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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

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タイトルの書、一気に読んだ。
久々なのでテストも兼ねて。短く。

主張としては納得。

加害者が更生するにあたって、被害者の存在や被害者に同情・共感する人たちは邪魔でしかないということ、加害者もまた被害者であるということが強調され、痛快である。

思ったのは、とにかく反省を急がせたがる側もまた、なにかの被害者なのではないかということ。

性的役割分担を幼いころから子どもに求めたり、悪いことをした際に反省の決意を述べさせることがなぜ社会に浸透しているのか、も問われるべきだろう。

「反省してるかどうかによって量刑を変えない」あたりが、さしあたりすぐに実行可能なことかなと思ったり。

被害者と加害者が、ともにその後の人生を幸せに生きていくためには、その被害者と加害者は、同じ世界に住まないことが求められるのかなと。

同じ世界に住むという前提に立つから、加害者の更生がいつまで経っても実現されない。
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> 新卒採用なんて、企業がお子様学生のために用意してあげた、最後のチャンスなんだよ。
> 新卒採用をなくして学生のケツをひっぱたいたらどうなるか。俺は、以下の事が連鎖的に起きると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100125162149

新卒採用というのは、大量にいる「従順な学生」のためのものなんだろうなあ。その「従順な学生」は、学校教育を通じてつくられる。

日本の強み(というか、オリジナリティ?)というのは、こういう「従順なお子様学生」が大量にいる、ってことなんじゃないのかなあ。順番抜かしせずきちんと並ぶとか。

学校教育も家庭教育も、10年以上をかけて、子どもが持つ「やいば」を徹底的に抜く作業に従事しているから、その子どもが就職する頃には、攻撃力のない、無力化された、ペットのような人材が大量に発生すると。

或いはこうも考えられる。攻撃力のある学生を使える企業がいない、または、攻撃力のある学生がそのやいばを抜くんじゃなくて、そのやいばを生かす方向で、大人になるに向けて修練していくためのシステムがない、ということなのかもしれない。

小学校時代や中学校時代に、子どもは先生や親から、たくさん指図や注意を受けるけど、あれをどれくらいマに受けるべきなのかを自分(達)で判断して、マに受けるべきでないと判断した部分については適当に大人に合わせておくようなタイプの子のほうが、就職してからも強いんじゃないだろうか、とか。

子どもの頃から自主性を育てるなんて事は、言えば確かに言葉の上では美しいんだけど、なんか理想と実態がかけ離れているんだよね。親や先生が過剰に子どもに「どうしたいの?」という形で意思決定を迫る場面がしょっちゅうあるのような状況が、それを育てることには必ずしも繋がらない気がするというか。

理想的な自主性というのは、大人が子どもに「どうしたいの?」なんて訊かなくても、すでに子どものほうから動いてる状態なんじゃないだろうか。それを、へんに自主性を引き出そうとして、大人の側の欲望向きだしのかたちで現れるのがこの「どうしたいの?」的質問文なんだよなあ。とか思う。

「どうしたいの?」って大人に訊かれてる時点で、すでに自主性じゃないじゃない。「どうしたいの?」という大人の側からの言葉が発生するまえに、すでに子どもの側から動いている、という状態を実現するにはいかにあるべきか、が問われて然るべきでしょう。

まあ、そういうことを、4歳くらいの小さい子を見ていても、或いはまた、14歳くらいの小さい子を見ていても、時として思うわけです。「反応がない子ども」はいかにしてつくられるのか、とも。やっぱテレビゲームなのかなあ~なんてこういう短絡的結びつけには慎重であるべきなんだけれど(笑)。

おおざっぱな括りとして、青年団から草食系へ、内田樹の言葉で言えば、実存主義から様子見へ、という流れは、事態を理解する手がかりにはなると思う。関心の中心の一つは、この流れが、なぜ起きたのか、というところなんだけど、

