分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/19_0843.php

ジェームズ・エルロイが書いているように、警察の夢はすべての犯罪が「組織的」に行われることである。
人間社会が存在する限り、「犯罪が消滅する」ということはありえない。
次善の策は「犯罪が中枢的に管理されて行われる」ことである。
犯罪組織と警察が緊密な連絡を取り合い、ある程度共依存的関係を保つことができれば、国家体制の根幹を揺るがすようなカタストロフは回避できる。
犯罪を統御する組織的中枢が存在せず、さまざまな種類の犯罪が、さまざまな動機で、さまざまなタイプの人間によって、ランダムに行われるというのが警察にとっての「悪夢」である。
統制不能の犯罪はひとつひとつは微罪であっても、社会秩序そのものへの信頼を酸のように犯す。
だから、世界中どこでも警察は犯罪組織の存在を看過している(場合によっては支援さえする)。
それと同じ理屈で、公安警察は仮想敵国のスパイ組織が「ツリー状」の上意下達組織系列をもって活動することを切望するのである。


こうみてくると,警察にとっても,わたしたちにとっても,最も怖ろしいのは「雰囲気」だと言うことが分かります.

「微罪を犯してもいいじゃん」と思ってしまう雰囲気と思ってしまわない雰囲気がある.
「国内が荒れる」のも「クラスが荒れる」のも原理は同じな気がしますね.

学校の先生は,よりよいクラスづくりのために,よく,クラスのリーダー的存在の生徒を味方に付けるということをしますが,これも,クラスがすでに組織的に動いていれば,クラスがどれほどヤバい状態にあろうが,それに向けての行動は先生にとってたやすいということを意味しています.

「思ってしまう」か「思ってしまわない」かというこの些細な違いが,国政を揺るがすほどの惨事に発展することがあるといえば,いかがでしょう.

空き缶を捨てるか捨てないかにも同じことが言える.一つでも空き缶があると,「別に捨ててもいいか」と思えてしまう.一つも空き缶がないと,「やっぱ捨てるのはまずいな」と思えてしまう.
スポンサーサイト
続けてヒラカワ様のストーリーを読む.
U氏と阿吽の呼吸をしてこられたことが,(特に次のような文章からは)ひしひしと伝わってくる.

http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200705260000/

プロ=専門家というものがしばしば陥るピットフォールは、
素人が知らない裏事情に通じているといったことや、
一次資料や現場にあたってきたという経験の蓄積は、
事実を説明するためには有効であるが、
状況の判断や、将来に対する推論に対しては、
素人に卓越しているということをなんら意味していない
ということに対する自覚の欠如である。


私はこちらで,教師の専門性のなかには,生徒が本当に困っているのかそれとも困った振りをしているだけなのかを弁別する能力が含まれる旨,言及させて頂いたが,ヒラカワ様のかかるご主張が正しいとすれば,さきの私の言及はどこかがおかしいということになる.
どこがおかしいのかな~
U氏の友人のヒラカワ様という方のことがちょっと気になったので,ググってみる.
次のような文章が登場する.

http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200505090000/

市井の人間は、日々の生活の中で法律を意識しなくとも、法律の精神の内側でいきてゆけるものである。いや、そういったことを含意した上で法律というものは作られていると俺は理解している。
これは刑事訴訟法のみならず、すべての法律が法律として機能してゆくための条件である。もし法律というものが、人間が生きていくうえの最高の倫理を人間に要求したとすれば、裁判所の前には長蛇の列ができるだろうし、収容所に大半の国民が拘置さてしまうだろう。


ふむ.
どうやら以前に読んだ事のある文章である.
しかし,上の引用部は,以前に私が思わなかったことを私に教えてくれた.
それは,「改憲論者に対するU氏の反論のポイント以外のポイントが実は存在するかもしれない」ということである.
法というものは,「市井の人間は,それを特に意識しなくても自分のやりたいことの大部分を達成することができる」という命題を真にとどめおくという形で,はじめて成立する.
すなわち,法というものは,かかる命題が偽になりそうになると,すかさず自身(法)を変更し,かかる命題が真であるという条件が継続されることを死守する,ということをする.法の文面が移り変わっていく様子を「運動」と呼ぶことに同意いただけるならば,これは「法の運動法則」と申し上げてよろしいであろう.地球上の"物体"には「物体の運動法則」が働くのと同様に,人間集団が共有的に観念する"法"には「法の運動法則」が働く.

さて,先般より「護憲か改憲か云々」といったことが争点になっているのは,「理想の下方修正」にほかならず,そんなことをしていてはそもそも憲法たる意味がないではないか,憲法とは究極の理想だからこそ憲法なのである,というのがさしあたりU氏的主張だったと思うのだが,ここに,上で述べた,法の運動則なるメガネをあてがうと,また別の知見が見えてくる.

