分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2008-11-20 もうひとつの解  より
ええっと、いまさらですが“今年のテーマ”を思い出した。で、また“毎度、身も蓋もない奴”とか言われるのを覚悟で書いてみる・・


(1)「時給の仕事」でもって一生を食べていくのは無理である。

(2)ところが現在の日本では、この「時給の仕事」をしている「生計の主な担い手」が1000万人近くいる。

(3)この1000万人を、正社員にするのは「企業が国際的な競争力を維持するためには」不可能である(らしい)。


(1)と(2)はこちらで↓ちきりんが計算した結果です。http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080802


(3)はちきりん的には本当かどうか怪しいと思ってます。日本の大企業で働いたことのある多くの人と同様に「正社員のもらいすぎ給与を守るための詭弁」だと思うし、いずれにせよ「国際競争力」なんてないのでは?とも。

が、何度も書いているように(3)は「有権者の真実」です。なので、政治的には(3)も真実です。


さて、(1)(2)(3)がすべて正しいなら、その帰結はどういうことなのか?

上記の1000万人は一生を年収200万円で生きていく必要があります。つまり今まで私たち日本人が想定していたような“中流ライフ”を送るのは不可能。ではそれはどんな人生になるのでしょう?


人生において日々の生活資金以外に大きなお金が必要になるのは以下の3つです。

(a)家を買う。(or 一生分の賃貸料を払う。)

(b)子供を産み育てる。

(c)老後を自分のお金で過ごす。


フィナンシャルプランナー諷に言えば、「住宅資金」「教育資金」「老後資金」が必要になる、ってこと、です。


でも、この1000万人(生計の主な担い手でありながら時給の仕事にしか就けていない人)は、この3つとも調達できません。彼らが調達できるのは、日々の最低限の生活をするための「生活資金」だけ、だからです。


で、どうなるのか?

(a)住宅資金が払えない→病気けがや失業などで簡単にホームレス化する。

(b)教育資金が払えない→少子化が回復せず定着する。

(c)老後資金が払えない→老人の生活保護世帯が急増する。


以上。

って感じです。


余りにも明らか。

これが「貧困問題」の最もシンプルな帰結です。


★★★

で、どーすんのさ?ということなのですが、今アメリカに来ていて思うのは「だから経済を活性化させて全体に底上げすれば貧しい人にもお金が回ってくる」というのは、やっぱり嘘だよな、と思います。

大金持ちがいくらいても、下々までお金なんて回ってきません。アメリカを見ていればそれはよくわかるよね。


ちきりんはだからといって「経済の活性化」なり「底上げ」が不要だという気はありません。それはそれで大事なことです。規制は少なくし、中央集権制度をぶっ壊し、自由で多様性に富んだ環境を作るのは大事だと思う。「先端が世界と互角に戦うために」はね。

が、それは「貧困問題の解決」には全くつながらない、と最近思うようになりました。それはそれ、これはこれ、です。


そして、じゃあどうすんのさ?と考えた時、理想的なすばらしい方法論だけではなく、別のアプローチも必要なんじゃないかな、と。

理想的なすばらしい方法論というのは、

・国の無駄をなくし、一方で国民負担率をもっと増やし、福祉を充実させる。

・教育レベルもあげて国民の生産性をあげる。

・既得権益者のお金をとりあげて社会に還元させる。

みたいなことがすべて一緒に実現する、という姿です。

それはそーなんだけど、無理だよね、と。最近そう思うです。


じゃあ、別のアプローチって何さ?と。それは、名付けて「集積エリア解」


こっちじゃない?

と思い始めた。


それなにさって?



「貧困でも暮らしていける場所と仕組みを作る」ってことです。

たとえば住宅問題。日本の特徴は「生活インフラも“一億総中流時代のまま”とどまっている」ことだと思うんです。

たとえば先進国の首都って家賃の上下差は100から200倍くらいでしょ。下が3万円、上が300〜600万円。NYでもロンドンでも東京でもその格差はあまり変らない。

が、問題は格安地域の層の厚さなんじゃないかと思う。東京で一番多い家賃は10万前後から20万円のアパートだと思うけど、多少の上下はあっても、これがバスや地下鉄で都心から1時間離れたくらいではたいして下がらない。

同じ広さで地域の平均家賃が半額、となると東京からだと静岡とか山梨くらいまで行く必要があるのでは?(特殊なボロ家の話をしてるわけではないので“平均”と書いてます。)


でも海外だと“(移民を含む)低所得者層が集まって住む格安エリア”ってのが都市の周辺、1時間以内で中心街の仕事に通うことができるあたりに結構たくさんあるよね。てか、バカ高いのは都心の超高級エリア(観光客が歩いてるエリア)と、後は特定の高級住宅街地域だけ、って感じじゃないかと。


そういうところは、“スラム”というより“格安生活エリア”って感じで、家賃も安いが、加えて“家賃の週払い”や、部屋の一部を「又貸し」することによる「共有」が可能だったりする。同居人を入れて一部の家賃を払ってもらうわけです。その相手も不動産屋などを通さず、フリーペーパーやネット、張り紙で集めるので手数料もかからない。こうすると一人あたりの住居負担はかなり軽減できる。


一方の東京。大久保あたりとか確かに3万円の物件はなくはないのだが、その数は極めて限られてます。で、じゃあ10万円の部屋をとなると、最初に借りるためにはなんだかんだで50万円くらいが必要。週払いもないし、共有や又貸しも禁止されていることが多い。

これは結構な田舎にいっても同じで、日本というのは「最低生活費が非常に高い国だ」と思うのです。派遣、日雇い的な仕事が身近にある都心に通える位置に家賃3万円のアパートがたくさんあり、敷金や礼金も要らずに3万円ぽっきりあればアパートが借りられ、しかも1万円しかないならとりあえず1週間だけ借りるとか、友達と一緒に借りられるという状況なら、時給の仕事の人でもアパートを維持することが現在よりはかなり容易くなるはずじゃないかと。


その上、ここが大事なところなのですが、そういう格安アパートが大量にあるエリアが一定面積以上になれば、“そういうエリアの商売物価”とか“エリア特化型ビジネス”というものができてくるんじゃないかと。

たとえば、「5時間以内に賞味期限が切れる弁当と総菜だけを売るコンビニ」とか。(←近隣エリアから店長が自転車で毎日持ち込む!)ミニマムアクセス米しか使わないが、ご飯は食べ放題の定食屋とか。不要品引き取りで集めた衣類と家電と家具しか置いてない洋服屋や家具・家電屋とか。電車の置き忘れ雑誌だけを集めた本屋とか。


つまり時給の仕事=年収額面200万円くらいでも、とりあえずホームレスにはならなくてすむ、いや日々それなりに楽しく暮らせる、というエリアができるんじゃないか、と。




あ〜。頭痛い。こんなこと書いちゃって・・

そーとー挑戦的なことを言っているのは理解しており、反論、違和感等々皆様おありになると思います。「日本にもスラムを作れと言っているのか?」という感じに聞こえるのでしょうね。敢えていえば「そーです」と答えましょう。スラムと呼ぶ必要は全然ないと思うけど。日本は「貧乏でも治安の(そこそこ)いいエリア」が成り立つ希有な国だと思ってるし。


「地価を下げろと言っているのか?」って。そうね。下げるところと上げるところを分けて、どっちももっと極端に振った方がいいのでは?と思っています。東京全体では地価はあがってもいいと思う。でも、特定の地域は今よりドドンと下がるイメージです。(実際にはドドンと下がるのは東京だけでなく主には周辺県エリアということになるので、道州制にでもならないと難しいかもしれませんが。)

何が言いたいかといえば、つまり、収入格差が既に「所与の条件」であるなら、地価にだって生活費にだってもっと格差がないとつらいでしょ、ってことなんです。


就業人口6500万人のうち1000万人が年収200万円で暮らさねばならないなら、それでも生活や人生が成り立つ“市場”“地域”が必要であろう、と。面積の5分の1くらいはそうなるってことでないとバランスとれないじゃんと。それはしかも、仕事のない田舎ではなく、都会に必要でしょ、と。

そーいっております。


無謀?


