--- お知らせ ---
最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。
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【宣伝】
BRUTUSという雑誌の「美しい言葉」特集に私の(twitterでの)つぶやきが掲載されました。
私以外にも50人くらいのかたのつぶやきが載っています。
10月15日発刊分です。
本屋やコンビニにあると思いますので、気になるかたは是非ご笑覧を。
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私以外にも50人くらいのかたのつぶやきが載っています。
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本屋やコンビニにあると思いますので、気になるかたは是非ご笑覧を。
どうしてこの髪飾りはいけないんですか - 考えるのが好きだった
もうかなり昔になると思いますが、子供の人権を守るための国際会議がニューヨークかどこかであって、日本の高校生が行って主張をしたそうです。「制服は人権侵害だ」とか何とか。
そしたら「ここは、飛行機に乗って来ることが出来る子供の権利を主張する場ではない」とかなんとか、要は、制服が着れるなら、学校に行っているだろう、しかも、飛行機に乗ってそこまで来れるくらいだから、もう既に、十分に人権は守られている、というようなことを言われ、すごすごと帰ってきたそうです。
前から思ってたんだけどさ、この手の主張って、まあ理屈としては分からんでもないんだけど、なんかズルくない?と思ってしまう。
「俺の主張は正しい。俺の主張に文句を言う奴は、文句を言うことができているということがすでにして、俺に文句を言う資格を満たしていないことを証明している。よって却下。」という理屈。
無敵じゃん。
Twitterのぬるま湯につかりすぎると風邪をひく - 鍵壺のWeblog
このエントリの感想.および,私のTwitterでの振舞い.何か気になることがあれば,ブコメでもトラバでもreplyでも何でもよいので意見を下さい.よろしくお願いします.
それでは早速(笑)。
あの人からremoveされたのはなぜ?
Twitterでは,ゆるい繋がりを求める人たちが,気ままに,繋がったり,離れたりを繰り返す.
相手に興味があろうがなかろうが,何かの縁でfollowして,何かの拍子にremoveする.そんな距離感が当たり前の世界.
みんな自然体でつぶやく.それに魅かれて追いかける者もあれば,相性が合わないなあ,とremoveする者もいる.
だから,私は,誰かからremoveされても気にしない.
……だったけれど,こちらが好意を持っていた人に断ち切られて以来,removeを気にするようになってしまった.
よくreplyをくれた人,毎日のようにfavをつけてくれた人,ある日突然,removeされた.何がきっかけだったのだろう.
どれか特定のpostだろうか.一連の独り言が不快感を与えたのだろうか.それとも別の理由があるのだろうか.
どうして私をremoveしようと決めたのだろう.理由が知りたい..
気持ちは分からんでもないよ。
ただ、まず僕が思うのはね、「この手のゴタゴタは、気にし始めると一生終わらない」気がするということ。
少なくとも僕は、この手の話に自分の大切な時間を割いてしまうことのほうに、ある種のもったいなさを感じるかな。
だから、ちょっと考えて分からなかったら、とりあえずそれはそれで置いておいて、別のことをする。
もしかしたら別のことをしているときにまた気づくかもしれないし。
一つの疑問にずっとこだわり続けることは、有意義な場合もあるんだけれど、ことに特にその疑問の原因が「人間関係のゴタゴタ」にある場合は、ほかのことの一切を忘れてそのことにこだわり続けることに、さほど意味はないことが多いように私は思う。
だってそうじゃん。
こだわり続けた結果何が出てくるのよ? クヨクヨとか、自信喪失とか、そういうマイナスのたぐいがどんどん増幅されるだけでしょ? そんなものをわざわざ努力して増幅して嬉しいのかどうか。
私は少なくとも嬉しくない。
炎上が起こりにくいので,極端なことがpostできる.極端なことは多くの人の共感を得ることは難しいけれど,一部の人の心を鷲掴みにできれば,favの数は稼げる.だから,調子にのって,ついつい極端なことをpostしてしまうかもしれない.しかし,そこで生まれた反感は,removeやblockとなって表れる.が,これは気付きにくいのだ.f/fがそれぞれ三桁を越えたあたりになると,removeされたりblockされてもTwitter単体では気付くことはあまりなくなる.だから,こちらに興味を示してくれているなあ,というあの人から,いきなりremoveされてしまうのかもしれない.
だからね、それはね、あれでしょ、「mixiでマイミクを外されたときに知らせが飛ばないことをどう思うか問題」と同じでね、
思わせぶりな人がいきなりremoveを食らわせてきたことにショックを受けるのだとしたら、すでにしてそのことが、自分はtwitterをmixi的に使っていた、ということの証明にもなってしまうわけでね、
「twitterに何を求めているか」に関して、自分が自覚的に認識している基準と、真に自分が認識している基準とのずれがあるってことだよね。
で、まあ、それを知ったとして、「どうしたいのか」だ。それが次の問題として浮上してくると思うんだよね。
「ああ、自分はtwitterをmixi化してしまった張本人だ」ということを知ってしまったときに、どうしたいかということ。
まあこれは遅かれ早かれ、色々なところで、同時多発的に起こって然るべき事なのではないかあと思います。たぶんkey_さんがそう書いてるということは、twitterの利用者母数をぼくは知らないけれども、まあ、例えば10人くらいは同じように感じている人がいると考えてしくはないと思います。
IT系のスキルの乏しい層が大量にtwitterに乗り込んでくるのをまたずして、twitterのmixi化が生じる可能性のあることを示しているという点において、key_さんのご指摘は価値があると思います。
Twitterは、1つ1つのpostがそもそも読まれているかすらわからないので、replyやReTweetやfavがつかないことが、つまらないことの表現にならない。
いや、そうとは限らないと思うんですよね。twitterはさまざまな利用可能性に開かれているので、「postしている人に知られずに読みたい」ということも、しようと思えばできるわけですよね。
そういう意味では、ぼくは新聞に近いのかなと思っています。誰が読んでるか分からない、意外な人が読んでる、などなど。もちろん読み手の母数は桁が全然違うわけなんだけれど、書き手と読み手との距離感みたいなものの構造が、なんとなく似てる気がするんだよね。
楽しいは正義.
