分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

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(注:文字のハイライトはすべて筆者注)

目次

  1. main
    1. 出発点としての違和感
    2. 反論・批判・批評の原則としての斟酌
    3. 結論と今後の展望
  2. 補遺
    1. 斟酌に掛かる時間
    2. 斟酌力と感情表現力の独立性
  3. 余談
    1. 国語版ケアレスミス






main

出発点としての違和感

違和感?

最近ブログ上でよく目にする言葉に
「違和感」という言葉がある。

他人の記事や主張に対するコメントなどで
よく使われているようである。

しかしながらよく考えてみると,
他人の意見は自分の意見ではないのであるから,
多かれ少なかれ違和感を覚えるのはあたりまえのことである。
その段階では, 他人の意見に対してあれこれ言うべきではない
違和感を覚えたことを表明することには,
なんの価値もないばかりか,
相手に対して失礼でさえある。

違和感を覚えて,
その後,よく考えて自分の意見を構築してはじめて,
つまり,「異議」を唱える準備ができてはじめて,
表明する価値があるのである。

学校における話し合いでもこのことには
十分注意する必要がある。

他人の意見に対して,
「なんか違う」とか
「なんだかわからないけどおかしい」とかいう発言を
決して容認すべきではない。
その段階では発言すべきではないことを
きちんと教えなければならない。
それが,民主社会のマナーである。

他人の意見に対して,自分の意見をしっかりまとめてから
「これこれこういう点であなたの意見に反論します。
 その理由はかくかくしかじか」 という形の
異議となってはじめて,
表明する価値があるのである。

安易に「違和感」を表明してしまう社会には,
危惧を覚えている。



違和感という言葉は、実は私も気になっていた。
なんとなく気になっていたところにこの記事を拝見したので、思わずいろいろなことを考えてしまった。

私がこの記事を見て即座に思い出したのは、内田先生による次の記事である。
なぜ私がこの記事を即座に思い出したかというと、madographosさんの意見と内田先生の意見は背馳するのではないかと思われたからだ。


そんなの常識

「常識」についてはこれまで何度も書いているが、「そんなの常識だろ」 というのは私たちがものごとを判断する上で、たいへんたいせつな知性の働きである。

まず、第一に「常識」というのは即自的に「常識」であるわけではないからである。
私が「そんなの常識だろ」と憤然と言った場合でも、言われた当人は「お前の言うことのどこが常識なんだよ。 何年何月からそれが常識になったんだ。どこからどこまでの地域で常識なんだよ」とただちに反論する権利が保証されており、 私はその異議に対しては絶句する他ないからである。
そう。常識というのは「常識じゃない」のである。
「常識じゃない」からこその常識なのである。
ややこしい話ですまない。
常識にはその正しさを支える客観的基盤が存在しない。
「エヴィデンス・ベーストの常識」というものは存在しない。
常識というのは外形的・数値的なエヴィデンスでは基礎づけられないけれど、 個人の内心深いところで確信せらるるところの知見のことなのである。
いや、お前の言うこと、 おかしいよ。うまくいえないけど、それって常識的に考えて、おかしいよ
というのが常識の表白のされ方である。
常識の表明はつねにこのように「うまくいえないけれど」「論拠を示せないけれど」 「どうして自分がそのように考えるに至ったのかの理路を明らかにできないけれど」という無数の「けれど」に媒介されて行われる。
この「不安定さ」 が常識の手柄なのである。
常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」にならない。常識は「汎通的妥当性」を要求できない。
この無数の「できない」が常識の頼もしさを担保している。
人は決して常識の名において戦争を始めたり、テロを命じたり、法悦境に入ったり、詩的熱狂を享受したりするころとができない。
自分の確信に確信が持てないからである。
なんか、 そうじゃないかなって気はするんだけど、別に確たる根拠があるわけじゃなくて、でも、なんか、そうじゃないかなって・・・ 」というようなぐちゃぐちゃと気弱な立場にある人間は、他人に向かって「黙れ」とどなりつけたり、「戦え」と命じたり、 「死ね」と呪ったりすることはできない。
そんなの「非常識」だからである。
私は人間社会は「真理」ではなく、 「常識」の上に構築されるべきであると考えている。
というのは、「常識」的判断は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからである。
人間の知性のもっとも根源的で重要な働きは「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に『これは解ける』とわかる」 というかたちで現れる。
これまで何度も書いていることだけれど、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」 というのが人間知性に求められていることである。
どうふるまってよいのかについての網羅的なカタログが用意されていて、それと照合しさえすれば、すぐに「とるべき態度」 が決定されるような仕方で私たちの実生活は成り立っていない。
私たちの人生にとってほんとうに重要な分岐点では、結婚相手の選択であれ、株券の売買であれ、 ハイジャックされた飛行機の中でのふるまい方であれ、「どうしてよいかの一般解がない」 状態で最適解をみつけることが私たちに要求される。
理論的に考えると、「どうふるまってよいのかの一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能である。
けれども、「論理的にそんなことは不可能である」と言って済ませていたら、 生きる上で死活的に重要な決定はひとつとして下せないことになる。
そして、実際に私たちはそういうときに正否の準拠枠組み抜きで決断を下しているのである。
何を根拠に?
なんとなく、 こっちの方がいいような気がした」からである。
レヴィ=ストロースはマトグロッソのインディオたちのフィールドワークを通じて、「ブリコルール」という概念を獲得した。
彼らは少人数のバンドでわずかばかりの家財を背負って、ジャングルの中を移動生活していた。
人ひとりが背負える家財の量には限度がある。
だから、道具はできるだけ多機能であることが望ましい。
狩猟具として使え、工具として使え、食器として使え、遊具として使え、呪具としても使える・・・ というような多目的なものであるほど使い勝手がよい。
しかし、「何にでも使えるもの」は逆に一見しただけではどんな使い道があるのかわからない。
だから、ブリコルールは密林を歩いていて、何かを見つけると、それをじっと眺める。
そして、「なんだかよくわからないけれど、そのうち何かの役に立つかもしれない」と思ったら、背中の合切袋に放り込む。 「こんなものでも、いずれ何かの役に立つかも知れない」(Ca peut toujoursservir)というのがブリコルールが対象を取捨選択するときの基準である。
ブリコルールはすべてのものを袋に入れることはできない。なにしろ、袋はひとつしかないのだから。
彼は目の前のものをじっと凝視する。
そこには「何の役に立つかわからないもの」がある。
それが「今後ともまったく役に立たないもの」であるのか「もしかするといつか何かの役に立つのかもしれないもの」 であるかを既存の基準を以て識別することはできない(何の役に立つのかまだわかっていないのだから)。
にもかかわらず、ブリコルールは決断を下して、あるものを棄て、あるものを袋に入れる。
このとき、彼はいったい何を基準にして「いずれその使用価値が知られるはずのもの」と 「いつまでもその使用価値が知られないであろうもの」を識別しているのか。
それをブリコルール自身は言うことができない。
どうして自分にはそれをできるかを言うことが出来ないけれど 「できる」ということがある
それが人間知性のいちばん根源にある力であると私は思っている。
ロジカルに言えば、 「明証をもって基礎づけられない判断は正しい判断ではない」という命題は正しい
けれども、経験的には 「明証をもっては基礎づけられなかったけれど、結果的には正しかった判断を継続的に下すことのできる人」 が私たちのまわりには現に存在する
私はこの「明証を以ては基礎づけられないけれど、なんとなく確信せらるる知見」を「常識」と呼ぶことにしている。
そして、常識の涵養こそが教育の急務であると思っている。
もちろん、私の意見に対して「何を言っておるのかキミは。 常識の涵養が教育上の急務だなどという判断にどういう論拠があるのかただちに具申せよ」 という反論があることは承知している。
だから、「いや、なんか、 よくわかんないけど、そんな気がするんですよね、僕としては」とふにゃふにゃ応接するのである。


反論・批判・批評の原則としての斟酌

   部は、論理的に正しいことを言っていると私が思った部分である。
   部は、論理的にいつも正しいとは限らないが、経験的に正しい可能性が高いと私が思った部分である。

(自分の意見と同じであるはずがない)相手の意見を、相手の立場に立って考えてみる。
そしてその上で、なおも違和感が残っているのであれば、その点について意見を表明する。
そういう在り方は、相手とその相手が置かれている立場というものを十分に斟酌した意見交換の在り方である一方、そうでない在り方は、それを十分に斟酌しない(その立場に立って考えてみるべき必要すらない)在り方であり、それの価値を無根拠にゼロ査定する在り方であるから、これは相手に対する敬意を欠いた在り方であると言える。

内田先生は、「俺がAさんの意見を聞いて、その瞬間「それは違う」と直感的に思ったとき、その思いを、明証によって基礎づけられないうちから表明することは、いけないことでないばかりがむしろ推奨すべきである」と言っているように見える。
平たく言えば、「Aだと思ったからAだと言ったんだ。何が悪い?」ということである。
「俺はAだと思ったからAだと言う。だからおまえも、Aだと思ったんならAだと言えばいいし、Bだと思ったんならBだと言えばいい。それだけのことである。根拠を示すことができなければ発言してはいけないというルールの下では、わたしたちの発言内容はほんとうに貧相なものになってしまう。非常にばかばかしい、ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、根拠がないからというだけのことで、発言できないというのは、なんとも勿体ないことのように思える」と、内田先生はおっしゃったように見える。

しかし、これはどうやらちょっと違うようだ。
内田先生がおっしゃったことというのは、「俺がAさんの意見を聞いて、その瞬間「それは違う」と直感的に思ったとき、その思いを、相手の立場に立って眺めてみるというプロセスを一応は頑張って経てみた上で、それでもなお残留した「それは違う」という直感的な思いを、明証によって基礎づけられないうちから表明することは、いけないことでないばかりがむしろ有益である」ということなのである、という風に考えれば、これはmadographosさんの記事内容と背馳しない。