いや賛成だとか反対だとか提案してるとかそういう話ではなく、方向としてもうそっちに向かうんじゃないかなと思うんだよね。一定数そういう人たちが存在し続ければ、そういう人向けの市場がでてくるのは必然だろうと。で、実はもっといろいろアイデアがふくらんではいるのですが、ちょい長くなりますので、それは明日書くことにいたします。


んじゃ。




(あ〜こわっ)


> で、どーすんのさ?ということなのですが、今アメリカに来ていて思うのは「だから経済を活性化させて全体に底上げすれば貧しい人にもお金が回ってくる」というのは、やっぱり嘘だよな、と思います。

その推測はたぶん正しくて、いやその、正しいっていうのは、今のアメリカにおいてのみ正しいというのではなくて、人類の歴史をたどってみても、だいたい正しいわけでね。
悲しいことやけど。

貧しい人を、その貧しさから脱却させるために生産性を向上させたのに、なぜか、その向上した生産性によって生まれた富というのが、そのもともとの目的に使われることなく、富裕層のポンポンに入るという不思議な魔術。
この魔術の謎を解き明かしたいね(笑)。



> たとえば、「5時間以内に賞味期限が切れる弁当と総菜だけを売るコンビニ」とか。(←近隣エリアから店長が自転車で毎日持ち込む!)ミニマムアクセス米しか使わないが、ご飯は食べ放題の定食屋とか。不要品引き取りで集めた衣類と家電と家具しか置いてない洋服屋や家具・家電屋とか。電車の置き忘れ雑誌だけを集めた本屋とか。

これは確かに、できていても不思議ではない気がするね。
にもかかわらず「できていない」のはなんでだろう。
いや、きっと、構造的にはできているんだけど、それが、表通りを大手を振って歩くサービスとしては顕在化していないだけ、って言う気はするね。

こういうサービスに表通りを歩かせると、すぐに日本では「貧困を食い物にしている」みたいな突っ込みがマスコミサイドから入りまくるから、表通りに出てこれないんだと思う。
だから、この手の薄利多売を統括する大きめの企業、というのが、出てきにくいんだと思う。


> 収入格差が既に「所与の条件」であるなら、地価にだって生活費にだってもっと格差がないとつらいでしょ

それはその通りなのだが、収入格差を所与の条件にすべきではないのではないかという気がする。



> そーとー挑戦的なことを言っているのは理解しており、反論、違和感等々皆様おありになると思います。「日本にもスラムを作れと言っているのか?」という感じに聞こえるのでしょうね。

スラムという言葉は過激だけど、日本では一億層中流という言葉にも代表されるように、巨視的には中流が底辺に居座っており(だから、日本には貧困は無いとかのたまう政治家も出てくるのだろう)、だからスラムという言葉が当てはまりにくい気がするのだろう。


> (1)「時給の仕事」でもって一生を食べていくのは無理である。
> (2)ところが現在の日本では、この「時給の仕事」をしている「生計の主な担い手」が1000万人近くいる。
> (3)この1000万人を、正社員にするのは「企業が国際的な競争力を維持するためには」不可能である(らしい)。

結論から言うと、企業が国際競争力なんぞを最優先するから、(2)が成立してしまうわけで。
だからこれは「核戦争の可能性」みたいな話と似ているんだよね。
相手が競争してくるから、こちらも競争せざるを得ない、みたいな。

これはだから市場原理の一つの在り方であるとは思うけれど、そこにはきっとメリットもデメリットもあって、一つのメリットというのは、「理論上、資源が最も効率よく使用される」ということと(たしか)、顧客にとってうれしいと思われるサービスが効率的に生産・発明され続ける、ということかな。

だからこういう時には、「まあまあ、そうカッカせんと。あんたのとこの国も大変でっしゃろに。ここは一つ、お互いに国防費を減らしてやね…」という展開に、あらかじめの対話を通じてもっていっておくのが、最適・最善であると思われるのですが、まあなかなか難しいようですね(相手が裏切るかもしれんから)。




「下向き」の想像力について より
頭がいい人が、「上」に向かって想像力を働かせて、それまで誰も考えなかったようなサービスを作る方向と、 同じく頭のいい人が、「世の中には想像を絶する馬鹿がいる」という信念の下に、 カモをコントロールするやり方を模索する方向と、想像力には「上」と「下」みたいな方向性がある。

上向きの想像力が生み出すプロダクトはすばらしいけれど、世の中を回しているのは、 むしろ下向きの想像力なんだと思う。

振り込め詐欺のこと
振り込め詐欺の人達が使う手口はあまりにもあからさまで、どうしてあんなものに大勢が引っかかるのか 不思議でしょうがないけれど、詐欺の秘訣というものは、「たくさんの人に電話をかける」、 それが全てなんだという。

常識的な人達は、たぶん「こんな話に騙される人が世の中にいる」という、 そのこと自体を信じられない。信じられないから、あんなことをやろうなんて思わない。

振り込め詐欺にかかわる人達は、たぶん「世の中には絶対にカモがいる」と考えていて、 1 日に数千人とか、「カモ」に当たるまで電話をかける。

振り込め詐欺の手口というのは、あたかも会社勤めの人と同じく、すごく「勤勉」にやらないと 成功しないらしい。その勤勉さを支えているものこそが、あの人達の「下向きの想像力」なんだと思う。

「金払いのいい阿呆」が社会を回す
「パチンコ業界が危ない」なんて特集で取材されてたお客さんは、年間40万円ぐらい借金して、 たぶん同じぐらいの金額を、パチンコ屋さんで消費していた。今は消費者金融が厳しくなって、 だからパチンコ業界に流れ込むお金も減っているのだと。

借金してまでパチンコにお金をつぎ込むような熱狂的なユーザーは、自分が遊び場にしている ネットサービス界隈にはいない。

今使っているサービスのほとんどは無料のものだし、有料ユーザーとしてお金を支払っているサービスにしても、 月にせいぜい500円だから、パチンコ屋さんとは比べるべくも無い。

パチンコの面白さは自分には分らない。借金してまでパチンコ屋さんにお金を貢ぐ人達は、 だから自分なんかから見ると、「金払いのいい阿呆」に見える。

理解は出来ないけれど、30兆円産業なんて言われるあの業界を回しているのは間違いなくあの人達だし、 すばらしい理念と技術をぶち上げたIT 企業が軒並み失速していく一方で、 技術であったり、顧客の規模なんかでははるかに劣る「出会い系サイト」は、 そうした「金払いのいい阿呆」の支持を得て、確実に業績を伸ばしてる。

「金払いのいい阿呆」は行動する。「バナナで痩せる」なんて声を聞いたら、気前よくバナナに殺到するし、 メディアが推薦する、雰囲気のいい候補者がいたら、気前よく自分の時間を費やして、選挙会場に足を運ぶ。

上向きの想像力は響かない
ネット界隈の、ブックマークがたくさんついているような、冷静な、「頭のいい」意見は、 「金払いのいい阿呆」の心には、全くといっていいほど響かない。

たぶん政治家の人たちは、「俺は頭がいい」なんて、世の中に距離を置く意見を持つ人を、 顧客として想定していない。政治家が大事にするのは、号令かけたら集まって、 鉢巻きを巻いて、スローガンを受け入れて、腕を振り上げて叫ぶ人達であって、 政策を「分析」する人間なんて、そもそも求めていない。

社会には、「祭りを見る人」と「祭りに参加する人」とがいて、祭りに参加する人の中に、 さらに「御輿を担ぐ人」がいる。

パチンコ業界を繁栄に導いて、IT 企業としての出会い系サイトを繁盛させて、 やせるためにバナナを買って、選挙があれば素直に投票場に行くような、お金を払ったり、行動したり、 自らのリソースを支払うことに気前のいい、「御輿を担ぐ人」達こそが、社会を回す。

google だとか「はてな」だとか、世界を相手に巨大なサービスを展開する企業は、 観光客として祭りにきて、焼きそば一つ買わないで、デジカメ片手に祭りを観察する人達のほうにばっかり 目を向けていて、祭りを本当に盛り上げる人達、祭りに参加して、祭りを作って、お金を払って、御輿を担ぐ、 そんな人達の方向を向いていない気がする。

google だって成功した企業であることには間違いないけれど、莫大な資本を投下して、 あれだけのインフラを構築した割には、得られたお金は決して多くない。なんだか効率悪く見える。

「現金工学」みたいな学問を見てみたい
ある状況によって生み出された人々の行動を、「お金」に変えるやりかたというのは、 まだ「学問」の形で体系化されていないんだろうか ?