だけど,痛みを感じない身体ってうらやましい?
身体が傷付いてしまっても気がつかない.血が流れていることにも気がつかない.
そのままにしておいたら,気付かぬまま意識を失ってしまうよ.
んー、結論から言うと、あなたは傷つきたいんですか、それとも傷つきたくないんですか、ということだよね。
で、それに対するたぶん一般人の代表的な意見は、「結果的に良かったと思えるような傷だけ選択的に受難したい」ではないかと思うんですが、果たしてtwitterはこれを実現するに足るインフラになっているかどうか。
或いは、そういうものを、IT技術を洗練することによってだけで実現可能なのかどうか。
結局人間の側が何らかの意味で変化(成長)しなければ、そういうのは絶対に無理なのかどうか。
そこはたぶんまだ分からなくて、だから今の時点でこの問題に結論を出せている人はいないんじゃないかなと思うんですけれども(いたら教えてー)、どうでしょうかね…。
Twitterは楽しい.ポジティブな感想に溢れていて気持ちがいい.気持ちがいいのはいいことだけど,あくまで短期的に気分を高揚させてくれるもの.Twitterに長くつかってたらポジティブな感想でも,得られる喜びは薄まってゆく.
長期的な視点で見ると,自分の悪いところを改善するチャンスとなるような,ネガティブな意見をもらったほうがためになる..
みんなやさしーから忠告してくれないんだよね。だけど、表面的には傷付くかもしれないんだけど、もっとびしっと言って欲しいんだ。そのほうが後の為になるから。逆に相手のためと思ってびしって言うことが多いんだけど、それを嫌う人もいるんだよね。なんか難しいよね、そういうの。
だからそれはtwitterに限った問題じゃないよね。リアルでもまったく同じ事が言える。人間関係に共通の普遍的な問題なので。
もちろん、その問題が、twitterをうまく利用することによって解消ないし緩和される可能性はある。現にtwitterではポジティブポストが表面化しやすいという特性があるという事実は、緩和の一つの在り方なんだと思うし。
“「ミクシィ」に仕事の愚痴、女性警官を処分。県警は「警察官の信用を失墜させる行為」と判断”
思ってもいないことを書いて処分されたのなら、確かに悪質な信用失墜行為だといえるが、思ったことを正直に言ったのだとしたらそれは正当行為と言えるのでは?
思ったことを正直に言うことができる警察内部的な仕組みがないから、外側にはけ口を求めるわけで。
こういうことが起こると、「やっぱり警察官みたいな仕事をしてる人は、(ネットで活動する際も)匿名で書かないとな」というのが一時的な防衛手段になるんだろうけれど、それってなんだかな、と思う。「バレなければ何してもOK」というのを警察官が率先してやることになるわけで。
匿名であろうがなかろうが、やってることに変わりはないんだよ。
***
そもそも誰の誰に対する信用を失墜させているのだろうか? ちなみに私は、こういうことが起こったことによって、自分の中の「やっぱ警察官は信用できない」度が上がった、ということはない。むしろ、「警察官も人間なんだな」と思うことによって、信頼度は増してる気もする。
「警察の信用」というときの信用の主体が市民なのであれば、
「この行為によって警察官への信頼度は上昇したか下降したかそれとも変わらないか」を、投票によって決定し、それによって、しかるべき処分をするというのが、「本筋」だと思う。
この手の問題は、表と裏の区別の問題なんですよね。女優でも排便するんですよとか、その手の話。それは真実だが、今はみたくない、という。劇を鑑賞しにきた人の多くは、劇だけを見たいのであって、セットが張りぼてであることを知りたいのではない。
私なんかはむしろ、劇を鑑賞するときであっても、なんとなく「裏現場」を知りたくなってしまうほうなので、表を見てるだけでは分からない真実を同時に伝えてくれたほうがありがたいと思うほうだが、大部分の人たちはたぶんそうではなくて、そういう人たちへの配慮をしろということなんだろうねきっと。
最近は、「舞台裏」をあばく、じゃなくて紹介する系のものがウケる傾向にある気がする。「劇を表から鑑賞するだけの人は市民としての義務を果たしてない、消費者としてしか行動しない、一ランク落ちる人たち」という認識を持つ人たちが多数派になるのも時間の問題かもしれない。
そしてそういう時代がくれば、「警察官がSNSに愚痴を書き込めば、それによって警察官の信用度があがり、解雇されるどころか逆に表彰される」という時代が、或いはくるのかもしれない。
ここでもやはり、「劇」の劇性への自覚の有無がポイントになっている。
それは、極端に右傾化、もしくは左傾化することなく、かつ、市民としての自覚を持つことができることへの第一歩である気がする。「舞台裏」を紹介する作品の隆盛という最近の傾向は、その第一歩がすでに踏み出されていることを反映しているように私には思える。
***
まあ一言で言えば、「君たちはいつまでその“引きつった顔”で演技を続けるのかね?」と言ってやりたい気がしたということだよ。
まあ、「仕事というのものは、基本、“引きつった顔”でやるべきものだ」という反論もありだけど。
「やりたくてもやりたくなくてもやらなければならない。やりたくないときにやるとどうしても顔が引きつる。でもそれは、自らの欲望と引き替えに職務の遂行を優先していることのなによりの証なんだ。だから引きつった顔をして仕事をしている人を私は褒めてやりたい」という反論は有りだ。
でもそこで、「引きつってることを見破られたら、おまえは仕事人として終わりだぞ」であるのだとすれば、仕事ってなんだろう、とは思ってしまう。
演技と非演技の境目を観客に見破らせないことができるのが、プロの定義なんだろうか。
或いは、演技と非演技の境目が、自分でも分からなくなるほどに、演技がきわまってきているとき、その引きつりはいつのまにか引きつりでなくなる。それこそ仕事の流儀ではないか−−という主張もまた有りだ。
しかし、この手の結論はすでに十年前の私が同期に対して言っていたことで、とくに目新しい話ではない。その要諦を一言で言うなら、「自己暗示の非自覚化の達成」こそが、あらゆる(天下り的に与えられるところの)目標駆動型タスクの健全な遂行のために必要なことだ、ということである。