つまり私は、内田先生が陽におっしゃらなかった、私が上で太字で書いた部分について、少なくとも内田先生のこの記事を読んでいる時には、自覚的でなかったのである。

結論と今後の展望

結論としては、「斟酌を伴わない反論・批判・批評は、反論・批判・批評として無効である(無効であるばかりでなく犯罪や公害に近い)」という、まあ言われてみればもっともかなと思えるような話なわけであるが、それでも、私を含むさまざまな、属性を異にする人間が、なんどもなんども繰り返し、この命題に定期的・継続的に言及しなければならないこと、この言及行為の需要が尽きないことそれ自体は、「人間というものはなかなか成長しないものだ」的達観だけでは説明のつかない何かがまだ潜んでいるように思われる。
本質的には同じ内容について、おのおのが自分自身の経験 ------これは一人一人異なっていて、だからこそ考究に値する、複雑で精緻で、時に美しく時に凄惨な様相を私たちの眼界に突きつけてくれるわけであるが------に基づきつつ、手を変え品を変え、それについて考究する者と同じ数だけの方便が生産され続けること、そして今もなおどこかで生産され続けていることには、いったいどのような必然性があってのことであるのか。
こういったことが今後の課題であるように感じる。


補遺

斟酌に掛かる時間

   部でmadographosさんは、「違和感を表明するべきではない」という主張に対して「その段階では」という修飾節を繰り返し使用されている。
人の書いた文章を読むに当たって「ちゃんと理解することよりもすばやく読解することのほうを優先する読み方」を採用する場合において、見落としてしまいがちな箇所である。
繰り返ししつこく書かれていることであるにもかかわらず、見落としてしまうのである。

なぜか。

その答えはおそらく、「人が人の立場に立って物事を考えるには、それなりの時間が必要であるから」ではないだろうか。

このそれなりの時間というのが、どれくらいの規模の時間を指すのか、私はまだよく知らない。
1分なのか、1時間なのか、1日なのか、1週間なのか、1ヶ月なのか、1年なのか、10年なのか、老成円熟して死ぬ間際になってようやく分かることであるのか、それは分からない。今の段階では状況によるとしか言えない。

しかし、私は同時にまた、次のようにも思う。
ここで言う「それなりの時間」というのは少なくとも1秒ではないということだ。これは状況によらない

人間は自分のこと ------ 自分の身に降りかかってくる禍福にどう反応すべきか ------ については1秒以内に判断(反応)できる
しかし、人間は、自分ではない誰かのこと------ 他者の身に降りかかっている禍福がどのように実感される禍福であるのかを実感すること------については、どんなに優れた人でも1秒以内で判断(反応)することはできない
そういうことなのではないかと思う。

人の文章を読んでいる最中に心によぎる違和感は、1秒以内の反応の結果としての違和感であるから、この違和感は、他者の状況に関する斟酌を経ずになされた違和感であると言うことができる。
「他者の状況に関する斟酌を経ずになされた違和感」のみを材料として生産されるところのすべての言葉は、暴力として社会的に機能し出す可能性を帯びている。
それを言語化する人間の「複雑な一瞬の感情というわずかな元手から高い感染力を持つ言葉を立ち上げる能力」(感情表現の能力)が高ければ高いほど、被害も甚大であると言える。

madographosさんは、「安易に「違和感」を表明してしまう社会には危惧を覚える」書いておられるが、この危惧というのは、「益するところがないばかりでなくむしろ害だらけである」という意味をも含むものであると思われる。

斟酌力と感情表現力の独立性

複雑な一瞬の感情を元手にして、高い感染力・高い伝達力を持つ言葉を生産する能力は、言葉に感化され、言葉に導かれ、言葉で理解し、言葉で考える私たちの社会全体にとって欠くことのできないものである。
が、しかし、もしこの能力が、1秒以内の反応の結果としての違和感(斟酌を欠く違和感)を元手として発揮されたらば、この能力がもたらす公益性はただちに掻き消され、ただちに凶器と化する。

なぜなら、複雑な感情を言葉に降ろす能力と、他者の感情を酌む能力は、異なる別々の独立した能力だからである。

斟酌を伴わず感情表現する人間の言葉は、歯切れよく心地よい(か若しくは癪に障る、か若しくは分からない(=無関心))
想定しうる限りの他者への斟酌を伴った人間の語る言葉は、尽きぬ恵みの泉の如く底の知れぬ妙味に満ちている。

ような気がする。



余談

国語版ケアレスミス

   部(その理由はかくかくしかじか)の説明。
ここで使用されている「理由」という言葉の意味を、「内田先生がエンビデンスベーストなんちゃらというときのエビデンス」と同じ意味であると解釈してしまうとまずい。
内田先生がエンビデンスベーストなんちゃらというときの「エビデンス」は、非常に広い意味で使用されているものだと思う。
一方、madographosさんは、その意見の中に「相手の立場に立って考えたという形跡が認められる場合」に限り、それは「理由」であって、そうでない場合は「理由」ではない、という風にこの用語を使用されているのではないかと思った。

なんでこんな(瑣末な)ことをわざわざ指摘するかというと、理由とか根拠とかエビデンスとか言う言葉それ自体からこれを取り巻く状況について考えるとき、こういったことは非常に失念しやすいからである。
少なくとも私はそうである。算数ではアホらしい計算間違いをすることをケアレスミスと言うが、これはさしずめ国語版ケアレスミスとでも言うべきものであろう。
算数のケアレスミスは、10人がチェックすればまず間違いなく発見できるが、この国語版ケアレスミスというのは、10人いても発見されずに見過ごされてしまうことがままあるように思う。

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光文社 古典新訳文庫 感想文コンクール2008
大学生・一般部門 優秀賞 作品

過去を見てこそ実現する平和

課題図書:『永遠平和のために/啓蒙とは何か』
加藤彩夏(同志社大学)

人類が未だかつて得たことのないものの一つに、「永遠平和」がある。世界中を苦境に陥れた二つの大戦後も、各地で起こっている民族紛争、テロなどにより、全ての人類に平和が訪れた日は一度もない。平和の模索が人類最大の課題であるということは、口に出さずとも誰もが感じていることであろう。それを達成するために、人が進むべき道を示そうとした人物がいた。哲学者、イマニュエル・カントである。彼は、自身が二百年以上も前に書き残した『永遠平和のために』という論文に、平和の実現のために、人が今まさに必要としていることを記している。

 国家はなぜ戦争を起こすのか。この単純だが最も難儀な質問に、カントは、独自の思想を用いて返答する。彼によれば、そもそも国家とは、平和を求めるがために戦争を起こすものなのである。平和を願い敵と争い、その戦争に困憊しまた平和を求めるというのが、カントの展開する国家論である。このように国家とは、矛盾するプロセスの上に成り立っているものであり、この不合理性をなくさずして平和を実現することは不可能であると、カントは主張した。

 カントの主張に説得力があり、今でも多くの人々に影響を与え続けているのは、彼が、当然と思われる事柄の中から、人が見落としがちな要素を見つけているからだろう。そして、それはこの永遠平和を願う論文の中にも、顕著に表れている。例えば彼は、将来戦争を起こしうる事態を作ることを、徹底的になくすことを呼びかけているが、その一例として停戦条約を平和条約とみなしてはならないとしている。戦争を止めるために結ばれる停戦条約が、何故平和条約となりえないのか。その疑問は、停戦条約とはあくまで一時的に戦争を止めるものにすぎないという事実を考えれば、解決される。争いを止めるために必要だと思われていた停戦条約は、実は逆に戦争を長期化させ、敵対心を募らせていくものだということに、カントは気付いたのだ。

 また、自国を守るために置かれる常備軍はその国家より優位に立とうとした他国を軍拡させるため、かえって各国家を危険にさらすと、カントは主張する。このように、国家が平和や安全を願って構築した制度や事柄は、時として、国家を破滅させてしまう恐れがある。カントは、そうした人類の根本的な誤りから見つめ直し、それを改めていくことを志したのだった。一般論として人が考える道に囚われず、真に歩むべき道を示すことを常に試みていたのが、彼が偉大な哲学者であった一つの証拠である。

 さらにカントは、平和実現のための、いくつかの確定条項を記している。その中に、国際法の執行機関は、諸国家が連合することによって形成される、平和連盟に置かれるべきである、というものがあるが、これは現代の国際連合の思想と一致している。また彼は、戦争の開始の有無を国民に委ねる共和制こそが、平和を実現しうる政治体制だとしているが、この「政治を国民の判断に委ねる」という考えは、現代の民主主義の基盤となっている。これは、カントの主張がいかに現実性を持ったものであったかを示し、彼の思想が現代の政治体制に結びついている事実を表わしている。カントの偉大な平和推進論に、二百年以上もの時の隔たりなどは、敵ではなかった。それは多くの人々に理解され、現在でも適用されていることからもわかる。

 確かに、カントがこのような草案を作ったにも関わらず、未だに平和は実現されていない。自国で戦争が起こっていないがために、世界も平和であると誤認してしまう人は大勢いるが、現在、平和が達成されているとは、到底考えにくい。各国での争いは絶え間なく続き、人々が戦争の恐怖から逃れた日はない。しかしこれは、カントの草案が誤りであったということを、示しているのではない。むしろ彼の草案は、徐々に世界に受け入れられ、再現されつつある。国際連合は、すでに実現されている。そして、彼の「国家間貿易が戦争を起こしにくくする」という主張は、世界中で議論され、実際に採用されている。無論、この世界に存在する全ての国家が、カントの意見を実現するのは、不可能かもしれない。しかし彼の草案は、現世の政治体制を作り、平和構築に大いに貢献しているのである。