経済学には、「マネタイズ」というカタカナ言葉があるみたいだけれど、 「こういう状況ならこんなやりかた」みたいな、方法論が体系化されていたり、 定説が作られていたりと行ったイメージとはちょっと違う印象。

自分は会社を経営しているわけでもないし、本業以外のビジネスを手がけたこともないけれど、 「ビジネスをしている人」だとか、「お金を稼ぐやりかた」を見るのが好き。

どんなやりかたが興味を引くのか、企業家の人と、自分みたいな外野と、 また全然違うんだろうけれど、このあたりは個人の感覚として、 「お金の匂い」のしてくるやりかたというのがたしかにある。

「コミュニティでタイアップ企画」とか、「ユーザーと商品開発」とか、「Win-Win」とか、嘘だと思う。 そんな理念はたしかにすばらしいけれど、やっぱりお金の匂いがしないから。

ネットサービスが収入にしている「広告モデル」なんかも、本来は正しい現金化手法が 見つかるまでの「つなぎ」でしかありえなくて、あれをゴールに据えるのは、どこかおかしい。

どんな「カモ」がいるのか。どんな「カモ」を想定するべきなのか
人を「金払いのいい阿呆」にする状況をどう作り出せばいいのか
「金払いのいい阿呆」になった人々を、どうやってコントロールするのがうまいやりかたなのか
「下向きの想像力」に優れたいろんな分野の人達が、お互いの知恵を持ち寄って、 こんなテーマを語りあったなら、きっとすごく面白いことになると思う。


まあ、金払いのいいアホが世の中を回している、という事実には、おおむね否定しないが(というが、否定しがたいが)、問題は、「アホはいつどきにおいても常にアホなのか、カシコはいつどきにおいても常にカシコなのか」っつーことだと思う。

こういう議論をしていると、しらずしらずのうちに、「少なくとも俺らはアホではない」という前提を敷いてしまいがちなわけであるが、そここそ吟味されないといけないわけで。
ここでいう「アホ」っていうのは、「自分がアホであると自覚していないアホ」のことを指しているわけですよね。基本ね。

なんというか、ミクロの集合体がどのようなマクロを形成するかっつー議論は、物理学でも経済学でも昔から真剣に論じられてきているわけで(んのわりにはなかなかスパッとした結論が出ていない分野でもある)、そこれそ、古くて新しい話題なわけです。

なにが言いたいかというと、振り込め詐欺にひっかかってる人と、バナナダイエットにひっかかっている人は、必ずしも重ならないわけですね。
人間っていうのは、ひとそれぞれ経験にばらつきがあるわけです。
よく学んで痛い目に遭うてもう十分に学習している領域もあれば、あんまり試行錯誤を繰り返していない領域もまたあるわけで。
んで、人はまさにこの、あんまり試行錯誤を繰り返していない領域においてこそ、その分野において経験を積んだ人の「カモ」と化するわけで。

すべての領域において十分に学習した人間というのはこの世にはいないわけで、そういう意味では、誰もが「金払いのいいアホ」になる可能性を秘めているわけですね。
いやむしろ、人々がみんな違うことをやってる社会、その「違う度」が高い社会においては、マクロな視点で見たときの、そのあんまり学習していない領域の全体に占める割合は、ことさら高くなると思うのよね。
いいですか、もっぺん繰り返すよ。
多様性に富む社会においては、マクロな視点で見たとき、アホが大半や」っちゅーこっちゃ。

バナナダイエットに騙される人というのは、ある方面においては、とてつもなく自らの力量を発揮している人なのかもしれないわけですね。
でも、バナナダイエットに騙された人たちを紹介するニュースを見る人というのは、そういう、騙された人の他の側面については情報が及ばないから、なんとなく「世の中には極度のバカが存在する」っていう虚像を思い描いてしまいやすいわけで。
その虚像を思い浮かべてしまう前提となっているのが、「バカはいつどきにおいてもバカである」という仮定やね。

ふむ。なるほど。


〔おまけ〕
この記事を書くに至った、さらに元の記事はこちら
http://anond.hatelabo.jp/20081123132348
スポンサーサイト
http://blog.pasonatech.co.jp/yokota/199/7186.html より
未来の若者を食い物にするために子供のうちから携帯とネットを取り上げろ!(この文章は皮肉ですよ。)

2008.05.19
 政府の教育再生懇談会が「小中学生に携帯電話持たせるな」と提言をしたらしい。最近では携帯電話に限らず、小中学生にネットを使わせないようにするという声もチラホラと聞こえてくる。

 これは素晴らしい提案だ。なぜなら、我々が未来の若者に「食い物」にできるチャンスが増えるからだ。子供時はともかく、大人になれば彼らはネットや携帯電話に触れることになる。彼らがネットや携帯電話の情報に触れるのは初めてのことになるだろうから、彼らが何が本当で何が偽物の情報かを判断するのは難しいと思われる。そのよえな彼らを、スパムやネット詐欺を企む人間がほっとくはずがない。はじめて、ネットや携帯電話触れる「若者」はたちまち彼らの餌食になってしまうだろう。

 さらに、情報の収集方法や加工技術もネットが使えないのだから、前の世代(今の私たち)に比べて圧倒的に低いだろう。我々の世代は、インターネットや携帯電話の利用方法について、海外の国には抜かれかねしれないが、下の世代に抜かれることは無いだろう。

 逆に一番怖いのは、小中学生のうちに携帯電話やインターネットに対しての教育を行うことだ。時間はかかるが、携帯電話やインターネットの使い方を教育していけば、我々の世代など簡単に追い越してしまうのでは無いかと思われる。

 携帯電話にしろインターネットにしろ、子供のうちに触れなくとも、将来的には触れることになる。それだったら「全部取り上げる」のではなく、適切な利用方法を教えていった方が、後々の彼らの知識や経験となる。単に機器を与えるのを遅くするだけでは、単にスパマーやネット詐欺の犠牲者を増やし、上の年代よりもスキルの低い人間を量産するだけでは無いかと思う。

投稿者 : 横田 真俊 | 投稿日時 : 2008.05.19 09:00


ITリテラシーに限らず、子どもたちを一般世間から隔離しておくことの重要性を説く教育関係者は多い。
その理由もいろいろあると思う。

親が子どもの教育機会を奪ってしまうことを回避するため、とか。
子どものうちはもっと他にすることがある、とかね。

藤原正彦氏は、「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数(数学)、あとは十以下」とずっと言い続けておられるそうだが、たしかにそういう意味で見れば、人間教育においてともすれば最も重要なこの読み書きそろばんに割かれる時間が圧迫されることは、ともすれば国家的危機とも言える事態をゆくゆくは意味することになるのかもしれない。
氏の「祖国とは国語」という言葉もそれを象徴しているだろう。

ところで、小中学生のうちにネットを学んでいない、イコール、ITを生業をする企業が彼らを食い物にできる、という理屈は、私は最初は「そうかも」と思ったけれども、やっぱりちょっと無理があると思う。

言うまでもなく世の中は日進月歩である。
昨日無い技術が今日は誕生し、明日にはインフラが整い、明後日には大規模に普及活動がおこなわれ、その次の日には大半の人々がその技術を曲がりなりにも我がものにする。
新技術の習得に遅れた者は、ともすれば世の中から置いてきぼりを食らい、ともすれば世の中において非常に騙されやすい位置取りに立たされてしまう確率が高いのかもしれない。
けれども、だからと言って、「新技術の習得に遅れまいとし、その習得に懸命になることこそが、騙されやすい位置取りに立たされてしまう確率を低めることになる」という物語を信じることは私は危険だと思う。
というのは、そういう物語を信じている人間を効率的に騙す方法を提示することは可能だからである。
そういう物語を信じている人間を騙すには、その者がまだ当該新技術の習得のある程度の完了を自覚しないうちから、次々とさらなる新技術をその者の眼界に放り込めばよいのだ。

「騙されない技術」というのは、技術や知識それ自体には宿っていない。
「騙されない技術」というのは、要は人間を見通す力そのものを糧として湧き上がってくるものだ。
そしてその人間を見通す力というのは、読み書きそろばんを筆頭とする基本的な学習によって触発される人間的な根幹に端を発する力なのである。
なんだか大仰な言い方になってしまっているが、要するにはそういうことだと思う。