これは教育についても言える。自分がなぜそれを学ばなければならないのかが分からない段階でそれを学び始めることに積極的な動機が持てないときに、私はこの理法を積極的に活用した。そしてそれは或る程度は奏功した。
***
さきほどの、「誰からの信用を失墜したのか」ということについてだが、戦前だったら、天皇からの信用を失墜した、ということで、論理的には筋が通るんだと思う。
SNSで愚痴るだけで信用失墜だ、というのは、何かしらの「大いなる存在」を全員が共有している、という前提でしか通用しない。「大いなる存在」様が疑問をお持ちになるようなことは、わたくしめらは慎まねばならない、という論理。
いまでは「大いなる存在」=お客様、なのかな。私たちは天皇信仰をやめた、というよりもやめさせられたわけだけれども、代わりに今度は「お客様信仰」を始めた。日本が国際的に見ても、過度に「お客様信仰」の強い国であることもまた、このことと無関連ではあるまい。
思ってもいないことを書いて処分されたのなら、確かに悪質な信用失墜行為だといえるが、思ったことを正直に言ったのだとしたらそれは正当行為と言えるのでは?
思ったことを正直に言うことができる警察内部的な仕組みがないから、外側にはけ口を求めるわけで。
こういうことが起こると、「やっぱり警察官みたいな仕事をしてる人は、(ネットで活動する際も)匿名で書かないとな」というのが一時的な防衛手段になるんだろうけれど、それってなんだかな、と思う。「バレなければ何してもOK」というのを警察官が率先してやることになるわけで。
匿名であろうがなかろうが、やってることに変わりはないんだよ。
***
そもそも誰の誰に対する信用を失墜させているのだろうか? ちなみに私は、こういうことが起こったことによって、自分の中の「やっぱ警察官は信用できない」度が上がった、ということはない。むしろ、「警察官も人間なんだな」と思うことによって、信頼度は増してる気もする。
「警察の信用」というときの信用の主体が市民なのであれば、
「この行為によって警察官への信頼度は上昇したか下降したかそれとも変わらないか」を、投票によって決定し、それによって、しかるべき処分をするというのが、「本筋」だと思う。
この手の問題は、表と裏の区別の問題なんですよね。女優でも排便するんですよとか、その手の話。それは真実だが、今はみたくない、という。劇を鑑賞しにきた人の多くは、劇だけを見たいのであって、セットが張りぼてであることを知りたいのではない。
私なんかはむしろ、劇を鑑賞するときであっても、なんとなく「裏現場」を知りたくなってしまうほうなので、表を見てるだけでは分からない真実を同時に伝えてくれたほうがありがたいと思うほうだが、大部分の人たちはたぶんそうではなくて、そういう人たちへの配慮をしろということなんだろうねきっと。
最近は、「舞台裏」をあばく、じゃなくて紹介する系のものがウケる傾向にある気がする。「劇を表から鑑賞するだけの人は市民としての義務を果たしてない、消費者としてしか行動しない、一ランク落ちる人たち」という認識を持つ人たちが多数派になるのも時間の問題かもしれない。
そしてそういう時代がくれば、「警察官がSNSに愚痴を書き込めば、それによって警察官の信用度があがり、解雇されるどころか逆に表彰される」という時代が、或いはくるのかもしれない。
ここでもやはり、「劇」の劇性への自覚の有無がポイントになっている。
それは、極端に右傾化、もしくは左傾化することなく、かつ、市民としての自覚を持つことができることへの第一歩である気がする。「舞台裏」を紹介する作品の隆盛という最近の傾向は、その第一歩がすでに踏み出されていることを反映しているように私には思える。
***
まあ一言で言えば、「君たちはいつまでその“引きつった顔”で演技を続けるのかね?」と言ってやりたい気がしたということだよ。
まあ、「仕事というのものは、基本、“引きつった顔”でやるべきものだ」という反論もありだけど。
「やりたくてもやりたくなくてもやらなければならない。やりたくないときにやるとどうしても顔が引きつる。でもそれは、自らの欲望と引き替えに職務の遂行を優先していることのなによりの証なんだ。だから引きつった顔をして仕事をしている人を私は褒めてやりたい」という反論は有りだ。
でもそこで、「引きつってることを見破られたら、おまえは仕事人として終わりだぞ」であるのだとすれば、仕事ってなんだろう、とは思ってしまう。
演技と非演技の境目を観客に見破らせないことができるのが、プロの定義なんだろうか。
或いは、演技と非演技の境目が、自分でも分からなくなるほどに、演技がきわまってきているとき、その引きつりはいつのまにか引きつりでなくなる。それこそ仕事の流儀ではないか−−という主張もまた有りだ。
しかし、この手の結論はすでに十年前の私が同期に対して言っていたことで、とくに目新しい話ではない。その要諦を一言で言うなら、「自己暗示の非自覚化の達成」こそが、あらゆる(天下り的に与えられるところの)目標駆動型タスクの健全な遂行のために必要なことだ、ということである。
これは教育についても言える。自分がなぜそれを学ばなければならないのかが分からない段階でそれを学び始めることに積極的な動機が持てないときに、私はこの理法を積極的に活用した。そしてそれは或る程度は奏功した。
***
さきほどの、「誰からの信用を失墜したのか」ということについてだが、戦前だったら、天皇からの信用を失墜した、ということで、論理的には筋が通るんだと思う。
SNSで愚痴るだけで信用失墜だ、というのは、何かしらの「大いなる存在」を全員が共有している、という前提でしか通用しない。「大いなる存在」様が疑問をお持ちになるようなことは、わたくしめらは慎まねばならない、という論理。
いまでは「大いなる存在」=お客様、なのかな。私たちは天皇信仰をやめた、というよりもやめさせられたわけだけれども、代わりに今度は「お客様信仰」を始めた。日本が国際的に見ても、過度に「お客様信仰」の強い国であることもまた、このことと無関連ではあるまい。
レジの順番守れないおっさんたち - G.A.W.