 カントの平和推進論は、二百年以上も昔に書かれたものであるが、決して過去の産物ではない。世界が平和を実現するための道しるべは、彼の主張の中にある。この書物は、過去の世界を知るためではなく、現在の世界を理解するために是非とも読んでほしい。

(筆者注:以下の全記述は、その記述方式自体が、筆者にとって初めての試みであること、および、めっちゃ長いくせにろくに前後の論理的整合性チェックとかしてないこと、ハイライト表示の適切性などの点において不備が含まれているおそれがあります。
また、同時に、今後、その不備を修正する可能性があります。)

 

旧帝大の入試レベルはいかほどか

あまりこういう話はいろいろな意味でしたくないわけだが、blog 「自由帳で数学とか物理とか」(久間くん、高校生で受験生)を読んでいると、どうも僕がこれまでblog「考えるのが好きだった」 (ほり先生、2番手進学校の高校の先生)から伺ったところの実感からずれているので、この際、両者の意見を比較して、実態解明に努めてみる。

あ、あらかじめ言っておくけど他にもデータいっぱいあんだろがとか引っ張ってくるデータが偏りすぎだとか言う意見は却下の方向で (こういう風に言ってる人もいます、みたいな意見は歓迎だけど)。

実体験に即して言葉を語る者の生活実感の集積から、いかなる知見が得られるかということに関心を持ってこういうことをやっているわけなのだから。

(引用部分において、バックをハイライトしているものは全て筆者注)

 

考えるのが好きだったの意見

suchの発音

「すっち」と言ったから、最初、 何のことかわからなかったよ。これで、 旧帝大のどこかは受けるだろうし、受からなかったら困る子だから、・・・ 大学の先生も大変だ。

自立できない高校生

新規な事項に出くわしたとき、 「それが自分が既に身に付けた知識体系のどこに組み込まれるべきか」 がわかることが重要なのである。でなければ、 その知識体系は自分のものと言えない。今の生徒がもつ知識体系は、 借り物のようなものだ。だから、彼らにとって、 知識とはひたすら羅列になる。よって、応用が利かない。しかし、 これを理解させるのはかなり困難である。なぜなら、 「試験」 に出るのは羅列の知識で済むことが多いからだ。 それで中堅の国公立に受かってしまうのが何とも言えない。(で、その人たちが教員になる。)

そんなに難しくない旧帝大なら、「自分で体系化した知識」 を身に付ければ必ず受かる。

大卒同士の相互扶助(3)

今の高校生を教えていると、たとえ結構いい大学に合格したとして、 家庭教師のアルバイトはなかなか難しいのではないか? 
地域性はあると思うが、進学校としてのメンツを保つのに、「国公立大学合格○名」という宣伝文句がある。 学校要覧とか学校案内とか、インターネットのHP の進路関係には必ず入っているはずだ。ところが、 この国公立大学というヤツは、 ピンからキリまである。ピンはやはり難しい。もって生まれたそれなりの能力は是非とも必要で、 かつ、 それなりの継続的な努力も要る。しかし、地方の工学部、教員養成課程の学部となると、(それでも、やはり、 それなりの能力は必要ではあるが、)中学卒業時点で町一番か二番の進学校に「何とな?く」 入れてしまった程度の能力があれば、 あとは高校に入って多少、 場合によってはめっちゃくちゃ頑張っていさえすれば、また、進学先の学部学科を選ばなければ、(と、 ここまでで3つも条件が重なってしまったが、)大方はまあ入れてしまえる程度の難しさでしかない。 ただ、 ふつーの高校生はあまり勉強をしたがらないから、 高校の学習内容の理解不足と練習不足ゆえに入試問題がなかなか解けず、 結果的に入りにくくなるだけだ。
 何が言いたいのかというと、 高等学校の学習内容を十分に習得していなくとも、大学に、 たとえ国公立大学とはいえ、 意外に入学できてしまうのだ。ということは、 世の中の大学生の大半は、 高校の学習内容を十分に習得しているわけではないということだ。
この傾向は益々強まっている。「以前の生徒より、こんなに出来ないのに」 と思っても、模擬試験の全国偏差値は意外良かったりする。 私だけの感想ではないし、また、年を追って加速もしている。

 

まあ要するに、旧帝大に入るのはたいしたことない、と読んでいいだろう。
実際に日々進学指導に従事されている現職先生が肌で感じたところの意見であるから、まあ、少なくともそういう側面がある、ということは認めねばなるまい。

さて、続いて、とある受験生の意見である。

 

 

自由帳で数学とか物理とか(+α) の意見

 

結構無計画にすすんでまつ

とりあえず、計画は漠然と作ってるので、 急遽書くことになったエネルギーの擬人化という暴挙を……

いやね、だってドイツが空気読めてるもんだから。

・Energie[女](物理・化学)エネルギー

女性名詞ワロタwww
ちなみに、運動エネルギー(1/2・mv^2)、ポテンシャルエネルギー(mgh)、熱エネルギー、光エネルギー(hν)、 電気エネルギー(VIcosθ・s)、化学エネルギー(?G)、質量(静止エネルギー、原子力)(mc^2)の7人書くことに……

うはw俺自重wwwww
自滅しすぎwww

妹くらい才能あればいいんですが……どうも、私のスペック的にはこれが限界orz
我が妹君は私なんかよりも遥かに勉強できる上に、 私の絵の師匠だったりするお方……いろいろと兄としての威厳がorz
妹に勝てる科目といったら、地学と英語除く文系くらいしかない罠。
(今回の物理物語では、私が苦手とする熱力学を妹に教えてもらったり^^;)

こらそこw
遊んでばかりだからといわないw

まったく、旧帝受ける人とかどれだけ化け物なんだろう… …
ウチのクラスのトップの人とか、話すだけで知性が伝わってくる気がします(汗

 

進路希望調査より

>>motoさん
>東京大

ぶw
ないないないないw
私なんかじゃとても無理ですwww
東大とか京大いくような人は知っていますが、とてもじゃないですが私なんか足元にも及びません(汗
クラスのトップの方とか中学時代のトップの方とか(東大医学部とか京大工学部とか志望)……傍から見てても「SUGEEEEE」 としかいえない^^;
少なくとも妹にもその辺は勝てそうにない^^;
妹もだいたい同じような感じですし……文系なら負けませんが(注・理系の発言)

 

ミスって連鎖しますよね… …

>Overlaplightさん

Σ九大……旧帝すっか!?
九州の方は、関西人なのでよくわかりませんが……
(と言っても、九州と名がつくということは、九工大すごいんだろうな、と思う今日この頃

いやはや、どうも私の認識では、

旧帝大→本気ですごい人が行くところ
東大京大→その中でも魔物たちの世界

ということに……(もちろんいい意味で

 

模試の帰り。

中学生の女の子四人が騒いでて
A「今日さぁー、数学の○×に数学なんて大人になってから使わないから
  意味ナイって言ってやったんだけど
  そしたらテレビゲームにも数学使ってるんだよとか言ってきて超うざかったーw」
B「○×ってキモいよねーw」
A「それでさー、そんなの好きな奴にやらしとけばイイんです、私はやりません。って言ったら
  今度は携帯電話だって数学使ってるんだよとか言ってきてw
  私はそれを使うだけだから数学は関係ないんです!って宣言してあげたw」
C「その後どうだったの?」
A「そしたらもうなにも言えなくなっちゃってwwww」
BCD「ださwwwwwwww」

(中略)

(筆者注:以上、otonasi17590氏による記述、以下久間君による記述)

久間知毅  2007/10/21 17:39

っ「記事の最初の方について」
まぁ、学校の勉強は社会で役に立たないなどとほざくアホは生暖かく見守ってやればいいんですよ^^;
将来「納豆にはナットウキナーゼという酵素があり、血液がサラサラに!」 とか言われて騙されてあげくビタミンKで血液が凝固して動脈硬化になるんですよ。
中学程度の理科さえ知っていれば、「酵素=たんぱく質が体内に吸収されない」ことくらいわかるだろうに……
数学だって知ってれば、どこぞのねずみ講に引っかかることもないですしね。確率計算には微積使いまくり^^;
まぁ、身を守る武器になる「知識」 を自ら放棄する人には辟易するというか何というか……

 

 

・・・久間くんの実感は、ほり先生のそれとは違っていて、旧帝大は「本気ですごい人が行くところ」のようです。

しかし、久間くんが人となりが分からないと、久間くんの言う「本気ですごい人」というのがどういう人を指すのか、分からないですよね。

久間くんはどんな子なのでしょうか?