だから私は、読み書きそろばんや、身体を使ってはしゃぎまわり思い切り世界を五感で感じ取ることや、さまざまな種類の人間とコミュニケーションを図ることと言った、義務教育の過程でやるべき最も重要なことをしっかりやってさえいれば、義務教育終了後に初めてネットというものに触れ始めたからと言って、すぐさまに営利一辺倒の企業の餌食になってしまうことはないだろうと思う。
当ブログのコメント欄 より
あなたの文章を拝読するたび、彼女と波長が合うのだと思わされます。
それは人間が矛盾しあう2つの感情が持っているように
それらを整理することなくそのまま出力するとでもいいましょうか。
ただ、私ははその後、自分の中で考えを整理することが
議論においては大切であると考えているのですけれど。
そこが議論と雑談の違いですね。

私は教員であろうと塾講師であろうと
根源に流れるものは共通であると考えております。
そういう意味では同じ教壇に立つ者同士
今後も率直に意見をいただけると嬉しく思います。
反論したからといって抵抗勢力などと見なすことなどありませんし
何より率直に意見を言い合えない友人など寂しすぎるではありませんか。
もちろん、私も今後も引き続き率直に意見させていただきます。
あなたに対する賛同も批判も全て含めて。
2008-11-18 : Psyche URL : edit


コメントをありがとうございます。

世の中には、「議論」というと、とかく自分の意見を絶対に曲げず、相手を弁論でねじ伏せる、という風に、いわば「ディベート」と同じ意味に解釈される方がおりますが、私はそれはちょっと違うと思うのですね。
このブログではだから「議論」というややこしい言葉を避けて「対話」と言い直しているのは、その手の誤解を回避するためです。

要するに、自分の直観を信じてそれを言葉に練り直す過程、そして、相手から繰り出される言葉から刺激を受けて自分の直観が変容していく過程、この2つを内包するものを私は議論ないし対話と呼びたい。


ところで、私はたぶん教壇に立つ者ではありませんよ。
教師のブログによくコメントしているのでそう思われるのも無理はありませんが、私はたぶん教壇に立つ者ではありません。

でも、私がそのことをカミングアウトすることは少しもPsycheさんと議論をする土俵を崩すものではないと考えています。
私は昔から塾や学校で教えてきましたし、教育に関する私見をマスメディアに掲載していただいたこともありましたし、教育学が専門の方と本格的に議論したこともたびたびありましたし、井の中の蛙の可能性もありますが、教育に関してずっと考えてきた者です。

私が最近考えていることは、誰が教育する資格があるのか、ということです。
例えば、偉そうに教育に関する論議の上にふんぞり返っている我が身を思うとき、果たして私は、人のことを心配するよりも前に自分のことを心配するべきではないのかと言う念に駆られる時があります。

それはちょうど、中年を通り越して老境に至ろうとしている、人生を一応はある程度は経験したぞという自信を得た者が、いままで教育についてほとんど考えたことが無かったくせに、いきなり「日本の教育はこうあるべきだ」なんていう言辞を垂れるさまをあわれむ私の心と、重なるものがあります。

要は、「最近の若者はなっとらん」という意味のことを、「日本の教育はこうあるべきだ」という形式で弄しているに過ぎないわけですね。
こういうことを、社会的影響力のある大人がなすことの功罪については、ここでは控えますが、重要なことは、「では、お前はどれほど『なっている』のか」ということですね。

この世の中に、「私には教育する権利がある」と言い張れるほど完全な人間はいないと思いますし、何が完全かを示すことができると言い張れるほどに何が完全であるかを熟知している人間もまたほとんどいないような気がします。

それでも、人は教育し、教育され、それは一応の効果を上げているように思われるのはなんでなのか。
これからもいろいろ考えていきたいと思います。
天才を賛美するということは、天才とは対極の位置にいる人たちをおとしめるということだ。
だから私は、そういう知的に恵まれない人たちをおとしめる習慣を身体化してしまわないためにも、天才をそれゆえに尊敬するべきではないと思うのである。

人はその知性ゆえに尊敬されるのではない。
人はその人が人であるがゆえに尊敬されるべきなのである。

私たちにとって最も難しい問題の一つに、生存上有利に働く能力に関して自身との差異がある者を、どうすれば、同胞として、何らの嫉妬も敵対心も哀れみの気持ちも持つことなく迎え入れることができるのか、ということがある。

私たちはしばしば、そういう能力において劣る者をいじめ、そういう能力において秀でる者にすり寄るかまたは敵対し、あるいは理解できないと無視する。
私はそれを不幸だと思う。
なぜならばそれは最終的には自己嫌悪、そして自己の能動的消滅を意味するからである(かなりはしょってるけど)。

もう一度言う。
天才を賛美するべきではない。
天才を賛美すると言うことは、天才でない人たちを、天才ほどには賛美しないということであるからである。
もちろん、自分たちを救助してくれた人に素朴にお礼を述べることくらいのことはしてもよろしいと思う。
でも、あまりに過剰だと逆に恩着せがましくなるし、相手に無用な気遣いを強要することにもなる(天才と言われている人たちの多くは、自分を天才だと思っていない。)。
言うなれば、「崇拝」はあまりよくないだろうということだ。
「ちょっと尊敬」くらいがちょうどいい。




ところでまた別のことを考えてしまった。

例えば私たちは、偉い人の銅像をつくったりする。
二宮尊徳の像とか。
それは要するには、「こんな風になれ」或いは「この人は神聖である」ということを表している。
銅像とは逆の意味を持つ象徴も存在する。
反逆者の公開処刑とか。
それは要するには、「こんな風にはなるなよ」或いは「この人は下賤である」ということを表している。

だから僕は、「見上げられることを生業とする人たち」(天皇など)が存在しはじめたのと同時期に、「見下されることを生業とする人たち」(穢多非人など)もまた出現したのではないかと思っている。
「見上げられることを生業とする人たち」と「見下されることを生業とする人たち」が象徴として存在することは、「何が良いことで何が悪いことかを社会に知らしめる」という効果をもたらす。
それは、政治や国家が機能し出すことができるための土台となる。
逆に言うと、この相対極する二つの象徴に多くの人々が同意してくれないと、政治や国家は始まることができないということである。

だが、ここで私は思う。
私たち平民、すなわち、見上げられることも見下されることも生業としない人たちは、見上げられることを生業とする人たちや見下されることを生業とする人たちと、仲良くやっていくことができるのだろうか、と。

私は基本的に難しいと思う。
だから基本的に、偉い人というのはみな、死んでから偉い人になる。

分からないけれど、例えば、二宮尊徳の像が置いてある学校に、実際に二宮尊徳が訪れることがあったとしたら、「ははーっ」ってなモンだろう。
私はそれがいけないと思うのである。
それは二宮尊徳に対して逆に失礼だと思うのである。
だってそれは、「私たちとあなたは別の世界の住人であるから、異なる待遇を受けるべきである」という主張を意味するのだから。
そしておそらく、二宮尊徳を崇拝する人たちは、二宮尊徳が仮に「あなたがたと同じ処遇を受けたい」と望んだとしても、それを認めないであろう。
二宮尊徳は、みずからが置かれている特殊な立場に、一瞬は酔いしれるかもしれないが、次の一瞬には、彼らと同じようには処遇してもらえないことに対するわびしさを抱くことになるか或いは独善と孤高をますます強めることになるかであろうと予想されるからである。

これが、死んでいれば、崇拝された側の人間に起こるであろうこのような数々の問題点は、緩和される。
「崇拝された二宮尊徳はきっとあの世で困っているだろう」などという推論はあまり意味をなさない。
あの世では、たぶんみな聖人のようになれるので、崇拝されたことによって良くない心が生じる、などということはないと考えられるからである。

「私たちとあなたは厳然と区別される」という主張は、しばしば、放っておくと「崇拝」または「差別」へとすぐに転がり落ちてしまう。

いかなる「ちょっと尊敬」も、その尊敬する理由を離れてしまうと、たちまちのうちに妄想的にインフレーションを起こしてそれは、理由無き「崇拝」へと変貌する。

最近で言えばノーベル賞受賞者がそうであろうか。
受賞理由をちゃんと理解して称揚している人たちよりも、ちゃんと理解しないで称揚している人たちのほうがたぶんずっと多いであろう。

そういう状況(「今年は日本人が3人」とか、五輪だったら「今年は日本が金メダル何個」みたいなことに優先的に関心が向く状況)が一番、崇拝につながりやすいのである(※2)。

天皇が好例であろう。
天皇が天皇である理由は、基本的には、天皇の父親が天皇だったから、でしかないわけで。
つまりは、「ちょっと尊敬」するに足る理由がなんであるのか、よく分からないから(※)、崇拝の対象になってしまいやすいわけで。
で、それで、政治の道具になってしまいやすい。