ぼくが思うのはね、たとえば同学年同士でのコミュニケーションにおいても、直接相手に向かうのではなくて、なにかを通して向かう、ということが増えたこと、が、一因にあるんじゃないかなと、睨みたくなるわけです。

一冊の本を通して、ある一本のテレビゲームソフトを通して、野球やサッカーという共通の関心を通して、コミュニケーションするということに慣れきっており、逆に言えば、そういう、互いをつなぎ止める明示的根拠がなければコミュニケーションしなくていいと考える傾向が、一つのヒントだと思うんだ。

ありますねー。空気読みがうまくなるのはそれが一つの理由かも。RT @nucco: @heis101 どうしたいの?って言われると この人はどうしてほしいのかなって考えてしまいます この思考は昨今の空気読めってのに通じるかもですね

のび太がスネ夫やジャイアンと遊ぶのは共通の関心があるからですか? まあ確かにそれもあると思うけど、本質的には違うと思うんだよ。彼らをつなぎ止めているのは一つには地縁だ。たまたま近いところに住んでいた、という。地縁はふつう「明示的」根拠ではない。

いまだにドラえもんやサザエさんが毎週放送されているのは、ノスタルジーなのかしら。そういえば、母子家庭の家族とか、夫が単身赴任してるケースとかが出てくる、ゴールデンタイムのアニメって、あまり聞かない気がする。親が死んじゃってていないという話はごまんとあるけど。

その通りだと思います。二言目には「命令」か「どうしたいの?」としか言わない親などを見かけると、「あ、この家族コミュニケーションうまくいってないな」と思ったり。RT @nucco: @heis101 どうしたいの?という問い自体 相手にどうかしてほしいから問いかけるのですよね

(承前) あ、でも、コミュニケーションがうまくいってないわけではないかも。


ぼくのなかでは、「命令」と「それに対する服従」という関係は、相手と信頼関係を結ばなくてすませるための方法なんですよね。信頼関係が弱まると、この指令と服従の関係が台頭してきやすくなる。

いじめが、狭い部屋に閉じこめられて風通しが悪くなることによって起こるのだとしたら、人類は、少なくとも定住後は、特に山間部などにおいては、そのほとんどの期間において、子どもたちは青年団的状況のなかでの成長を強いられていた、という解釈が成立すると思うのですが、どうでしょうかねえ。

情報ありがとうございます(_) RT @atauky: @heis101 ゴールデンではないですがケロロ軍曹の日向家には父親がいませんね。

.@nucco 例えば、子どもが、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んでいると安心するけれど、DSの画面を見つめてひたすら黙っているという場面を見ると、なんか不安になるというのは、見守る側の大人の素朴な感情としては、どうしてもあると思うんですよ。そこをどうしたらいいんだろう、というか。 RT @nucco:@heis101 ネットが普及して距離 地縁の重要性が低くなったのかもしれませんね 趣味が近い人もネット上だと集まりやすいですし また学校教育やテレビによる地域格差の少ない共通の体験が多くて 暗黙の了解やお約束のパターンがたくさんあるのではないかとか

まあ、今はゲーム世代がすでに親になってますから、「必ずしも(そうはいえない)」という側面はあるんですけど。

@ch0vi そう、実は子どもだけの問題じゃないんですよね。 RT @ch0vi:耳痛い。全世代にある話ですねRT @heis101 「どうしたいの?」って大人に訊かれてる時点で、すでに自主性じゃないじゃない。「どうしたいの?」という大人の側からの言葉が発生するまえに、すでに子どもの側から動いている、という状態を実現するにはいかにあるべきか、が問われて然るべき

めんどくさいから説明を飛ばすけど、青年団から草食系へ、実存主義から様子見へ、の流れは、なんか、必然な気がする。簡単に説明するとこうかなあ:

人の移動が激しくなったり、文化が多様化したりして、共通了解が狭まる。そこに高い閉鎖性が加わるといじめもしくはそれに近いものをよしとする文化が強まる。それに不満を覚える人たちは、コミュニケーションする根拠を、興味関心などの「明示的」なものに求め出す。