これはなんでなのかというのが非常に気になるね。なんでやろ?
低所得者は自分で全部買い物しなくちゃいけないから、少しでも店へ足を運ぶ手間を抑えるために、できるだけ一箇所で買おうとする、とかなのかな?
−−−
身なりのいいおっさんも、最近の若いもんも、どちらも、システムに過剰なくらいに従順すぎるんだと思う。
その点では、学のないおっさんのほうに軍配が上がる。
次の箇所がいい例である。
そうなんです。「気が利かない」んです。システムは気が利かないんですよ。
いや、厳密にいえばこれは正しくない。
システムは気が利かないことがある、ということに気がついているかどうかなんです。
いやいや、これも、まだまだ正しくない。
システムは気が利かないことがあるんだけれども、それに対してどう対応するかの部分において、前者(身なりのいいおっさん&最近の若いもん)と後者(学のないおっさん)は違うんですね。
システムが「気が利かない」と思われる場合、そのシステムを使わない、もしくは無視する、という選択をするのが、後者で、
気が利かなくてもシステムにいつまでも服従し続けるというのが前者なわけ。
これ、生き物としてみたら、前者はひどく滑稽だよね。後者のほうが優秀。あくまで単一で稼動する生き物として見た場合ね。
80年代、かまたはその前後以降ですね、学校から、ヤンキーみたいなのがだんだんいなくなってきた、べつの言い方をすると、教師に真っ向から反抗する奴が減ってきた、その反動かどうかしらないけれども、「見かけ上は従順な奴」はそれに対応するかたちで増えてきた、ということがあると思うんですよ。
その流れのままずーっと、現在、2009年まで来ていると。
なんでこんなことになってるんだろう。
たぶん、システムに反抗してきた時期、というのがあるんだよね。便利なんだけれども融通の利かないシステムに対して、「こんなもんはいらん」と、「俺たちでやっていくんだ」と、そう主張し続けた時期があったと思うんです。
ところが、いつからかその気力が抜けてしまった。「ま、いっか。システム、まあまあ便利だし」と思うようになってしまっていた。或いはそう思う人たちが、マジョリティとなってしまっていた。
役所はその典型だと思いますよ。意味のないシステムを延々と稼動し続けることに意味を見出すというか、不毛な稼動を止めることに積極的でないというか。
そういうマンネリ化した役所的な精神の全国的蔓延というか普及が「完成」したのが、だいたい1980年ごろなのではないかと、こう思うわけです。
先日、面白い宿の話が話題になってましたけれど、私がああいう宿がもっと増えるべきといったのも、
こういう全国的な潮流に現在もなお対立姿勢を取りつづけていられるのはある意味すごいし、
いまこそ私たちはそういうのを見習っていかないといけない、
そういうのをヒントにして、この「システムが過剰に蔓延する社会」「システムに過剰なほどまでに従順であることを強要される社会」からの転換を、図っていかなければならないのではないか、
ということを、指し示したかったからなんですね。
−−
もう一度引用しますね。
並ぶっていうシステムを理解できない、というよりも、並ぶというシステムになぜ服従しなければいけないのかが分からない、といったほうが適切ではないか。
並ぶというシステムがどのようにありがたいのか、また、それを一人が拒否するとどのようなかたちで他の人たちを困らしめるのか。
この問いに対する回答は、二つに分かれると思います。
コンビニの経営なんかやってる人だったら、いや、コンビニの経営だけやないね、広い意味で、コンビニ方式で経営や客商売をやってる人だったら、もう確実に「システムはありがたい」って言うと思うし、「一人が離反するとみんなが困る、だからシステムに従わなくちゃいけない」って言うと思うんですが、
だって、そういうふうに教育されてきているからね、それは学校でもそうだし、子どものうちからコンビニなどで習慣的に買い物することによって徐々に培われていったという側面もあるし、もちろん自分で商売をやる側に立ってから上司などに教わって、そういうことを知ったという場合もあると思うんですが、
これとは逆に、「システムはありがたくない」「システムなんかなくても誰も困らん」ということをはっきり言ってくれる人たちの存在が、私たちの周り、とくに都会においては、現代文化の中心とあらせられる空間においては、そういうことを言ってくれる人たちは、きわめて少ない。
ほぼいないと言っていいでしょうね。
だから都会で育った子どもはみんなシステムに従順になる。
「とりあえずシステムにしたがっておけば問題ない」という発想を生む。
なんのためにそれをやっているのかを考えろ、と言ったって、いきなりは無理ですよ。だってそういうふうに教育されてないんだもん。
そういう点では、都会的な文化からはかけ離れたところにいる、学のないおっちゃんおばちゃんのほうが、よっぽど優秀だと思いますよ。
「システムとはあくまで道具にすぎず、盲目的に従順すべき対象ではありえない」ということを心のそこから理解しているわけですからね彼らは。
だから「おい、タバコ!」というような“すばらしい芸当”が、なんのためらいもなくできる。
−−−
大学でさ、「最近の子は、みんな授業をサボらずに出席してくる」なんて話があるじゃないですか。
でも、出席率が高いだけでね、みんなちゃんと、頭の中まで授業を受ける体勢になっているのかっていったら、たぶんそうはなっていないと思う。
「来るだけ来て寝てる」みたいな大学生は、ここ十数年で少しずつだけれども確実に増えているのではないかと思います。
でもそれは、たぶん、「そういうふうに教えたから」なんですよね。
「座っているだけでいい」と、「見かけ上、勉強しているように見えたらいい」と、そう、教えたからなんですよね。
いまよりも一つ前の時代の教師たち大人たちが。
結果、かれらは限りなく静かになった。従順になった、寡黙になった。その代わりなにかを訊いてもなんにも返してこない。反応がない。
ではかれらの魂はフヌケになってしまったのかというと、それもまた違うと思うんですね。
たぶんね、みんな「別世界で活動する術」を覚えたのです。
テレビゲーム、漫画、ネットはその典型ですよね。古い時代では「本の虫」も、その類かもしれない。
「自分の世界に引きこもる」という、ね。或いは「自分たちだけが分かる世界で暮らす」という、ね。