何度も言うけれど、政治をやる人というのは、要は、「称えられるべき人」と「さげすまれるべき人」のこの2つの象徴をいかに制御できるかにかかっているわけで。

※もしタイムマシンがあって、天皇が天皇である理由(ほんとうの初代天皇の誕生の経緯)を知ることができたとしたら、きっとそのとき、天皇は崇拝の対象ではなくなってしまっているだろうと私は予想する。


お経というのがある。
お坊さんが読み上げるやつね。
あれも、意味がよく分からないほうがありがたく感じられるのだそうである。
だから、法事のときに、集まった人がよく分かるようにと、あのお経の文章を現代語訳して、読み上げたとしたら、たぶん、お念仏から醸し出される尊さの半分以上は失われてしまうだろう。

意味がよく分からないものを読み上げたり、書き写したり、意味がよく分からない行動を取ってみたりすることは、学習行為の二本柱のうちの1つ、「写経」である(もう一つは、「解釈」ね。学習行為は「写経」的なものと「解釈」的なものに分類することができる。)。

なぜ人は「写経」することができるのだろう。
それは、写経することにどういう意味があるのか、「いま」は分からないけれど、未来の自分は今よりは分かっているはずだ、と信じることができるからではないのか。

なぜ人は「写経」することができるのだろう。
それは、写経する対象が、「なぜだかよく分からないけれどとりあえず尊いものである」と、感じることができるからではないのか。

そして実は、その「尊いと感じることができる」ということは、「その尊い理由がなぜだかよく分からない」ということに担保されているというこの事実。

要するに人は、自分のその時点での知性では把握しきれない対象に対して、畏怖し、嫌悪し、解明したがり、排除したがり、要するに固定した態度を取ることができず、なにより私たちはそれから注意をそらすことができない。

だから人々との注意関心を制御したければ事は簡単であって、この人々の性質を利用すれば良いだけの話である。

古代的社会・村落にあって、なぜ家族的・親族的な家々が、互いに結託して、でかいでかい国のようなものをつくり、大半の人々がみずからの労働力を、自分とその周りの親しい人たちに対してよりも国の維持と発展に対して行使することを選択するに至るのか。

それは要するには、上に示したような人々の性質を応用することによって、人々の集団的な振る舞いを、統計上変動を生じる程度にまで制御する能力を我がものにした一部の人たちが、ある時は脅し、またある時は「君たちの利益になるから」と言って、少しずつその総力を国に奉納することを習慣づけることに成功したからではないか。

そしてその法則はおそらく、当時もいまも、さして変わらないと私は思ふ。



※2 さらに言うと、こういう、根拠不明の「日本すげぇ」は、「なんかよう分からんけど日本は凄い」という信憑を生み、さらにはそれは「なんかよう分からんけど、その凄い日本というところに住んで、文化的啓発を受けているオレは凄い」という信憑を生む。
根拠無く「オレすげぇ」と思える能力は、新しいことに挑戦していくときに、非常に重要な能力であり、子どもなら誰しも持っているものであるが、大人になるにつれていろんな「オレもうだめだ」経験を積むので、そういう能力は衰えてゆくのだが、一方で、そういう大人は、子どもの頃持っていた、根拠無く自分を信じることができる能力をうらやましくも思うことがあって、そして、その、根拠不明の「日本すげぇ」は、そういう、標準的な大人が忘れてしまいがちな能力がよみがえってくるという錯覚を堪能できるからこそ、本邦において需要ありまくりなんではないか。
忘却の破片 より
2008/11/10(月) 00:38:23
heisanさん

ほりさんは自分の考えに共感しない人に対して
「自分より頭が悪いから理解できない」と解釈をされる方です。
しかしそれでは考え方が独りよがりになってしまい
合理化することにより自己防衛しているものと思います

そういった意味では仲間内で馴れ合うのではなく
率直に意見を述べることができるあなたの姿勢に大変共感しております。
それこそが真の友人と言えましょう。
壁にぶつかってこそ人は成長するものですから。
彼女にとって、あなたが真の友人であることに気付いていただけるとよいですね。

悲痛の極み
>悲痛の極み
率直に意見を言い合える者同士こそ真の友人。
これは現代に限らずいつの時代も同じことです。
心配しながらも自分の意見を伝えようとしたあなたの姿勢に
私は深い敬意を払います。


psycheさん、労いの言葉をありがとうございます。

実は最初、少しためらったのですよ。
私は、そういう励ましの言葉を頂けることを期待して、psycheさんのブログにコメントするんじゃないかと。
或いはまた、そういうコメントをすることによって、ほりさんの側から「抵抗勢力」と一まとめにされてしまうかもしれないことに関する懸念もありました。
私のコメントが削除される理由と、ほりさんがpsycheさんにコメントするなと言う理由は、必ずしも同じでないと思うからです。

或いはまた、それは、久々に味わったこの種の孤独を自分一人で噛みしめるだけの、私の度胸のなさを表しているのかもしれません。


今回のほりさんとの遣り取りの結末は、事実上のコメント禁止という、ある意味ありふれたものなのですが、そこに至るに至った過程については、珍しいものがあると私は感じています。

ほりさんは、これまで、私のほとんどどのようなコメントに対しても、お返事をくださる方でありました。
私は、それはほりさんがとても誠実だからだと思っていました。
しかし、実際のところは少し違っていたようです。

ほりさんは、詮ずるところ、コメントのお返事を返さないということができない人でありました。
このほりさんの(ある意味誠実すぎる、ある意味子ども過ぎる)性格が、現在の、私とほりさんとの確執をもたらしめているように思います。
普通は、仕事などで忙しくてコメントする時間がなければ、コメントしないものです。
また、ある種のコメントには返信しないという姿勢を貫くことによって、ブログ運営の手間を低減させているところもたくさんあると思います。
コメントがなければ、相手も「ああ、忙しいんだな」とか、「返信しないタイプのコメントに相当したのかな」と察するでしょう。
或いは、「いま忙しいので返事できない。時間があるときにまた書こうと思う」とか、「あなたがされるコメントは私にとって理解することが難しいので、理解するための時間がほしい」という一言コメントがあれば、なお誠実でしょう。

しかし、ほりさんは、それができない方でありました。
自分のブログの記事にコメントが付くと、どんなに仕事が忙しくても、コメントへの返信のほうを優先してしまうくらい、過度に誠実なお方でありました。
別の言い方をすれば、私は、「どの程度までならほりさんが憤慨するほどの負担にならないか」を正確に推し量ることができるほど「大人」ではありませんでした。

コメントを見ると返事してしまう。
そのコメントする行為自体は結構おもしろいものだ。
しかし結果として、仕事の時間が奪われてしまう。

こういうループを何度も繰り返した結果、ほりさんは、仕事の時間を確保するために、「(特にコメントへの返信に時間がかかる)私に対する返信行為を拒否する」という、ほりさんなりの断行をされたのだと思います。

もっとも、私にコメントする行為自体に、おもしろさを感じなくなってしまった、ということもあるかもしれません。
自慢になってしまって恐縮ですが、これでもは、初期の頃はかなりおもしろがってもらえていたのですよ。
(※私の書く内容が経年劣化しているのかも(笑)。初期の頃というのは、あまり信頼関係が構築されていませんから、1つコメントする場合のハードルが高いのですね。よっぽどの自信がないとコメントするという行為に至らない。ところが信頼関係が構築されてくると、だんだんと、どうでもよいことまでコメントするようになってくる。こういった傾向が、ほりさんの負担を高めた可能性は否めません。)
「結局、ほりさんにとって、私はお笑い芸人であり、ほりさんを面白がらせることができなくなればその場で切り捨てご免」という対応だったということ風に考えることもできます。邪推ですが。


また、結果として私は、ほりさんにメッセージを交換する手段のみならず、ほりさんのブログに定期的に来訪する方々と気軽にコミュニケーションする手段をも奪われているという側面もあります。
これはこれでつらいことです。


私は最初、コメントを削除されたとき、今後どう対応したら良いかに悩みました。
すなわち、削除されることが分かっていてもコメントを続けるべきかどうかです。

ほりさんの、私のコメントを削除するときの気分が、「荒らし」や「巡回ロボットによるコメント」を削除するときの気分と同等のものであるのならば、私はコメントを続けるべきかなと思いました。
しかしながら、そうではなく、ほりさん自身が罪悪感を全身で感じながら、断腸の思いで削除されているのだとしたら、私がコメントを続けるということは、残酷以外のなにものでもないわけです。