ゴールデンタイムという制限を外すと、結構ありそうはありそうですね。ただ、浅見を承知で言うと個人的には、憂愁を誘うことを目的としたものが多くて、視聴者たちに近い存在として受け入れられることに照準されているケースは少ないのではないかと思っています。 RT: @u_375:@heis101 「キャプテン翼」の翼くんのお父さんは遠洋漁業の船長さんかなんかでしたよね?あれは単身赴任でしょうか?>そういえば、母子家庭の家族とか、夫が単身赴任してるケースとかが出てくる、ゴールデンタイムのアニメって、あまり聞かない気がする。

話を戻しまくると、新卒採用という現象が日本にだけ見られるのは(たしかそう)、日本にだけ「従順なお子様学生」が大量にいるから、という説明になってしまうんですが、どうでしょうかね。


追記:
このブログのタイトルだけど、因果関係としては多少怪しいな。鶏が先が卵が先かなところがある。ネットの普及は触媒になってる。

さて。

はっきりと言いたいことが固まっているわけではないので、エントリを起草することはためらっていたのですが、
どうやら、
trickenさんは雲隠れしちゃったし、
inf.さんは突然現れて10分20分バババッと意見投下してすぐに去っていかれるし、
contractioさんはcontractioさんで、言いたいことをいきなりパッと言うのではなく、「私たちはふだん、何々ということがあります。確 かにそういうことはあります。」みたいな話を延々と語るに近いかたちでの話法を選択されていたり(私にもそういうところがないわけではないが、私とはまた 違った形で相手のリズムを狂わせる話法を氏はお持ちのようだ)、話す(お書きになる)調子が非常にゆっくりなのでなんか調子くるうし、
そんなこんなで、もうこちらとしては、
もうだれを相手として、どのような読者を想定してしゃべりはじめればいいのかワケわかめで、
「もう好きにやってくださいよ」というような気分だったときもあったのだが、

そう、だから、これまでは、というかここ数日は、あんまりひとりでべらべら演説会をおこなうのはやめて、ちょーっと思った事をひとことふたことつぶやく程 度にとどめていたのであるが、

やっぱりもうちょっとちゃんと言っといたほうがいいだろう、とは思うので、こうして起草することにしたのである。

そう、だから、以降の話は、整理されていないし、思ったことを単発でぶつけている部分が大きいので、人によっては冗長に感じるかもしれないけれど、そうい うのを読まされるのはいやだという人は、ここで読むのをやめて頂くのがベターかなと思います。

はい。

「光の孤独」、合理性の地平、「勇気」と「愚かな妄想」の機能的等価性、「愚かな妄想」の手柄、神秘主義、秘教性、カルト性、〈他者〉

まあ、言い古されたことなのだけれど、改めて聞くと染み入る。
現代においては、このような内容のことは、食事や歯磨きのように、くりかえし宣言され続けなければならないのだろうな、と思った。

@j_imanoff さん、@nucco さんとのやりとりを含みます。後ろのほうで幕府の話が出てきますが、それは次の質問による返答に対応しています。
「ところで江戸後期はどうお考えですか、天皇の位置づけ。あまり詳しくないですが、尊王派はナショナリズムを取り戻す動きと理解していますが、なぜ将軍ではダメだったか」
主に @contractio さんとのやりとりです。
「審級」という言葉の意味から、「理解→予測・制御」という考え方の問題点、「モデルを使って何かをする」というのはどういうことなのか、に至るあたりまで。
前に書いた話(「面倒なこと」を家庭に押しつける日本、違法な移民に押しつけるフランス… )の続きも少し。
【宣伝】
BRUTUSという雑誌の「美しい言葉」特集に私の(twitterでの)つぶやきが掲載されました。
私以外にも50人くらいのかたのつぶやきが載っています。
10月15日発刊分です。
本屋やコンビニにあると思いますので、気になるかたは是非ご笑覧を。