 

【新作情報】人権擁護法案に反対するには?過激派にみるニセ科学の病理より

>老婆心さん

うはwwwwww
生まれて初めて他人にサヨク言われましたwwwww
学校じゃすっかり右翼認定受けてるのにwwwww

いやはや、知りませんでした。
中共政府に対して批判しまくっているのがサヨクだとは。
大東亜戦争が日本の自衛のためと時代の流れから仕方なかったという人がサヨクとは。
南京大虐殺は戦争としての悲劇以上のものはなく、中共の言うレベルのものはなかったとする人がサヨクとは。
憲法9条の即刻改正を望む人がサヨクとは。
自衛隊の拡充を望む人がサヨクとは。
政治を語る以上経済と軍事の知識も必要だ、とする人がサヨクとは。
皇族に対し敬愛の念を抱く人がサヨクとは。
教育勅語を机の前に貼って、暗唱できる人がサヨクとは。
……知りませんでしたねぇw

社会に出るにしても、最低限の知識は必要だと思いますよ。 学校で習うことなんて、という人に限って、 その知識を使えないだけではないでしょうかね。

 

【国籍法】 反対派の今後の動き/改正から一夜明けて思うこと

私も、知り合いの中学生の公民教科書を見て「あ、こんなの中学で習うんだ」 と思うことは多いですけど…
それを「学校で習わなかったぞ!」 と声を大にしては言えません
ホントに習ってないのか自分が忘れてるだけなのか区別が付かないですからねw

 

自分の専門分野でもない限り、やはり調べないことにはできない、というのは、私もつくづく感じています^^;
私も法律に関しては、実務上電気関連と知的財産関連くらいしかやってないので、あとはその都度六法全書や解説書を引っ張っていますし…… どこでも専門外だとそんな感じですよ。ご安心ください。

 

私の勉強法

試験前となると、わたしは基本的によく寝ることにしています。
普段は睡眠時間3時間とか4時間ですが、試験前日は、

帰宅→夕食→風呂→寝る

……という感じです。
ぶっちゃけると、前日にあくせく勉強したって点数が変わらないんだから、体調を万全にしてケアレスミスをなくす方が、 結果として得点うpに繋がると考えているからでして……。

まぁ、動画見てくださっている方はわかると思いますが、私はよく符号のミスをしでかします。
それで満点を逃したことは数え切れないほど……orz
酷いときには、それで20点マイナスということもありました(部分点くれよ、先生)。
……とまぁ、悲惨な目に遭うので、強制的に布団に入ってます。


試験期間以外は、基本的にインドア派な遊びを……。
最近ハマったのは最適化数学とかグラフ理論とかで、本を買って好きに解いたりしています。
また、ニュースを見て自分の意見をまとめたり、読書したりと、普段は寝る時間が取れなかったり。たまに授業がきついwww

……まぁ、こんな感じで、遊び感覚でこんなことやってたらいつの間にか憶えてたというパターンが多いです。

……おかげで変人扱いされまくりorz


勉強法と大それたものはありませんが、「遊びで憶えるのが一番早い」 というのは実感しています

 

なんだかんだで3万ヒット

関係ない話になりますが、最近妹が「もやしもん」にハマっています。
まぁ、妹は元々生物学をやりたいとか、某T大学いきたいって言ってましたんで……
全く話についていけません^^;

とりあえず、有機化学の超基礎的なところくらいまでが限界だと^^;
生化学ってなんですか・・・?

まぁ、文系ネタで日ごろいじっていたせいか、 逆襲されまくってるような気が……(汗

 

何なんだろう、 この違和感は(追記有:キレ気味注意)

人権擁護法案反対のweb署名の提出先が無断で変更され、 さらに職業右翼の団体に情報が漏れたこと。

(中略)

もう、 これは怒りました。まさか本当に「無知を利用する輩」だったとは!
ニコニコ動画でランキング工作して、他の動画に宣伝しまくって、「学生でもおk」「親の許可はいりません」 とか言って何も知らない子供を騙して個人情報を収集して、 手前の勝手なレイシズムに浸すような行為をしていたというわけだな!?

(中略)

私は技術畑にいますから、そういう「人の無知に付け込む奴」 が心底許せないんです!

 

【新作情報】サラ中尉の数学講座「部分分数分解」

ラプラス変換の動画を作ったので、つい解説したくなりましたので作っちゃいました^^;

ラプラス逆変換のときに重宝する、部分分数分解のやり方です。

 

講座やりたいけど時間がないしなぁ… …

無性に講座系動画を作りたくてうずうずしてますが、 テスト等で甚だ忙しいので自重せざるを得ないのが悲しい今日この頃。

 

とりあえず替え歌でも

見直しせずに書き込んだんで書き忘れてたことが(^^;

最近久間さんが力を入れている内容の一つ、人権擁護法案。
とても興味深く読ませてもらっています。
考える所は色々あるのですが長くなるので置いといて、
僕は一番感心したのは久間さんの行動力です。
疑問解決や動画作成の為に人権関係のBBSに行ったり
大田議員に取材を試みたり。
確かな問題意識がある人にとっては当たり前の行動なのかもしれませんが
僕は一瞬「そこまでやるんだ・・・」思ってしまいました
すぐに自分の意識が甘いのだろうな、と反省しました。
本当に関心があるなら「そこ」(普通の人がやらない事)までやるのは、可能なら当然ですよね。
久間さんの動画一連を見て一番学んだのは、ニコニコだけでなくフムフムしたのはその点です。

長文失礼しました。

2008-06-01
Fay

 

>Fayさん
ご覧頂きありがとうございます^^

舞姫ですが、あれはおそらく……学校で使うことになるのかもです^^;
ゲームと言いますか、まぁ、フリーゲームにでもできればと考えてます。

人権擁護法案については、私の思いをご理解いただけたようで、 こちらとしても大変嬉しく思っています。
私の場合、何か言わなくてはならないのではないかと思ってしまう性格なために、 ……まぁ要するにおせっかいなんですが^^;
まぁ、結果それが良かったのか悪かったのか、もう少し長い目で見ていければと思います。
2008-06-04
久間知毅

 

10億の私財を寄付したお婆さんの名言

(前略)

これはすごい!
特に、

「私は人間の基礎づくりをしようとしているのです。人生の“結果”にはかかわりません」

これは名言。

(中略)


教育にしても、なんにしても、私はこういうものだと思います。
魚を欲する人には、 魚ではなく釣竿を与えるべきなのです。
しかし、釣竿よりも釣り針の作り方を教える方がいいのです。

勉強にしても、答えを欲する人には、答えではなく解き方を教えるべきなのです。
(これのせいで、おそらく結構ウザがられてると思いながらも)

力は有限です。一人ひとりを救うためには、あまりにも乏しい。

このお婆さんが、恵まれない1000人に寄付したとしても、一人当たり高々100万円です。
目先的に大きいお金かもしれませんが、100万円などで生活が向上しますか?
そんな一時的な幸福で、本当に人は救われますか?

結果、誰一人として救われない。

ですが、可能性を持つ子供なら。
時間を持つ子供なら。

その学習意欲を伸ばし、社会へ還元させれば、その社会によって救われることはあるはずです。

どちらがより、『救われる』確率が高いか。

考えるまでもないです。

 

人権擁護法案に反対するには?過激派に見るニセ科学の病理

(前略)

ええ……かなりの量ですね。 その数164となっております。 法案のみでも126あったりします。平均すると、 およそ150の法案等が両院で審議されていることになります。

えー、 この法案全てを網羅している人がいたら、私のところへ(ry

これだけの法案があるのですから、 ひとつの法案だけを論って言うのは、どうかと思います。なお、これらは全て国会図書館や衆議院のHP・法務省HP(一部) で公開されていますので、一般の方々でも容易に知ることが出来てしまうわけです。

そして、 「マスコミが報道しないから問題だ」という人もいますが、逆にお聞きします。 「マスコミが報道しないと、あなたは知ることができないのですか? 」と。

マスコミが唯一の情報源だというほうが、 危険だと思います。もしそうなら、一私企業であるマスコミが、いくらでも情報操作しまくれます。

情報は、 能動的に集めるもので、人から与えられるものではない」のです。マスコミが報道しないからといっても、 インターネットなど知る手段はいくらでもあります。それを怠って「私は知らない」と言っても、それは個人の怠惰に他なりません。

それに、マスコミが報道しないのは、 マスコミの問題であって、法案の問題ではないです。 もしマスコミが報道しないことが悪いことの基準ならば、いったい年にどれだけの悪法が国会を通過しているのでしょうね。(なお、 マスコミは産経を筆頭に報道しています)

 

彼はいろいろな事を言っているが、そのだいたいは、私が最後に引用した記事の、私がハイライト表示した部分の字句に集約されるのではないかと思う。

マスコミが報道しないと、あなたは知ることができないのですか?

これはかなり応用(適用)範囲の広い問いかけだと思われる。

#責任の帰属処理

いわれてみればもっともな気がする。

この問いに「はい、私はマスコミが唯一の情報源なのです。」と胸を張って言い切れるのは、何某かの強制力によってマスコミ以外の全ての情報源が遮断され、その遮断要因を自ら排除することができない者だけだろう。
そして、そんな人物の具体例はまず思いつかない。

 

前に小泉吉宏氏の漫画「シッタカブッタ」シリーズで読んだ一場面に、次のような件があった。

主人公であるシッタカブッタくんが、先生役?であるブッタ様と会話するシーンなのであるが (以下の引用は私の記憶に基づくものであり一字一句正確なではない可能性が高い)

シッタカブッタ「ブッタさまは、この世の中のことを、どうしてそんなによくお知りなのですか?」

ブッタ「それはわしが、この世の中のことを、 知ろうと思ったからだよ。」

 

ブッタ様も、久間くんも、根っこのところでは同じことを言っているわけだ。

問題は、知ろうと思う奴思わない奴がいるということである。


 

知ろうと思わない奴が絶えない理由(1)

知ろうと思わない奴は、なにゆえに知ろうと思わないのかというと、それはもちろん怠惰だからという理由もあるだろうが、では世の中の人全員がつねに勤勉(非怠惰)であったならば、知ろうと思わない奴はこの世から消滅するかというと、そうはならんのではないかと思う。

なんでかって?

だって、人間の生は有限だもの。そして、一人一人が出力できる単位時間当たりのエネルギーもまた有限だもの。

この世のすべての分野について注意を払い続ける(意識を向け続ける)という芸当は、人間にはできないようになっているのだ。

自らが知覚するところの様々な情報のうち、何に関心を奪われるか、何に心を奪われるかは、これは人によって違うんだ(より客観的な言い方をすれば、完全に一緒ではないんだ。)。

そして、自らが関心を向けなかった方面に関しては、その人は知ろうと思わなかった奴、知ろうとしなかった奴になってしまう。

えっ? じゃあすべての分野に関心を向けるという作業を意識的に行えば、その作業を行うことを厭わなければ、前命題は否定できるんじゃないかって?

