分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

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タイトルの書、一気に読んだ。
久々なのでテストも兼ねて。短く。

主張としては納得。

加害者が更生するにあたって、被害者の存在や被害者に同情・共感する人たちは邪魔でしかないということ、加害者もまた被害者であるということが強調され、痛快である。

思ったのは、とにかく反省を急がせたがる側もまた、なにかの被害者なのではないかということ。

性的役割分担を幼いころから子どもに求めたり、悪いことをした際に反省の決意を述べさせることがなぜ社会に浸透しているのか、も問われるべきだろう。

「反省してるかどうかによって量刑を変えない」あたりが、さしあたりすぐに実行可能なことかなと思ったり。

被害者と加害者が、ともにその後の人生を幸せに生きていくためには、その被害者と加害者は、同じ世界に住まないことが求められるのかなと。

同じ世界に住むという前提に立つから、加害者の更生がいつまで経っても実現されない。
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