分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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> 新卒採用なんて、企業がお子様学生のために用意してあげた、最後のチャンスなんだよ。
> 新卒採用をなくして学生のケツをひっぱたいたらどうなるか。俺は、以下の事が連鎖的に起きると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100125162149

新卒採用というのは、大量にいる「従順な学生」のためのものなんだろうなあ。その「従順な学生」は、学校教育を通じてつくられる。

日本の強み(というか、オリジナリティ?)というのは、こういう「従順なお子様学生」が大量にいる、ってことなんじゃないのかなあ。順番抜かしせずきちんと並ぶとか。

学校教育も家庭教育も、10年以上をかけて、子どもが持つ「やいば」を徹底的に抜く作業に従事しているから、その子どもが就職する頃には、攻撃力のない、無力化された、ペットのような人材が大量に発生すると。

或いはこうも考えられる。攻撃力のある学生を使える企業がいない、または、攻撃力のある学生がそのやいばを抜くんじゃなくて、そのやいばを生かす方向で、大人になるに向けて修練していくためのシステムがない、ということなのかもしれない。

小学校時代や中学校時代に、子どもは先生や親から、たくさん指図や注意を受けるけど、あれをどれくらいマに受けるべきなのかを自分(達)で判断して、マに受けるべきでないと判断した部分については適当に大人に合わせておくようなタイプの子のほうが、就職してからも強いんじゃないだろうか、とか。

子どもの頃から自主性を育てるなんて事は、言えば確かに言葉の上では美しいんだけど、なんか理想と実態がかけ離れているんだよね。親や先生が過剰に子どもに「どうしたいの?」という形で意思決定を迫る場面がしょっちゅうあるのような状況が、それを育てることには必ずしも繋がらない気がするというか。

理想的な自主性というのは、大人が子どもに「どうしたいの?」なんて訊かなくても、すでに子どものほうから動いてる状態なんじゃないだろうか。それを、へんに自主性を引き出そうとして、大人の側の欲望向きだしのかたちで現れるのがこの「どうしたいの?」的質問文なんだよなあ。とか思う。

「どうしたいの?」って大人に訊かれてる時点で、すでに自主性じゃないじゃない。「どうしたいの?」という大人の側からの言葉が発生するまえに、すでに子どもの側から動いている、という状態を実現するにはいかにあるべきか、が問われて然るべきでしょう。

まあ、そういうことを、4歳くらいの小さい子を見ていても、或いはまた、14歳くらいの小さい子を見ていても、時として思うわけです。「反応がない子ども」はいかにしてつくられるのか、とも。やっぱテレビゲームなのかなあ~なんてこういう短絡的結びつけには慎重であるべきなんだけれど(笑)。

おおざっぱな括りとして、青年団から草食系へ、内田樹の言葉で言えば、実存主義から様子見へ、という流れは、事態を理解する手がかりにはなると思う。関心の中心の一つは、この流れが、なぜ起きたのか、というところなんだけど、

ぼくが思うのはね、たとえば同学年同士でのコミュニケーションにおいても、直接相手に向かうのではなくて、なにかを通して向かう、ということが増えたこと、が、一因にあるんじゃないかなと、睨みたくなるわけです。

一冊の本を通して、ある一本のテレビゲームソフトを通して、野球やサッカーという共通の関心を通して、コミュニケーションするということに慣れきっており、逆に言えば、そういう、互いをつなぎ止める明示的根拠がなければコミュニケーションしなくていいと考える傾向が、一つのヒントだと思うんだ。

ありますねー。空気読みがうまくなるのはそれが一つの理由かも。RT @nucco: @heis101 どうしたいの?って言われると この人はどうしてほしいのかなって考えてしまいます この思考は昨今の空気読めってのに通じるかもですね

のび太がスネ夫やジャイアンと遊ぶのは共通の関心があるからですか? まあ確かにそれもあると思うけど、本質的には違うと思うんだよ。彼らをつなぎ止めているのは一つには地縁だ。たまたま近いところに住んでいた、という。地縁はふつう「明示的」根拠ではない。