いや、そうはならんのよ。

だって、いつの時代も、新しい分野を見いだす人がいるからねぇ。

だいたい何でもそうだと思うけど、ある一つの事象をずっと見続けていると、今まで見ていたものとは違うものが見えてくるということが、よくあるわけ。

で、そうやって「いままでまだ誰も見たことのない景色」を見てしまった人が(脳内に構築してしまった人が)、その景色を言語化して人々の前に公開すれば、たちまちのうちに、その公開した人以外の人は、 その公開した人が知ろうとしたことについて、少なくとも今までは知ろうと思わなかった奴になってしまうわけだからね。

他にもいろんな説明ができると思うけど省略。まあ考えてみてよ。


 

知ろうと思わない奴が絶えない理由(2)
え? 二階に上がりたいのにハシゴが外されちゃったって? 
ハシゴがないと、二階に行くことができないのですか?

 

怠惰の程度の問題

ある人権問題に関する講演を拝聴したときの話である。たしかこんな話であった。

ある学校に車椅子の子が通っていて、その子は授業のたびに、階段を上り下りするためにものすごい労力を強いらねばならず(他者の助けが必要なことは言うまでもない)、エレベータの設置をお上に願い出たのだが、お上の回答はNoだった。
お上曰く、「(高々)一人の生徒のために何百万円も公費を支出するわけにはいかない。」

その講演者は次のように言った。

もしこの論理がまかり通るなら、「今後、これらの三階建ての校舎にある階段を全部撤去する。代わりに鉄の棒を設置するから、みんなはこれを使って上り下りするように。」というお達しがもしくだった場合に、私たちは素直に従わねばならぬと。

さて、考えてみよう。

私はいましがた、「マスコミが報道しないと、あなたは知ることができないのですか? 」なる文言を引き合いに出して、さらにこれの応用(適用)範囲の広いことに言及し、
「マスコミが意図的に報道しないことが仮にあったとしても、マスコミによる以外の情報入手手段が(一つでも)存在しているのであれば、私たちはマスコミに文句を言ってはならない
「私たちが或る目的を達成したい場合、その達成のための手段がすべて封鎖されているのでなければ、私たちは、その眼前に呈されている、代表的な達成のための手段に対して、文句を言ってはいけない
ということを仄めかした。

これは妥当なのだろうか?

私は妥当だとは思わない。

しかし、これを妥当だと思わないことは、最初の問い「マスコミが報道しないと、あなたは知ることができないのですか?」に直接的に誘導された一連の命題を支持したところの信条に違背するのではないか?

 

簡単な情報入手手段(ぐぐる等)があるにもかかわらず、それすらも怠るから怠惰なのか。

情報入手手段が簡単でなければ、それは怠惰ではないのか。

どういうものなら簡単でどういうものなら簡単でないのか。

 

例えば、「ぐぐる時間さえも無い」という人に対してはなんと言ってあげられる?

1件1件に関してぐぐる労力は少なくとも、調べなくちゃいけないことが千件も万件もあったならば、1件や2件しかなかったならば簡単であったところの調査行為が、とたんに難易度の高いものになってしまう。
何人も1件調べるのにゼロ秒でぐぐることはできないのだから、これは必然である。

ぐぐる時間すらないほどに忙しいけれどお金は十分にあるという人が、バイトを雇って『○○について調べて明日までに俺にA41枚の書類プラス30分程度の口頭説明で俺に分かるようにレポートしてくれ』と指示することは、怠惰には該当しないのか?

そもそもネットというものと全く無縁な層(比較的高齢の層)にとっては、ぐぐること自体が大変な高いハードルだと思うがこれに関してはどのように対処するのだ?

 

 

調査行為における辞書の神格性

 

辞書が神様である理由

辞書は辞書でないものよりも正確な情報である蓋然性が高い。
何が正しいのか分からないこの世の中において、「辞書の言うことは正しい」と思うことは、それほど間違ってはいない。

なんでそう思うかというと、(メモ魔ならぬ)辞書引き魔が無能だった例を私は寡聞にして知らないから。

なぜ辞書は辞書でないものよりも信頼が置けると言えるのか

出版に至るまでに多数の専門家が内容の妥当性をチェックしているから

それは多数決原理ですか?

そうですね。

多数決原理は衆愚政治を生み出す理由になることがありますが、この場合はならないとなぜ言えるのですか?

→ 構成員全員がプロだから。
プロって言うのは、その判断すべき対象に関して意識的に何度も何度も、長年注意を払ってきている人間であるということ。

つまり、 「判断すべき対象に関して意識的に何度も何度も長期に亘り注意を払い、思慮を巡らし、それを言語化し、ある時は検証して確かめ・・というようなループを繰り返し続けた人間」ばかりの意見を集積して、多数決原理に掛けて形式的に導出された結論というものこそが、理論上この世で最も正しい結論と言ってよいということですね。

→ そういうことになるかな。

 

Q)じゃあさ、さらに横道にそれるけど、いま僕たちは、以上を以てプロを定義し得たよね。

誰がプロで誰がプロじゃないのか論争っつーのがさ、古今東西見られてきたと思うんだけど、この長年の論争に私たち終止符を打ったんじゃない?

A)いや、残念ながらそうはいかないんだ。
というのはね、プロっていうのはね、まあ僕たち、この金まみれの世の中を生きているとさ、ついつい「それで金を稼いでいるかどうか」なーんて判断基準に、すぐに飛びついちゃいがちだけど、まあそういう風に見る見方もあるけれども、それだけじゃないんだよね。

僕たちはさ、普段かさ、平生からさ、「ちょっと目上のお兄さん」から物事を教わることって、ものすごく多くない?

Q)そういえば・・・!

A)例えば僕たちは、小学校の頃、足し算引き算を習ったよね。・・・習ったよね?(笑)
その教えてくれた先生はさ、算数の専門家だった? 「学校で課された算数の宿題で分からないことがあったとき、一つ二つ年上のお兄さんお姉さんに訊いて、首尾よく問題が解決した」なんて経験、案外多くない?

Q)たしかに。

A)そう。ぼくたちに算数を教えてくれた人たちは、通常、算数の専門家ではない。
世の中的に算数の専門家として認められているのは、例えば、指導要領の算数の項目に何を書くかを検討する人たちとかは、たぶん専門家と言っていいだろう。
でも、そういう「一番上の階層の専門家」って言うのは、ものすごく人数が少ない。なぜかっていうと、「一番上の階層の専門家」になるには、「一番上から二番目の階層の専門家」にならなくちゃいけなくて、「一番上から二番目の階層の専門家」になるには、「一番上から三番目の階層の専門家」にならなくちゃいけなくて、・・・
つまり要するに、いきなりこの途中の過程をすっ飛ばして「一番上の階層の専門家」になることは、基本的にはできないわけ。
その理由はさっきも言ったね。思いだそう。プロの定義。プロになるには、長い時間それを凝視していないといけないんだ。

ここまではいいかな。要するに、プロって言うのは相対的な概念だということ。そして実を言えばこの相対性は、僕が一等最初に少々皮肉めかして言及したところのプロの定義「それで金を稼いでいるかどうか」についても当てはまることなんだ。

で、さらに言うとこの「プロって言うのは相対的な概念である」ということそのものが、衆愚政治の原因(遠因)であると言えるかもしれないんだ。

Q)?

A)医療や、公衆衛生が未整備な国における人口ピラミッド(そうですね、知的多段階層社会構造、とでも呼びますか。ややネーミングセンスに欠けるが)みたいなものを思い浮かべてもらえればいいんだけど、・・・思い浮かべた?

Q)思い浮かべた(^^)

A)このピラミッドではさ、
10代の人は20代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
20代の人は30代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
30代の人は40代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
40代の人は50代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
50代の人は60代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
60代の人は70代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
70代の人は80代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
80代の人は90代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
90代の人は100代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
100代の人は110代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として見ていて、
110代の人は120代の人を「ちょっと目上のお兄ちゃんお姉ちゃん」として
見ているのね(後ろのほうは怪しいが)。

そうすると、どういうことが起こる?

Q)・・・120代の人が言った教えが、伝言ゲーム的に10代まで伝わる?

A)そう。伝言ゲーム。単に固定的な知識をバトンのごとく渡すわけではないから、伝授ゲームと言ったほうが良いかもしれない。
いや、伝授でもまだダメかな。低位の層に属する人間が、高位の層に属する人間の「気配」の変種のごときものを感じ取ってそれを体得するよう努める、とでも言うか。

まあそれはどうでもいい(ここではそれほど問題視しない)んだけど、気にしてほしいことはね、もしね、120代の人がね、ウソを言ったらどうなるかってこと。

Q)ウソの知識が広まりまくる・・・

A)そう。単純に考えればそうやね。上位の階層に属する人間であればあるほど、その人間が公然と吐く言葉の影響力ってのはデカいわけ。

Q)あ、でも・・・

A)でも?

Q)どの階層にいる人たちも、みんなそれぞれ、自分のレベルに応じて、自分なりに、一生懸命考えているわけだよね。

A)そう。少なくともいまはそう仮定してる。

Q)だとすると、仮に120代の人がウソを言ったとしても、途中でウソはバレるんじゃない?

A)そう。一人一人がちゃんと自分なりに一生懸命考えていて、かつ、120代の層の人間だけが意図的にウソの情報(ウソの情報というのは、自分自身が真実であると確信しない情報)を世の中に放流したという仮定のもとでは、その他一切の独立的要因が関与してこないならば、110代以下のすべての人間において、「年齢が高いほどそのウソを見破れる確率が高い」「自分なりに一生懸命考えているその一生懸命の度合が強ければ強いほどウソを見破れる確率が高い」ということは、言えそうな気がするよね。なんかこう、直感的に。

Q)う?ん・・・。まあ、そうなん・・・かな。

A)(笑)。どちらかというとこれは、とりあえず考え始めるための出発点なんだ。足場があるとそこからいろんな方向に修正していけるからね。

でね、たぶんこの手の仮定と仮説からはほんとうにいろんな、多種多様な議論が可能だと思ってるんだけど、ここではそのうちの一つに絞って話をするよ。あんまりあっちゃこっちゃに飛んでも焦点がぼやけるからね。一応この話、発端が何か、解決せんとしている問題は何か、というところを常に意識しながら聴いていてもらえるとありがたいな。OK?