このどちらであるのかを正確に判定する能力を私は持ちません。
だから私は、ほりさんが気づいてくれることを期待することによるプラスよりも、ほりさん自身に罪悪感を与え続けるということのマイナスを回避するという選択を、刻下のところ、しているのです。

私は現在、ある意味、ほりさんから「特別扱い」を受けています。
ただ、これが「優遇」なのか「冷遇」なのかは、解釈の余地があると私は考えたい。

私はこれが「優遇」であると信じて、すなわち、「ほりさん自身、私のコメントを削除する際には、断腸の思いで削除されているのだ」ということを信じて、さしあたってはお待ち申し上げるよりほか、いまのところ私に有効な選択肢はないように思えます。

psycheさん、あなたのおかげで私は自分の気持ちを整理することができました。
このような私のたわごとに付き合って頂き、改めて謝意を表したいと思います。
ありがとうございます。





おまけ:

拝啓 この手紙 読んでいるあなたは
どこで 何をして いるのだろう~

(中略)

拝啓 この手紙 読んでいるあなたが
幸せなことを 願います~

(アンジェラアキ作詞作曲「手紙」より)







追記:
「このどちらであるのかを正確に判定(断定)する能力を私は持ちません。」と書きましたが、ほりさんは私のコメントは削除なさるが、私が送ったトラックバックまでは削除なさらないようです。ありがたいことに。
このことは、ほりさんが、私のトラックバックを、明らかな荒らしや巡回ロボットが送信するトラックバックとは区別されていることをあらわしているでしょう。
したがたって、後者の可能性のほうが、また一つ高いことになります。
私の最終的な判断は、それほど間違っていなかったということでしょうか。
いずれにせよ、「嬉しい発見」です。
事故厳罰化が大阪ひき逃げの原因?(2008/10/27 05:14) より
大阪ひき逃げ事件:厳罰化が人命を奪う (JANJAN)
http://www.news.janjan.jp/living/0810/0810240147/1.php

危険運転致死傷罪など厳罰化が進んだ為、事故を起こしても逃げた方が良いと判断する人が増えている?
そういう考えの人も居ると思うが、10月21日の大阪の事件では事故当時のスピードが時速20~30 km程度と低く、致命傷ではなかった可能性が高いらしいので、その場で適切な対応を行えば、一般的な人身事故で済んだと思うけど・・・。
2008/10/27 09:45 Commented by その蜩 さん

昔タクシーだかトラックの運ちゃんだか運転で飯を食ってた人が、ひき逃げを常習的にやってたって事件が有りましたね。
勿論、故意に事故を起こしていたのでは無いのでしょうが、免許取られるとご飯が食べられなくなるとかで、ずっと逃げてたという話ですが。
言われてみると確かに逃げる人も増えそうで、難しいですね。
モラルの問題だとは思うんですが、今の日本でそれは期待出来ないんでしょうか。

ま、そうね。
「厳罰化すれば犯罪は減る」という短絡思考がいかに間違っているかを示す好例であると言えよう。

 厳罰化する → 罪を犯すと鞭が厳しいので、罪を犯さんとこう

とはならず

 厳罰化する → 罪を犯してしまったので、鞭が厳しいので、逃げよう

となるってことか。
つまり厳罰化は故意犯は減らせるかもしれないだけど、過失犯に対してはむしろ逆効果ってことか。
「飲酒運転が、重大な過失を導きやすい」ということの自覚が、なかなか持てないということが問題なんかなあ。
いま飲酒運転で捕まったら罰金30万だっけ? 
それでも飲酒運転は絶えない。
絶えないし、それによる事故数も多い。
これはつまりどういうことだろう。
飲酒運転をなくすという目標において、単なる厳罰化という手段だけでは限度がある、ってことじゃないかな。
だって、いくら厳罰化しても(たとえば、罰金が30万→1000万とかになっても)、みんな「おれは大丈夫」と思って飲酒運転をするわけだからね。
「現行犯じゃないと逮捕されない」てことも一枚噛んでる気がする。
それは逆に言えば、「今を乗り切れば俺は無罪放免だ」ってことだからね。
だから、「逃げ切る」という発想になる。

これが、その場で逃げ切ったところで、あとでぼろぼろ証拠が出てきてしまう諸々の事件(殺人とか窃盗か強盗とか)の場合はそうはいかない。
「逃げ切る」のがめちゃめちゃ難しいわけだ。
もし顔が割れて指名手配でもされようものなら、ここ数十年はまともにお天道様の当たるところで暮らせなくなるわけだからね。
それはすごいリスクだと思う。

そういうのに比べると、飲酒運転は、ひったくりと同じで、「いま、そのときに逃げ切れば成功、あとは証拠は残らない」って感覚があるから、どうしても、逃げ切るって発想になる。

いや、だからどうしたらいいのかって、分からないんだけどね。
もとの記事(http://www.news.janjan.jp/living/0810/0810240147/1.php)をのっけておく。
大阪ひき逃げ事件:厳罰化が人命を奪う
上岡直見2008/10/26
報道によると大阪のひき逃げ事件では、被害者は逃走を続ける車両に巻き込まれたため、死に至ったと推定されているという。これに関してある刑法の専門家は、厳罰化のため、助けるよりも逃げた方がましだと判断する人が増えたおそれがあると、注目すべきコメントを述べている。確実な事故防止対策は、公共交通を増やすなどし自動車の走行を減らすことだが、加えて、加害者を厳罰にする以前に、あらゆる側面で、人命の保護を第一義に据えた法体系を整備すべきではないか。
大阪 事件 NA_テーマ2

 2008年10月21日に発生した大阪のひき逃げ・引きずり事件は、現時点(24日午後)ではまだ加害者が特定されず、詳細は不明である。しかし各社の報道によると、事故時は時速20~30km程度のスピードのため、被害者は致命傷ではなかった可能性が高く、車に巻き込んで逃走を続けたために死亡に至ったのではないかと推定されている。

 これに関して刑法の専門家が注目すべきコメント(*1)を述べている。2001年に危険運転致死傷罪が新設されるなど、厳罰化が実施されたため、むしろ助けるよりも逃げた方がましだと判断する人が増えたおそれがあるというのである。そして、救護すれば刑を軽減するなど、社会全体で逃げずに助けることを奨励することが必要だと述べている。

 この問題については、すでに筆者も過去のJanJan記事(*2、3)で指摘している。筆者も「刑の軽減」など何らかの報奨策を思いついたものの、結果として助からなかった場合の判断の分かれなど難しい問題も予想され、そこまで言っていいものかという気後れがあって記事には書かなかった。しかし刑法の専門家も同じ見方であるとすれば、検討に値する対策であることが改めて感じられた。

 昨今、加害者に対する厳罰化が支持されているようである。しかしこれは、一見すると被害者に対する共感・同情であるように見えながら、実は逆で、大多数の人が「自分はそのような悪質なドライバーではないから……」という他人ごととして捉えているためである。

 実際はそうではない。次の図は、福井県総合交通課等が作成したパンフレット(*4)であるが、データからみれば、もし一生運転を続けた場合、次のような確率で加害者になることが示されている。

「一生のうち、10人に9人のドライバーが事故を起こします」
「(同)5人に2人のドライバーが人身事故を起こします」
「(同)166人に1人のドライバーが死亡事故を起こします」

大阪ひき逃げ事件:厳罰化が人命を奪う |
 決して、意図的な悪質運転を行うドライバーの問題ではないのである。この確率は、福井県の交通事故データから作成したものとなっているが、大都市圏を別とすると、おおむね全国どこでも同じ確率である。最も確実な交通事故防止対策は、公共交通を増やし、徒歩・自転車の通行環境を整備して、自動車の走行をできるだけ減らすことである(*5)。

 しかし職業上・日常生活上、運転が避けられない地域・状況もある。事故が起きてから加害者を厳罰にする以前に、あらゆる側面で、人命の保護を第一義に据えた法体系を整備すべきではないだろうか。
「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 より