どうしてこの髪飾りはいけないんですか - 考えるのが好きだった
もうかなり昔になると思いますが、子供の人権を守るための国際会議がニューヨークかどこかであって、日本の高校生が行って主張をしたそうです。「制服は人権侵害だ」とか何とか。
そしたら「ここは、飛行機に乗って来ることが出来る子供の権利を主張する場ではない」とかなんとか、要は、制服が着れるなら、学校に行っているだろう、しかも、飛行機に乗ってそこまで来れるくらいだから、もう既に、十分に人権は守られている、というようなことを言われ、すごすごと帰ってきたそうです。

前から思ってたんだけどさ、この手の主張って、まあ理屈としては分からんでもないんだけど、なんかズルくない?と思ってしまう。

「俺の主張は正しい。俺の主張に文句を言う奴は、文句を言うことができているということがすでにして、俺に文句を言う資格を満たしていないことを証明している。よって却下。」という理屈。

無敵じゃん。

“「ミクシィ」に仕事の愚痴、女性警官を処分。県警は「警察官の信用を失墜させる行為」と判断”

思ってもいないことを書いて処分されたのなら、確かに悪質な信用失墜行為だといえるが、思ったことを正直に言ったのだとしたらそれは正当行為と言えるのでは?


思ったことを正直に言うことができる警察内部的な仕組みがないから、外側にはけ口を求めるわけで。


こういうことが起こると、「やっぱり警察官みたいな仕事をしてる人は、(ネットで活動する際も)匿名で書かないとな」というのが一時的な防衛手段になるんだろうけれど、それってなんだかな、と思う。「バレなければ何してもOK」というのを警察官が率先してやることになるわけで。

匿名であろうがなかろうが、やってることに変わりはないんだよ。

***

そもそも誰の誰に対する信用を失墜させているのだろうか? ちなみに私は、こういうことが起こったことによって、自分の中の「やっぱ警察官は信用できない」度が上がった、ということはない。むしろ、「警察官も人間なんだな」と思うことによって、信頼度は増してる気もする。

「警察の信用」というときの信用の主体が市民なのであれば、
「この行為によって警察官への信頼度は上昇したか下降したかそれとも変わらないか」を、投票によって決定し、それによって、しかるべき処分をするというのが、「本筋」だと思う。

この手の問題は、表と裏の区別の問題なんですよね。女優でも排便するんですよとか、その手の話。それは真実だが、今はみたくない、という。劇を鑑賞しにきた人の多くは、劇だけを見たいのであって、セットが張りぼてであることを知りたいのではない。

私なんかはむしろ、劇を鑑賞するときであっても、なんとなく「裏現場」を知りたくなってしまうほうなので、表を見てるだけでは分からない真実を同時に伝えてくれたほうがありがたいと思うほうだが、大部分の人たちはたぶんそうではなくて、そういう人たちへの配慮をしろということなんだろうねきっと。

最近は、「舞台裏」をあばく、じゃなくて紹介する系のものがウケる傾向にある気がする。「劇を表から鑑賞するだけの人は市民としての義務を果たしてない、消費者としてしか行動しない、一ランク落ちる人たち」という認識を持つ人たちが多数派になるのも時間の問題かもしれない。

そしてそういう時代がくれば、「警察官がSNSに愚痴を書き込めば、それによって警察官の信用度があがり、解雇されるどころか逆に表彰される」という時代が、或いはくるのかもしれない。
ここでもやはり、「劇」の劇性への自覚の有無がポイントになっている。

それは、極端に右傾化、もしくは左傾化することなく、かつ、市民としての自覚を持つことができることへの第一歩である気がする。「舞台裏」を紹介する作品の隆盛という最近の傾向は、その第一歩がすでに踏み出されていることを反映しているように私には思える。

