分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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入試は合格…独自の服装チェックで不合格 神奈川県立神田高校 10月28日22時24分配信 産経新聞 より

神奈川県教育委員会は28日、平塚市の県立神田高校(生徒数347人、渕野辰雄校長)の入学試験で、合格ラインを上回っていながら、入学願書受け付け時や試験日などの服装や態度などについて「入学後の指導が困難」と判断された受験者が不合格とされていた、と発表した。内部告発で明らかになった。県教委は「不適正だった」としており、県立校全校で過去3年間に同様のケースがなかったかも調査する。

 不合格とされたのは平成17、18、20年度の受験でそれぞれ6人、6人、10人の計22人。県教委の選考基準では、中学校の調査書や学力検査の結果、面接結果を点数化して組み合わせるなどして上位者を選ぶ。しかし、同校は独自に「胸ボタン外し」「髪染め」「つめが長い」「スカートが短い」「ズボン引きずり」などの点を独自にチェック、選考の判断としていた。

 同校では入学願書受け付け時や試験日に職員が受検者の「著しく目立つ点」に気付いた際、番号と中学校名、内容を記録。その際、受験生に告げないよう指示されていた。その上で校長らが不合格にするかどうかを決定していた。

あのですね。
まず第一に言わせてもらうと、これがもし就職試験だったら「全然問題ない」わけで(定量的採用基準を受験者に示す義務がないから)。
身だしなみがなってないから落として何が悪い?ってなもんだ。
だから、ここで県教委が「不適正だ」と指摘しているのは、学校が独自基準でやっていたことにあるわけで。
一つの会社で、社長が「こういう基準で採用しなさい」と言ったにもかかわらず、採用担当者がその社長の基準を遵守しなかったことが問題だと。
そういうご指摘なわけですね。

でもさ、はっきりいって、「ばからしい」。
繰り返すが、身だしなみがなってないから落として何が悪い?
今回に限っては、社長が暗愚で採用担当者が臨機応変だったと思うがね。
それを杓子定規にさ、「わたしに盾突くつもりか!」って叫んでみたところで、冴えないよねぇ~。

「役人のコスト感覚」の記事でもちょっと触れたけどさ、それの続きになん(なるん)だけどさ、基本的に、既得権益を持つ奴らって、その既得権益の維持・発展に努めるわけ。
文科省がなぜ、各学校に書類の提出をばんばん求めるか。
簡単さ。
「お前は俺の支配下にあるんだぜ。よく肝に銘じときな。」っていう、上下関係の確認の儀式なんだよね。
その意味では、金ばかりかかる参勤交代とか、ボスザルに媚びを得る二番手のサルといった状況となんら変わらんわけ。
ああ、なんとむなしいことか。
わたしたちはこういうところにも、サルの時代から一歩も進歩していないことを見いだしてしまうのである。

既得権益層の「安心」の維持を提供するためだけに、「非」既得権益層がカフカ的不条理のうちにおかれるということを、むなしいと言わずしてなんと言おうか。

あ、あと、最後に言っておくと、なんでこの人たち(採用担当者の方々)は、「胸ボタン外し」「髪染め」「つめが長い」「スカートが短い」「ズボン引きずり」といったような項目を、面接の点数の一部として扱わず、独自扱いとしたのだろうか。
面接の点数の一部として扱うのなら、教委の指示に反したことにはならないので、普通にオッケーな気がするが。そんなに簡単ではないのかな。

直接は関係ないけど、一時期話題になった都教委の締め付けも凄い(凄かった?)よね。
挙手による採決禁止だっけ? あと国家斉唱時に起立しなかった教員を処分とか。
なんか、「規律だから守るべき」と言った基本的良識を超えて、どんだけ「わしに逆らう者はみなこうなるのだ」って叫べば気が済むのかって思っちゃう。
逆に言うとさ、こういう締め付け好きな上司って、要するに、「自分がそうやって常に締め付けていないと、自分が上であると思えない」ほどに自分が小粒であるか、或いはその程度にしか部下の信頼を勝ち得ていないってことでしょ?
締め付けるという行為が、部下の信頼を勝ち得ていないことの記号として作用してしまっていることに気づいていない上司が多すぎると思うのは私だけか?
或いは気づいていない振りをしているか。
そして、「もはや、気づいていない振りをすることだけが、自分が上司であることの意味を根拠づけている」というところまでいくと、あとはその上司が気づいて見せるだけで、その上下関係はただちに崩壊するわな。
いや、すでに事実上は崩壊してるんだろうけれどね。形式的崩壊。
あ、つまり、締め付けは事実上の崩壊の予兆ということか。

<追伸>
しっかし、学校というところは、ホントに、「小粒の人間」を好むところだね。
いや。細かい事情はあるにせよ。
ベル・ランカスター方式=小粒の人間養成所、寺子屋方式=多様性に富む人間らの養成所、なのかな?
う~む…。
だからといって、これからは多様性の時代だからと言って、ランカスター方式的制約を取っ払うと、今度は二極化がどうとか言い出すんだろうな。
全国的に寺子屋方式だった時代において、どれくらい「二極化」してたんだろう?
寺子屋方式は、全体の底上げという機能も持ちうるかな? いや、是非持ち得てほしいのだけれど。
読者の方々、ランカスター方式と寺子屋方式のそれぞれで教育実践やってみて、種々の項目において、どういう効果の差があるかを研究した事例をご存じであれば、是非教えてください。できればソース付きで(個人的体験・実践でもいいけど)。
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段落の読み方 より
読解の授業では、徹底的に段落読みをさせる。順に内容を掴んでいく。訳なども含む。繋がりを重視する。
 第一段落から、ある事柄の歴史が書かれていた。数字が出てくる。順に挙げさせる。全てがなんの数字かを聞く。年号だと分かる。それで、時代が次第に現代に近くなっていくことも指摘させた。で、最後の段落について聞いた。しかるに、この段落に年号を表す数字はないから、「代わりになる言葉を探せ」と聞いた。すると、「three decades」と答える。その語句の前に「in the last」と付いているが、そこは指摘しなかったところをみると、「数字」を目当てに捜したのであろう。「この30年」とは読んでいない。実は、この段落、段落の冒頭に「Today」とある。「現代」に至ったのである。が、それに気が付かない。
 なぜなのだろう??? 成績の悪い生徒であるが、なぜ、気が付かないのだろう。気が付く、付かない、の違いは何から生じるのだろう。
 「数字」を指摘したせいで、「数字だけ」に注目してしまったのだろう。それで、数字そのものだけが目的となり、肝心の「時代がだんだん上がってきている」ことを忘れたのだろう。だから、Tadayに気が付かなかった。
 日頃言っている、文頭副詞や主語には気をつけろ、段落冒頭には気をつけろ、という指示もアタマに入っていない。それで、直前にやった、「数字」という最も印象的な事項だけが頭に残ったのだろう。だから、three decadesと答えたのだろう。



気が付く、付かない、の違いは何から生じるのだろう。

文章を機械的に分析しようとするか、文章全体に通底するところの「漠然とした意味らしきもの」をイメージしながら読むことができているか、の違いから生じるのだと思う。
要は、文章を書いた人の気持ちになれるかどうかである。
文章を書いた人の気持ちに感情移入することができない人はかならず、文章を、論理的に、理知的に、機械的に「分析」しようとする。
それはさながら、あまりできのよろしくないカウンセラーが、相談相手の気持ちを察することができないゆえに、安易に「分析」に走ってしまいがちであるのと、構造は同じである。

文章というのはひとえに感情である。
これは物語文に限らず説明文でもそうである。
ただ、説明文の場合は、物語文に比べて、感情移入以外の理知的な分析によってまかなえる部分が大きいので、感情移入できない人でもある程度までは読めてしまうというだけのことである。

感情というのは、それを実感しない人にとっては無機質な代物でしかない。
人間は、というか最近の人間は、無機質な代物に対峙するとき、かならずそれを理知的に分析しようとする。
それは現代の科学教育が生み出した寿ぐべき成果と言ってもよろしいだろう。

しかし、「電池のテスターを観察するように、自分の心をうちを観察し、分析して欲しい」人はあまりいない。
それよりも、「まずは共感してほしい」人のほうが多い。
というのは、人というのは、まず共感する動物だからである。
理知的な分析なんてものは「そのあと」だ。

そもそも人は、自分が知覚的に捉えた対象のなかに自分と同じ感情が宿っているという措定を確信に導いたところから始まる。
もちろん、表情を分析し、相互に意思の伝達を図る動物はなにも人だけではない。
だが、「いま・ここ」からの跳躍が果たせるのは人だけである。
自分が知覚的に捉えた対象のなかに自分と同じ感情が宿っているかもしれぬという想像は、あるいは、人間以外の霊長類もなしているやもしれぬ(というか、なしているらしい)。
だが、その想像を、想像によって支持可能とするのは、おそらくは人だけである。
人間以外の霊長類も、相手の顔がそこにある限りにおいては、そのような他者理解の感情をもよおすやもしれぬが、それはあくまで「相手の顔がそこにある限り」であって、そこから相手の顔が消え去ってしまえば、ほぼ同時にそのような想像も潰えるらしいのである。
しかし人はその想像を、想像のみによって維持することができる。
SF的にたとえて言うならばそれは、マッチがあって初めて火が熾せる人と、燃えるものがなにもなくても念力だけで火が熾せる人の違いと言ってもいいだろう。
人は想像のなかでは、燃えるものがなにもなくても、念力だけで火が熾せちゃうのである。
すごいでしょ。
こんなことができるのはおそらくは人しかいない。

かつて、古来の人々は、石や木や太陽や月に、人格が宿っていると考えたらしい。
文章も同じである(飛躍が大きすぎる気もするけれど)。
文章は「インクのしみ」に過ぎないわけだが、そんなことを言ったら、人の表情だって、「特徴的な筋肉の動き」に過ぎないわけである。
だからそれを以て無機質と言うか有機質と言うかは、ひとえに観察者が、観察者と同じ心をその対象に見いだすかにかかっているのであって、それ以外の何者でもあり得ない。

わたしは別に、これを以て、文章を理知的に解析することを本分とする英文法の価値をおとしめたいわけではない。
だが、英文法だけでは英文は読めない。
英文法だけで英文を読もうとすることは、それは、機械翻訳をするように英文を読もうとすることである。
だが、機械翻訳機に文章の「心」は分からない。
機械翻訳機と同じような仕方で文章を読もうとしても、その試みはついに「その文章の心を読む」というところまでは行き着かないであろう。
そんな気がするのである。
「過保護」は死語? より
そう言えば、近頃「過保護」という言葉を聞かない。どこに行ったのだろう?