それは,「うわぁ,俺が俺の生きたいように生きるためには,このケンポウってやつが邪魔だよなぁ,本当にウットウしいよなぁ」と考える人間の割合が,閾値を上回ったという知見である.

人間は,邪魔物を見つけると,まずそれを排除しようとする.しかし,その排除行為が成功するのは,自分に力があったときのみ(自分の権力者性が充分に高かったときのみ)である.自分を取り巻く周囲の人間の過半が,「それは邪魔物である」という判断に与してくれない場合,自分の権力者性は充分に高くならないので,邪魔物を排除することを諦めざるを得ない.
ところが,もし,「それは確かに邪魔物である」という判断に与してくれる"同志"の数が一定数を上回ったとしたらどうだろうか.独りでは動かせなかった巨大な石も百人でなら動かせるかもしれない.かようにして,自身の邪魔物認定判断に共感してくれる同志の数が増えれば増えるほど,邪魔物を排除できる確率はあがる.

・・・
なぜ「現行憲法って本当にウットウしいようなぁ」と考える人間のパーセンテージがこれほどまでに増えてしまったのであろう.

わたしの身近な人間のうちで,「本国の兵も前線での人的協力をするべきだ」とマジで主張した人間は,今のところただ一人である.彼の話を思い出してみた.彼は「まず僕の話を聞いて.絶対に共感するから.」と自信満々であった様子がありありと思い出される.

わたしが思い出した限り,彼の主張をまとめると,次のようである:「国際社会において,みんながAに行こうと言っているのに,日本だけ,ボソボソっとわけのわからぬことをぶつやきながらBに行くという選択をしている.日本は国際社会とまともなコミュニケーションができていない」

わたしはこの話を思い出して,とっさに,U氏の「酒の席」の話を思い出した.
U氏は,飲み会の場で,自らの健康を気遣って会食していると,飲み会での会話を楽しめなくなるので,「自分は自らの健康を犠牲にしてでも飲み会での会話を楽しむのだ」ということを選択した,というようなことを語っておられる.
さて,この判断基準を,「国際社会における日本の役割」という文脈に当てると,どうであろう.「日本は,自らの健康を犠牲にしてでも(日本兵が前線で戦死するという犠牲を払ってでも),国際社会を構成するみんな(他国ら)との会話(コミュニケーション)を楽しむ(円滑にする)べきだ」という主張が存在しうることを認めざるを得ないのではないだろうか.

論理的にはそうである.
私の意見を言おう.前者の主張と後者の主張は,同じ論法を採用しているから,その論法における非を指摘することを以て突っ込みを入れることはできない.では何を以て突っ込みを入れるか.それは,制約条件の違いである.前者・後者とも,一定の犠牲が発生している.前者の犠牲は,具体的には「ちょっと太ってしまう」「肥満によって或る種の病気に罹り易くなる」というものであるのに対し,後者の犠牲は,「日本人が戦死する」というものである.「前者の重みと後者の重みは,つきとすっぽんほどにかけ離れているであろう」という私の主観的判断には,同意していただける方は多いのではないかと思う.

日本は,「『日本人が戦死する』ということをもう二度と繰り返してはならない」ということを,文化継承の一徳目として登録した民族なのである.
「何を文化継承の対象とするか」は,「各民族がどのようなことに許しがたい憤りを覚えてきたか」ということに対応して決定される.

「わしらの民族では,『Aということをやってはいかん』ということを,文化継承の徳目に登録しとるんじゃ.」

過去の人々の血と汗と涙のもとに創成された遺産である「文化継承」に登録されている一徳目を,たかだか「国際社会での『付き合い』」のために,それを手放すことが,どれほどクールかつロジカルな判断であると言えるだろうか.

「これはわしらが涙して守り通してきた遺産なんじゃ.これだけは譲るわけにはいかんのですよ.な,なんとか理解してくだせえって.」

それで理解をしようとしないとすれば,そういう態度を示す他国自体もまた,或る種の"付き合い"のポテンシャルに欠けた行動しか採ることのできない「心の貧しい国」とのレッテルを貼られたとしても,あまり文句は言えないのではないか.

かように,ここで言う「心の豊かさ・貧しさ」とは,相手の気持ちをどれだけおもんぱかることができるか,推し量ることができるか,というその度量のうちに汲み取られる種類のものであるので,そのような態度を示せないことは,「大人なコミュニケーション」ができている,とは,ちょっと言えないのではないか.