なにも珍しいことではありません。幼児たちは常日頃からやっていることです。
幼児たちが日々つむぎだす物語に対して、大人たちはいちいき介入していきませんが、そこでは「子どもたちの間だけで通じ合える世界」というのが存在しています。
大人たちは知らないか、もしくは忘れてしまっているだけです。
でね、私はこのモデルが、幼児たちの間で繰り広げられる世界の存在と、その世界の存在に気づいていない大人たちという関係の構図が、
現在の「最近の若いもん」に見られる行動の傾向を説明するのに、非常にふさわしいのではないかと、勝手に思っているわけですね。
「自分たちだけが分かる世界で暮らす」ということの意味は、それです。
でもそれは、学校の先生とか、社会の人から見ると、「単に従順であるか若しくはフヌケであるか、そうでなければ押しても跳ね返らない、反応のないつまらん奴」という、評価になってしまうわけですね。「ああ、最近の若者はどうなってしまったんだろう?」と。
−−−
現代人は「システムへの過剰適応」を強いられた結果、「別世界で活動する」という術を覚えたのだと思うんです。
でもこれは、ある程度若いときに、過剰適応を強いられるという経験をしないと、身につかない術だと思うんですね。
だから、そういうのを強いられた経験を持たない「学のないおっちゃんおばさんたち」は、システムからの要求要請に対して非常に自由なわけ。
私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。
そこが、課題なんだと思います。
んで、これは俺の主観なんで、ツッコミ満載かもしれないですが、いままで4つくらいの店で店長やってみて、立地って実にさまざまだったんですけど、ぱっと見あきらかに所得低いなーっていう人たちのコンビニでの消費行動って特徴あるんですよ。店の使い分けしないの。一箇所で買うんですね。コンビニみたいに生活に必要なものをひととおり揃ってる店があったりすると、そこに依存する。
これはなんでなのかというのが非常に気になるね。なんでやろ?
低所得者は自分で全部買い物しなくちゃいけないから、少しでも店へ足を運ぶ手間を抑えるために、できるだけ一箇所で買おうとする、とかなのかな?
−−−
ただ、それ読んで「横柄なおっさんにも二種類いる」っていうことをふと思ったので、このエントリを書いてみました。「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。ただどっちにしろマナーの悪いのはおっさんなので、そのへんは不思議なところなんですけどね。あれはなんなんだろう。
余談のようにくっつけておくと「最近の若いもんは」っていう論調は、この場合はかなり当てはまりません。最近の若い子は、システムってものに過剰なくらい従順ですから。
身なりのいいおっさんも、最近の若いもんも、どちらも、システムに過剰なくらいに従順すぎるんだと思う。
その点では、学のないおっさんのほうに軍配が上がる。
次の箇所がいい例である。
ふつうに都会で生活してて、たとえばコンビニでレジが3人並んでたとしますよね。で、自分が4人目に並んだとして、欲しいのがタバコ1個だったとする。このときに「タバコ1個ですぐ終わるんだから、さっさと自分のほう片付けれ」って思う人って、わりと少数派だと思うんです。前の人間がジュース100本買うのだとしても、順番は順番じゃないですか。まあ、ほかの店員がレジまわりでのんびりと別の作業してたら「レジやれよおい!」って思うと思いますけど、それだって、基本的には「先に待ってた人からレジに行く」がまあ、基本ですよね。
ところが、コンビニとかスーパーとかファーストフードだとか、いわゆる作業がマニュアル化されてるフランチャイズチェーン的なものですよね、こういうのが世に一般に流布するようになった80年代以前、これより前の時期に成人したと思われる人たちって「順番は順番」っていう考えかたがあんまりないみたいなのです。都会で暮らしてれば別ですが、田舎の人だと特に顕著ですね、この傾向。だから、レジが何人並んでいようとも、自分がタバコ一個だったりすると、レジではないところから顔を出して「おい、タバコ!」とかやる。それで「順番を守ってください」って言うと「なんだよ気がきかねえな」っていう反応をする。
そうなんです。「気が利かない」んです。システムは気が利かないんですよ。
いや、厳密にいえばこれは正しくない。
システムは気が利かないことがある、ということに気がついているかどうかなんです。
いやいや、これも、まだまだ正しくない。
システムは気が利かないことがあるんだけれども、それに対してどう対応するかの部分において、前者(身なりのいいおっさん&最近の若いもん)と後者(学のないおっさん)は違うんですね。
システムが「気が利かない」と思われる場合、そのシステムを使わない、もしくは無視する、という選択をするのが、後者で、
気が利かなくてもシステムにいつまでも服従し続けるというのが前者なわけ。
これ、生き物としてみたら、前者はひどく滑稽だよね。後者のほうが優秀。あくまで単一で稼動する生き物として見た場合ね。
80年代、かまたはその前後以降ですね、学校から、ヤンキーみたいなのがだんだんいなくなってきた、べつの言い方をすると、教師に真っ向から反抗する奴が減ってきた、その反動かどうかしらないけれども、「見かけ上は従順な奴」はそれに対応するかたちで増えてきた、ということがあると思うんですよ。
その流れのままずーっと、現在、2009年まで来ていると。
なんでこんなことになってるんだろう。
たぶん、システムに反抗してきた時期、というのがあるんだよね。便利なんだけれども融通の利かないシステムに対して、「こんなもんはいらん」と、「俺たちでやっていくんだ」と、そう主張し続けた時期があったと思うんです。
ところが、いつからかその気力が抜けてしまった。「ま、いっか。システム、まあまあ便利だし」と思うようになってしまっていた。或いはそう思う人たちが、マジョリティとなってしまっていた。
役所はその典型だと思いますよ。意味のないシステムを延々と稼動し続けることに意味を見出すというか、不毛な稼動を止めることに積極的でないというか。
そういうマンネリ化した役所的な精神の全国的蔓延というか普及が「完成」したのが、だいたい1980年ごろなのではないかと、こう思うわけです。
先日、面白い宿の話が話題になってましたけれど、私がああいう宿がもっと増えるべきといったのも、