 親が車で送りに来る。学校近くでそっと降ろすならまだしも、堂々と校内に乗り込んでくる。子供は怪我をしているわけでもない。昔だったら、「自分で行け」だっただろう。遅刻しそうだ、可哀想だ、という思惑が働く。車があるのに、親も手が空いているのに送ってやらないなんて、親としての努めを果たしてないのではないのかと言うことなのかもしれない。それで、「わあ、お母さん、ありがとう、さすが。」と子供に有り難がれたら、とっても嬉しいお母さん♪ 「私の出番だったわ」とか。「これで親子の絆が強くなるわ」とか。ひょっとして親が寝過ごした、で、送る、なんてことになってるのかもしれないけど。

 クーラーが入る学校が増えた。近年の猛暑で確かに暑い。各家庭にはクーラーがある。子供の部屋もクーラー付きだろう。「快適」が当たり前の状態で、かつての「過保護」が「普通」になったのだろう。

 「わかりやすく」も同様だと思う。授業が分からないときは「先生の教え方が悪い。」 授業が早いと「もっとゆっくりやってくれ」とおっしゃる。「もっと予習をしなければならない。もっと自分が頑張らないといけない」と思うより先に、「先生~」と曰う。「先生」の方は、多勢に無勢で、「そうか。もっとわかりやすく楽しく授業をしなければ」と思う。それで、どんどん親切になる。もっとわかるように、もっと生徒が簡単に効率良くできるようにという親心溢れる「プリント」が溢れる。「これだけやっておけば万全」プリントである。生徒は、「それしかしない」ことになる。それで、一人でノートを作ることすら出来ない。出来ないから、「先生、プリントください」と言う悪循環である。こんなに頑張ってるのに、長期的に見ると、生徒はできるようにならない。「なんで?」と思う。しかし、免罪符がある。「生徒のためにこんなにたくさんのプリントを作ってわかりやすく、丁寧な授業を行ったこと」である。「生徒も感謝しているではないか」である。

 「今の子は、懇切丁寧に見てやらないとできないんだよ」ということで、いつまでたっても手本が目の前にあって、手取り足取り教えてもらえなければ何も出来ない、自分では何も創意工夫できない、実のところは、「自分では何に出来ないと思い込まされた症候群」に罹患した子供が量産されている。

 こんなの、一昔?までだったら、「そんなの過保護だろう」の一言で白い目で見られただけじゃないのか。

間違ったことは言っていない。
ただ、それで何がいいたいのか。
「だから昔は良かった」と言いたいのであれば、ありがちな老人の回想だろう。
「昭和30年代の様子を描いた『三丁目の夕日』において、いいところばかりが選択的に回想されているとの批判」さながら、その他の事情が変わっているということを抜きにして、一部分だけを取り上げて、「昔は良かった」とぼやいてみたところで意味はないだろう(本人の自己満足としての意味以外は)。


その他の事情というのは、附属池田小での事件、連日の積極的な誘拐に関する報道、未曾有の猛暑、以前と比べて主婦(夫)たちが暇になった、などが挙げられるだろう。

町全体が昔より快適になっていて、学校(とくに公立校)だけが取り残されているというのは事実だ。
ブログ「学校教育を考える」のところの記事「時代の変化に遅れよ」じゃないが、まさに時代の変化に遅れている。
ことほぐべきことだ(笑)。

「時代の変化に遅れよ」は「時代の変化に取り残されよ」とは違うと思う。
「取り残される」は、以前と全く変化がないわけだが、「遅れる」は、遅れてはいるが一応付いていっているのである。

もちろん、公立校は、遅れたくて遅れているわけじゃないだろう。
おそらくは、金が降りてこないから遅れざるをえないのである。
あ、この辺りは、いちどちゃんと検討する必要がありそうだ。
公立校に金を降ろさない積極的な理由ができあがってしまうことは、必ずしも公立校を幸福に導かないだろうから。
こんなの、一昔?までだったら、「そんなの過保護だろう」の一言で白い目で見られただけじゃないのか。

単に日常生活が快適になったことだけが理由ではないかもしれない。
これは程度問題だ。
ほんとうに過保護とは対極の方向に突っ走れば、戦前の軍隊みたいになるわけだろう。
もちろん、それがイイという人もいる。
だが、それがイヤだという人もいる。
さて、どうしようか。
多数決で決めようか。
え? 多数決じゃダメだって? なぜ? 子どもは快を求めるから、子どもの多くはイヤだと言うに決まってるじゃんかって? 決まってないと思うよ。みずから鍛錬を望む禁欲的な子どももいるだろうしね。
え? それでもやっぱり多数決はダメだって? なぜ? 日本人は日和見主義・迎合主義だから、幻想としての空気が採決を支配しちゃって、結局、正当に民意が反映されない結果を生んじゃいそうだから。
じゃあどうする?
「話し合い」で決める?
「話し合い」って何?
2ちゃんねると子育て より

「子育ては苦役だ」という言い方も「子育ては至福だ」という言い方も、どちらも正しいと私は思う。
苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。
それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。
そういうものである。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。

親による子どもの子育ての場合は、子どもが成長して出ていたら、それで基本的には終了であり、ちゃんちゃんであるが、仕事の場合は、こうはいかないわけなんだなあ。
「あらゆる仕事がボランティアだったらいいんだよ」と僕が思う理由もまさにココにあるわけでして。

一方で、優秀な仕事をしている人たちのことを思い浮かべてみる。
わたしの頭の中にはいま、一人の著名企業の技術者のことが思い浮かんでいるが、簡単のためここでは子育ての例になぞらえて解説したい。
その人はAという地区で保育所が足りてないことに気づき、その地区の保育所を増やすために懸命に励んだ。
そして、その励みは奏功して、その地区には十分な数の保育所が確保されるに至った。
Aという地区に保育所が十分に確保されることがもう間近という頃に、その人はすでにあることに気づいていた。
こんどはBという地区で保育所がまだまだ足りていないということを。
だから、Aという地区で保育所数が十分に確保されたことを祝う祝賀会の後、その人はすぐにBという地区に足を移してしまった。
これが優秀な人の典型であろう。

優秀でない、せせこましい人の典型はどうなるか。
そういう人は、まず、Aという地区に十分な数の保育所が完成することをなによりも怖れる。
だってそれは自分が失業することを意味するわけだから。
お前はもう用無しだと言われることを意味するんだから。
だからそういう人は、Aという地区に十分な数の保育所が完成することを、裏で阻止することを考える。
これは全体を知っている人間からすればとても滑稽なことである。
前に取り上げた住居の例で言えば、「みなさん家がなくて困っていますね。わたしが建ててあげますよ」と言って親切を装っておきながら、裏では部下に家々の破壊活動を命じていたとすれば、どうであろうか。
たしかに、そのようにすれば、自分の仕事がなくなることは半永久的に防げるだろう。
だが、それはもはや仕事というには値しないと言うべきであろう。
永遠に、自分の仕事のすべてが終了する日のこないことを、自分で保証しているわけであるから、それはもはや、仕事と呼ぶには値しないであろう。

失職の恐怖は誰にでもある。
重要なことは、自分のいまの仕事が一段落付きそうなメドが立つと、なぜかたちどころに次の「解決しなければならない問題」が見えてきてしまう能力を持っているということである。
そういうものが次から次へと見えてきてしまう体質であれば、なにも失職の恐怖におびえて、仕事に値しない仕事に従事するというばかげたことをしなくても済むのである。
であるからして、私たちにとって普遍的に重要な課題とはまさしくこれである。
自分のいまの仕事が一段落付きそうなメドが立つと、なぜかたちどころに次の「解決しなければならない問題」が見えてきてしまう能力というのはいかにしてつちかわれるのか。
いかなる場所でもこのことは重要な意味を持つであろう。
ありていに言えば「問題発見能力と問題解決能力」の前者、「問題発見能力」ということになるけれども、このおきまりの用語を聞いたところで、「はて?」となってしまうので、以上のような御託を要するのである。
問題発見能力とは、例えば以上のようなことである。

みずからの問題発見能力が乏しくて、かつ臆病だととりわけ、マッチポンプ的な、仕事ならざる仕事への誘惑に駆られることだろう。
特に、先行きのみえない、しがない一経営者にとっては、またとない朗報に映るかもしれない。
しかし、その誘惑にのることは、悪魔との契約を交わすことに近い。
この誘惑をいかにして断ち切るか。
人間の重要な何かが問われているような気がしてならない。
前回の続き。
英語のセンター試験指導はマトモ より

長文は、問いを先に読め、等と言うことはあるけど、でも、「捨てろ」なんて口が裂けても言わない。

捨てるっていうのは、つまり、捨てた内容に関して自分は一生学ぶつもりはないという意思表明だから、それを教育とは言わないということか。
それなら分かる。

そもそも、入試選抜なんてものは、全員が、「捨てるなんてことをしない」で評価された結果に基づいて合格不合格が決まるほうが、学校側にとっても生徒側にとってもありがたいものさ。
だからほんとうは、「捨ててまで合格したいのかよ!」って言われた時点で、「私は捨ててまで合格したくありません。」ときっぱり言い切るべきなんだな。
でも、生徒および親の中には、そう言い切らないことを選ぶ人たちが少なからずいる。
むしろ逆を望む。
「なにがなんでも合格したい!」
「どんなこざかしい手を使ってでも合格したい!」
そう、心底望む。
それにこんな問題もある。
「もし、ライバルがこざかしい手を使い、自分は使わなかった結果、ライバルは合格し自分は不合格ということにでもなってみろ。やりきれないではないか。」と。

一つ断っておくが、受験指導業界の多くは、合格・不合格後のケアまで面倒みてくれない。
彼らはあくまで、合格・不合格が人生における最重要項目であるかのように言い立てる。
それは少なくとも、塾側にとっては間違いではない。
しかし、生徒側にとっては、かならずしもそうではない。
かならずしもそうではないばかりか、むしろ、そうではない可能性のほうが圧倒的に高いのである。

小賢しい手というのは要するに諸刃の剣である。
たとえて言うならそれは、「使うごとに自分の寿命が少しずつ縮まっていく」悪魔との契約の上に成立する手段とでも言うべきものである。
使う=悪魔と契約した と見なされるのである。

もし、入試選抜において、隣の成績が同じくらいのライバルが、小賢しい手段を使う可能性がある場合に、自分は使わないことを約束できるだろうか。
受験生たちは、こういう意味においても、日々試されているのである。