たとえば、3000万円の工作機械が故障したとする。
仕組みが複雑すぎて、どこが故障したのか普通のエンジニアには分からない。
だから直せない。だから、その工作機械はほとんど価値が無くなった。
そこで、その工作機械の持ち主は、その工作機械を廃棄処分することにした。
そこに、ハゲタカエンジニアがやってきて、その工作機械を30万円で買い取ってくれることになった。
その機械の持ち主は、捨てようと思っていた機械を30万円で買い取ってもらったので、
ハッピーな気分だった。
ハゲタカエンジニアは、その工作機械の複雑怪奇な構造を理解できるだけの
高度な知能と知識とセンスを持っていたので、どこが故障しているのかを5分で突き止め、
5分で修理した。
これによって、たった10分で、無価値なゴミでしかなかった壊れた工作機械が、
3000万円の価値のある工作機械に生まれ変わった。
時給1億8千万円分の仕事をしたことになる。
これは詐欺でも錬金術でもない。純粋な価値創造労働だ。
もちろん、ハゲタカたちは詐欺まがいの買い叩きと転売、犠牲者を多く生み出す企業解体をやることも多く、
負の側面も多いのだが、だからと言って、こういう価値創造の側面を見過ごすと、その本質を見誤る。
ハゲタカたちの巨大な価値創造力の源泉は、
「少しの労力を投入するだけで、巨大な価値を生むポイントを見抜く眼力」
と、
「失敗した場合に、損失を引き受けること」
の2点である。
たとえば、先ほどの壊れた工作機械を買い取ったハゲタカエンジニアは、
それを買い取る時点では、本当に修理に成功するかどうかの保障はない。
しかし、失敗したときに30万円の損をすることを覚悟で、
あえて、その故障した機械を買い取ったのである。
日本の多くの会社では、大企業も中小企業も、
このようなハゲタカ的努力が欠落しているために、
多くの非能率と不幸が生み出され続けている。
たとえば、あるケータイコンテンツ会社で、
赤字を垂れ流し続けるサイトがあったとする。
そして、「地道な努力」教の信者たちは、
地道な努力によって、そのサイトのコンテンツを充実させ、
こつこつとユーザビリティを向上させるわけである。
そして、ますます赤字が拡大していく。
会社も、従業員も、顧客も、だれもが不幸になっていく。
それを見かねた経営陣が、そのプロジェクトに
ハゲタカプロデューサを投入する。
そのハゲタカプロデューサは、
「そのサイトに欠けているのは、コンテンツの充実でもユーザビリティでもなく、
単に、そのコンテンツが、そのコンテンツを求める客に認知されていないのだ」
ということを見抜く。
そこで、そのハゲタカプロデューサは、まず、そのケータイコンテンツの
コンテンツタイトルを変更した。コンテンツの内容を表すタイトルではなく、
そのコンテンツの潜在顧客の注意を引くようなタイトルに変えたわけである。
次に、そのコンテンツのメニューカテゴリを、その潜在顧客のいるカテゴリに変更した。
さらに、そのコンテンツとシナジーを引き起こすサイトとアライアンスを行い、
相互リンクを張ったり、データベースの相互利用ができるようにした。
これにより、そのサイトは、
エンジニアやグラフィッカーの工数をほとんど投入せずに、
利用者を飛躍的に伸ばし、そのプロジェクトは高収益プロジェクトに大化けした。
従業員も、会社も、顧客も、みんなが幸せになった。
実際、こんな話はそこら中にあり、
少しも珍しい話じゃない。
また、非正規雇用が増大し、必死で「地道な努力」を重ねたにも関わらず
ワーキングプアに転落する人々が増える一方、
日本社会のあらゆるところで、
「ちょっと修理すれば高収益な企業or不動産or利権に生まれ変わる案件」
=「最小の努力で膨大な富を生み出せる案件」を
目を皿のように探し回っている「近道を探す努力」の権化のような、
ハゲタカ金融マンは何千万円~何億もの年収を稼いでいる。
これは、農家、干物屋、イラストレータ*2などの自営業者も同じだ。
ひたすら「地道な努力」を積み重ねるばかりの人は、
顧客も、自分も、家族も不幸にする。
逆に、最小の手間と予算で、
自分の持つサービスや商品を、もっとも的確な潜在顧客に合わせ、
その人たちに正しく届ける「効果的な努力」をする人たちは、
顧客も、自分も、家族も幸せにする。
30年くらい前に少年ジャンプで人気だった
「努力と根性で成功する」というタイプのマンガだって、
よく考えてみると、常に「正しく、効果的な努力」によって
主人公は成功を手にする。
巨人の星だって、挫折するたびに、ひたすら創意工夫して、
新しい魔球を開発し続けて成功するストーリーなのであって、
ただただ地道に筋トレや投げ込みや走り込みをし続けて
成功するストーリーではないのである。
しかしながら、広く一般に世論調査をすると、たいていの場合、
「実績を上げた人が報われる社会」
よりも、
「努力した人が報われる社会」
を望む声が多いという。
これは、非常に根深い病なのだと思う。
だから、こういう記事を書くと共感より反感の方が多いことは容易に想像できる。*4
マルクスでさえ、「労働価値説」を信じていたぐらいだし、
ほとんど動物的なレベルで「努力に比例して価値が生み出される」ということが
正しいと思えるのが、人間という生き物なのだろう。
しかし現実には、
常日頃から「一発逆転」するポイントを検出するための鋭敏なアンテナを張り巡らせ、
徹底的に「近道を探す努力」をし続けた人間こそが、
自分と、周囲と、社会と、世界を豊かにし、幸せにするのである。
「近道はない」などという、「地道な努力が報われる」教の信者の妄言に
惑わされて、1回しかない人生を台無しにしないようにしたい。

たとえば、弟くんが3000万円の工作機械を故障させたとする。
仕組みが複雑すぎて、どこが故障したのか弟くんには分からない。
こういう状況のとき、弟くんよりも賢い兄貴は、何をすべきだろうか。

(ケース1)
ある兄貴は、弟くんが困っているのを見て、「ちょっと貸してみなよ」と言って、ドライバーで機械の内部をかちゃかちゃといじり、ものの五分で直してしまった。
「わーい。お兄ちゃん。ありがとう。」と弟くんは言った。
兄貴は嬉しかった。

(ケース2)
また別の兄貴は、弟くんが困っているのを見て、弟くんが一定の価値判断をくだすまでずっと見守っていた。
弟くんはそのおもちゃの価値が、もう使えないから、ゼロ円になったと判断した。
そして捨てようとした。
すかさず兄貴が口を出す。
「ちょっと待って。」と。
「捨てるくらいなら俺に売ってくれ。30万でどうだ?」と。
弟くんはすぐそれにノった。
なにしろ、そのまま捨てればゼロ円+処分料がかかるのに対し、プラス30万円なのだから。
弟は嬉しかった。
兄貴は、弟から買い取ったおもちゃを自分の部屋に持ち帰り、ものの5分で直してしまった。
兄貴は、そのおもちゃを転売して3000万円の儲けを得た。
兄貴は嬉しかった。

さて、私がもしこの兄弟の親だったら、このケース2の兄貴をコテンパンにしばくと思う。
なぜか。
ケース2において、弟くんが、もし兄貴の取った最後の行動を知ったならば、それでも弟くんはハッピーな気分でいられるだろうか。
私はそこが怪しいと思うのである。

世の中には、不当な取引というものが存在する。
一方が同意していないのに、他方が強権的に取引を成立させてしまう場合、それは不当な取引である。
ケース2のような取引は、双方の同意を取っているから、不当な取引ではない。
実際、ケース2のような取引は、いまもごまんと行われているだろう。
しかし、私は、ケース2のような取引を、不健全な取引だと思う。

「相手が喜んでいるんだからそれでいいじゃないか」と、ケース2のような取引を行なった兄貴に賛同する諸君は言うだろう。
だが、ちょっと考えてもらいたい。
第一に、すでに述べたことであるが、弟くんは、兄貴が5分で直して転売した事実を知ってもなお、ハッピーでいられるだろうか。
第二に、この兄貴は、もし自分が弟くんの立場だったら、この取引に同意しただろうか。

世の中には、賢い奴らというのはやまほどいる。
学校でも社会でも、みんな、自分が少しでもましになれるように頑張っている。
だが、これはしばしば忘れられがちなことであるが、そうやって得た賢さを何に使うべきかというところは、しばしば注意がそそがれない。
その結果、ケース2のような取引を、「別に非合法なことをしているわけじゃない。なにが悪いんだ。」と開き直るケースが出てくるのである。