***

まあ一言で言えば、「君たちはいつまでその“引きつった顔”で演技を続けるのかね?」と言ってやりたい気がしたということだよ。


まあ、「仕事というのものは、基本、“引きつった顔”でやるべきものだ」という反論もありだけど。

「やりたくてもやりたくなくてもやらなければならない。やりたくないときにやるとどうしても顔が引きつる。でもそれは、自らの欲望と引き替えに職務の遂行を優先していることのなによりの証なんだ。だから引きつった顔をして仕事をしている人を私は褒めてやりたい」という反論は有りだ。

でもそこで、「引きつってることを見破られたら、おまえは仕事人として終わりだぞ」であるのだとすれば、仕事ってなんだろう、とは思ってしまう。

演技と非演技の境目を観客に見破らせないことができるのが、プロの定義なんだろうか。
或いは、演技と非演技の境目が、自分でも分からなくなるほどに、演技がきわまってきているとき、その引きつりはいつのまにか引きつりでなくなる。それこそ仕事の流儀ではないか--という主張もまた有りだ。

しかし、この手の結論はすでに十年前の私が同期に対して言っていたことで、とくに目新しい話ではない。その要諦を一言で言うなら、「自己暗示の非自覚化の達成」こそが、あらゆる(天下り的に与えられるところの)目標駆動型タスクの健全な遂行のために必要なことだ、ということである。

これは教育についても言える。自分がなぜそれを学ばなければならないのかが分からない段階でそれを学び始めることに積極的な動機が持てないときに、私はこの理法を積極的に活用した。そしてそれは或る程度は奏功した。

***

さきほどの、「誰からの信用を失墜したのか」ということについてだが、戦前だったら、天皇からの信用を失墜した、ということで、論理的には筋が通るんだと思う。

SNSで愚痴るだけで信用失墜だ、というのは、何かしらの「大いなる存在」を全員が共有している、という前提でしか通用しない。「大いなる存在」様が疑問をお持ちになるようなことは、わたくしめらは慎まねばならない、という論理。

いまでは「大いなる存在」=お客様、なのかな。私たちは天皇信仰をやめた、というよりもやめさせられたわけだけれども、代わりに今度は「お客様信仰」を始めた。日本が国際的に見ても、過度に「お客様信仰」の強い国であることもまた、このことと無関連ではあるまい。

レジの順番守れないおっさんたち - G.A.W.
んで、これは俺の主観なんで、ツッコミ満載かもしれないですが、いままで4つくらいの店で店長やってみて、立地って実にさまざまだったんですけど、ぱっと見あきらかに所得低いなーっていう人たちのコンビニでの消費行動って特徴あるんですよ。店の使い分けしないの。一箇所で買うんですね。コンビニみたいに生活に必要なものをひととおり揃ってる店があったりすると、そこに依存する。


これはなんでなのかというのが非常に気になるね。なんでやろ?

低所得者は自分で全部買い物しなくちゃいけないから、少しでも店へ足を運ぶ手間を抑えるために、できるだけ一箇所で買おうとする、とかなのかな?

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ただ、それ読んで「横柄なおっさんにも二種類いる」っていうことをふと思ったので、このエントリを書いてみました。「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。ただどっちにしろマナーの悪いのはおっさんなので、そのへんは不思議なところなんですけどね。あれはなんなんだろう。

 余談のようにくっつけておくと「最近の若いもんは」っていう論調は、この場合はかなり当てはまりません。最近の若い子は、システムってものに過剰なくらい従順ですから。


身なりのいいおっさんも、最近の若いもんも、どちらも、システムに過剰なくらいに従順すぎるんだと思う。
その点では、学のないおっさんのほうに軍配が上がる。

次の箇所がいい例である。

 ふつうに都会で生活してて、たとえばコンビニでレジが3人並んでたとしますよね。で、自分が4人目に並んだとして、欲しいのがタバコ1個だったとする。このときに「タバコ1個ですぐ終わるんだから、さっさと自分のほう片付けれ」って思う人って、わりと少数派だと思うんです。前の人間がジュース100本買うのだとしても、順番は順番じゃないですか。まあ、ほかの店員がレジまわりでのんびりと別の作業してたら「レジやれよおい!」って思うと思いますけど、それだって、基本的には「先に待ってた人からレジに行く」がまあ、基本ですよね。