さて、ところで、塾というのは何も受験生のためばかりにあるわけではない。
授業についていけない子をフォローする補習型の塾においても、試験対策問題というのは重要項目である。
そういう塾においては、試験対策問題を使わないというのは非常に難しい。
「やればできる」ことを体験させずして彼らに学習を継続させることはとても困難だからである。
ご案内の通り、勉強とは、いつもいつも「やればできる」わけではない。
やってもできないとき、人はやらないという選択をしがちだ。
私は、「やってもできない、それでもやらないといけない」ということを教えるのは、できの悪い生徒に対してであれ、できのいい生徒に対してであれ、同程度に困難だろうと予測する。
できのいい生徒は「やればできる」から(というか、やればできた生徒のことをできのいい生徒と呼ぶのである)、そういう問題にぶち当たらないだけである。
ほんとうは、できのいい生徒も、自分の天井にぶつかって、やってもできないという体験をしておくべきなのだろうけれど、残念ながら、多くの公立校では、そこまで手が回らないことが多いらしい。




私は塾が嫌いである。(ケンカを売ってるつもりはない。)

塾が嫌いなんじゃなくて、小賢しい手段を以て教育と名乗っていることが嫌いなんだと思う。
そう言わないと誤解を受けると思う。
学校の先生のなかにも、事前に自分がつくった予想問題を配ったり、あるいは、試験勉強は、これをやればいい、ということを堂々と告知する先生もいる。
そういう学校の先生たちも、おそらくは嫌悪の対象だろう。
ま、こう言うと「細かいところは推測したまえ」とくるから、手に負えないんだけれどもね(笑)。
ブログというのは、法的には出版物に準じる扱いだということを自覚された上での行ないであるのならば、わたしはもうこれ以上言わないさ。
そう思えないから、一々指摘するのよ。
最近は2chでさえ、名誉毀損的なことを書いたら書き込みもとを調べ上げられて責任を問われるのだ。
いわんやブログをか。
塾の先生を敵に回してなんのうまみがあろうか。
会議と書類の大学 より
彼らは大学に向かって「まっとうな教育研究をすることよりも、『まっとうな教育研究をしていることを証明する仕事』を優先させよ」と言っているのに等しい。

役人は、「何かを証明することのコストはゼロである」という前提に基づいて、いろいろなことを要求してくる。
けれども、実際には、あることを証明するにはコストがかかる。
ここに齟齬がある。
このコストを、コストとして勘定する習慣を役人たちが持たないのは、なぜだろうか。

そういえば、いじめ問題のときも、当該のいじめ問題を解決することよりも、いじめ問題があったかどうかを論議することのほうに、教委や校長以上の人たちは熱心であった気がする。
それはおそらく、教委や校長以上の人たちは、現場を生きているのではなく、現場を書類で捉える政治世界を生きているからであろう。

書類としか向き合わない人たちは、まずその書類が偽造でないことを、何よりも気にするのである。
だから彼らにとっては、それが偽造でないことが証明されることがいちばん重要なのである(だからハンコが好き)。

「百万円を使途を決める会議において、弁当代でその百万円を使い切ってしまった人たち」さながら、かくのごとき不条理はこんにちも繰り返されるのである。
そんなことをもう何十年も、もう何世紀も、何千年も続けてきたかしれない。
この種の不条理が解かれる日はくるのだろうか?
前回の続き。

共通点か。
あまりうれしくない。
だって、違うのに一緒くたにされてるわけだからね。
前にも言ったけど、ふじとジョナゴールドの違いについて語ってるところに、「ああ、りんごの話ね」という突っ込みを入れることは禁句である。
「だって、『ああ、りんごの話ね』って言いたくなっちゃうんだから」というのは、倫理的に通らない。
相手がいやがっていることをすることになるわけだからね。
構造的にはいじめの典型例である。

それからだね、似たような種類の批評がいくつも出るということは、そのような批評の妥当性が高いという風には推論しないのだろうか。
べつに多数決がいつも正しいとは言わない。
多数決が正常に機能しないときというのは、投票者の過半が日和見主義である場合においてだけである。
今の場合は、隣の人の投票結果を詮索することは無意味だし、突然あらたな投票者が参画する可能性があることから、上記の可能性は排除される。

もしそう推論しないのだとすれば、そのような、多数の批評をはじくだけの何かがあるということになるが、果たしてほんとうにあるのだろうか。

無根拠になにかを直観できることはすばらしい。
しかし、それは悪用可能である。

聞く耳を持たない人としゃべろうとは最初から思わない。
聞く耳を持てる可能性があると自分が信じられる人が、聞く耳を持たないかのようであるということが、最も厄介なのである。

ま、「科学と宗教の対立において、科学者が宗教家を小馬鹿にし、宗教家が科学者を小馬鹿にすることが、愚かなことではなくしごくまともなことだ」とする考えからは、私のような発想は出てこないだろうが。
けっきょくここをおさえにゃどうしようもないということか。
ここをなんとかクリアしない限り、話は進展しないということか。

「科学者も宗教家も、みずからの職業的桎梏を離れて、一市民として、一学者として、考えなければいけないことが存在する」というテーゼに、賛成してくれる人は少ないのだろうか。
そう思えるたびに、わたしはひどく慨嘆するのである。

わたしは基本的に、○○のところに、自分の役割をあてがい「私は○○です。だから…」と続ける人に違和感を覚えたためしが多い(いつもというわけではない)。
彼らがその責務を全うしようとする姿勢はすばらしいものだ。
けれども、彼らは「あなたは○○である以前にまず人間である」ということを忘れているかのようである。
べつに忘れてもいいが、ときどきは思い出すべきではないのか。
自分を客観的に見ることができない「「私は○○です。」は、社会的にも困ると思うのだが。

結局、この点に収束する話題において、彼らと一定の合意に至ることは、私が先方のどちらかの頭に、とてつもなく新しい発想が降臨しない限り、現状では非常に難しいと言わざるを得ないだろう。
私の煩悶はなおも続くのであった。
[ゴミ]生徒に通じたのかな・他ゴミ より

ゴミと印されている記事を引き合いに出すのはためらわれるが、下記に引用する内容は、なにも今回にはじまった話ではないので。
学校がダメになってると言うより、塾が教育を、生徒そのもの、人間をダメにしてるって、入学してくる生徒を見てると、とっても感じるんだけど。○○高校は ○○点で合格できるから、難問には手を付けず、易しい問題で確実に点を取るように、と言う塾の指導で、彼らはそれに洗脳されて入学してくる。だから、「先生、単語はどれを覚えるんですか」と来る。これ、基本的に同じ考え方である。--と言って通じれば良いんだけど。或いは、高校入学が人生最高の目標であるかのように言ってるようだ。(全てとは言わないけど。)で、入学後「ふぬけ」になる。


ま、素朴な感想としてはわからんでもない(だから愚痴なのだろう。というか、これこそまさに愚痴であろう)。
しかし、愚痴を聞いた人間としてはなんとかしてやりたいと思うのが世の常であるから(これは、自分で書いたものを読んで、「ああ、この人をなんとかしてあげたい」と思うことをも含む)、私もその例に漏れず、なんとかならんもんかと思うわけである。

まず言うと、塾の目的は矮小かつ明確である。
目的がはっきりしているから、やらなくちゃいけないこともすぐはじき出せる。
学習者はその目的に向かって、邁進すればよい。
塾の講師は、その邁進を手助けするのである。

学校教育の目的は壮大で茫漠としている。
目的がはっきりしていないから、なにをやったらいいのか分からない。
指導要領があるから、あたかもそれに習熟することが学校で学ぶ者の目的であるかように考えてしまいがちであるが、そうではない。
気楽に知の探検をする場が学校である。
「いついつまでに」「このことを」とかいうのは、ほんらいは無いのである。
宿題や定期試験は方便に過ぎない(さらに言えば、受験勉強でさえ方便に過ぎない)。
欲を言えば、「これをやれ」じゃなくて、「もっと勉強したい人は、これを当たるといいかも」と言うべきなのである。
現実には中学生も高校生も受験というものがあるから一筋縄にはいかないのだろうけれど。
でも、折り合いをつけることも、学校で学ぶべきことの一つだと思うよ。

なにが良いたいかって?
それはね。

たとえて言うならね、それは、科学と宗教の不毛な対立なんだ。
ある科学者は、科学でなんでも解決できると思いこんでいるばかりに、宗教を小馬鹿にしている。
ある宗教家は、宗教でなんでも解決できると思いこんでいるばかりに、科学を小馬鹿にしている。
このものたちの愚かなところは、自分の取り扱っている領域の適用範囲に関する自覚がないということである。

塾と学校の対立もこれに似る。
子どもらは、学校で学ぶようなことも塾で学ぶようなことも、学ばないといけない。
もちろん、その過程で、片方の学びがもう一方の学びを妨げるということが一時的にはありうる。
でもね、そこは「折り合いをつけろ」って話だ。
現に、現役の大学受験生全員が、学問の壮大さを忘れているわけではあるまい。
忘れていない一部の人たちは、どううまくやっているのか。
彼らは折り合いをつけているだけである。
折り合いを付けるのがヘタだと、受験合格後にふぬけになったり、学問の壮大さに浸るが故に定期試験の勉強をせずに悪い点を取ったりするのである。
え? ほんとうにできる生徒は、定期試験のための勉強をしなくても、学問の壮大さに浸るだけで良い点を取るって?
それは事実だ。
でも、それは、ごくごく一部の生徒だ。
ごくごく一部の生徒以外は、しかたないけれど、定期試験の勉強「も」するべきだと私は思う。
だってそうでしょ。
大人になって会社に入ってさ、あるプロジェクトを任されてさ、「いついつまでにしあげなきゃいけない」ってクライアントとの契約で決まっているのに、「私はそもそもこのプロジェクトの意義について考えているのだよ」なーんて呑気なことをいっている人になっても困るし。