こういう全国的な潮流に現在もなお対立姿勢を取りつづけていられるのはある意味すごいし、
いまこそ私たちはそういうのを見習っていかないといけない、
そういうのをヒントにして、この「システムが過剰に蔓延する社会」「システムに過剰なほどまでに従順であることを強要される社会」からの転換を、図っていかなければならないのではないか、
ということを、指し示したかったからなんですね。
−−
もう一度引用しますね。
「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。
並ぶっていうシステムを理解できない、というよりも、並ぶというシステムになぜ服従しなければいけないのかが分からない、といったほうが適切ではないか。
並ぶというシステムがどのようにありがたいのか、また、それを一人が拒否するとどのようなかたちで他の人たちを困らしめるのか。
この問いに対する回答は、二つに分かれると思います。
コンビニの経営なんかやってる人だったら、いや、コンビニの経営だけやないね、広い意味で、コンビニ方式で経営や客商売をやってる人だったら、もう確実に「システムはありがたい」って言うと思うし、「一人が離反するとみんなが困る、だからシステムに従わなくちゃいけない」って言うと思うんですが、
だって、そういうふうに教育されてきているからね、それは学校でもそうだし、子どものうちからコンビニなどで習慣的に買い物することによって徐々に培われていったという側面もあるし、もちろん自分で商売をやる側に立ってから上司などに教わって、そういうことを知ったという場合もあると思うんですが、
これとは逆に、「システムはありがたくない」「システムなんかなくても誰も困らん」ということをはっきり言ってくれる人たちの存在が、私たちの周り、とくに都会においては、現代文化の中心とあらせられる空間においては、そういうことを言ってくれる人たちは、きわめて少ない。
ほぼいないと言っていいでしょうね。
だから都会で育った子どもはみんなシステムに従順になる。
「とりあえずシステムにしたがっておけば問題ない」という発想を生む。
なんのためにそれをやっているのかを考えろ、と言ったって、いきなりは無理ですよ。だってそういうふうに教育されてないんだもん。
そういう点では、都会的な文化からはかけ離れたところにいる、学のないおっちゃんおばちゃんのほうが、よっぽど優秀だと思いますよ。
「システムとはあくまで道具にすぎず、盲目的に従順すべき対象ではありえない」ということを心のそこから理解しているわけですからね彼らは。
だから「おい、タバコ!」というような“すばらしい芸当”が、なんのためらいもなくできる。
−−−
大学でさ、「最近の子は、みんな授業をサボらずに出席してくる」なんて話があるじゃないですか。
でも、出席率が高いだけでね、みんなちゃんと、頭の中まで授業を受ける体勢になっているのかっていったら、たぶんそうはなっていないと思う。
「来るだけ来て寝てる」みたいな大学生は、ここ十数年で少しずつだけれども確実に増えているのではないかと思います。
でもそれは、たぶん、「そういうふうに教えたから」なんですよね。
「座っているだけでいい」と、「見かけ上、勉強しているように見えたらいい」と、そう、教えたからなんですよね。
いまよりも一つ前の時代の教師たち大人たちが。
結果、かれらは限りなく静かになった。従順になった、寡黙になった。その代わりなにかを訊いてもなんにも返してこない。反応がない。
ではかれらの魂はフヌケになってしまったのかというと、それもまた違うと思うんですね。
たぶんね、みんな「別世界で活動する術」を覚えたのです。
テレビゲーム、漫画、ネットはその典型ですよね。古い時代では「本の虫」も、その類かもしれない。
「自分の世界に引きこもる」という、ね。或いは「自分たちだけが分かる世界で暮らす」という、ね。
なにも珍しいことではありません。幼児たちは常日頃からやっていることです。
幼児たちが日々つむぎだす物語に対して、大人たちはいちいき介入していきませんが、そこでは「子どもたちの間だけで通じ合える世界」というのが存在しています。
大人たちは知らないか、もしくは忘れてしまっているだけです。
でね、私はこのモデルが、幼児たちの間で繰り広げられる世界の存在と、その世界の存在に気づいていない大人たちという関係の構図が、
現在の「最近の若いもん」に見られる行動の傾向を説明するのに、非常にふさわしいのではないかと、勝手に思っているわけですね。
「自分たちだけが分かる世界で暮らす」ということの意味は、それです。
でもそれは、学校の先生とか、社会の人から見ると、「単に従順であるか若しくはフヌケであるか、そうでなければ押しても跳ね返らない、反応のないつまらん奴」という、評価になってしまうわけですね。「ああ、最近の若者はどうなってしまったんだろう?」と。
−−−
現代人は「システムへの過剰適応」を強いられた結果、「別世界で活動する」という術を覚えたのだと思うんです。
でもこれは、ある程度若いときに、過剰適応を強いられるという経験をしないと、身につかない術だと思うんですね。
だから、そういうのを強いられた経験を持たない「学のないおっちゃんおばさんたち」は、システムからの要求要請に対して非常に自由なわけ。
私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。
そこが、課題なんだと思います。
http://twitter.com/oika/status/2452464341
> 中学生の生徒が学校で校則変更の署名活動をしてるらしいが、学校側がそれを厳しく咎めて止めさせようとしてるってのを聞いてめちゃくちゃびっくりした。中学生のうちから自主的に署名活動起こすなんて、めっちゃ素晴らしいじゃん。
そのうち、ブログの大半がSNS化するという見立てがあるけど、どうだろう。現在、リアルの人間がITを駆使して相互にやりとりするに当たって、最も効率的で効果的で、一番よく使われていると思われる手段は、SNSでもブログでもtwitterでもない。それはメーリングリストである。
平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、読者にあからさまな理不尽感を抱かせる。最初に平和を持ってくるのは、「それを基準に物事を判断しろ」という作り手からの指令だ。で、実際、それを判断にその後の展開を判断すると、「わー不幸!理不尽!」ってなる。