はい,少し論点がずれたようだ.え? 何が論点かって? それはね・・・・・・
重要なのは,「これはわしらが涙して守り通してきた遺産なんじゃ」ということが,後代の者にどれだけ伝わるか,という点である.
人は常に,これにまつわる葛藤をその内部に抱え込む存在である.
「この遺産は,なにやらじいややひいじいが涙して守り通してきた遺産らしいのだが,俺にはこれのありがたみがさっぱり分からない.むしろこんなものは俺がやりたいことをやるには邪魔なんだけど…」というような葛藤である.
「『俺』はじいやの言いつけを,もはや守る必要はない」という結論をくだして且つ疚しさが残らないための,一つの納得のし様は,「爺やの頃とは,時代が違うんだよ」というものである.

「爺やの頃とは,時代が違うんだよ」なる論法が説得力を持つ世代と,そうでない世代がある.そして,「爺やの頃とは時代が違うから」という理由の合理性を心から納得できる人間は,おのが爺やがともすれば命を賭して守り抜いてきた「遺産」をともすればあっけなく手放してしまう.それがディクタトール的英断だと信じているからである.実際,ローマ時代のディクタトールの存在意義はまさに「この種の英断が国益に供することがある」ということを人々の多くが信じていたからにほかならない(←註:素人なので史実的におかしい点があるかも).
「俺が俺の直観に基づいて決める」ほうがいいのか,それとも「爺やたちが語り継いできた判断基準の何がいいのかは自分にはさっぱり分からないのだけれど,"俺の爺やが言うんだから"きっといいことがあるのだろう」として,自分の直観のほうを棄却するほうがいいのか.

いま私は「俺の爺やが言うんだから」というところを,敢えて強調表示にして伏線を敷いてみた.その回収はこうである:「俺の爺やが言うんだから」という理由が説得力を持つための条件は,「家族型互助組織」が重要であるという認識があること(意識的・無意識的かを問わず)である.かかる互助組織が重要であることは,かかる互助組織しか存在しなかった時代においては,本命題はただちに真となる.しかし,「他の互助組織(例:プライベートな互助組織)」ないし「契約型組織」が世の中に出現すると,われわれは,異なる複数種の組織間に,重要度の比重を割り当てるという作業を無意識のうちに行なうようになる.

「俺は家を出てきた.なぜなら俺は家に愛想を尽かしたからだ.俺の家族は崩壊している.家に戻ったってもういいことなんてないことは分かっている.俺は,家族が言う事よりも,俺が学校や職場で築いてきた「プライベートな互助組織」における人間が言う事のほうが,俺にとってはよっぽど分があるんだ」というような人は,半世紀前には,あまりいらっしゃらなかったのではないかと思われる.こういう類型,すなわち,「家族型互助組織の重要度を相対的に低く割り当てる」という選択をした方々の割合が,対人口レベルで無視できないほどに増えてくると,「自分の直観を棄却する事をせず爺やの言いつけのほうを棄却する」という選択をなさる方が増える.これは,護憲・改憲の話とつながってくる話ではなかろうか.

「都合のいいお話」というのは大抵,「もしそのことが顕わになると,判断の結論が覆りかねないような事実」を巧妙に隠蔽することによって形作られる.
その意味では,あい対する論者の攻防では,その相手が語る言動に内在する論理上の綻びを指摘する事や,そこで取り上げられている事象の非現実性を指摘すること以上に,「『巧妙に隠蔽された,ともすれば相手自身もそのことに気づいていないかもしれない事実』の存在を確定する」という指摘を行なうことのほうが,しばしば決定的に肝要である.
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070620it14.htm?from=top



 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったことを理由に、定年後の再雇用を取り消された東京都立高校の元教諭ら10人が、都を相手取り、再雇用職員としての地位確認などを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。

 佐村浩之裁判長は「式典で起立、斉唱することは儀礼的な行為で、思想・良心の自由を侵害するものではない」と述べ、斉唱を命じた校長の職務命令を合憲と判断。命令に反した原告を再雇用しなかったのは、都教委の裁量の範囲内で適法として、請求を棄却した。原告側は控訴する方針。

 都教委は2003年10月、式典で国旗の掲揚と国歌斉唱を教職員に義務づけ、校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問うとする通達を出した。この通達を巡っては、約400人の教職員が原告となった別の訴訟で東京地裁が昨年9月、違憲判断を示している。今回の判決は、都の通達に基づく職務命令を合憲とした初の司法判断で、正反対の結論となった。

 原告らは04年~05年、勤務する都立高校の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、再雇用を取り消された。

 判決は、最高裁が今年2月、音楽教諭に国歌のピアノ伴奏を命じた職務命令を合憲とした判断を踏襲し、「職務命令は教職員全員に発せられており、内心の精神活動を否定するものとは言えない。公務員の職務の公共性を考えれば、必要な制約として許される」と、合憲判断を示した。

 また、再雇用の取り消しについても、「一部の教職員が起立しなければ、式典の指導効果が減殺される。違反行為が将来も繰り返される可能性が高いことなどを考えると、再雇用を取り消しても著しく不合理とは言えない」と述べた。




なんかアホらしいよね.
いや,いっちゃ失礼なんかもしんないけれど.