あるときは近くの目標に向かって一目散に突っ走ることも必要。
たまには壮大なことを考えるのも必要。

どっちかだけが必要であってどっちから要らない、なんてことはないと思うがな。

#なーんで俺がこんな当たり前のこと言わなきゃならんのだろ。。
先生は物理嫌い? より
さて、今回のasahi.comの記事。「物理嫌いの先生、苦手意識を生徒に継承?」というもの。経済産業省の調査によると一般の人に比べて、教員志望者は物理を履修する割合、物理が好きな割合が大幅に低いというもの。その上で、
こうした結果から、物理が嫌いで教えるのも苦手と思われる先生が小中学生を教えると、物理嫌いの子を「再生産」する可能性があるのでは、とベネッセはみる。現役の先生への調査ではなく仮説ではあるが、「大学の教員養成課程で理科を教えるか、教員採用後の研修で理科教育の力量を高める必要があるのではないか」と提言している。(2006年02月20日11時05分)
と記事はくくっている。仮説とあるものの気になる。僕はいい先生にあたったので幸せだったかも知れないが、物理を嫌いな先生から教わればあまり物理は好きにはならないだろう。今後はきちんとした検証とこの仮説が正しいのであれば、その対策を打つべきだと思う。
元ネタはこれ(pdf)か。
主な調査項目:
1.教科の好き嫌いと理工学系統の関係について
2.高校における文理振り分けについて
3.大学の教育に関する学生の満足度について
4.女子の理工学系統への進学について
【調査結果の概要】
<教科の好き嫌いと理工学系統の関係について>
○ 理工学系統に在籍する学生(以下「理工学系統」)は、小・中学校時代に「理科の実験が好きだった」77.3%(平均64.0%)、「機械やものづくりに関心があった」7.4%(平均46.8%)と全体平均よりも10 ポイント以上高く、小・中学校時代の体験が大学の専門領域選択に影響する傾向が確認されました。
これはまあ普通だろう。
○ また、高校生当時に「物理」が「好き」だった学生が57.0%と多く(平均23.0%)、同系統への進学に大きく寄与するのが「物理」であることが確認されました。
なるほどね。
理工学系進学のかなめは物理ということか。まあ分からんでもないが、化学専攻の学生の中には物理嫌っていう人結構いるんだけどなー。
少数派なのかなー。
少数派だから物理ほどには大きく数値に上がってこないのかなー。
なーんて。
だって、化学って大きく分けて物理化学、無機化学、有機化学とあって、一般的にはこのうち、最後の有機化学はあまり物理の話が出てこないけれど、物理化学だと、物理学専攻のそれほどではないが、けっこう物理の話がじゃんじゃん出てくる。
単純計算で、物理学専攻者と化学専攻者がそれぞれ3人ずついたとして、化学は上の3つの分野にばらけていたとして、この全体で物理が結構出てくることをしている人の割合は4.5/6=75%だからおおむね3/4だ。
まあそんなもんか。
この場合における生物と地学専攻の取り扱いもほんらいは考慮したほうがいいけどとりあえずは割愛。
○ 一方、教育学系統に在籍している学生のうち、教員を志望している学生をみると、「物理」の履修率が低く、「好き」という回答が16.7%と低い結果になりました。このことから、「物理嫌い」の教員による指導が、「物理嫌い」を再生産してしまう可能性が考えられます
そりゃまあ教育学系統はね…。
しかたないよ。
教育学、とりあえず文系扱いだし。
でも理工学系統出身の教員で補填すれば、教育現場における物理嫌いの教員の割合は必ずしも減らないのではないか。

問題は小学校と(小学校教員の文理比率は50:50ではない)、あと中学高校においては、理工学系統卒の人が教育現場に来てくれるかどうかなんだな。
ぼくは実は最初、この記事を見て元ネタを見ない段階においては、一般企業への就職率の差が如実に反映している結果ではないかと踏んだんだ。
すなわち、物理専攻者は工学系扱いのため企業が比較的たくさん取ってくれるという恵まれた需給状況があるが、他分野ではそんなのないので、物理専攻者が企業に過剰に抜ける結果、教職のところにやってくる物理専攻者の人数が相対的に低くなっているのだと予想していたが、べつにそういうわけではなかったということか。
(あ、べつに職場として 企業 > 教職 だと言うつもりはさらさらない。ただ、物理専攻者で教員免許を取ろうと思う人の割合と、国文学専攻や音楽専攻や美術専攻で教員免許を取ろうと思う人の割合は甚だしく違っているらしいという事実は、念頭においておくべきだろう。)
実はほんとに一番最初にみたときは、「教員になろうとする人」に占める物理好きの割合と、「一般の人」に占める物理好きの割合に有意な差が出るという結果が出たということなのかと思ってびっくりしてしまったのだが。
「教員になろうとする人」=教育学部在籍者 という定義ならば全然不思議ではないわな。
理科の先生 より
体育の授業と理科の授業は似ていると思う。たとえば野球のルールや理論、投手と打者の心理、バットの振り方と打球の飛距離の関係をいくら勉強したところで実際の野球はうまくならない。だからといって、紅白戦ばかりやっても上達のスピードには限界がある。要は理論と実践、両方が必要なのである。

そうか。
これで長年の謎が解けた。
なぜ生徒指導教師の教科の第二位が理科であるのかを。
第一位が体育であることは直観的にも分かる。
だが、第二位が理科であることの理由がわたしにはこれまでなかなか分からなかった。
そうか。
体育と理科はともに「理論と実践(実験)を積み重ねる」という点において共通点があったんだな。
教科ごとの成績の相関をしらべるとおもしろいかもしれない。
体育の成績と理科の成績との間に相関関係が認められればおもしろいことになる。
もっとも、その場合、理科の成績算出においては、実践面の成績を過小評価しないなどの配慮が必要だろうと思われるが。
とりあえず安定だよね より
老人の蓄えが多いというのは行政の老人福祉に対する信頼が低いということである。
福祉が充実すればこの金が市場に流れ出て高額の消費財の購入に当てられる。

ところで前回の話の続きになるわけだけれど、老人が高額の消費財を買うということは、果たして将来に対して富を積んだ行ないなのだろうか。
俗に「無駄遣い」という言葉がある。
しかし、なにが無駄でなにが無駄でないのかに関する社会的な合意は必ずしもない。
車を庭に置いて眺めるためだけに購入する人がいても、それを以てただちに無駄であると断言することはできない。
だから、「節制」を強いれば、それは可処分所得の利用を抑えるということを意味するのだから、これは国内消費が下落することを高い確度で意味しているのであるが、「無駄遣いをやめること」を強いたら、同じ結果になるとは限らない。
もし、無駄遣いをやめることを強いた場合にでさえ、節制を強いた場合と同様の結果が待ち受けるのだとすれば、それは私たちの、物事の有用性に対する感覚がおそろしいほどに古典的かつ付和雷同的であることの証左でなくしてなんであろうか。
経済学的に言えばこれは、国民それぞれの効用関数が似通っており、かつその形状が古典的であるということを意味する。

ところで私たちの効用関数が、おおきな変更をきたす原因になっているものが、もしあるとすればそれはいったい何なのだろう。
私たちの効用関数が、相互に比較すると付和雷同的であるというのは、これは日本人の国民性によってある程度説明することができよう。
しかし、その形状自体が変わるということがあるのは、これはなんでであろうか。
端的に言えばそれは、「新たな喜びを見いだす」ことによって契機づけられているのだと考えることができよう。
車を知らない人たちにおかれては、車に乗る喜びを想像することはできない。
車に乗る喜びを想像することができるためには、車というものが現実またはフィクション上で成立していることがまず第一条件である。
そして、「車を乗り回している人を見る」というのも、付属的ではあるが重要な構成条件である。
ただ、車を乗り回している人を見たからといって、ただちに車に乗りたいと思うかどうかは別問題である。
すぐに乗りたいと思う人もいれば、しばらく経ってからやっぱり乗りたいと思い直す人もいるだろう。
要は効用とは、車を乗り回すことそれ自体から得られる効用と、車を乗り回している自分を客観視したときにそれが格好いいと思われるか滑稽と思われるかから導かれる効用との合算である。
車を知らない、または想像することができない人たちにとって、車に関する効用はとりえあえずゼロである。

ところで内需の拡大というけれど、内需がなかなか拡大しないというのは、それは人々がもう現状にだいたい満足できている証拠であるのだから、単純につくらなければいいわけである。
「もう満腹だ」と言っている人のくちもとに、なおも食物を運び続けるのは暴力以外のなにものでもない。


日本には空き家がたくさんあると言われている。
日本人全員が住めるだけの住居は、すでに日本国内に存在しているのである。
だからもうこれ以上つくる必要がない、とはならない。
やれ都会ではまだまだ家が足りないだとか、理由をこしらえては家をつくりたがる。
家をつくっている人は、家がつくられなくなれば失職するのだから、家がつくられなければ、無理にでも家がまだまだ必要であるかのような理由をこしらえてでも、家をつくろうとする。
それ自体は、個々人の純粋な動機に基づく行動としては、なにも間違っちゃいないだろう。
しかし、全体として眺めれば、まだ住める空き家がじゃんじゃん増えていっているわけで、滑稽なわけである。

養老孟司氏がかつて似たような事を言っていた気がするが、もし世の中の仕事という仕事が、一人の人間によって担われているのであれば、このような滑稽なことは起こらない。
家をつくる人が畑を耕す人をも兼務していたならば、家をつくる仕事がなくなっても畑を耕す仕事がある限り失職しないわけであるから。
もちろん仕事が一つ減ることによる収入減という問題はあるだろう。
しかしそれは、兼務している仕事の数が増えれば増えるほど問題ではなくなるというものである。
あらゆる世の中の仕事が必要なくなるということを私たちは想像することができない。

学校の清掃活動にたとえてみれば、私たちの社会で動いている仕事という仕事が、いかに滑稽であるかが想像がつくであろう。
廊下掃除が終わったのにいつまでも廊下掃除を続けるような人はいない。
すでにきれいになっているのにさらに磨き続けるというのは不毛なことだからだ。
すでに廊下がきれいになっているのであれば、まだきれいになっていない教室の掃除に取りかかればよいだけのことである。
ところが社会ではこうはいかない。
社会では仕事は明確に分業化されていて、廊下職人は廊下を掃除することで糊口を凌いでいるのであり、教室職人は教室を掃除することで糊口を凌いでいるのである。
金箔職人がある日突然紙漉職人になれと言われても、どだい無理な相談である。

学校における清掃活動が、全体としての滑稽さを回避できるのは、おおむね、「掃除という仕事はだれにでもできる」「だれがやってもたいして変わらない」ということに担保されている。
金箔職人と紙漉職人は、まったく異なった能力が要求されると思うし、そのために必要な修練も全く異なったものであろう。
しかし、廊下職人と教室職人の場合はそうではない。

つまり、社会に見られる滑稽さを放擲したいのであれば、社会の構成員全員が同じ能力を持っていることがポイントであるということになる。
当然ながら、そのようなことは難しい。
でもかつては(百年くらい前までは)、難しくてもいまほどの滑稽さはなかったように思う。
仕事において求められる能力というものが、だいたい共通していたからである。
田畑を耕して収穫を得る能力である。