Q)OKです。

 

ニセ科学の流行と仮想現実の流行は、原因を共有している

 

さてここで、やや唐突だが、似非科学に関する例を見てみよう。

 

ニセ科学批判する限り、 歴史修正主義は批判せねばならない

ところが「ニセ科学」は断言してくれます。
『マイナスは良いといったら良いし、プラスは悪いといったら悪いのです。
また、ゲームをし過ぎるとなぜ良くないのかといえば、脳が壊れるからです。
ありがとうは、水がきれいな結晶を作るから、良い言葉なのです。』
このように、「ニセ科学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、 本当の科学には決して期待できないものです。
しかし、パブリックイメージとしての科学は、むしろ、こちらなのかもしれません。『科学とは、様々な問題に対して、 曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』科学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。
そうだとすると、「ニセ科学」 は科学よりも科学らしく見えているのかもしれません。

(筆者注:元々は阪大の菊池氏の言葉のようである)

 

ほんものの科学よりも科学らしい」っていうのがミソやね。

知的多段階層社会構造において各階層所属者が一階層下の者に啓蒙を施すことによって、全体として衆愚政治の様相を呈する、というおおざっぱな予想があたりそうで怖い。

以前、僕はリアルで、「庶民は科学が好きなんじゃないんだ。科学っぽいものが好きなんだ。」というのを聴いたのですが、まさにこれですね。

科学っぽければ科学じゃなくてもいい、という態度。

エセ物でも、本物までとはいかないけれど、かなりの部分、自分の欲求をみたしてくれる

そういうことが、けっこう普遍的にあるわけね。

へんな話だけど、一般庶民の間違ったイメージのほうを、 ほんらいは訂正していかんとあかんねやけど、こともあろうか、なぜかなぜか、 その間違っているイメージという期待に応える奴らがおるんやな (そこでは少なくとも、一時的にはwin-winな取引が成立しているのだ)。
「ほんもの」よりも「っぽいもの」(←往々にしてファンタスティック)のほうを好む無知なる住民の、期待に応えてあげますよという不届き者がおるわけだ(←共犯関係)。

これが所謂 「専門家が衆愚の空気を読む」っちゅーやっちゃ。

 

エセ物、のところを他のいろいろなものに置き換えてみれば分かると思うけどね。

情事とか。ビールとか。(あ、このたとえ自体のソースは、クローズアップ現代に出演していた岡田斗司夫の言葉だったかと記憶しています。)

だからこんにちのエセ科学の蔓延の様態というのはまさに実は、こういうところからも説明することができるんだよね。

 庶民がバカだからエセ科学に騙されるのだ、

 庶民に科学リテラシーがないからエセ科学に騙されるのだ、

 なるほど、それも一理あるかもしれぬ。

 でも、全部じゃないと思うぜ。

 むしろ、特に今日、ゲームであるとかネットであるとかなどの、一昔前に流行りましたけれどもいわゆる「仮想現実」というやつですね、旧来ならば現実において解消していたところの欲求を、ヴァーチャルの中で解消する、という風習が定着してきたことも、こんにちのニセ科学の蔓延ぶりの一つの原因になっているのではないかと、このように思うわけである。

ビールを買って飲むと高いから今日はセカンドライフ内でビールを飲んで擬似的に満足感を得よう」 という風習が広まることはそのまま、
ほんものの科学をちゃんと勉強して分かるのってむずいから、 今日は、サルにでも分かるらしい、 科学っぽいもので擬似的に満足しよう」という風習が広まることと、 根は一緒であるように思うのだ。

 

 

中間結論&感想

はい、結局、当初の問い「旧帝大のレベルはいかほどか」に関する結論はでませんでしたね。

 

ほんとうのところを言えば、以上のように書いたことに加えて、

何を面倒だと思うか

とか

感性のレベルと悟性のレベル

と言ったタイトルから書きつづられるところの小命題を消化しつつ、

マスコミが報道しないと、あなたは知ることができないのですか?」というやや間接的な諫言が正当性を持ちうる範囲に関する検討を、書くつもりだったのですが・・・・
次回以降、 深めていけたらいいなあと思っています。

 

それではまたみなさんごきげんよう(何

 


タスポ「申し込む予定はない」が4割超――持たない理由は? より

タスポが導入されて「コンビニでタバコを買う」人をよく見かけるようになったが、実態はどうなっているのだろうか? タスポ導入前は「コンビニ」と「自販機」でタバコを購入する人が多かったが、導入後はコンビニの“1人勝ち”となっているようだ。C-NEWS編集部調べ。

7月に関東や沖縄でタスポ(taspo)が導入され2カ月が経とうとしているが、タスポを所有している人はどの程度いるのだろうか。タスポを「持っている」と「申し込んだが、まだ届いていない」を合わせた割合は33%であることが、C-NEWS編集部の調査で分かった。同社が6月に実施した調査と比べ8ポイント増えたが、「申し込む予定はない」と回答した人は同11ポイント増の43%。約3人に1人はタスポを所有しているものの、“タスポは持たない派”も増えつつあるようだ。

 今後の喫煙について聞いたところ、「タバコを止めようとは思わない」は30%、「できればタバコを止めたい」と答えたのは41%。「できればタバコを止めたい」を男女別で見ると、男性36%に対し女性46%と、女性の方が禁煙をしたいと考えている人が多いようだ。

 インターネットによる調査で、20~59歳の男女1000人(男女500人ずつ)が回答した。関東(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨)または沖縄県に在住し、喫煙している人が対象。調査期間は8月1日から8月3日まで。


タスポを持たない理由「申し込みが面倒」がトップ

 タスポが導入される前、どこでタバコを購入していた人が多いのだろうか。最も頻繁に利用していたのは「自動販売機」(47%)で、次いで「コンビニエンスストア」(32%)だった。しかしタスポ導入後は「コンビニエンスストア」(57%)が最も多く、「自動販売機」(15%)を利用する人は大幅に減少した。


 タスポが導入されたにも関わらず、「持たない」といった人はどのような理由があるのだろうか。最も多かったのは「申し込みが面倒だから」で 70%、以下「自動販売機以外で買えばよいと思うから」(60%)、「カードを持ち歩くのが面倒だから」「カードに顔写真が載るのが嫌だから」「登録の際に個人情報を提供したくないから」(いずれも31%)と続いた。6月の調査では「自動販売機以外で買えばよいと思うから」が1位で、「申し込みが面倒」が 2位だったが、8月の調査では1位と2位が逆転した。

タスポ導入を機にタバコ自動販売機の深夜販売(23時~翌5時)再開が検討されているが、このことについては賛成32%、反対23%と賛成派が1割ほど上回った。賛成の理由として「便利」「タスポがあれば年齢確認ができる」などが多かったが、反対の理由は「わざわざ再開しなくてもいい」「未成年者が購入しやすくなる」「そもそも自動販売機が不要」といった声が目立った。


文科省が繰り出す教育政策はたいてい「ことごとく裏目に出る」が、このタスポ関連の現象も、これに類似した現象だと思う。

私が注目した理由は以下である。

> 「自動販売機以外で買えばよいと思うから」(60%)


「申し込みが面倒だから」、「カードを持ち歩くのが面倒だから」、「カードに顔写真が載るのが嫌だから」「登録の際に個人情報を提供したくないから」、これらはすべて、主体が不快要因を意識的に感知し、それに対する回避行動の結果として、タスポを持っていない、という実状に至っているのに対し、「自動販売機以外で買えばよいと思うから」は、不快要因を意識的に感知していない。

「へー、これから自販機でタバコ買うにはタスポが必須なんだ。ふーん。じゃあ自販機以外で買うか。」

この思考過程のどこにも、

「えー、自販機で買うためにはタスポが必須? 冗談じゃねえ! なんでタバコ買うだけで個人情報提供しなきゃなんねーんだよ」

とか

「また持ち歩くカードが一つ増えるじゃないか! ただでさえ財布の中のカードが多すぎてウンザリしているのに、これ以上増えるなんてたまったモンじゃない!」

などという、「怒りの言葉」は見えない。

この人たちは、怒ることすらも面倒なのである。面倒がることすら面倒なのである。



通勤に使いやすい道が2つあったとする。

どちらも同じくらい使いやすいから、今まではずっと、半々くらいの確率で使い分けてきた。

ところがある日突然、一方の道は、有料道路になった。或いは、やーさんの事務所ができた。

普通の人はどうするだろう。

その道を使わないだけなのではないだろうか。



ちょっと前に、北朝鮮への経済制裁をするか否かがマスメディアで騒がれた。

しかし、日本が経済制裁をしても、他の力ある誰かが一人でも手をさしのべさえすれば、日本がくだす経済制裁の意味はほとんど無効化するのである。

心臓のバイパス手術というのがある。

通常使われている血管が何らかの理由で機能不全となったので、別のルートをこしらえなくちゃいけなくなったときにする手術らしい。

でも、そんな手術をしないといけないほどやばい状態でなくとも、われわれの身体においては、「Aという道が使えないから、類似する機能と利便性を持つBという道で代用する」なんてことは、よく行われていることかと思う。

或いは、山のてっぺんから水を注いで、水がどういうルートをたどって海に流れ落ちるかを精細に観察してみればよろしい。

すべてのルートを絶てば、確かに、いくら時間が経過しても水が海に至らない、という風にすることができるかもしれないが、逆に、一つでも有効なルートが残っていれば、必ず水はそこを見つけ出して(←擬人化注意)、そこを通って海に流れ落ちる。



