されているのである。自我意識を持つ我々がこうした技術と接触したとしても、トランス・ヒューマニズムの自動的な影響を逐一理解している訳ではあるまい。無論技術を利用することは可能だ。しかし、利用することと理解することは、乖離しているのである。

あ、しょーなの? 「とらんす・ひゅーまにずむ」なんて名前が付いてるんだ。へぇ。でもこういう視点って、養老孟司とかがすでに先取りしてんだよね。世間的には。ま、学史的にはニック・ボストロムのほうがさきかもしれねーんだけどよ。
って、いまちょっとググってしらべたら、ニック・ボストロムって1973年生まれじゃないか。つか、この人、あんまり知られてないよね。wikipediaに日本語のページがあるくらいだから、まあ「知ってる人は知ってる」てな感じなんだろうけれども。
それでもだ。視点の先取りという意味で言えば養老孟司のほうがはやかったんじゃないかな。ほら、日本でもさ、江戸時代にすごいこと思いついてた数学者がいるけど、欧米と交流がなかったから名前は学史に第一発見者としては残らなかった、的なのがあるじゃん。あれと同じような現象が、いまもなお、日本と欧米との間では発生しうるということなのかもしれないね。ま、勢いのある複数の言語が並立する状況下では当然といって然りなのかもしれないけど。

で、話は戻るけど、この話は何かっていうと、「制度や感情に注目するのもいいけどよ、これからは無意識を構成しているシステムを多角的に見てみることこそが重要になってくる時代だぜベイビー」っつー話だな。ふむふむ。
で、たしかに、いまそれがある種のブームを構成しているきらいはあるわな。


したがって、「ここからが本題である。複雑なものが言語において同時現前する問題である。理論形式という地平では、さまざまな研究の試みをいかに統合する か、という問題が焦点となり、叙述形式の地平では、線的にも循環的にもすすめられない論証、まさに<不思議の環>として手続きを踏む論証の方法をいかにテクスト化するか、という問題である」[8]。

うーん、要するに理論屋(理論化屋)と実験屋(記述屋・事実認定屋)の仕事の分担の話か。
線的にも循環的にも進められない論証、ってのは、なにを言ってるかというと、つまり、前々時代的には、線的な論証ばっかりやった。でもこれだけではいい加減飽き飽きしてくる、無限後退という問題もあるしぃ~ってな感じで、「じゃあリカレントはどう?」てな感じで、「自分のしゃべった言葉が自分の背中を突く」的な論証形式、記述形式が一種のトレンドを構成した時代が前時代。でいま、この、「何々である、何々である、したがって何々である」でもなく、再帰的でもない、記述形式を私たちは渇望してやまないのダという感情的な主張がコレダ!

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/101-6c0d1a30
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。