ところが機械技術の進展により、世の中は滅茶苦茶になってしまった。
機械技術の進展による生産効率の上昇は、「一定の失業者を生む」ということを、必ず保証する。
失業者は、失業したままで黙っているわけにもいかないし、だれかに食わせてもらうわけにもいかないので、仕事を探すしかない。
しかし、人手はすでに事足りているのである。
学校における清掃活動のたとえで言えば、廊下拭きも教室の机拭きも靴箱磨きも、とりあえず人が足りているのである。
これが学校における清掃活動のような、ボランティア的色彩の強いものであれば、ほんとに仕事量が少ないということでない限り、人手が増えることは純粋にうれしいことであるから、歓迎されるであろう。
しかし、ことに仕事の場合は彼に相応の報酬を取らせねばならないから、いかなる雇用者も一定の躊躇を示してしまうのである。
だから社会における清掃活動業者においては、人手が足りているので新たな人を雇うことはできないという主張は妥当であって、失業している求職者はそれを呑まねばならない。
そこで求職者は次のような手を考えるのである。
ある求職者は、廊下拭き職人のところを言って、おもむろに肩を揉んであげる。
廊下拭き職人はそれが心地よいことに気づく。
このようなサービスを受けられるのならば、少しくらい対価を支払ってもいいと思えるような気分になる。
そこに契約が成立して、失業者は被雇用状態を回復する。
またある求職者は、これからは運動場を掃除することも重要だと言い出して、おもむろに運動場の掃除を始める。
また別の求職者は、教室掃きをしている者からほうきを強引に取り上げて、自分のほうが素早くきれいに掃くことができることを周囲にアピールしてみせる。
そのうち、自動掃除マシンを開発した者がこれを教室に持参して、これがあれば私一人でもすべての清掃の仕事をこなせると言い出すに至って、大部分の清掃従事者が失業するという事態に立ち至るのである。
これが、私たちの社会の縮図である。

これを「良い社会」と呼ぶか「滅茶苦茶な社会」と呼ぶかは大いに主観が関係する。
でも、私はこの「滅茶苦茶な社会」を、少しでも、より多くの人が「良い社会」と思えるように遷移させるにはどうすればよいかに、つねづね頭を悩ませているのである。
『太田光の私が総理大臣になったら』、「ニート対策禁止法案」より。元ネタはたぶんこれ。いまさらだが。

斎藤: はい、えーそうですね、働いたら負けだなと思ってるんで。 (会場騒然)

太田: 「働いたら負け」!?(苦笑)

斎藤: ニートは、働いてる人を、バカな奴だなと思ってるんで。

ラサール石井: 信念もってニートやってるってことだね。

斎藤: 僕は一生就職しないように頑張ってるんです。


斎藤智成: 申し訳ないって言われたんですけど、そうじゃなくて、親はニートに投資してるんですよ。

会場: 「エーー!!」 (沢田亜矢子、口をあんぐり、呆然)

ラサール石井: 投資して何かいいことあるの?

斎藤: それは出世払いで

会場: 「エー!」

  画面外の声: 「出世しないじゃない!」 「いつまで待ってんの」

斎藤: 平成電電みたいに、儲かんなくてゼロになる可能性もあるし、化ける可能性もあるんです。

ラサール石井: 化ける可能性があるんだ

斎藤: 1%でも、それが投資なんです。

ラサール: どんな化け方すんだよ

沢田亜矢子: 冗談じゃないわよー・・・(呆れる)



斎藤: もしニート対策があるとすれば、親が亡くなった後にお金でもらえれば、それはすごいイイ。

会場: 「エ~~~!!!」 (スタジオ全体が呆然)



西田ひかる【賛成】: 日本とアメリカの大きな違いは、18歳になったらアメリカは家を出て行くってのが当然で、もし実家に住む場合は、家賃払うのが当たり前なんですよ。

沢田亜矢子【賛成】: 家庭の教育もあると思う。やっぱり小さいときから、私のほうが先に死ぬし、最後に残って自分で生きていかなきゃいけないのはあなただよ、ってことはわりと小さい時からやっぱり言って聞かせて、自分は、社会に対して何かいつもアプローチするっていう手段を持ちなさいよ、持ちなさいよってことをしつこく言っていて。やっぱりお父さんお母さんは、彼らに小さい時からそれを言ってなかったっていうのは悪いと思う。

ここはアメリカではない。
また、アメリカのやり方のほうがいいという保証もない。

そして、小さい頃から言って聞かせても、大きくなってから考え方が変わることもある。
こどもは、必ずしも親が期待したようには育たない。
もちろん、学齢期に家庭が崩壊していたなどの場合、高い確率で子どもにも悪影響が出ることは実存的にも統計的にも知られているところだろう。

ただ、斎藤氏のようなニートは、そのような理由によって出現したのではなく、むしろ、正統的な学校教育の成果として生み出されたと言って然るべきであると私は考える。
現在のニートと幾昔か前の高等遊民は、構造的には同じである。
ただ、社会的評価が違っているだけである。
だから、考えた結果としてニートであることを選択するのなら、それは誰にも止めることはできない。



斎藤: ほっといてほしい。

太田: ほっといてほしいんだろ? だったら、カネが自分たちに使われてないなんてことを、文句言っちゃダメだよそれは。

斎藤: いや、だから支援されてないのにされたことになってるから

山本博: (納得して深くうなずきながら) はいはいはい・・・

太田: ダシに使われようが何だろうが、何の文句も言えないのが君たちのやってることなの。 それは文句言っちゃダメなんだよ。


たしかに勤労の義務は憲法において規定されているが、私はこれは、「私のやっていることは勤労である」と言えるだけの何かを見つけてきさえすれば、わりかし容易にクリアできる問題であると考えている。
現に、法の目をかいくぐって違法(違憲)すれすれのことをやる人間はこの世にごまんと存在する。
ニートの例だけが特例扱いとなる理由はない。

しかしこれは、実際問題としてすり抜け可能であるということを言ったに過ぎず、一般論として、憲法違反(27条違反)であるとのそしりをまぬかれ得るわけではない。
ではこの憲法27条の根拠はなんだろうか。
それはおそらく、「国家を保持し、運営するために必要な生産活動は国民が等しく分担しよう」というものではないか。
もし私たちが、誰も働かなくても食べ物が自動的に湧いてくる世界に生まれて落ちていたならば、私たちのうちの誰も、こんな条文は規定しようと思わなかっただろう。
かつて、日本国にとって勤労は大切だった。生産は常に不足気味であり、国民が一致して労働を分かち合わないといけなかった。

つまり、勤労の義務の根拠は、「生産が常に不足気味」であることに求められるのである。
ところで、こんにちの私たちの社会は、「生産が常に不足気味」であろうか。
まさか。
どこかしこも生産過剰である。
モノが過剰である。
サービスも過剰である。
つまり、この条文は、終戦直後や高度経済成長期に代表されるような「生産が常に不足気味」である場合のみに、有効な根拠を持ちうるということである。
すなわち、以上を鑑みる限り、こんにちにおいて、この条文は、それを成立に導く合理的根拠を欠いている。
働くことが美徳であり得るのは、働くことで食えるからである。
たしかにこんにちでも、働くことで金はもらえる。
それは、なにかを生産したのことの証明であるはずだが、その生産物は果たしてだれかの口元に届いているのだろうか。

もし、「生産したものの大半がだれの口にも届かない」ことが分かっていながら、それでも金をもらうという直接的な恩恵のために、はたらくことを拒否できないのだとすれば、それはなんと悲しいことであろうか。

世の中には、私がこの「悲しい」と表現したことを「将来への投資」であると言う風に片付ける人がいる。
今日だれも食わないかもしれないけれど、明日だれかが食うかもしれない。
あるいは、明日予定通り生産できないかもしれない。
そんなときのために、たくさんつくっておくことは必要なのだ、と。

たしかにそれは間違ってはいない。
しかし、その「将来への投資」らしきもののために、「現在の直接の満足度」が大幅に犠牲になることがあるとすれば、それは本末転倒と言わなくてはならない。
過労死などはその典型である。
なにも過労死は、度を超した低賃金ゆえに生じるものばかりではない。
百年後に誰かの口に届くご飯をつくるために、みずからの健康を害するほどまでに労働するのはいかがなものかと申し上げているのである。
百年後に誰かの口に届くご飯をつくること自体は、なにも一律に敵視されるべきものではない。
教育の営みなんてものは、半世紀後の私たちの社会的中枢を構成させるためにあるのだし、科学技術もまた然りである。
宇宙の果てがどうなっているかが分かったところで私たちの日常生活が激変する可能性は、とりあえずは低い。
でも、もしかしたら、半世紀後には、その可能性は今より高くなっているかもしれない。
昨今、本邦では基礎学問の研究が文科省の政策によっておろそかにされていると聞き及んでいるが、これは、文科省が「人智を超えた投資」という発想に関する認識を欠いていることによるものだろう。
人智を超えた投資は、こんにちでは根拠を欠く投資であるとして斥けられがちであるが、宗教的世界観が人々の行為規範を統制していた時代においては、かならずしもそうではなかった。
「神のお告げ」が根拠としての条件を満たした。
この「神のお告げ」というのは要するには誰かの直観なわけであるが、私欲に駆られた連中によって悪用される危険もある。
こんにちでは、悪用されるリスクを抑えることで、結果として、「人智を超えた投資」の有益性、直観の有益性が犠牲になっている側面がある。
もっとも、直観の有益性を担保しつつ、私欲による支配を回避できる方法もないわけではないと思うし、それをさぐる試みは現在もなお続けられているとは思うが。
要は属文的根拠と属人的根拠の使い分けの問題に帰するのだから。
あ、属文的根拠というのは、理由を説明する成文化されている文章の内容に説得力がある根拠のことであり、属人的根拠というのは、信頼されている特定の人が言うから説得力がある根拠のことある。

さて、話は、豊かな現代においても、勤労の義務を規定する憲法27条が有効である理由(この条文の正当性を支える根拠)は何かというものであった。
生産過剰である現代において、ニートなどの働かなくても食える人は、それでもなお、将来における富を積むという半分空虚な理由のために、勤労しなければならないのだろうか。
私はいまここに「半分空虚」と書いたが、実はこれが、勤労の義務が有効か無効かを分ける生命線なのではないかと考えている。

ぜんぶ空虚なんだったら勤労の義務は無効である。
ぜんぶ実存に帰するのだったら勤労の義務は有効である。
これは、誰の目にもおそらく明らかである。
すなわちこれは、こんにちにおいて、「勤労の義務の正当性を支える根拠はグレーである」と言うことができる。



原口一博【反対】: 採る側の経営者だったとします。 経営者だったらどういう人を採りますか?