タスポは謎が多い。

文科省の政策も、同じくらい謎が多い。

ほんとうに自分たちの政策を実現させる意思があるのならば、「一つでも有効なルートが残っていさえすれば、自分たちのもくろみは、もろくも崩れ去る」というこの、水からすら学べる普遍性の高い事実に対して無関心でいられるはずがないと思うのだが。

タスポにしても文科省にしても、このような事実に対する関心を組織的に看過してしまいうるだけの何かが構造的に機能し続けていると見るよりほかに、私はくだすべき判断を持たないように感じる(←なんだこのまわりくどい表現w)。
覚えるのが苦手 より

知識はネットに預けておいて考える力だけ伸ばそうとしても無理な話である。知識を仕入れる段階で、知識のネットワークを自分の脳味噌に形成しなければ、周りにどんな有用な知識があろうと、有効に利用できない。つまり、考えることが出来るようにはなるまい。「自分で考える」とは、ネットワーク化するということで、ネットワーク化する自分自身は、決してネット上に存在しない。知識はネットにあればいいと確か茂木さんはどこかで言っていたような気がするか、それは、彼が若い頃もの凄く勉強をして(これも、なにかで読んだ。)、自分の脳味噌の中にネットワーク化できる能力を身に付けたからに過ぎない。そういう人と、そうでない人間が、ネットを記憶力代わりに利用して、同じように思考することはできないだろう。


> 知識はネットにあればいいと確か茂木さんはどこかで言っていたような気がする

ぼくもそんな気がする。
思うに、茂木さんの主張は、かつてなら高級な知識を得るために、荘厳な図書館に出かけていって、その薄暗い地下室のほこりをかぶった書籍を一つ一つ丹念に調べていくという面倒くさい作業を通じて、やっとこさ、自分自身にとって有意義な知識というものを「発見」することができたのだが、いまではそのような面倒さからだいぶ我々は解放されている、ということなのではないだろうか。
かつて高級な知識を得るためには必ず必要とされた「探索労力」なるものを、ほとんど必要とせずに、必要としている知識にアクセスできるようになった、ということを言っているのだろう。
ネットというのはつまり、誰もが「宇宙完全大百科」(※)を手にしている状態を実現したということにほかならない。

さてでは、そのような、どでかくてしかも引きやすい百科事典を手にした人間は、いったいどのような行動に出るのだろうか。
実は、ここで2種類の人間が湧くのである。
ほしい知識をどんどん吸収していく人間と、吸収していかない人間である。

ほしい知識であるにもかかわらず、吸収していかない人間は、なぜ吸収していかないのだろうか。
吸収していかない人間曰く「だって書いてあることだから調べりゃすぐ分かる話だよ。」

おわかりだろうか。
彼らには、「百科事典にアクセスできなくなる状況」というものが念頭にない。
もしある日突然、百科事典にアクセスできなくなったら、彼らはどうするのだろうか。
もちろん、そんなことが現実に起こる可能性はゼロに近い。

しかしこれは、食糧に関する危機管理にも通じる基本的な問題意識なのである。
米櫃にたくさん蓄えがあるから老後も安心、なのだろうか。
ある日突然、米櫃の中身が、狡猾な裏切り者によって、そっくりそのまま奪われてしまったとすれば、どうだろうか。
もちろん、そんなことは信じたくないだろう。
我が友、或いは我が使用人は裏切らないと信じたいところだろう。
しかし、悲しいかな、危機管理対策とは詰まるところ、裏切られたときでも自力でなんとかやっていけるだけのことを考えろ(という悲観的な対策)に他ならない。

いいですか、「だって書いてあることだから調べりゃすぐ分かる話だよ。」という人間は、非常に温厚で、人間らしく、暖かみがあって、人を裏切る、或いは人が裏切るなどということはつゆほどにもしらない、非常に理想的な人間の在り方に通ずるのだ。

それに引き替え、百科事典に書いてあるからそれでいいはずにもかかわらず、そこに書いてある知識を縦横にむさぼり食い続け、自分の血肉とすることを一向にやめない人間というのは、詰まるところ、百科事典と自分が切り離されることを怖れているなのである。
裏切られる前から、裏切られたときのための対策を講じているのである。
そういう疑心暗鬼な、邪悪な心を持った人間だけが、ひとたび発見した知識を、誰かさんが持っていてくれるからというだけでは安心できずに、自分の血肉とするのである。

考えてみれば、ワンマン経営的な独裁者というのはみんなそうではないか。
裏切られるのが怖いからなんでも自分でやらないと気が済まない。そういう人間は、百科事典に書いてある知識をどんどん吸収するし、それに駆使して色々な、社会的影響力を持つことをしでかすから、博識でしかも行動力も伴った(すばらしい?)人間になるだろう。


さて、ここで終わってしまってはただの皮肉或いは逆説である。

これでは私がただ、「辞書を引くことを億劫がる人間は、人または世界を信じることができる理想的な人間であり、億劫がらない人間とは、人または世界を信じることができない疑心暗鬼に満ちた邪悪な人間である」と主張したいかのようではないか。

もちろん、そのように主張しなくないわけではない。

われわれがともすれば忘れがちな、無意識のうちに隠蔽してしまいがちなほうの極論を、明るみに引っ張り出すことで得られる豊満な知見というものが存在するということを私は信じる。

しかし、ただ引っ張り出してそこで終止符を打ってしまってはやはりそれはそれで悲しい。

逆理を提示するだけというのも楽しいが、それに自ら挑むこともまた私は楽しいと考えるのである。

したがってさっそくこの逆理を解く。

以上の極論には少なくとも一つの不備がある。

分かりますかね?

分かった方、或いはこの記述に興味を持ち何某かを発言してみたくなっちゃった方は、コメントまたはトラックバックにて、筆者にその旨および内容をお伝えくだれば嬉しいです。もちろん、こっそり書く、或いはこっそり頭の中で考えるのは自由です。


わたしの意見は近日中に書きます。

それではお楽しみに。



※「宇宙完全大百科」は、ドラえもんの秘密道具。過去、現在、未来に至るあらゆる知識が掲載されている。
同業者として恥ずかしい より
で、昨年の英語をみると、「高等学校教科担当者の意見・評価」は、(全部丁寧に読んでるわけでもないけど)a large audience の出題やthat節内の強調構文を「難しい」としている。
 う~ん。。。「大勢の観客、観衆」って、日本語で言うと、どのくらいのレベルなのだろうか。小学生か。それを英語で表現することを大学に入ろうとする者に要求することが、そんなにも「難しい」と判定されることなのだろうか。まあ、日本語の感覚では難しい「集合名詞」だからではあるが、だったら、母語にないからこそ重要かつ習得すべき事項であろう。それなくして何が外国語の学習だろうか。また、大学に入って読む文章に、that節内の強調構文は存在しないのだろうか。

元ネタはたぶんこれ(pdf注意)。正式には、「試験問題評価委員会報告書」と言うそうである。
で、この資料の該当箇所を見ると、
第2問A 基本的な文法・語法問題が出題されており、基本的な知識の定着度を測るためには効果的である。全体的に語法問題が多く、場面や文脈に応じた語句の使い方に慣れておく必要がある。特に、“a large audience”や“observe the traffic rules”のような表現は受験者には難しかったようである。
と書いてある。

ん? 何か勘違いしてやしないかい?
報告書の言う「受験者には難しかったようである」というのは、正答率が他の問題に比して低かったことを意味するものではないのか?
この文言をして「大学に入る資格がある者の平均レベルに照らして考えるに、難しい」という風に読めるとは私は思えないのだが。

「大学に入る資格がある者の平均レベル」と「大学に入りたい者の平均レベル」は違う(同じだったら全員合格になっちゃう)。
だからおそらく、報告書のこの文言「・・・のような表現は受験者には難しかったようである」のあとには、「でも、これくらいができないようでは、君たちを大学に入れてあげるわけにはいかないね。」という含意が暗にあるのであろう。そう書くと怒り狂う始末に負えない人たちがいるから(←予想)、陽に表現していないだけであろう。

報告書の、教員からの要望の欄にある「出題形式に変更がある場合は、前もって公表していただきたい。」についてだが、まず、こういうことを言う教員がゼロであるとはそもそも考えられない。
問題は、いったいこういうことを言った人間が、要望として書いた人間が何人いるのか、全体の何割いるのか、ということであろう。


センター試験、つまり、選択式問題は害悪であるという意見がいろいろなところでこれまで出ているが、そもそもセンター試験(旧・共通一次)は、「受験者数が増大→大学教員が採点しきれない→ならば選択式で、自動採点で」という経緯で導入されたものではないのか。wikipediaのセンター試験と共通一次の項目を見ると、奇問難問の排除が目的にあったという風に読めるが、実際は、選択式にチェンジすることで、教員の採点の負担を軽減し、かつ、項目応答理論などのテスト理論を利用できることにより、より正確な、受験生の能力の判定をおこなうことができる、ということに、当時のお偉いさんがたの大多数が同意したからではないのか。

そういえば、(テスト理論がふんだんに利用されていると目される)TOEICも、最初は1979年で、ときの日本の英語分野のお偉いさんがたが、アメリカの機関に頼んで作成してもらったのが最初らしい。

どうも、「より正確に受験生の能力を判定」することが、英語分野のお偉いさんがたはお好きなようである。
だが、「「より正確に受験生の能力を判定する」ことと、「より受験生の勉学意欲をかき立て、より受験生の能力が向上する」ことのうちのどちらが大切なのか。

わたしはかつてから気になっていたことがあった。
それは前にも書いたかもしれないのだが、「学習内容を理解させることよりも、生徒全員を正確に評価することのほうに関心がある」ように見える教師が、英語の教師のなかにとりわけ多いという、この経験的事実である。