なにがアホらしいと思うか.
「国家斉唱時に起立するか否か」が,或る種の人格(?)を選別することのできる極めて重要な行動指標であると捉えられている点が.
そんなに重要な行動指標なんでしょうか.
「子どもに示しが付かない」というのは分かる.
でもね,「教師がそういう行動を取らないと,子どもに示しが付かない」という命題に対する事例は何も,「国家斉唱時に起立するか否か」だけではないよね.
なんぜわざわざ,ことさらにこの「国家斉唱時に起立するか否か」なる話題が"選択的に"報道されるのか?
それが面白いから?
それはあるかもしれん.
でもそれだけやったら週刊誌と変われへん(註:週刊誌を野次る意図はありません).
新聞に載るくらいやから,他にも理由があると思う.
なんやろね~


> また、再雇用の取り消しについても、「一部の教職員が起立しなければ、式典の指導効果が減殺される。違反行為が将来も繰り返される可能性が高いことなどを考えると、再雇用を取り消しても著しく不合理とは言えない」と述べた。
いや,言ってることは間違ってないよ.
うん.
裁判所の対応は正しいと思う(多分).
でも,なんていうかな,「意地張りすぎ」っていうか,「10歳に満たない兄弟同士の喧嘩で,どっちが飴ちゃんを盗ったとか盗らんかったとかいう騒ぎをおさめるために裁判を起こしたような」感じがしません?

「あんたらはそんなことに労力を割けるほどに呑気で優雅な方々なんだね,うらやましいなあ」と嘲笑を食らっても文句は言えないのではないか.

私の身の回りに,このような教職員の人(公立教職員でこういうときに起立しないことを選択する人)は居ないのですが,「どういう心を持っていたらそういう選択ができるのか」についてちょっと考えてみよう.

まず,かかる教職員がバカではない(=どういう行動が自分のクビをかけることになるか自覚している)と仮定する.
その上で,そういう判断をするということは,「クビをかけてでもするべき価値がある」と当人が思っているからに他ならない.
「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思っているからに他ならない.と思う.

なぜ彼らは,「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思ってしまうのか.
すぐさま思いつく理由は,それが戦前の軍国主義における「上意下達的構図の徹底性」と相似形をなすので,その相似形をつたって我々がかかる戦前の主義にまで行き着いてしまう可能性について危惧しているから,というものであろう.

しかし,「上意下達的構図の徹底性」のみを以て,かかる事況に問題有りとするのはいささか早計である.
例えば,厳しめの運動部とかでもそういう構図は見られるであろう(他にもいっぱい例はありそうである).
どうして厳しめの運動部にみられる構図がみちびく かかる危惧への可能性についてはさしたる憂慮をしめさないのに,かかる斉唱がみちびく同可能性については非常な憂慮をお示しになるのか.

この問いに答える方法の一つとして,私は「象徴性の導入」を提案してみる.

ここでいう「象徴性」とは,その行為が,どれだけ多くの,また,どれだけ深みのある「感情」をひきずっているかに相関して立ち上がる概念である.

ここで「感情」とは,(1)どうすれば幸福になれるか,(2)どうすれば不幸になれるか,ということに関する情報のうち,人類的に文化的継承の対象のなったものすべてを言う.
(1)の例(というか慣用表現):「このような喜びは永遠に後世に語り継ごうではないか」
(2)の例(同上):「もう二度とこのような過ちは犯すまい」
芋づるにおける「つるのでかさ」とでも言うべきか.
「君が代斉唱」という芋を引っ張ると,ずるずると次から次へと過去の文化継承的ストーリーがたーくさん引っ張りだされてくる.そして,その一つ一つが「重い」.
一方,「厳しめの運動部」という芋を引っ張ると,君が代斉唱のときほど「重い」ものは出てこないし,また出てくるつるの長さも短い.

君が代斉唱は象徴性が高い.
厳しめの運動部は象徴性が低い.