多くの人々は理不尽に対して潜在的に怒りを覚えている。平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、その怒りを宥めてくれる。「理不尽なのは何も私だけじゃない」と。もちろん意地悪く解釈すれば「俺より不幸な奴がいて良かった」なわけだが。
多くの人々は理不尽に対して潜在的に怒りを覚えている。平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、その怒りを宥めてくれる。「理不尽なのは何も私だけじゃない」と。もちろん意地悪く解釈すれば「俺より不幸な奴がいて良かった」なわけだが。
司法の判断に誤りがない、ということにすることは、現状ではできていないし、今後も、それができるようになることはないだろう。つまり、今後も、犯罪を犯したくせに捕まらない人間、犯罪を犯していないのに捕まる人間が、依然として存在し続けるということである。
このような誤りは、努力によって、完全になくなるように努めるべきものであるが、果たして、どこまで、そう努めるべきであるのか、というところが、今回の論点である。
このような誤りは、努力によって、完全になくなるように努めるべきものであるが、果たして、どこまで、そう努めるべきであるのか、というところが、今回の論点である。
基礎体力ということについて考えている。基礎体力がないと、ちょっと動いただけで疲れてしまう。基礎体力がなくても死にはしないが、あったほうが世界は広がる。
同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。
こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。
同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。
こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。
願いが叶うのは16年後?「涼宮ハルヒの憂鬱」公式サイトで七夕イベント開催
> ちなみに、作中でハルヒが説明していましたが、地球からアルタイルまでは16光年、ベガまでは25光年離れているので、それぞれ16年・25年先に叶えて欲しい願い事を書くために2つあるそうです。
織り姫と彦星が出会うのは16年後、という、現代科学からの類推があるが、なぜそういう解釈になるのかが分からない。なぜ「織り姫と彦星が出会う際の乗り物を支配している法則は、僕たちが知っているものとは違うものだろう」というふうな類推ではないのだろうか。どちらも等価値のはずだが。
> ちなみに、作中でハルヒが説明していましたが、地球からアルタイルまでは16光年、ベガまでは25光年離れているので、それぞれ16年・25年先に叶えて欲しい願い事を書くために2つあるそうです。
織り姫と彦星が出会うのは16年後、という、現代科学からの類推があるが、なぜそういう解釈になるのかが分からない。なぜ「織り姫と彦星が出会う際の乗り物を支配している法則は、僕たちが知っているものとは違うものだろう」というふうな類推ではないのだろうか。どちらも等価値のはずだが。
> 大学と大学進学率を減らすことで、労働力を増やすと同時に、高等教育の負担感を(結果として)なくすことを主張しているのが三浦展氏で、少子化対策兼、労働力対策として意外に有効な可能性がある。
> 競争力や生産性の向上に「教育が重要である」ことは総論として誰も否定しないが、どんな教育が有意義か、ということであり、産業界と連携し、若年層の雇用を促進する職業訓練中心に転換する、ということになる
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000387.html
> 競争力や生産性の向上に「教育が重要である」ことは総論として誰も否定しないが、どんな教育が有意義か、ということであり、産業界と連携し、若年層の雇用を促進する職業訓練中心に転換する、ということになる
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000387.html
http://anond.hatelabo.jp/20090703175507
> 比較的冷静に対処出来たのはケンカになったら勝てると思った肉体的(精神的?)優位性があってのことだと思う。負けそう、もしくは同等と思っていたら怒りと恐怖からこちらも暴力を振るい返したかもしれない
これは考えさせられる。「どんな理由があろうと、手を出したほうが悪い」は正論だが、一方で、「弱い犬ほどよく吠える、吠えざるを得ない」という、精神安定上の行動原理がある。
> 比較的冷静に対処出来たのはケンカになったら勝てると思った肉体的(精神的?)優位性があってのことだと思う。負けそう、もしくは同等と思っていたら怒りと恐怖からこちらも暴力を振るい返したかもしれない
これは考えさせられる。「どんな理由があろうと、手を出したほうが悪い」は正論だが、一方で、「弱い犬ほどよく吠える、吠えざるを得ない」という、精神安定上の行動原理がある。
http://www.wasedajuku.com/wasemaga/unipro-note/2009/06/post_451.html
リベラル・アーツについて書いた記事がホッテントリ入りしている。はっきり申し上げて、茶番だなと思う。記事そのものではなく、リベラル・アーツの本義が「商品」として、顧客のお眼鏡にかなうように加工されてゆく「さま」とその「加工品」が茶番だと言うのである。
リベラル・アーツについて書いた記事がホッテントリ入りしている。はっきり申し上げて、茶番だなと思う。記事そのものではなく、リベラル・アーツの本義が「商品」として、顧客のお眼鏡にかなうように加工されてゆく「さま」とその「加工品」が茶番だと言うのである。
毎回、楽しませて頂いております。ありがとうございます。
注意:以下の文章には不備があります。たぶんあとで追記などのかたちで修正します。以下の文章をあまり真に受けすぎないようにしてください。なおこの但し書きは修正後消します。
アウトライン。
★全貌を見るために必要なことは何?