「今回の期末試験の成績は、このようにして算出します」みたいなことを、ご丁寧に、授業中に、解説する先生がいる。
しかし、このように解説している時間の間は、教師は、少なくとも学習内容や学習態度の涵養に向けた直接的な行動をしていないわけであるから、時間配分としては少々もったいない気がする。
そんなことは1分で説明するか、掲示板に張り出すか、或いはプリントに書いて配って「あとで読んどけ」で済むことである気がする。
にもかかわらず、教師がこれに多大なる時間を割くということがあるとすれば、それは、要するには生徒に迎合しているということなのではないだろうかと思う。
「生徒は成績が気になる。どうやって算出されているかが気になる。→じゃあ教えてあげましょう。ゆっくりと時間を割いて」的発想。

私の感触では、英語の先生にこういう傾向がとりわけ見られる気がするのだが(ほり先生は違うけど)、気のせいだろうか。
いや、気のせいではないと思う。
だって昔、ともだちに確認したもん。そしたら「そういえばそうやねぇ」みたいな話になった。
だから私はこれは気のせいではないと思う。


傍証がいくつかある。一つはTOEICである。
TOEIC関連の文書を読むと、この試験はどうやら、「英語によるコミュニケーション能力を“より正確に”判定することに命をかけているのだな、全エネルギーを傾注しているのだな」というような熱意が伝わってくる。

たとえば、英検ならぬ数検というものがある。
英検ほどには、はやっていないと思う。

なんでなのか。

世間が、数学能力よりも英語能力を求めているからだ。
なるほど、それもあるかもしれない。
でも、「それだけでは説明できない何か」があるような気がする。


それからもう一つ。
それは、大学受験という制度が、様々な制度?を生産しているということ。
かつてマルクスは、「犯罪者は、刑務所を生産する、刑法について研究する学者をも、生産する」というようなことを言ったが、まさにこれである。

大学受験の目的は足切りのためにおこなうものである。
しかし、その足切りのために用意した大学試験というもののために、受験生の多くはしぶしぶ勉学している(受験生の多くは、大学受験なんてなければ誰がこんな勉強するかよ、と思っていると思う)のだとすれば、結果的にはそれは、「受験生を勉学に駆り立てる」ということにも副次的に寄与しているわけである。

いや、べつにだから何? というわけでもないのだけれど。
センター試験の市場価値について、ちょっと考えてみたくなってね…。
これの登場はほんとに歴史の必然だったのかどうか、みたいなことを、ちょっとね…。
http://www.cml-office.org/archive/1227360683186.html
Comment Title 宿題の思い出 (by apj)
かとうさん、

>夏休みの宿題ですか?わたしゃやらないタイプでした。

夏休み最初にさっさとやって遊ぼうと、最初の数日でに半分近くまで位やる→親が規則的にやれと横やり→一気にやる気をなくしてほぼ放置のまま遊びモード突入 →最終日に半分近く終わってない→親が怒る→「さっさとやってるときに横やりいれたせいだろ、今怒る位なら最初から邪魔すんな」とさらに喧嘩→喧嘩が忙しくて宿題が終わらない

この繰り返しでしたね。
 親は規則的に勉強する習慣をつけさせたい、私は、途中で横やり入れたらどうなるを親に学習させたいから横やりが入ったら最後意地でも勉強しないのを見せつける、宿題本来の目的はどこかに雲散霧消、紛争の道具にしかなってない。
at 2008/11/24 03:46:00



ありそうな話である。

こういうときって、教育する側としてはどうすればいいんでしょうね。

互いに「自分の信念のもと、相手を変えたい(相手に何かを学習させたい、身につけさせたい)」という意図のもとに行動を続けると、本末転倒なことになる可能性がある、という好例。


人はいつ自分の信念を変えるのだろう。

人はいつ自分の信念を守ろうとするのだろう。

人はいつ自分の信念を貫こうとするのだろう。


それぞれの「いつ」に対する答えは違うような気がするのだが。

セカンドオピニオン、モンスターペアレント、裁判員制度。

これらの3つに共通する特徴、それは、庶民が専門家を信用しなくなった(或いは信用しなくなったと見せかけたい)、ということではないだろうか。

あと、警官と教師の不祥事に関する連日の報道も。


例えば、いま、秋葉原などでナイフを所持していると理由を訊かれるであろう。

そこで「これは護身用です。」と答えたとして、警官は「そうか。じゃあいい。」と言ってそれで終わりにしてくれるだろうか。

まずそうはしてくれないだろう。

「逆に刺されたらどうするのか?」だとか「危なくなったら私らを呼べば済む話だ。」とか、
いろいろ理屈をごねられて、結局は官憲の意図する方向へもっていかれる。


しかし一方、アメリカでは護身用として、拳銃を携帯する事が許されている。

拳銃で許されるくらいだから、ナイフだってきっとOKだろう。


私は別に、ナイフを日常的に所持している人間がたくさん居る町がいい町だとは思わないし、日本がアメリカ並みに治安が悪くなることを望んでいるわけでもない。

しかし、最初に述べたような、近年の報道に見られる特徴、すなわち、「専門家は信用できない。われわれシロートである庶民も、シロートなりに、専門家並みにいろいろ考えて、行動することが求められているのだ。」的な空気が広がっていくことは、方向性としては、「じゃったら武器による護身も認めろや。」的方向に向かっていくことを妨げないと思う。

憲法9条改正案、みたいな話が出てくること自体もきっとその流れの一つだろう。

「軍事的専門家であるところのアメリカに庇護されていれば、何も問題ないのだから、日本は武装する必要はない。」という論理が、おそらく数十年前まではまかり通っていたのだろう。


そういう意味では、いまという時は、歴史的に見たら、結構なターニングポイントなんだと思う。

専門家に守ってもらうのか、市民が立ち上がるのか、というこの2つの価値観が対立して、ぎょぎょぎょってなってる状態がここ数年の状態ではないのか。

私はいまここで「市民」と言ったけれど、「庶民」と「市民」はそういう意味では違うのだと思う。

いざとなれば専門家たちに対してさえ裁きをくだせるのが「市民」、いかなるときもお上に従順であるのが「庶民」だとすれば、いままさにこの「庶民」と「市民」の比率がグググと変わっているときなのだと思う。

企業内における男女同権を目指すにおいてなにより重要とされるのが男女「比率」であることからも類推されるように、「比率」というのは非常に重要である。

もし、本国において、たとえばだよ、「市民」の数が「庶民」の数を上回るようになったとしたら、これはこれで凄いことが起こるような気がする。なにしろ未曾有の事態だから。

でも、そんなことはそう簡単には起こらないだろうな、とも思う。

どうなんだろうね。



いろいろファクターはある。

例えば現行の教育制度(特に義務教育)、これは、「庶民」を作る制度であるから、これが今まで通り機能する限り、国民全体に占める「庶民」の割合は、減るにしても限界があるように思う。
「小粒の人間生産工場」であるところの現行教育制度は、国家に従順な労働者であるところの一定数の庶民を確保ならしめることを担保するからだ。

一方で、たとえばインターネットというものがある。
これにまつわる種々の技術は、これまで「知識を遮断された存在」であったところの庶民を解放するから、これは「市民」の割合増加に寄与するだろう。

あとは外圧かな。外国から強権的に「お前らの国、市民が少なすぎる。もっと市民を生産しろ。」って迫られれば、そういう方向に舵取りがなされるだろう。


さてどうなるのだろうね。

私は、(少なくとも今後5年くらいは)増えも減りもしない気がする。

理由はいろいろあるけど、一つは、庶民であることを「選ぶ」市民というのが出てくる気がするから。

http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2008/09/post_511.html より

たとえばこんなことが起こります


英語が苦手な人が
 (2) I know the boy(whom)she loves ●.
を訳せ! と言われたとします。
 ↓
苦手な人も一応、英文の訳例を考えます。
 ↓
ですが、苦手な人はすぐに訳例作りをあきらめます。
つまり実際は考えません。
 ↓
その後、先生などから
 「私は彼女が愛している少年を知っている」
という正解だけ見せられます。
 ↓
すると苦手な人は
「ああがんばればできたかもなあ、たぶんできたよ。意外と簡単だったのか」
と思ってしまうのです。


これが「コロンブスの卵現象」です。
答えを見せられてから問題を見る、すると「簡単」に思えます。
しかし、答えを知らずにこの問題を正しく解くこと、これは非常に難しいのです。


しかし、英語が苦手な人は、実際には解かないので「簡単だ」と思ってしまう可能性が高いのです。


ここで1つ、恐ろしいことが起こります。


・英語が苦手な生徒は関係詞の問題を「コロンブスの卵現象」により「簡単だ」と思ってしまうかもしれません。
 その上、
・英語の先生も「関係詞」を「簡単ですね~」と教えることが多いはずです(自分にとっては本当に簡単だから)
 とすれば、
●英語の苦手な生徒も「ああ、先生が言ってるくらいなんだから、関係詞は簡単なんだ」と思ってしまう可能性が高い
のです。非常に危険だと思いませんか?


実際はそうではないのです。
・英語が初めから得意な人にとって、関係詞は簡単
・英語が苦手な人にとって、関係詞が激烈に難しい
のです。


苦手な人は、関係詞が本当に苦手なのです。


こういうことって、英語に限らず、あると思う。

説明を聞くと分かるのに、一人でやると分からない、みたいな。

さらに言えば、学校の勉強に限らず、あると思う。

名前があるとは知らなかったけれど。

とくにミソはここ。

> がんばればできかかもなぁ。たぶんできたよ。なんだ、意外と簡単だったのか

こういう判断をゆるしてしまう、たとえ一瞬であったとしてもこういう判断を合理的だと思ってしまう私たちっていったい何なんだろう?
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