 ところが、コンビニとかスーパーとかファーストフードだとか、いわゆる作業がマニュアル化されてるフランチャイズチェーン的なものですよね、こういうのが世に一般に流布するようになった80年代以前、これより前の時期に成人したと思われる人たちって「順番は順番」っていう考えかたがあんまりないみたいなのです。都会で暮らしてれば別ですが、田舎の人だと特に顕著ですね、この傾向。だから、レジが何人並んでいようとも、自分がタバコ一個だったりすると、レジではないところから顔を出して「おい、タバコ!」とかやる。それで「順番を守ってください」って言うと「なんだよ気がきかねえな」っていう反応をする。


そうなんです。「気が利かない」んです。システムは気が利かないんですよ。
いや、厳密にいえばこれは正しくない。
システムは気が利かないことがある、ということに気がついているかどうかなんです。

いやいや、これも、まだまだ正しくない。
システムは気が利かないことがあるんだけれども、それに対してどう対応するかの部分において、前者(身なりのいいおっさん&最近の若いもん)と後者(学のないおっさん)は違うんですね。

システムが「気が利かない」と思われる場合、そのシステムを使わない、もしくは無視する、という選択をするのが、後者で、
気が利かなくてもシステムにいつまでも服従し続けるというのが前者なわけ。

これ、生き物としてみたら、前者はひどく滑稽だよね。後者のほうが優秀。あくまで単一で稼動する生き物として見た場合ね。


80年代、かまたはその前後以降ですね、学校から、ヤンキーみたいなのがだんだんいなくなってきた、べつの言い方をすると、教師に真っ向から反抗する奴が減ってきた、その反動かどうかしらないけれども、「見かけ上は従順な奴」はそれに対応するかたちで増えてきた、ということがあると思うんですよ。
その流れのままずーっと、現在、2009年まで来ていると。

なんでこんなことになってるんだろう。
たぶん、システムに反抗してきた時期、というのがあるんだよね。便利なんだけれども融通の利かないシステムに対して、「こんなもんはいらん」と、「俺たちでやっていくんだ」と、そう主張し続けた時期があったと思うんです。

ところが、いつからかその気力が抜けてしまった。「ま、いっか。システム、まあまあ便利だし」と思うようになってしまっていた。或いはそう思う人たちが、マジョリティとなってしまっていた。

役所はその典型だと思いますよ。意味のないシステムを延々と稼動し続けることに意味を見出すというか、不毛な稼動を止めることに積極的でないというか。
そういうマンネリ化した役所的な精神の全国的蔓延というか普及が「完成」したのが、だいたい1980年ごろなのではないかと、こう思うわけです。

先日、面白い宿の話が話題になってましたけれど、私がああいう宿がもっと増えるべきといったのも、
こういう全国的な潮流に現在もなお対立姿勢を取りつづけていられるのはある意味すごいし、
いまこそ私たちはそういうのを見習っていかないといけない、
そういうのをヒントにして、この「システムが過剰に蔓延する社会」「システムに過剰なほどまでに従順であることを強要される社会」からの転換を、図っていかなければならないのではないか、
ということを、指し示したかったからなんですね。

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もう一度引用しますね。

「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。


並ぶっていうシステムを理解できない、というよりも、並ぶというシステムになぜ服従しなければいけないのかが分からない、といったほうが適切ではないか。

並ぶというシステムがどのようにありがたいのか、また、それを一人が拒否するとどのようなかたちで他の人たちを困らしめるのか。

この問いに対する回答は、二つに分かれると思います。
コンビニの経営なんかやってる人だったら、いや、コンビニの経営だけやないね、広い意味で、コンビニ方式で経営や客商売をやってる人だったら、もう確実に「システムはありがたい」って言うと思うし、「一人が離反するとみんなが困る、だからシステムに従わなくちゃいけない」って言うと思うんですが、