★締め切りに追われてばかりいると、いつのまにか、無意味な仕事を延々と繰り返すスパイラルに陥ってしまうかもよ。それでもいいの?
★締め切りに追われないためにはどうすればいいのだろうか
★目的があれば頑張れる? じゃあ人殺しが目的だったらお前は人を殺すのか?
★「私には謝意がありません。」という“誠実な”対応
★子どもの「なんで勉強しなくちゃいけないの?」に答えてはいけないということと矛盾するのでは?
アウトライン。
★全貌を見るために必要なことは何?
★締め切りに追われてばかりいると、いつのまにか、無意味な仕事を延々と繰り返すスパイラルに陥ってしまうかもよ。それでもいいの?
★締め切りに追われないためにはどうすればいいのだろうか
★目的があれば頑張れる? じゃあ人殺しが目的だったらお前は人を殺すのか?
★「私には謝意がありません。」という“誠実な”対応
★子どもの「なんで勉強しなくちゃいけないの?」に答えてはいけないということと矛盾するのでは?
長文注意。以下にアウトラインを書く。
★なぜを問わない人間は「非対等性」という前提を信奉している
★なぜを問う人間は「経験」の語義を書き換えてしまう
★上司と部下の関係は一時的な関係?普遍的な関係?
★公理の変更に恐怖に感じる?感じない?
★幼児が「立場の交代可能性」をいつどのようにして獲得するかというところにヒントはある
★「自分には直接関係のない立場」の人たちが繰り出してくるさまざまな命題をどう扱うべきか
長文注意。
とりあえず長文のエッセンスだけを箇条書きするとこんな感じ。
(Q1)子育てという楽しい営みは女性が独占してきたのか?
(A1)「子育てという重要で楽しい営み」という発想そのものが男性中心社会の思想
○全体が見えていない男の利己的な行動が、傍目には利他的な功労者として映ることが有り得る
○利他的な行動を説明する原理は、男と女で違う可能性がある
○男は「支配」することに満足を覚えるのに対し(「ふはははは、世界は私のものだ」)、女は「共感」することに満足感を覚える(「ちょっと奥さん、これ見てみてよー」「ねえ聞いてよ、うちの上司ったらひどいのよ」)
・世界征服が夢である典型的な男性は、本質的に孤独な世界を生きている
・「世界平和」という自己満足と、「世界征服」という自己満足は、根源的には同一の満足感なのではないか
○男性中心社会的な思想に基づく行動は、「傍目には利他的な功労者に映る」ことがある一方で、「残忍で非道な侵略者として映る」こともある
○女性たちが日常生活を守るために手に入れた裁量権は男性中心主義的な思想もセットになっていた
○権力争いに熱中している男たちの命やその勝敗やゲームそれ自体が、家庭で「子育て」や「スーパーや公園での井戸端会議」に熱中している女性たちから、自分たちのゲームの楽しみを妨害されることが「悲劇」を引き起こす可能性はほぼゼロ
○妨害要因を排除するために取った行動が、「その妨害要因を繰り出している対象の価値観に自分自身が浸潤される」ということを経ずして達成されることは有り得ない
○共感それ自体に満足感を覚えられる典型的な女性は、「相手の立場に立って物事を考える」訓練を普段から意識していないところで積んでいる。一方、権力争いにばっかり熱中して、そういう訓練をあまり積んでいない典型的な男性にとっては、「相手の立場に立って物事を考える」こと自体が大きなコスト
○女性にとってもスーパーマリオブラザーズは面白い。でも、典型的な男性たちほどには狂信的にハマりはしない。
○「全体が見えている」女性にとっては、「権力争いのほうに主眼が移ってしまって当初の目的を見失ってしまう可能性」が男性よりもずっとずっと低い
○「俺、専業主夫なんだ。」って胸張って言える度は、「あたし、キャリアウーマンなのよ」って胸張って言える度と、果たして同じか?
(Q2)科学的な議論はときに人を傷つけることがある
(A2)個々人が自分たちの実存を確保するために必要とする際の「宗教」と、「学問的に真摯な態度が追求されるべき場」というのは、異なる次元で捉えられなければならない
(Q3)「科学は善悪を判定できない」と言ってるから、「悲劇」が繰り返されるのだ
(A3)科学が人間を幸せにするためには、科学が発達するだけじゃダメで、新しい科学に対応する新しい科学倫理が存在していないといけない。このバランスが大事なんだけれども、現実には科学倫理が追いついていないことが多い。
国同士がこぞって自分たちの国の科学倫理のレベルを高めることに勤しみさえすれば、科学と科学倫理のアンバランスさに起因する「悲劇」は激減する。
(Q4)人間が関連する学問は、「心」を抜きにしては語れない。
(A4)「心」は難しい。難しい領域が存在していることが、一つの学問が二つの学問に分かれる原因になっている。
(Q5)遺伝子を残す必要はあるの?ないの?
(A5)遺伝子を残すかどうかの自由は本人にあるのだから、残そうが残さなかろうが他の人がその判断の結果を社会的に非難することはできない。そして、社会的に非難することができない以上、「おまえそれは贅沢だろ。」というような言辞は、素朴な個人的感想にとどまるならば全然問題はないですが、それが正義のツラをしてそいつの前に躍り出るようなことはあってはいけない