斎藤: 能力の高い人ですね…

原口: ねぇ。 若い頃からトレーニングを受けて、やっぱりいろんなことをやってきた人を優先的に

斎藤: いやだから、帰国子女とかあるじゃないですか。 だからそのうちニートも、ニート10年ぐらいやった人材のほうが欲しいっていう・・・・ (会場笑い。西田ひかる失笑)

別室の田中裕二: (手をたたきながら爆笑) 馬鹿じゃないかコイツ(笑)。 「帰国子女とかあるじゃないですか」(笑)。 【隣りの女性も呆れたように爆笑】


帰国子女の例は適例ではないと思うが、ニートであること、ニートであったことの社会的評価が今後も変わらないという保証はない。
また、もし仮に、(国民の代表値的な)社会的評価が今後不変であっても、特定の人たちが市場価値を見いだすことになる可能性も十分にある。
この間、たしかクローズアップ現代で、ネットゲームが趣味の会社員が、仕事で忙しくてゲーム世界の通貨を稼ぐ時間が取れないから、誰かにそれをお金を払ってやってもらうという例が取り上げられていた。
そういうのを引き受けそうのは誰であろうか。
また斎藤氏自身は、最近は芸能事務所に登録されているようであるが、これも、ニートであるという肩書きが有効に活用された結果であると判断できはしないだろうか。

こういうことはよくある。
大学教員採用の口は減っており研究者の就職戦線は厳しいはずなのに、なぜか非正規ルート経由で大学教員になる人の数は増えている気がする。
政治家も、議員秘書経由でなく、お笑いタレント経由でなる人たちが増える。
それを最初からねらっている抜け目ない人間もいる。
ところが国や市町村のいわゆる制度設計者(ないし設計者の立場を想定する人たち)は、そういう「非正規ルート経由である種の職にありつく人たちが無視できない人数存在する」というこの当然の事実を、しばしば忘れたかのようである。
でなければ、番組中で斎藤氏の数々の印象的な言葉を聞いた人たちは、驚きさえすれ、唖然とするはずはないではないか。
私は「斎藤氏は自分で考える人だが、番組出演者の大半は自分で考えない人であった」と判断せざるを得ない。
(あ、もちろん彼らが本心ではない、演出である可能性もないわけではないが。
だとすればこの番組はかなり視聴者をばかにした番組であると言うことができる。
私自身は、一応、演出ではないだろうと信じているが。)
私が受けた英作文の授業

それで、定期テストではとにかく模範解答を覚えていく。

なんだよ、結局は先生が用意した「正解」を覚えるのかよ。あんたが最も嫌ってたことじゃんか!
ま、「成長した」ということなのかな。。

(実は、このブログの文章はほとんど独り言なのです。済みません。自分の思考の整理が目的です。)


仮に自分の思考の整理が目的だったとしても、それに随伴する効果として、他者を啓発に導くということがある。
その人にとってはただの独り言が、たまたま通りすがった他者を、ひどく啓発するということが、よくある。
いかなる独り言も、他者が読める可能性にさらされている限り、その読んだ読者を動かす、その読んだ読者を考え方を変える力を持っている、ということができる。

べつにだから責任を持てとは言わない。
それは、「ある小説を読んで人を殺したくなり実際にやってしまった場合に、その小説の作者が責任を問われるべきではない」のと同じことである。

私が気になっているのは、「自分の独り言が、他者を啓発に導いた場合に、どういう衝撃を受けるか」という点にかかわるものである。
社会の側から「お前には責任はない」と言われても、なんとなく責任があるような感じがする。
別言すれば、社会的責任はなくても道義的責任はあるのだ。

だいたい、書いたものを、「秘匿しておかず、ネット上でさらす」ということ自体、「ねえねえ、ちょっと聞いてよ」という、だれかに承認してもらいたい感情の裏返しである。
ほんとうに、自分以外の誰にも読んでもらいたくない書き物であるのならば、ネット上で公開なんてしないはずである。
論理的にはそうである。
つまり、多かれ少なかれ、ほんとうは読んでもらいたいのである。
厳密に言えば、「読んでもらいたいような他者にだけ読んでもらいたい」のである。

「ねえねえ、ちょっと聞いて。」と言われて、行ってみたら、「あ、お前には聞いて欲しくない。」と言われたら、どんな気持ちがするだろうか。
いい気持ちはしないはずだ。
でも、ぼくは、そういう傲慢なことをする人をそれ故にとがめることはできない。
ぼくも、そう言いたくなる気持ちが分かるからだ。
ぼくは、そう言いたくなる気持ちが分かり、同時に、そう言われると決していい気はしないという気持ちも分かる。
あるニュースサイトで、たばこ税増税断固反対 という広告が付いていた。
署名活動があることを知った私は、さっそく、たばこ税増税賛成の署名活動を行なっているページを探り当て、署名を済ませた。
たばこ税増税阻止を目的として支出されているはずの広告費が、たばこ税増税を促進するような個人の行動をうながしたわけであるが、これは、広告主におかれては、阻止不可能な代償として扱われていたということなのだろうか。
06.09.01 基礎学問は深層海流 15 
06.10.26 今日は授業をしました 6
06.10.28 選択種目・科目(と能力):追記修正色々あり 10
06.10.31 なぜ学校教育に「文法」がないのかという疑問 2
06.11.02 「いじめ」はいけない 24
06.11.08 ノートに書けば良いんだって、書けば。 8
06.11.09 教科書くらい持って帰れ。 6
06.11.20 何でもかんでも人間関係の時代 13
06.11.26 子供とコンピューターという道具 6
06.11.28 人生が「過程」であるワケ 2
06.12.07 役人と学者「最初に何々ありき?」 13
06.12.10 掲示板その3 5
06.12.10 学校教育の原理原則・追記あり 4
06.12.13 事務処理能力優越と創造性欠如の時代 4
06.12.19 「納得する」より「いいからとにかく、やってみろ」 19
07.01.04 賀正 34
07.01.14 痒いところに手が届く問題集 2
07.01.24 ノート愚痴 2
07.01.28 筆記体を書くとブロック体の理解が深まるのに 12
07.01.30 昔の女の子が文学部志望だったワケ 10
07.02.04 不味いパンと美味しい洋菓子のどっちが大切? 付加価値の時代 9
07.02.07 くどいようですが、書き込み式問題集 4
07.02.16 小テスト報告(と、文法に関わる所見(追記)) 2
07.03.17 「言い訳」という「自己主張」 2
07.04.07 高学歴化とサラリーマンとシステム化 2
07.04.25 予習をしてこない奴はフリーライダーだ 22
07.05.08 「普通」と「平均」のちがい
07.05.13 「伸び悩み」という幸不幸と人生の無駄 121
07.05.21 そのうちレス付けます 4
07.06.09 部活動と勉強の両立 2
07.07.16 掲示板(その4) 5
07.07.31 めっちゃ一生懸命に頑張って人並みかそれ以下の思い出 4
07.08.10 懐かしい?ブログ紹介 5
07.08.20 「普遍」を「具体」に当てはめる養老先生のアタマの良さ 11
07.08.25 納得していては勉強なんてできるようになるわけがない 22
07.10.20 勉強が出来るようになりたかったら 1
07.10.24 私の考える「絶対性」 33
07.10.29 新刊「ぼちぼち結論」 4
07.11.20 何でプリントなんだよぉ 4
07.11.30 「面白い」って(初めて)言われた(ゴミ) 10
07.12.08 「考える」ための2つの方向性(1) *
07.12.08 「考える」ための2つの方向性(2) 26
07.12.22 丸暗記は抽象思考を育てない 14
08.01.19 「集団と個の対立」のちょっと 2
08.01.29 「どうしたら彼を~するように説得できるだろうか」 6
08.02.08 師匠と呼べる人 6
08.02.18 何だかとんでもないことに 29
08.02.21 添削の是非 6
08.02.28 今日の説教・再 5
08.03.05 「法と教育は、実は相容れない」(タイトル変更、しかも追「々」記有り) 78
08.03.08 制服の役割は雰囲気作り 4
08.03.16 「ネイティブチェック」から「空気」(たぶんゴミ) 13
08.03.19 学校が生き残りを賭けて競っているうちに、教育が滅びる 2
08.04.29 やっぱり今は作業能力の時代ということね(これはゴミじゃない) 4
08.05.03 語彙を増やす方法 9
08.05.25 ピカソの「輪郭」(ほとんどゴミ) 16
08.05.29 掲示板(その5) 113
08.06.12 自立できない高校生 10
08.07.01 「持ちつ持たれつ」と「ギブアンドテイク」と「取引」 2
08.07.02 「頭がいい人」ってどんな人? 2
08.07.07 話が通じる、通じない 6
08.07.09 私にとっての「頭が良い人」 47
08.07.18 英語学習の羅列と抽象 8
08.08.28 「仮説」の楽しさ・面白さ 11
08.09.07 支援⊂指導 9
08.09.13 脳化→都市化→わかりやすさ(追記あり) 4
08.09.16 受験まっしぐら? 48
08.09.18 課題ノートと試験の出来 2
08.09.20 教育産業はキライ


その他

07.08.26 基礎力重視の普遍 4
08.02.16 小論文なんて止めちまえ 2

07.06.02 珍しく英語
10 07.07.22 「英語は前置詞で読め」 2
07.08.10 英語の読み方とアングロサクソン的考え方 4

 07.08.30 エライ先生が悪ぶってどうするってんだ 2
 07.09.26 「思い出作り」は個人でどうぞ 2
 08.02.27 そこまで来たかコミュニケーション 2
 08.07.20 紙代の節約法 2
 08.07.22 [ゴミ]黒板とホワイトボード 2
 08.07.25 [ゴミ]夏休みやらなんやらかんやら 2
 
07.11.23 学校の先生と塾の先生 8
08.01.20 学校教育の目的 5
08.03.17 「生徒」が「先生」以上になれないなんて 6
08.03.24 今は真の意味での「おばあさん」がいなくなった(追「々」記・訂正あり) 4
08.03.28 本当の勉強と試験対策は似て非なるもの 6
08.03.31 「具体的な目標がないからやる気が出ない」 4
08.04.10 採点が大変(ゴミ) 3
08.04.12 細かい校則 2
08.04.16 そこまでやれ! 2
08.04.19 講習の授業 4
08.05.24 「わかる」と「困惑」 4
08.05.25 行為の「目的」と「付随的に生じる結果」(多少追記有り) 16
08.05.31 「抽象」がもたらしてくれる想像力 4
08.06.20 ノートに本文を写すということ 4
08.07.05 ひらがな・カタカナくらいちゃんと書け 2