まとめよう.
構図が持つ「上意下達の徹底性」からただちに戦前の主義が想起されるわけではない.
(「上意下達の徹底性」はどちらかというと,君が代斉唱という芋から引っ張り出されてくる一つのつるに過ぎない.)
根深い象徴性のゆえに反対する人が出てくるのである.

最初のほうの問いに答えておくと,これは推測だが,おそらく「そういう選択をする先生」は,「自分のクビをかけてでも,戦前の主義を想起してはならない」ということを,生身の身体を差し出してご主張なさっているのではないか.
なんと頼もしいことであろう.

しかし,「生身の身体の差し出し」という勇断に対し,司法の判断は冷酷であった.
司法の判断は正しいっぽい.
一方,勇断された先生方の判断も「正しいっぽい」.
成文化されたところの記述には矛盾がないのに,なんとなくどこかに矛盾がある気がするのはなぜだろう?

ん? まてよ.
かかる勇断をする確率が高いのは,少なくとも若い先生ではなさそうだよなぁ(戦前のことを身を以て知らないから).
斉唱しなかった先生方に,年齢の偏りはあるのだろうか.
興味深いところである.
こちらで発した話の余談として発展した話をこちらに書く.

自分で発した問いに対する一つの答えですが,「自分のおメガネにかなった商品を買うことに対してケチをつけない人間」(例1:オタク,例2:豪奢な商品を買う富裕層)を増やすという仕方で実現されれば,すべての人が幸せになることができる(経済発展を阻害せず,文化継承を阻害せず,周りがみんな自分みたいな人間でも世の中が困らずという嬉しいことだらけ)と踏めますが,いかがでしょう.
経済的停滞(非発展性)は,詩歌を吟じ庭で取れたきゅうりを囓り学問を楽しみとする人間が増えるから起きるのではなくて,カネがあるのに使わない人間が増えることによって生じるのではないかと思います.その意味では,「カネを持たずして考えることをよろこんでいる人間」は,いくらいても害にはならない(経済発展を阻害しない)と思います.
でも今の世の中そうじゃないんですよねぇ.「不安」だから貯蓄によってそれに対処する.カネがあるのに使わない人間がそういう判断をするのにもちゃんとした理由があるわけです.
う~む…
聖書によれば,お金儲けをすることをいけないことだとは言っていないようです.ただ,その儲けたお金をどのように使うかということに関しては,もの凄くシビアです.ここで「いかなるカネ稼ぎも,その使途がはっきりしていて,その使途がいかがなものか的なものでなければ,許される」ということが分かります.
しかし,ここで我々が直面するのは,「突如発生する需要」に対して蓄えを持つことは,いけないことか?という投げかけに対してどのように答えればよいかです.
突如発生する需要が多いと見込まれれば見込まれるほど,人々は蓄えを持つ方向に行動します.
だから,人々の不安を解消してカネが市場に投じられるようにし向けるには,「突如発生する需要はほとんどないよ」ということを皆さんがお信じになることが必要です.

ここで重要だと思うのは,ある自分が持っているカネを,「のちのちに自分の身に降りかかるかもしれない突如発生する需要」のために貯蓄するか,「すでに特定のいかがなものか的でない明確な使途の下にカネを必要としている人」に分け与えるか,という判断を,突きつけられたとき,どうするか,という問題です.
こういう問題に対し,大多数の人は,「前者の回答を下しつつ,自分の倫理性を担保する」というおいしい立場にあやかるために,次のような説明をするでしょう.

「あなたの使途は,いかがなものか的使途である」
「あなたの使途は,明確な使途でない」

こう考えると,問題は,本質的には次のようなことにあることが分かります:(1)一定の資金を,複数個ある使途のうち,どれに割くか(2)どのような使途が優先されるべきであるか(どのような使途が,よりいかがなものか的でないと言えるか)

分からなくなってきた.整理しよう.
「自分たち(すなわち,自分及びその家族,親族,親友ら)の将来が不安だから,来るべき突如発生する需要のために,いまカネを市場に投じることを保留する」という行動選択の合理性を破棄させる(破綻させる)にはどうすればよいか,というが元々の問い.
ここで私は「複数個ある異なる使途のうち,どれが優先されるべき使途であるか」という問いに還元してこの問題に当たろうとした.

そしてその「優先度を定める指標」(定義)として,「突如発生する需要のために」という使途の順位を低く抑え,かつ,各個人の合理的な行動選択を妨げないようなものを選択することができれば,なかなかに私たちは幸せになることができるのではないかと考えています.
# そんな指標はない,だから探すだけ無駄だと考えるのも一意見でしょうが,私は,その指標を探すこと以外に「みんなが幸せになる」方途はないと考えています(あればぜひ教えて欲しいといういつものパターンw).
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。