だって、そういうふうに教育されてきているからね、それは学校でもそうだし、子どものうちからコンビニなどで習慣的に買い物することによって徐々に培われていったという側面もあるし、もちろん自分で商売をやる側に立ってから上司などに教わって、そういうことを知ったという場合もあると思うんですが、

これとは逆に、「システムはありがたくない」「システムなんかなくても誰も困らん」ということをはっきり言ってくれる人たちの存在が、私たちの周り、とくに都会においては、現代文化の中心とあらせられる空間においては、そういうことを言ってくれる人たちは、きわめて少ない。
ほぼいないと言っていいでしょうね。

だから都会で育った子どもはみんなシステムに従順になる。
「とりあえずシステムにしたがっておけば問題ない」という発想を生む。
なんのためにそれをやっているのかを考えろ、と言ったって、いきなりは無理ですよ。だってそういうふうに教育されてないんだもん。

そういう点では、都会的な文化からはかけ離れたところにいる、学のないおっちゃんおばちゃんのほうが、よっぽど優秀だと思いますよ。
「システムとはあくまで道具にすぎず、盲目的に従順すべき対象ではありえない」ということを心のそこから理解しているわけですからね彼らは。
だから「おい、タバコ!」というような“すばらしい芸当”が、なんのためらいもなくできる。

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大学でさ、「最近の子は、みんな授業をサボらずに出席してくる」なんて話があるじゃないですか。
でも、出席率が高いだけでね、みんなちゃんと、頭の中まで授業を受ける体勢になっているのかっていったら、たぶんそうはなっていないと思う。
「来るだけ来て寝てる」みたいな大学生は、ここ十数年で少しずつだけれども確実に増えているのではないかと思います。

でもそれは、たぶん、「そういうふうに教えたから」なんですよね。
「座っているだけでいい」と、「見かけ上、勉強しているように見えたらいい」と、そう、教えたからなんですよね。
いまよりも一つ前の時代の教師たち大人たちが。

結果、かれらは限りなく静かになった。従順になった、寡黙になった。その代わりなにかを訊いてもなんにも返してこない。反応がない。


ではかれらの魂はフヌケになってしまったのかというと、それもまた違うと思うんですね。
たぶんね、みんな「別世界で活動する術」を覚えたのです。

テレビゲーム、漫画、ネットはその典型ですよね。古い時代では「本の虫」も、その類かもしれない。
「自分の世界に引きこもる」という、ね。或いは「自分たちだけが分かる世界で暮らす」という、ね。

なにも珍しいことではありません。幼児たちは常日頃からやっていることです。
幼児たちが日々つむぎだす物語に対して、大人たちはいちいき介入していきませんが、そこでは「子どもたちの間だけで通じ合える世界」というのが存在しています。
大人たちは知らないか、もしくは忘れてしまっているだけです。

でね、私はこのモデルが、幼児たちの間で繰り広げられる世界の存在と、その世界の存在に気づいていない大人たちという関係の構図が、
現在の「最近の若いもん」に見られる行動の傾向を説明するのに、非常にふさわしいのではないかと、勝手に思っているわけですね。

「自分たちだけが分かる世界で暮らす」ということの意味は、それです。

でもそれは、学校の先生とか、社会の人から見ると、「単に従順であるか若しくはフヌケであるか、そうでなければ押しても跳ね返らない、反応のないつまらん奴」という、評価になってしまうわけですね。「ああ、最近の若者はどうなってしまったんだろう?」と。

---

現代人は「システムへの過剰適応」を強いられた結果、「別世界で活動する」という術を覚えたのだと思うんです。

でもこれは、ある程度若いときに、過剰適応を強いられるという経験をしないと、身につかない術だと思うんですね。
だから、そういうのを強いられた経験を持たない「学のないおっちゃんおばさんたち」は、システムからの要求要請に対して非常に自由なわけ。

