分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

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さて,今回のネタは次のような話.

『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』p55-56

 学園ラブコメの定型的なストーリーパターンは,「満員電車の中でぶつかった男の子が(たいてい,その女の子が落とした定期券か学生証を彼が偶然拾ってしまうのですが),学校に行ってみたら,同じクラスに今日やってきた転校生だった」というものです.
 このストーリーパターンへの偏愛が意味するのは,「同一物への回帰による宿命の開示」と,その「宿命」がそれまで彼女を繋縛していた別の「宿命」を解除する,という物語を私たちが深く信じている,ということだと私は思います.


さて,どうでしょう?
皆さんどう思いますか?

私の意見を言います.
なんか言い回しが難しいっぽいので,それっぽく聞こえるのですが,私は,このストーリーパターンへの偏愛の理由としてこれを挙げることは,たいへんつまらないと思います.
なんというか,「かかる宿命の開示」と「それによる別の宿命の解除」というステップパターンは何も「特定の物語への偏愛」の理由説明のときだけに登場するお話ではないよね.
われわれが周囲の環境という世界を理解するときに,つねづね行なっていることだよね.
「おほっ,これはこうなっているのかな」と思った時点であなたにはすでに「或る宿命の開示」がなされているのです.
「なんだ,ちがうじゃねーか.」と思った時点で宿命は解除され,「そうか,こうなんだ.」と思った時点で,別の宿命が開示される.
なにもこれは,特定のストーリーパターンへの偏愛の理由として,取り立てて強調するべきことではない.

取り立てて強調するべきことは何か.
それは,偏愛される特定の物語というのは,私たちが環境世界に密かに期待していることの露呈に他ならないという事実です.
その意味では,(寝ている間に見る)夢の存在理由とかぶります.
私たちが偏愛する物語というのは,「寝ている間に見ている夢」を覚醒時において顕在化させ,共有化したもののうちの一つ,と言うことができましょう.
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