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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

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[叩かれたり、誤解されたりすることは心の栄養]の続きを読む
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前回の続き。

共通点か。
あまりうれしくない。
だって、違うのに一緒くたにされてるわけだからね。
前にも言ったけど、ふじとジョナゴールドの違いについて語ってるところに、「ああ、りんごの話ね」という突っ込みを入れることは禁句である。
「だって、『ああ、りんごの話ね』って言いたくなっちゃうんだから」というのは、倫理的に通らない。
相手がいやがっていることをすることになるわけだからね。
構造的にはいじめの典型例である。

それからだね、似たような種類の批評がいくつも出るということは、そのような批評の妥当性が高いという風には推論しないのだろうか。
べつに多数決がいつも正しいとは言わない。
多数決が正常に機能しないときというのは、投票者の過半が日和見主義である場合においてだけである。
今の場合は、隣の人の投票結果を詮索することは無意味だし、突然あらたな投票者が参画する可能性があることから、上記の可能性は排除される。

もしそう推論しないのだとすれば、そのような、多数の批評をはじくだけの何かがあるということになるが、果たしてほんとうにあるのだろうか。

無根拠になにかを直観できることはすばらしい。
しかし、それは悪用可能である。

聞く耳を持たない人としゃべろうとは最初から思わない。
聞く耳を持てる可能性があると自分が信じられる人が、聞く耳を持たないかのようであるということが、最も厄介なのである。

ま、「科学と宗教の対立において、科学者が宗教家を小馬鹿にし、宗教家が科学者を小馬鹿にすることが、愚かなことではなくしごくまともなことだ」とする考えからは、私のような発想は出てこないだろうが。
けっきょくここをおさえにゃどうしようもないということか。
ここをなんとかクリアしない限り、話は進展しないということか。

「科学者も宗教家も、みずからの職業的桎梏を離れて、一市民として、一学者として、考えなければいけないことが存在する」というテーゼに、賛成してくれる人は少ないのだろうか。
そう思えるたびに、わたしはひどく慨嘆するのである。

わたしは基本的に、○○のところに、自分の役割をあてがい「私は○○です。だから…」と続ける人に違和感を覚えたためしが多い(いつもというわけではない)。
彼らがその責務を全うしようとする姿勢はすばらしいものだ。
けれども、彼らは「あなたは○○である以前にまず人間である」ということを忘れているかのようである。
べつに忘れてもいいが、ときどきは思い出すべきではないのか。
自分を客観的に見ることができない「「私は○○です。」は、社会的にも困ると思うのだが。

結局、この点に収束する話題において、彼らと一定の合意に至ることは、私が先方のどちらかの頭に、とてつもなく新しい発想が降臨しない限り、現状では非常に難しいと言わざるを得ないだろう。
私の煩悶はなおも続くのであった。
[ゴミ]生徒に通じたのかな・他ゴミ より

ゴミと印されている記事を引き合いに出すのはためらわれるが、下記に引用する内容は、なにも今回にはじまった話ではないので。
学校がダメになってると言うより、塾が教育を、生徒そのもの、人間をダメにしてるって、入学してくる生徒を見てると、とっても感じるんだけど。○○高校は ○○点で合格できるから、難問には手を付けず、易しい問題で確実に点を取るように、と言う塾の指導で、彼らはそれに洗脳されて入学してくる。だから、「先生、単語はどれを覚えるんですか」と来る。これ、基本的に同じ考え方である。--と言って通じれば良いんだけど。或いは、高校入学が人生最高の目標であるかのように言ってるようだ。(全てとは言わないけど。)で、入学後「ふぬけ」になる。


ま、素朴な感想としてはわからんでもない(だから愚痴なのだろう。というか、これこそまさに愚痴であろう)。
しかし、愚痴を聞いた人間としてはなんとかしてやりたいと思うのが世の常であるから(これは、自分で書いたものを読んで、「ああ、この人をなんとかしてあげたい」と思うことをも含む)、私もその例に漏れず、なんとかならんもんかと思うわけである。

まず言うと、塾の目的は矮小かつ明確である。
目的がはっきりしているから、やらなくちゃいけないこともすぐはじき出せる。
学習者はその目的に向かって、邁進すればよい。
塾の講師は、その邁進を手助けするのである。

学校教育の目的は壮大で茫漠としている。
目的がはっきりしていないから、なにをやったらいいのか分からない。
指導要領があるから、あたかもそれに習熟することが学校で学ぶ者の目的であるかように考えてしまいがちであるが、そうではない。
気楽に知の探検をする場が学校である。
「いついつまでに」「このことを」とかいうのは、ほんらいは無いのである。
宿題や定期試験は方便に過ぎない(さらに言えば、受験勉強でさえ方便に過ぎない)。
欲を言えば、「これをやれ」じゃなくて、「もっと勉強したい人は、これを当たるといいかも」と言うべきなのである。
現実には中学生も高校生も受験というものがあるから一筋縄にはいかないのだろうけれど。
でも、折り合いをつけることも、学校で学ぶべきことの一つだと思うよ。