07.12.29 世間を牛耳るのは 0
アタマは良くなる! より

ちゃんと見たわけでないが、NHKの再放送で、100才を超えて中国語の勉強をしているお爺さん幼稚園の先生(?)などの話をやっていた。MRIか何かの写真で、ふつーの人の海馬は、5ミリくらいらしいのに、その人のは1センチもあると言う。海馬は記憶を司る。これまでは、年を取ると海馬はやせ衰える、つまり、新しい神経細胞が作られることがないというのが定説だったが、年を取っても成長することがわかったのだ。(ロンドンのタクシー運転手の海馬が年を取った人の方が大きいという検査結果もあるらしい。ロンドンのタクシー運転手は、道を覚える試験が大変なのだ。何かで読んだ。)


おもしろい事例である。
裏が取っていないので手放しで信じるわけにはいかないのだが。
しかし、これは前座である。

とにかく私は記憶力が悪い。抽象化能力と思考力はある方かもしれないし、読解力もある方だろう。でも、それに比べてとにかく記憶力が悪い。特に言語で表現すべき記憶力が悪い。とにかく覚えられない。
(自分で考えた論理でも忘れる。いきなりその場で説明することができない。笑)

 社会科の先生は、記憶力の強い人が多いようだ。「覚えるのに苦労をしたことがない。」と言っている人を知っている。わからないことを聞くと、たちどころに帰ってくる。コトバにもよどみがなく、素晴らしいものである。(こういう知人は実に有り難い。)しかし、この人、数学が弱い。だからか何か、論理的な話になると整合性に欠ける。(社会の先生には「独創的」な方が多いのはだからかと思う。)

で、私の社会科は、中学時代からもの凄く苦労をした。中一で地理、中二の歴史が大変だった。白地図を自分で書き、覚えることを全て書き込んで勉強をした。年表を自分で作ってすべて纏めて覚えるべきことを整理した。実に涙ぐましい努力である。教科書を読んだくらいでは覚えられないんだもの、しょーがない。。。その中学生の時に思ったのは、「中学の勉強でこんなに大変なのだから、高校に入ったら、私、どうなるのだろう? ついていけるのだろうか」だった。ホントに心配だった。でも、実際は、何とかなった。もちろん、高校に入っても、同じように大変な思いはした。しかし、振り返れば何とかなったようだ。
 不思議である。高校の知識量は半端じゃない。それでも、何とかなった。

 考えられるのはただ一つ、強調文中学の勉強があったから、私は高校の勉強ができたと言うことである。

世の中には、「私は記憶力が悪い」と堂々と叫ぶ人たちがなぜか一定数いる。
わたしは不思議でならない。
いったいなぜそれがお前に分かるのか、と聞き返したくなる。

思うに、「私は記憶力が悪い」と叫ぶ人たちというのは、「何かを覚えなくてはならない必要に迫られているにもかかわらず、様々な努力を施してもなかなか覚えることができなかった」という屈辱の経験に基づいて、そう確信しているのではないかと思う。
あるいは、上記女史の回想にもあるように、「他のさまざまな勉学に必要とされる能力に比べて、記憶能力は劣る」と考えられるがゆえに「記憶力が悪い」と判断している人たちも一定数いるようだ。

じゃあどういう人が「記憶力が良い」のだろう。
上述に基づく限り、それは、「覚えるのに苦労しない人」らしい。
しかし、思うに、そういう人は非常に稀なんではないか。
大部分の人は覚えるのに苦労する。
つまり、上述に基づく限り、大部分の人は「記憶力が悪い」ということになる。

私が興味があるのは、こういう記憶力の良し悪しを判定するボーダーラインがどこかということではなく、「なぜ、覚えるのに苦労する一部の人たちは、自分自身に、自分は記憶力が悪いんだ、という烙印を押したがるのか」ということについてである。

個人的感想を言えば、烙印を押してもなにもいいことはないと思う。
ひがむだけである。
ちぢこまるだけである。
そんなことをしている暇があるのなら、その時間を、覚えるための努力に割いた方がよっぽど生産的である。
よっぽど生産的であることが分かっているにもかかわらず、それでも烙印を押すのは、押したくて押しているわけではなく、押さざるを得ないから押しているんだ、という風に考えることもできる。

私は思うに、彼らは、「記憶力というものが存在するという信仰から逃れることができていない」ということなんではないか、と思う。
さながらそれは、自由意思を束縛する科学的根拠があるかもしれないと仄めかされるだけで、自身の自由意思がすでに少なくとも部分的には奪取されてしまったかのような錯覚に陥ることにも似て。
これは発想の転換かもしれない。
でも私は記憶力という神話を信じていない。
サヴァンの患者など特殊な例はあるが、そういう特殊な例を除けば、私は記憶力という神話を信じていない。


記憶は、ある年齢までは、コピーだが、ある年齢以降は、意味付けが重要になる。
意味付けさえちゃんとされていれば入るのである。
記憶力が悪いということを自称している人は、どこか、損をしている気がする。
いったい何に確証づけられてそう信じ込んでいるのか。
せいぜい、学齢期において友人よりものを覚えるのに苦労した、という程度のことでしかないのではないか。
だいたい、小中高で覚えなくちゃいけないことなんて、たかが知れている。
大人になって、社会に出たら、覚えなくちゃいけないことなんて、もっともっと増えるはずだ。
なぜ、大人にできて子どもにできない?


ちなみに、私自身は、記憶力が良いと思ったこともないし悪いと思ったこともない。
「そういう判断を、自分自身がすることはできない」ということを信じているからだ。

人は、その人の身体が欲している情報であれば、すぐに覚えられるしすぐに定着してなかなか忘れないけれど、その人の身体が欲していない或いは拒んでいる情報であれば、なかなか覚えられないし定着率も悪い。

もちろんこれには例外もある。
私のある中学校の先生は、英単語を百回書いて覚えられない人はいないと言った。
たしかに百回書けばよっぽどのことがない限り覚えられるのである。
だから百回書けというのは半分正論である。
そして、半分正論でない。

というのは、意義を感じずに不満げにただ漫然と写生していても、定着率は悪いからである。
人間は、自分の生命に貢献することでないと、なかなか、能動的には動けないようにできている。
これは人間に限らず、あらゆる動物でそうである。
この意味でいけば、ある単語を覚えたければ、「その単語は、自分の生命をいかしとどめる上においてどういう意味を自分に賦与するのか」ということを考えながら写生するのがよい、ということになる。
実際、私は、おそらくそうであろうと信じている。
人間には、スッと入ってきてなかなか離れない情報というのがある。
その感覚を自分で制御することができるようになれば、一番良いのだが、それはなかなか難しいことだ。
でも、それを目標に据えておけば、同じ「百回書く」でも、かなり楽しくなるはずである。
そのうち、ぼーっとしていてもある日突然「なにか書きたくなる」ような衝動に見舞われたら儲けものである。
書くこと、書いたものを見つめることを自分の命が、自分の指の筋肉が欲しているなによりの証なのだから。

以上のことが、神経生理学的にどれほど検証されているかどうかはさほど重要ではない。
それよりも、自分の主観的な感覚を操縦できるようになること、或いはそれを目指そうとすることは、勉学に行き詰まるがゆえに科学的な知見に依拠したくなる気持ちにまかせることよりも、ずっと生産的であることを、私は経験的に知っているつもりである(実践できるときもあれば実践できないときもあるが)。
そしてまた、同じような知識を体感的に得ている人が、私以外にたくさんいるであろうことも、同時に私は信じているつもりである。
そこまで来たかコミュニケーション より

①注射が上手で(要は、医療技術などの専門性、確実性に優れている)、笑顔がステキな(コミュニケーション能力が高い)看護師さん
②注射は下手だが、笑顔がステキな看護師さん
③注射は上手だが無愛想な看護師さん
④注射も下手で、無愛想な看護師さん
常識的には、①、③、②、④の順になると思う。
ところが、驚いたことに、今年は、②を選ぶ生徒が私の予想外にいたのである。
これは何を意味するのであろうか?


以上が問題提起である。

ときには、「この先生になら、この先生だから、私の命を預けよう」と思うことがあろう。これに大きく関わるのは、「先生の人柄」である。技術だけに人は自分の命を預けない。これも「人と人の関係」である。


たとえば、認定医の証明書は、当該医がすぐれた技術を持っていることを保証してくれるけれども、その技術を、患者にとって最も利益があるように行使してくれるかどうかまでは保証してくれない。
それは、あくまで医者の良心に委ねられているのである。

この意味で言えば、「技術だけに自分の命を預けない」のは当たり前であって、なんら不思議はない。
もし、技術だけに自分の命を預けるのだとしたら、掛かり付けの医者が心ない医者だった場合、例えば、リスクの高い療法の実験台にされてしまうかもしれない。
(患者の同意がなければできないとか、そういう問題じゃない。抜け道はいくらでもある。)
或いは、たくさんの患者を診すぎて疲れていたために、たまたま自分(患者)の番が来たときに、医者のやつが手を抜きやがったらどうか。
「この程度でいいよな。」という気持ちで、診られていたとしたら、どうか。

結局はそういうことなのだ。
医師免許証は技術の性能を担保するが、その行使が適切になされるかどうかまでは担保しない。
それを担保するのはあくまで、たとえば人柄、といったものでしかない。

 私が考え得る答えはこうなった。
 「コミュニケーション能力によって築き上げられた人間関係は、専門性の欠如による失敗をも凌ぐ大きな力を持っている。」

 たぶん、そのように「コミュニケーション能力」が、その他のあらゆる人間の能力の最上位にくると考える人間が出てきていると言うことではないか。


要は、患者のことを考えない医者が昔より増えているような実感を皆さんがお持ちになっているから、「患者のことを考える医者」の価値が上がっているだけのことだ。
器用だが何を考えているのかよく分からない医者よりも、不器用でも、患者である私のために懸命に尽くそうとしてくれる愚直な医者のほうが、重宝される。③より②を選ぶ生徒が一定数いたということは、たとえばそういうことだろう。

仮に、村に一人しかいない幼なじみの医者が、不器用だけれども患者のために尽くしてくれる医者Aであり、隣の隣の隣の村の医者が、高い技術を持っているけれども何をたくらんでいるか分からない医者Bだったとして、かつ自分が死にかけだとしよう。
どちらに命を託したいか。
たとえばそういうことなのだ。