私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。

そこが、課題なんだと思います。


http://twitter.com/oika/status/2452464341
> 中学生の生徒が学校で校則変更の署名活動をしてるらしいが、学校側がそれを厳しく咎めて止めさせようとしてるってのを聞いてめちゃくちゃびっくりした。中学生のうちから自主的に署名活動起こすなんて、めっちゃ素晴らしいじゃん。

クーラー格差? - 考えるのが好きだった
> この暑さで、教室にクーラーを設置するところが増えている。私が耳にした範囲だけだが、いわゆる困難校でクーラーが設置されたという話はない。
そのうち、ブログの大半がSNS化するという見立てがあるけど、どうだろう。現在、リアルの人間がITを駆使して相互にやりとりするに当たって、最も効率的で効果的で、一番よく使われていると思われる手段は、SNSでもブログでもtwitterでもない。それはメーリングリストである。

平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、読者にあからさまな理不尽感を抱かせる。最初に平和を持ってくるのは、「それを基準に物事を判断しろ」という作り手からの指令だ。で、実際、それを判断にその後の展開を判断すると、「わー不幸!理不尽!」ってなる。

多くの人々は理不尽に対して潜在的に怒りを覚えている。平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、その怒りを宥めてくれる。「理不尽なのは何も私だけじゃない」と。もちろん意地悪く解釈すれば「俺より不幸な奴がいて良かった」なわけだが。

司法の判断に誤りがない、ということにすることは、現状ではできていないし、今後も、それができるようになることはないだろう。つまり、今後も、犯罪を犯したくせに捕まらない人間、犯罪を犯していないのに捕まる人間が、依然として存在し続けるということである。

このような誤りは、努力によって、完全になくなるように努めるべきものであるが、果たして、どこまで、そう努めるべきであるのか、というところが、今回の論点である。
基礎体力ということについて考えている。基礎体力がないと、ちょっと動いただけで疲れてしまう。基礎体力がなくても死にはしないが、あったほうが世界は広がる。

同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。

こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。

願いが叶うのは16年後?「涼宮ハルヒの憂鬱」公式サイトで七夕イベント開催
> ちなみに、作中でハルヒが説明していましたが、地球からアルタイルまでは16光年、ベガまでは25光年離れているので、それぞれ16年・25年先に叶えて欲しい願い事を書くために2つあるそうです。

織り姫と彦星が出会うのは16年後、という、現代科学からの類推があるが、なぜそういう解釈になるのかが分からない。なぜ「織り姫と彦星が出会う際の乗り物を支配している法則は、僕たちが知っているものとは違うものだろう」というふうな類推ではないのだろうか。どちらも等価値のはずだが。
> 大学と大学進学率を減らすことで、労働力を増やすと同時に、高等教育の負担感を(結果として)なくすことを主張しているのが三浦展氏で、少子化対策兼、労働力対策として意外に有効な可能性がある。

> 競争力や生産性の向上に「教育が重要である」ことは総論として誰も否定しないが、どんな教育が有意義か、ということであり、産業界と連携し、若年層の雇用を促進する職業訓練中心に転換する、ということになる
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000387.html
http://anond.hatelabo.jp/20090703175507
> 比較的冷静に対処出来たのはケンカになったら勝てると思った肉体的(精神的?)優位性があってのことだと思う。負けそう、もしくは同等と思っていたら怒りと恐怖からこちらも暴力を振るい返したかもしれない

これは考えさせられる。「どんな理由があろうと、手を出したほうが悪い」は正論だが、一方で、「弱い犬ほどよく吠える、吠えざるを得ない」という、精神安定上の行動原理がある。
http://www.wasedajuku.com/wasemaga/unipro-note/2009/06/post_451.html

リベラル・アーツについて書いた記事がホッテントリ入りしている。はっきり申し上げて、茶番だなと思う。記事そのものではなく、リベラル・アーツの本義が「商品」として、顧客のお眼鏡にかなうように加工されてゆく「さま」とその「加工品」が茶番だと言うのである。
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