取引の健全性は、すべて、その取引の主体を交換してもなお取引に応じたいと思うかどうかによって評価される。
ケース2の兄貴は、もし自分が弟くんの立場だったら、どう応ずるだろうか。
「自分には修理の技術と知識を持たないから、仮にそれが相手に時給1億8千万円分の仕事を与えるものだったとしても、自分はそれを拒否できない。自分が僅かな利益を得るとき、同時にものすごい利益を横の人が得ることを見るのはやや癪だが、それは致し方のないことだ。なんつったって、ぼくには、修理の技術と知識がないのだから。」と、諦められるだろうか。
兄貴のその修理の技術と知識は、誰のおかげで獲得できたものなのだろうか。
兄貴にその修理の技術を知識を授けるに当たって、弟くんは一ミリも貢献していないのだろうか。
もし、兄貴にその修理の技術を知識を授けるに当たって、貢献している人がいたならば、兄貴がこの転売によって得た利益は、その貢献した人に分配すべきだろうか。
親の金で私立大医学部に行って医者になった場合、その医療行為によって得た利益の一部は、一生、親に対して奉納し続けなければならないのだろうか。
換金性の高い能力の保持者は、その能力をどのように使うべきだろうか。

換金性の高い能力の保持者の、その能力は、どこまでが自分のおかげで培われたものであり、どこからが誰かさんのおかげで培われたものなのだろうか。
もしその線引きが原理的に不可能であるならば、その能力保持者は、どのように行動するのが正しいだろうか。


少し話を変える。
少し前、確かラーメン屋かどこかで、知的障碍者の労働に対して正当な賃金を支払わず、不当に労働させていたことが問題となった。
このことが問題なのは、なにも、かかる知的障碍者自身が、自分の置かれた労働状況の不当性に対して異議申し立てをしたからではないと思う。
またこんな話もある。
外国で、計算ができない農家の人は、その農作物を売るときに、計算がごまかされるから、いつまで経っても貧困から脱出できないとか。

相手の知識が自分より不足しているのをいいことに、そこから(相手が自分より知識が不足していることからくるうまみを求めて)自分にとってめっちゃおいしい取引をばんばん成立させまくることはこれいかに。
「相手が喜んでるんだからいいじゃないか」という弁解はここで通用するだろうか。
分からないけれど、おそらく、アメリカ的な社会では、おおむね通用し、日本的な社会ではおおむね通用しないだろうと私は思う。
と同時に、私は、いまのそういう価値判断をする日本的な社会をものすごく良い社会だと思う。
内田ブログで以前に、「アメリカが台風に襲われたとき、現地では犯罪が横行したが、日本で阪神大震災が起きたときは、そこまでは横行しなかった。これは民度の違いだと思う。」というようなことが書かれていたが、私が、この意味において日本的な社会を賞賛するのも、まさにこの点にあるのである。
契約社会というのは要するに、契約書がないと相手を信用できないさもしい社会である。
民度が低いから契約書に頼らざるを得ないのである。
一方、暗黙の了解が幅をきかせる社会というのは、「空気の支配」というデメリットは無視できないのだが、それ以外の面では、わりかしメリットが大きい気がする。
戦前の一億玉砕とかは、それは少なくとも形式的には、日本が一丸となって、家族的な「愛の共同体」を実現し得たからに他ならないと思う。
ただ、それがあくまで「形式的」にであって「実質的」にあらず、且つその一丸に加わりたくない人を不当に差別し、法で取り締まったことが問題視されるのであって。

換金性の高い能力の保持者が、その能力にゆえにハゲタカ的に荒稼ぎし、「へへ~ん。これは俺が稼いだんだもんね。お前らにはやらないよ。悔しかったら俺を抜いてみろや。」って言い、かつ相手がそれに応戦するのが、資本主義の原動力なのだとしたら、これはなんともさもしい社会であると言わざるを得ない。
わたしたちはその程度の民度しか持ち得ないのか。
その程度の民度しか持ち得ないことを保証するシステムの導入維持に同意署名したのはどこのどいつだ?と問いただしたくなる。

たしかに、会社経営における問題点をすばやく見極めて実践したりする能力は、素朴には歓迎されるべきだと思う(その顛末が利便性最優先の環境を生むことの弊害はここでは措くとして)。
ただここで色々な問題がある。
青色発光ダイオードの中村さんとか、タンパク質質量分析(でノーベル賞受賞者)の田中さんなどの例は好例であろう。
「社会に大きく貢献したものも、あまり貢献しなかったものも、ひとしく生きられる社会を目指したい」というのが、日本国民の総意であるというならば(実際、地道な努力を評価してあげたいと思う人がこの国には多いことから察するに、この総意の存在は妥当だと思う)、私たちはそれを呑まねばならない。
それが嫌だというなら、海外に転籍するのもいいだろう。
それは誰にも止められないのだから。

ただ、私はここで思う。
「社会に大きく貢献したものも、あまり貢献しなかったものも、ひとしく生きられる社会を目指したい」と思うことができる能力は、とてつもなく、普遍的に美しい能力であると。

こんなことを言うと、社会主義は破綻したとかいう反論が予想されるが、そもそも、「頑張っても頑張らなくても結果が同じなら頑張らない」だろうと見込む判断にやすやすと同調してしまうこと自体が、民度の低さの反映なのであって、それこそ、恥じて然るべきなのではないか。
そういう判断をする御仁は、「何はともあれ頑張ってしまう人がこの世の中には一定数存在し、その人たちは、とてつもなく世の中に貢献している」という事実に関する認識が不足していると言わざるを得ない。
すべての人々が、生活における様々な選択において、逐一、自分の自己利益を最大化するように、合理的に行動しているわけではない。
ケース2のような兄貴の行動を賞賛する人々というのは、人々全員が、合理的に行動する経済主体になることを所望しておられるのだろうか。
そんなことを所望して、いったい、どんな嬉しいことがあるというのだろう。
え、経済予想がより当たるようになるって? でもそれは、人間の勝手な期待のほうに現実を合わせるってことだよね?
将来予測型の学問っていうのは基本的に、人間の勝手な期待を現実に合わせるべきなんだよね。
人間のように動くロボットをつくりたい技術者が、人間自体がロボットのように動くように、政治的圧力を掛けて実現したとして、技術者は喜ぶと思うかい?
そういうのを本末転倒と言うんだよね。

もう十年くらい前になるだろうか、新聞で、子どもが親の介護をするのが、日本では「美談」、欧米では「スキャンダル」として扱われることについて、この違いはなんだって、新聞の執筆担当者はぼやいていたけれども、結局そういうことなんだよね。

「自立した大人は、ダマされても仕方がない。それはダマされた側の責任だ。」っつーのが、欧米的で、「人間はいつまで立っても自立しないモンだから、周りの人間が世話を焼きまくるのがいい社会で、世話を焼く側はそれを面倒と思うことはタブだ。」ってのが日本的なのかな。
ブログ「考えるのが好きだった」で、ほりさんは、よく、マッカーサーが日本人の精神年齢は12歳だって言う例を引くんだけれど、精神年齢が12歳だけど民度が高い国と、精神年齢は25歳だとけど民度が低い国と、どっちがいいかって話だ。
民度、つまり、相手の幸せを願うことができる能力。
教育を受けてないために計算できない農民を平気でだます業者や、知的障碍者の人権を無視して労働させている雇用者は民度が低い。
相手の幸せを願ってないから。
もし自分が相手の立場だったら即刻どなりちらすだろうくせに、相手が自分ほどの知能を有してしないことをいいことに「だって、相手は文句を言ってこないんだもん。相手は喜んでるんだもん。僕は悪くないよ。」って言うすべての輩は民度が低い。
ぼくはそんな仲間と、あまり暮らしたいとは思わない。

僕が、修理の技能を持たない弟だったら、故障品を30万円で買い取り裏で修理して3000万円で転売する兄貴よりも、「ちょっと貸してみな」とサラッと奪い取り、かちゃかちゃといじって、「ほら直った。ほれ」って渡してくれる兄貴を持ちたいと願う。

古今東西、貧乏人が苦労して金持ちが悠々と暮らしている様を描いた物語は絶えないが、今日においても、「貧乏人」を「知能を持たない者」に、「金持ち」を「知能を持つ者」に置き換えれば、この物語はそっくりそのまま成り立つことに私はささやかな戦慄を覚える。

出木杉くんはのび太を虚仮(こけ)にしない。
出木杉くんは民度の高い少年である。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。