「不器用な医者Aは、1/2の確率で注射に失敗する。器用な医者Bは1/5の確率でしか注射に失敗しない。けれど、医者Bは1/100の確率で、故意に薬液ではなく毒液を注射する。」ということが経験的に知られているときに、どちらに診てもらいたいかということだ。
たとえばそういうことなのだ。

医者が、患者のことを第一に考えてくれるかどうかを担保するのは、紙切れではなく人柄である。
もっとも、詐欺師の一部はその人柄をすら利用するので、それは当てにできない、という声もあろうかと思うが、患者は、人柄よりも良く医者の技術の用法を担保するものを知らないので、普通は、人柄に頼るよりほかないのである。
法との付き合い方を教えてはどうか#com5 より

以前、都立航空高専の非常勤講師をしたことがあるんですが、採用の時に、条例を遵守し云々、といったことが書かれた紙に署名して宣誓することを求められました。それで、条例の条文を見せろ、とやったことがあります。事務の人が都条例の分厚いファイルを持ってきました。大体どの辺のことを想定しているのかがわからないと、宣誓するわけにいかないですから。


江戸時代以前、日本では、刑法は成文法でなかったらしい。
「なんか良くわからんけれど、悪いことをしたら暗いところにいれられる」ということだったらしい。
なんとなくわかる。
そのほうが効果がありそうだ。
なまじ「これとこれとこれはやってはいけない」と言うと、「じゃあ、これとこれとこれ以外はやって良いんだな。へへ」という風に解釈する輩が必ず出てくるからだ。

では、成文法が基本の現在においては、かつての司法側の方策は通用しないのかというと、実はそうでもないのではないかというのが、今回の主題である。

法体系が成文化されていても、量が厖大であれば、事実上全部読むことは不可能となり、読めなかった部分については、「推測する」しかなくなる。

そういう事例は、なにも高専採用時にだけ起こるわけではない。ソフトウェアのインストール時に出てくる、チョー長い同意書をはじめ、「厖大すぎて読む気がしない契約書」は私たちの身近にあふれている。

それでも私たちが「それほど困らずに」「ある程度」やっていけるのは、読まなかった部分について、ある程度適切に推測ができているからである。
ここへきて、江戸時代以前より私たちの祖先がおこなっていたであろう「推測の技法」、すなわち、「なにをやったらしばかれんのか」ということに関する察知能力が、今もなお、ふんだんに発揮されている証拠であると言えよう。

契約社会はまやかしか。
日本には、契約社会を形だけ導入しても、実質的には導入できなかったということか…。
まあもっとも、「厖大すぎて読む気がしない契約書」に圧倒される経験は、なにも日本固有のものではないだろうけれど。

「法と教育は、実は相容れない」(タイトル変更、しかも追「々」記有り) コメント欄より
また、第二次世界大戦は、「場の空気」で決まったそうで。そこにいた人は、本心では誰も戦争なんてしたくなかったそうな。
その点、「王様は裸だ」と叫ぶ「子供」がいないのは、困ったことですよ。その子供には、ある意味「一貫性」があったのです。だから、言えた。
そうか。
御前会議に子どもが出席していたら、いやな戦争は避けられたかもしれなかったわけだ。
早く切り上げたい戦争は早く切り上げられたかもしれなかったわけだ。
なるほど。

王制では「道化」が、「裸の王様」における「子供」の役割を与えられていました。彼らだけは面と向かって王を笑いものにすることを許されていた。それは王自身に気付きをもたらします。
ほら、やっぱり。
いちばん現実味があるのは皇族のお子様、になるのかなぁ。
積極性と出来不出来

> 出来る生徒集団は、積極的である。何でも面白がってとにかくやってみる、ということをする。かたや、出来ない集団(←私が知る限りにおける相対だけど。)は、極めて消極的である。「はずかしい」「ひたすら躊躇」ときには「そんなばからしいこと、やってられるか」みたいな空気すらある。

> こういう反応の相違を「教師に素直かそうでないか」の観点で判断されることがある。

> 「面白がってやる」「素直に従う」という両者の判断基準には、もの凄い違いがある。

> 出来る子が素直に見えるのは、彼らは極めて積極的だから、やれと言われたことを否定しなだけの話である。

> だから、イヤイヤながら行うというより、積極的に面白がるのである。

> この点、中途半端な出来の生徒や出来ない生徒、まだ伸び代があるのに伸びないような生徒は、自分自身に凝り固まって、教師を受け入れない。すぐに、疑いの目で見る。「効果があるとわからないとしない」という、ヘンな目先の効率主義に陥っていることも多い。とにかく、自らがやってみて判断をする、という姿勢がない。だから、できない。


もちろん、人間は、すべてのことを、あらかじめやってみることによって、できるかできないかを判断するわけではない。
5階から飛び降りればどうなるかとか、いちいち「やってみて判断」していては命が持たない。

君子危うきに近寄らずという言葉がある。
と同時に、虎穴に入らずんば虎児を得ず、という言葉もある。

ある挑戦が、明らかに無謀である場合は、前者が適用され、無謀でなく見込みがある場合は、後者が適用される。
ある挑戦が、無謀か無謀でないかを決めるのは、何だろうか。
これは単なる費用対効果の問題だろうか。
達成可能性を、自分の能力や周りの状況との兼ね合いにおいて勘定して、その算出値に基づいてやるかやらないかを決める、という問題に過ぎないのだろうか。

5階から飛び降りることが無謀であって(「やってみなくても分かる」「だからわざわざやる必要はない」類のものであって)、教師の言うことを「まずはやってみる」ことが無謀でない理由について、達成可能性の勘定以外の側面から説明することができるだろうか。

私は、先生の言うことをまずはやってみる好奇心旺盛な子は、5階から飛び降りるとどうなるかという問題に対してもまた同じくらい好奇心旺盛であると判断するにしくはないと考える。
先生の言うことを特に疑わず、まずはやってみるタイプの子は、帰り際に道ばたで怪しいおじさんに唆されて付いていってしまう確率もまた高いのである。
彼らは、幼年期において、周囲の親族らの深い愛情に包まれて育っているために、疑心暗鬼になる必要性に迫られることなく学齢期を迎えることができた。
そしてそのために、「自分の旺盛な好奇心を抑制すべき状況がある」ということに関して無知である。

気になるのは、こういう「好奇心旺盛な子」「そうでない子」の比率は、昔と今でどれくらい変わっているのか、或いは変わっていないのか、というところである。
「読字障害と書道」からどんどん話が進んでしまった

> 昔だったら、ふつーの小学校の教育で十分に対応できたことではなかったのか。それなのに、わざわざ「専門家」のところに通わなければならないとしたら、なんという効率の悪さだろうと思う。

> 何かをやり始めたら、すぐに、その「直接的効果」を狙うかのような専門教育ばかりもてはやされるように思う。

> 「専門家」ばかり増やしても、一人一人がほどほどにバランスの取れた存在でないと、人は決して幸せになれないのではないか。

> 「専門家」を増やしたがる、作りたがる理由もわかる。(昔々の記事に書いたような。)「専門家」でないと「お金」が稼げない。「ほどほど」で使えるものであってもお金にならない。農家の作物が典型であろう。曲がったきゅうりや大きくなりすぎた茄子でも「食える」。でも、売れない。しかし、「売れる」ことより、「食える」ことの方がどれほど大事だろうか。「売れる米」であっても「食えない米」では困るのが良い例だ。

> 「生きていく」ことに関して、自分の周りにさまざまな分野の「天才」、つまり「専門家の極限まで行ったところの人」が100人いるより、人間としてふつーのことがふつーにできる人100人いる方が絶対に暮らしやすいと思う。

> 今の時代は、「専門家」たろうとすれば目指せる時代である。(専門家の養成にはカネと暇が掛かる。)でも、人が人類として生きていく限りにおいて、「専門家」はさほど必要でないのが真実であろう。必要でないとは言わない。だのに、ふつーの能力は蔑ろにしても「専門家」ばかりを増やそうとしているかのように思う。


専門家というのは、端的には、それで金を稼げるということである。
それは良いことのように捉えられがちである。
ある程度以上に極めないと、それで金を稼ぐことはできないからだ。
しかし、私は、必ずしも良いことばかりではない、と思う。

そもそも、曲がった胡瓜が、「売れず」とも「食える」のは、大量消費商品の顧客は商品を見た目(五感)のみで判断するが、曲がった胡瓜を作った農家の家の子どもは、見た目プラス「父ちゃん母ちゃんが作ってくれたものだから間違いない」という信頼において、その胡瓜の価値を判断する。

食えるが売れない商品というのは、判断基準に(私的)信頼関係を持ち込むことができない場合に、はじめて成立する。
逆に、それを持ち込むことができれば、私たちはそれを活用することができる。

料理店にて、見知らぬ顧客が残していった残飯を食うことができる店員はいないと思うが(何かに感染しているかもしれない)、自分の子どもが残した残飯を親は食べることができるだろう。その残飯の安全性に関する情報を、より多く知っているからである。


こう考えると、専門家というのは、どうにもこうにもいけ好かない存在であるかのように思えてくる。

専門家というのは、この世からさまざまな私的信頼関係が排除されてしまったときにはじめて活躍することができるからだ。
言い換えれば、専門家というのは、都会でのみ活躍することができる。
都会のような、流動性が高く、隣に住んでいる住人の人となりを知らず、匿名性の高い生活空間ではじめて威力を発揮できる。

専門家はそもそも、経済活動の発展に寄与するという目的で増産されている。
しかし、増えすぎた専門家は、その背景を離れて、流動性や匿名性の低い村落的生活空間を、都会的生活空間に変えたがるだろう。
自分たちの仕事場を得るために。
人々が互いに信頼しあえないところから利益が捻出される商売を、カタギの商売であると言うことができるのだろうか。

専門家は、その能力が特定の方面において秀でているという限りにおいては、確かに人類全体に寄与するところがあると思うけれど、それを生業としだすと、「人々が互いに信頼しあえないことのほうを喜ぶ」という本末転倒な事態を生み出すことにつながりかねない。


有史以来、いつの時代にも都市はあった(と思う)。
匿名性の高い都市という生活空間が成立したのは、なにも昨日今日、去年今年の話ではない。
問題は、程度なのだ。
匿名性の高い都市が、異様に求心力を誇りすぎている現状、まるで世界中のすべての地域が都市化することこそ市場経済における安定期を意味するのであるかのような現状こそが問題なのだ。
都市に高い求心力を与えている実体はなんであるのか、それは解除可能なのか、可能だとすれば私たちにはどういうことができるのか、ということを突き止めてゆく必要があるように思う。
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