いまだにドラえもんやサザエさんが毎週放送されているのは、ノスタルジーなのかしら。そういえば、母子家庭の家族とか、夫が単身赴任してるケースとかが出てくる、ゴールデンタイムのアニメって、あまり聞かない気がする。親が死んじゃってていないという話はごまんとあるけど。

その通りだと思います。二言目には「命令」か「どうしたいの?」としか言わない親などを見かけると、「あ、この家族コミュニケーションうまくいってないな」と思ったり。RT @nucco: @heis101 どうしたいの?という問い自体 相手にどうかしてほしいから問いかけるのですよね

(承前) あ、でも、コミュニケーションがうまくいってないわけではないかも。


ぼくのなかでは、「命令」と「それに対する服従」という関係は、相手と信頼関係を結ばなくてすませるための方法なんですよね。信頼関係が弱まると、この指令と服従の関係が台頭してきやすくなる。

いじめが、狭い部屋に閉じこめられて風通しが悪くなることによって起こるのだとしたら、人類は、少なくとも定住後は、特に山間部などにおいては、そのほとんどの期間において、子どもたちは青年団的状況のなかでの成長を強いられていた、という解釈が成立すると思うのですが、どうでしょうかねえ。

情報ありがとうございます(_) RT @atauky: @heis101 ゴールデンではないですがケロロ軍曹の日向家には父親がいませんね。

.@nucco 例えば、子どもが、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んでいると安心するけれど、DSの画面を見つめてひたすら黙っているという場面を見ると、なんか不安になるというのは、見守る側の大人の素朴な感情としては、どうしてもあると思うんですよ。そこをどうしたらいいんだろう、というか。 RT @nucco:@heis101 ネットが普及して距離 地縁の重要性が低くなったのかもしれませんね 趣味が近い人もネット上だと集まりやすいですし また学校教育やテレビによる地域格差の少ない共通の体験が多くて 暗黙の了解やお約束のパターンがたくさんあるのではないかとか

まあ、今はゲーム世代がすでに親になってますから、「必ずしも(そうはいえない)」という側面はあるんですけど。

@ch0vi そう、実は子どもだけの問題じゃないんですよね。 RT @ch0vi:耳痛い。全世代にある話ですねRT @heis101 「どうしたいの?」って大人に訊かれてる時点で、すでに自主性じゃないじゃない。「どうしたいの?」という大人の側からの言葉が発生するまえに、すでに子どもの側から動いている、という状態を実現するにはいかにあるべきか、が問われて然るべき

めんどくさいから説明を飛ばすけど、青年団から草食系へ、実存主義から様子見へ、の流れは、なんか、必然な気がする。簡単に説明するとこうかなあ:

人の移動が激しくなったり、文化が多様化したりして、共通了解が狭まる。そこに高い閉鎖性が加わるといじめもしくはそれに近いものをよしとする文化が強まる。それに不満を覚える人たちは、コミュニケーションする根拠を、興味関心などの「明示的」なものに求め出す。

ゴールデンタイムという制限を外すと、結構ありそうはありそうですね。ただ、浅見を承知で言うと個人的には、憂愁を誘うことを目的としたものが多くて、視聴者たちに近い存在として受け入れられることに照準されているケースは少ないのではないかと思っています。 RT: @u_375:@heis101 「キャプテン翼」の翼くんのお父さんは遠洋漁業の船長さんかなんかでしたよね?あれは単身赴任でしょうか?>そういえば、母子家庭の家族とか、夫が単身赴任してるケースとかが出てくる、ゴールデンタイムのアニメって、あまり聞かない気がする。

話を戻しまくると、新卒採用という現象が日本にだけ見られるのは(たしかそう)、日本にだけ「従順なお子様学生」が大量にいるから、という説明になってしまうんですが、どうでしょうかね。


追記:
このブログのタイトルだけど、因果関係としては多少怪しいな。鶏が先が卵が先かなところがある。ネットの普及は触媒になってる。
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