なにが良いたいかって?
それはね。

たとえて言うならね、それは、科学と宗教の不毛な対立なんだ。
ある科学者は、科学でなんでも解決できると思いこんでいるばかりに、宗教を小馬鹿にしている。
ある宗教家は、宗教でなんでも解決できると思いこんでいるばかりに、科学を小馬鹿にしている。
このものたちの愚かなところは、自分の取り扱っている領域の適用範囲に関する自覚がないということである。

塾と学校の対立もこれに似る。
子どもらは、学校で学ぶようなことも塾で学ぶようなことも、学ばないといけない。
もちろん、その過程で、片方の学びがもう一方の学びを妨げるということが一時的にはありうる。
でもね、そこは「折り合いをつけろ」って話だ。
現に、現役の大学受験生全員が、学問の壮大さを忘れているわけではあるまい。
忘れていない一部の人たちは、どううまくやっているのか。
彼らは折り合いをつけているだけである。
折り合いを付けるのがヘタだと、受験合格後にふぬけになったり、学問の壮大さに浸るが故に定期試験の勉強をせずに悪い点を取ったりするのである。
え? ほんとうにできる生徒は、定期試験のための勉強をしなくても、学問の壮大さに浸るだけで良い点を取るって?
それは事実だ。
でも、それは、ごくごく一部の生徒だ。
ごくごく一部の生徒以外は、しかたないけれど、定期試験の勉強「も」するべきだと私は思う。
だってそうでしょ。
大人になって会社に入ってさ、あるプロジェクトを任されてさ、「いついつまでにしあげなきゃいけない」ってクライアントとの契約で決まっているのに、「私はそもそもこのプロジェクトの意義について考えているのだよ」なーんて呑気なことをいっている人になっても困るし。

あるときは近くの目標に向かって一目散に突っ走ることも必要。
たまには壮大なことを考えるのも必要。

どっちかだけが必要であってどっちから要らない、なんてことはないと思うがな。

#なーんで俺がこんな当たり前のこと言わなきゃならんのだろ。。
私が受けた英作文の授業

それで、定期テストではとにかく模範解答を覚えていく。

なんだよ、結局は先生が用意した「正解」を覚えるのかよ。あんたが最も嫌ってたことじゃんか!
ま、「成長した」ということなのかな。。

(実は、このブログの文章はほとんど独り言なのです。済みません。自分の思考の整理が目的です。)


仮に自分の思考の整理が目的だったとしても、それに随伴する効果として、他者を啓発に導くということがある。
その人にとってはただの独り言が、たまたま通りすがった他者を、ひどく啓発するということが、よくある。
いかなる独り言も、他者が読める可能性にさらされている限り、その読んだ読者を動かす、その読んだ読者を考え方を変える力を持っている、ということができる。

べつにだから責任を持てとは言わない。
それは、「ある小説を読んで人を殺したくなり実際にやってしまった場合に、その小説の作者が責任を問われるべきではない」のと同じことである。

私が気になっているのは、「自分の独り言が、他者を啓発に導いた場合に、どういう衝撃を受けるか」という点にかかわるものである。
社会の側から「お前には責任はない」と言われても、なんとなく責任があるような感じがする。
別言すれば、社会的責任はなくても道義的責任はあるのだ。

だいたい、書いたものを、「秘匿しておかず、ネット上でさらす」ということ自体、「ねえねえ、ちょっと聞いてよ」という、だれかに承認してもらいたい感情の裏返しである。
ほんとうに、自分以外の誰にも読んでもらいたくない書き物であるのならば、ネット上で公開なんてしないはずである。
論理的にはそうである。
つまり、多かれ少なかれ、ほんとうは読んでもらいたいのである。
厳密に言えば、「読んでもらいたいような他者にだけ読んでもらいたい」のである。

「ねえねえ、ちょっと聞いて。」と言われて、行ってみたら、「あ、お前には聞いて欲しくない。」と言われたら、どんな気持ちがするだろうか。
いい気持ちはしないはずだ。
でも、ぼくは、そういう傲慢なことをする人をそれ故にとがめることはできない。
ぼくも、そう言いたくなる気持ちが分かるからだ。
ぼくは、そう言いたくなる気持ちが分かり、同時に、そう言われると決していい気はしないという気持ちも分かる。
あるニュースサイトで、たばこ税増税断固反対 という広告が付いていた。
署名活動があることを知った私は、さっそく、たばこ税増税賛成の署名活動を行なっているページを探り当て、署名を済ませた。
たばこ税増税阻止を目的として支出されているはずの広告費が、たばこ税増税を促進するような個人の行動をうながしたわけであるが、これは、広告主におかれては、阻止不可能な代償として扱われていたということなのだろうか。
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